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第3章
05 忘れていた誓い
しおりを挟むあれはべテルが死んで間もないころだった。
弟の死に直面し、精神的に参っていたところにお母様に「べテルとして生きなさい」と言われ、大切な髪を切られた数か月後のことだった。こういう事情で……と、皇帝陛下にお父様が深く頭を下げにいくついでにと連れてこられた皇宮の庭園で、私は大好きだった長い髪を失った自分の顔をずっと眺めていた。噴水は絶えず水が噴き出していて、水面が揺れて、顔なんて映っているようで映っていないに等しかったが、長い髪の自分はもういなくて、ドレスも取り上げられてパンツスタイルになって、まだ女の子として発達していない体は男のようにも見えて嫌だった。
けれど、べテルが死んだことは私の心に大きな穴をあけ、私がべテルを演じることで、彼がまだ生きているような気分にもなった。とても複雑で、それでもペチカという私も同時に死んだような気がしてならず、これからの生き方、人生が暗くなっていた時、私は彼に出会った。
「ここで何をしている」
「……え、あ」
照りつける太陽の光を一身に浴びた眩い黄金に目がくらんだ。太陽を背にした彼は、私よりも少し年上で大きくて、真っ白く上品な服に身を包み私をこれでもかというくらい睨みつけていた。
私はすぐに、その爛々と輝く皇族の象徴であるルビーの瞳を見て挨拶をしようとしたが、ドレスではないのに服をつまもうとして、あ、と戸惑うことしかできなかった。皇族に対して挨拶もできない無礼なやつだと思われたかもしれない、と、精神的に参っていたこともあって泣きそうになってしまったのだ。すると、私の変化に気づいたのか、幼い殿下……ゼイン・ブルートシュタインは目をぎょっとさせて、ポケットからハンカチを取り出して私に押し付けた。
「これで、涙を拭け」
「す、すみましぇ……すみません、あ、あ、う、ぅ」
「……泣くな。俺が泣かせたみたいだろう」
と、殿下は呆れつつも、私の隣に来ると、ポンポンと肩を叩いてくれた。
それが嬉しくて、気にかけてくれたという温かさに胸がいっぱいになって、泣かせたみたい、と泣き止まなきゃいけないのにぼろぼろと涙がこぼれて、殿下のハンカチを濡らしてしまった。
噴水のふちに腰かけて、しばらく嗚咽を漏らしながら泣いて、泣いて、目が腫れるくらい泣いて。でも、殿下は私が泣き止むまでずっとそばにいてくれた。多少はめんどくさそうに「もう泣き止め」とか、「泣き虫だな、貴様は!」と怒った声が飛んできたが、彼は私が泣き止むまで私のそばを離れることはなかった。
「ずみましぇん……わたし、ハンカチ、こんな……」
「いい。涙をふくためにあるだろう。ハンカチなど」
「でも、これ、洗って返します」
「ああ、そうしてくれ。それは、母の形見だからな」
「ええっ」
渡されたハンカチは、もうぐちゃぐちゃでしわが寄りすぎていて、洗って返すといっても、罪悪感が残ることを殿下はさらっと言った。その時、殿下はすでに前皇后陛下……母親を亡くしていて、おとなしかったイメージはあった。
ハンカチが形見だったなんて知らずに鼻もかんだし、濡らしたしで、涙が引っ込むくらい恐ろしいことをいわれ、私はどうにかして、殿下に謝ろうとしたけれど、殿下は「大丈夫だ」の一言を言って顔をそらしてしまった。怒らせたかな、と恐る恐る彼の顔を覗き込んだが、なぜか顔を赤くしていて、意味が分からずに私は、ハンカチのお礼だけ言って足を閉じた。
「それにしても、貴様、なぜここにいる? ここは、皇族しか入れない庭園だが?」
「え、えっと、お父様が……正確には、お母様が、その、皇族の親せきで。お父様の用事で今ここにきていて。ああ、えっと、皇帝陛下の許可は出ていて」
「……そうだったのか。まあ、それなら」
「あの、殿下……えっと、ゼイン・ブルートシュタイン皇太子殿下、であってますよね」
「ああ、そうだが? 貴様は?」
「わ、たし、ですか、私は……」
殿下のことはこの時説明を受けていたため知っていたし、このころから武術も、剣術も、芸術の方面でも何でもできる天才皇太子として噂されていたからすぐに彼の正体には気づけたのだが、殿下は私のことを全く知らなかった。そして、お母様に、「べテルとして生きなさい」と言われてしまっていたから、どうこたえるべきか正解がわからず、口を閉じてしまった。
殿下はむっとした表情になったが、その後対明器をついて「答えたくないのなら、こたえなくていい」と足を組み、目の前の赤いバラを見つめた。
「あの、殿下……すみません」
「俺は、くよくよするやつと自信がないやつが嫌いだ」
「は、はい」
「貴様みたいなやつは嫌いだ」
「は、い……」
泣き止んだのに、また涙がぶり返してきそうなことを殿下は口にする。殿下はこの時私のことを、女として見ていたのか男として見ていたのかはわからなかった。だって、姿が姿だったから。
ぎゅっと、ズボンを握っていれば、殿下は「だが……」と私のほうに体を向け、出てきてしまった涙をすっと拭いながらちょっと怖い顔を向ける。
「貴様のことは別に嫌いじゃない。何かつらいことがあったんだろ」
「え、あ、はい……お恥ずかしい、はなし、ですけど」
「いい。全部は話さなくても」
「でも、あの……ハンカチ」
「子供なら誰しもあるだろう。泣きたいことの一つや二つ。大人のように、成熟していないのだから」
「でも、殿下も子供じゃ……」
「俺は、皇太子だからな」
と、殿下は宣言する。それが生まれ持った責任だというように。そんな殿下の横顔はとても凛々しくて、殿下もまだあの時は十そこらの子供だったのにかっこよくて、キラキラと髪の毛も瞳も、殿下という存在が輝いて見えた。
(皇太子……未来の、皇帝……)
とくん、とくんと脈打つ胸。子供のころから自信にあふれ、まっすぐと前を向く、未来を見据えている殿下がかっこよくて、私はこの人が皇帝になるんだと、先ほどのくよくよした気持ちもすべて吹き飛ぶくらいの衝撃を受けた。
「すごいです、殿下、かっこいい……」
「なっ、かっこい、い……当然だろ。俺は、未来の皇帝だぞ? この帝国を背負う人間だ。かっこいいに決まっている」
「そ、そうじゃなくて。今の殿下が、今の殿下もかっこいいって、思って。その……皇帝に、なってください」
思わずきゅっと彼の手を掴む。彼の膝に乗っていたハンカチがはらりと地面に落ちたが彼はそれに気づかなくらい真っ赤になって、私を見つめていた。そして、キッと、顔つきを変え、私の手を包み返した。ルビーの瞳はまっすぐすぎて、目が離せない。
「ああ、約束する。俺は皇帝になる。なって、貴様が泣かなくてもいいような国にするからな」
「ふふっ、それはとても楽しみです。でも、もう泣きません」
「……ど、どうせ、また何かあったら泣くだろ。貴様は」
殿下はぱっと私の手を放してハンカチを拾い上げる。
照れ隠しをするように口元に手を当ててじぃっと私を見、て眉間にしわを寄せた。その様子は、かっこいいというよりかわいくておかしくなってしまう。
「泣きません。殿下がそう誓ってくれたんですもん。それに、泣いたら殿下に嫌われるんだったら、泣きません」
「……くそっ、貴様は――くそ、かわ、い……俺の覚悟を笑うのか!」
「わ、笑ってませんよ! 殿下が誓ってくれたの、未来の皇帝になるって宣言してくれたのが嬉しくて。私も負けていられないなって思ったんです。絶対ですからね、絶対、皇帝になってくださいね! 応援してます」
「貴様に言われずとも、皇太子の俺が皇帝になる未来は確定だ! 待ってろ、俺が皇帝になるとき貴様には特等席でそれを見せてやろう」
「はい、待ってます」
そんな子供の時の会話。私より三つ上の殿下は、私と同じくらい幼い感情もあって、でもそれが口だけじゃなくてしっかりとした覚悟があったこと。私はそれを最近まで忘れていたのだ。
彼が私に誓ってくれたこと。私が殿下が皇帝になる姿を見届けたい理由も。こんな大切なこと忘れてしまうなんて、最低だと思った。
彼が功績を上げたのちに受けた裏切りにより、彼の顔が曇り暴君とまで言われる恐怖の象徴になってしまったことで、私の中の理想の殿下が崩れたから、私は彼を嫌いになったのだろうか。忘れるに至るまでになったのだろうか。その理由ははっきりしないが、騎士として彼を見ていると、彼が嫌いになって、でも彼をペチカとして見ているととてもかっこよく見えて。結局は見方によって殿下は厳しくもあり、かっこよくもあり、女慣れしていないとか……とにかくいろんな面を知れて。それらがすべてが殿下を形作っている要素なのだと理解したころには、もうすっかりと大人になってしまった。
十数年前のこと、殿下は覚えていないかもしれないけれど、私は思い出したから、だからよりいっそ彼を皇帝にするという気持ちが強くなる。それは、きっと騎士としてではなく、彼をかっこいいと思うペチカ・アジェリットという一人の少女としての気持ち。だったら、私がすべきは、やはり彼の婚約者として彼を支えることだろう。
(……ベテル・アジェリットとしての私が消える、日。殿下にも、そろそろ言わないといけないな)
それはまだ怖いけれど、 でも近いうちには必ず――
私は、目を開いて部屋を出る。今は、近衛騎士ベテル・アジェリットだと言い聞かせて、大きく一歩を踏み出した。
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