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第3章

03 胸……胸!?

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「え……?」


(――な、なにそれ!?)


 顔に出ないように必死に取り繕うが、するりと首筋を撫でられれば「ひゃぁあっ」と女の子の時の声が出てしまう。それを聞いて、殿下も驚いたように目を丸くし、驚いた猫のように毛を逆立てた。


「で、殿下、触らないでください。首、苦手なので!」
「す、すまな……いや、まて、話を逸らすな!」


 と、殿下はトンと私の胸のふくらみより上を指さした。さらしを巻いているとはいえ、あまりそこをつつかれるとまずい気がして、殿下に抗議の目を向けるが、殿下も殿下で目を光らせて私の意見をはねのけようとしていた。
 まさかそんなことをされていたとは思わなかった。一週間ほど空いているのに、そんなキスマークは残るものなのだろうか。わからない、かまをかけられているかだけかもしれないが、それにしては驚き方が意識的ではなかった気がする。そんな分析はさておき、この状況をどう切り抜けるかが重要だった。


「話はそらしていません。これは虫刺されです」
「ペチカにキスマークを残したところにか? それとも貴様は男色……」
「殿下とは違うので!」
「俺も違うが!?」


 言葉に言葉を重ねるようで、両者ともに息を切らす結果となってしまい、ヒートアップした会話を冷ますように、殿下は髪をかき上げて椅子に座りなおす。
 私も座り直し、内また気味になっていたので、足を開き気味に座り殿下を見る。
 やっぱり折れてくれないし、だまされてくれない。懐疑の目を向けられてしまい、私は言い訳に困った。お兄様がいたらこういう時すらすら~と嘘をついてくれるんだろうけれど、あいにくお兄様は出張で今ここにはいない。殿下の頼みごとを聞いての出張なので仕方がないのだが、心細さもある。しかし、こういう場面にはこれから多く出くわすだろうし、いくら鈍感とはいえ気づかないわけもなく、いずればれるかもしれない私の正体をどう隠し続けるかは私の演技にかかっている。
 とはいえ、お母様に指摘されるくらいには、男になり切れていないところはあるので、殿下が気付かないだけ過ぎるのだが。


「はあ……まあ、そういうこともあるのか」
「はい。あると思います!」
「威勢が良すぎるぞ……だが、あやし……いや、疑うのはよくないな。貴様はよくやってくれている。そんな貴様を疑うなど、心が痛む」
「うっ……」


 そんな、聖人みたいな顔をされて見られるとこっちも胸が痛みますが!?
 殿下がべテルに甘いのも私に甘いのも知っているが、そんな人をホイホイ信じるタイプだっただろうか。殿下も変わってきているといえば変わってきているのだが、それにしては豹変しすぎじゃないだろうか。


(いや、もともとの性格に戻りつつある、っていう言い方が正しいかもだけど……)


 裏切られる前の殿下は、恐怖の象徴と言われていなかったし、戦争の英雄としてたたえられていた。あの裏切りさえなければ殿下はそうやってずっと慕われ続けていただろうに。


「ありがとうございます」
「何に対しての感謝なんだ?」
「いえ……殿下の広いお心を感じて、はい。まあ……その、殿下が姉とよろしくやっているのはいいことだと思います」
「ああ、そうだな」


 と、殿下はどことなく寂しそうに言う。そういえば、べテルとしてこっちに戻ってきたから、殿下がペチカにあわせてくれ! と言わなくなったような気がする。いや、一週間ほどしかたっていないし、そんな頻繁に会いに行くようなタイプじゃないと思うが。
 殿下のほうをちらりと見れば、なんだか我慢しているようなそんな感じが見て取れた。あの殿下が我慢を覚えたなんて感激なのだが、ペチカに会いたがっている殿下を見ていると会わせてあげたい気持ちにもなる。私も、べテルとしてじゃなくて、ペチカとしてまた彼に会いたいとは思うし、そんな感じで約束はしたし。


「わ……姉に会いたいんですか?」
「そう見えるか?」
「はい。なんだかさみしそうで。婚約者なんですからたくさん会いに行ってあげればいいんじゃないでしょうか!」
「いや、それは困ると言われたんだが」
「あ……確かに」


 思わず会いに行ってあげればいいと言ってしまったのだが、私が公爵家を行ったり来たりしないといけない話になり、それはそれで困るなと言ってみて思った。しかし、殿下は「会いたいな」とつぶやいて、それを実行しそうな勢いだったのでとりあえずとめにかかる。


「えーあーそりゃ、会いにいってあげればいいと思いますけど、姉の負担にならないように」
「それは善処する。嫌われたくないしな……だが」
「だが?」
「……今会いに行くと愛おしさで死んでしまうかもしれない、俺が」
「俺が……はい?」


 殿下は片手で顔を覆い隠すと、大きなため息をついた。
 嫌われたくないという言葉までは理解できたが、今会いに行くと愛おしさで死んでしまうかもしれない、という言葉がわからなかった。殿下がそんなことで死ぬだろうか。あまたの戦場を駆け抜けてきた男が、私にあって?
 ないない、と否定したいのだが、目の前の殿下はそれを否定してくれるような様子はなく、聞いてくれるか、というような前のめりな姿勢で私のほうを見た。


「この間な、貴様の姉と……まあ、いろいろあってな、一線超えてしまったんだ。それから、俺は彼女を見る目がさらに変わった。俺のために腰を振って、揺れる胸がだな! 俺をどうしたいんだ……くっ。最高だと思わないか?」
「……あ、あの、殿下」


 それこそ、爆発という言葉が似合うように、彼は両手で何かをつかむような形でしゃべり始める。それを当の本人に聞かせていることとはつゆ知らず、あの夜のことを回想するように私に言って聞かせた。私はというと、沸騰寸前でその話を聞き流そうとするが、殿下は私に抱かれたあの夜のことを鮮明に覚えているようで「今度は優しく俺が抱く」だの、「あんなきれいな体見たことがない。俺だけのものなのか?」だのいうので正直勘弁してほしかった。合間合間に、かわいい、好きだ……愛おしい……なんていうものだから、もういたたまれなかった。


「殿下!」
「なぜ、貴様が赤くなっているのだ? ああ、姉とのこんな話を聞かされるのはいやか」
「はい、嫌ですね。聞きたくもありません! それは、姉本人にぶつけてください」
「嫌がられるから、貴様に言っているのだろう。イグニスはどうせ聞いてくれないからな」
「僕も嫌ですけど!?」


 本人だから。本人も嫌がるけど、べテルもきっと嫌がりますが?
 男だから話してもいいと思っているのならそれもやめたほうがいい。そして、お兄様の解像度が高いのも、殿下らしいとは思った。


(そんな、私、あの日のこと、あまり、覚えていないのに……)


 私のほうが媚薬を飲んでしまったのではというくらいあまり覚えていない。殿下のために必死になったことしか覚えていなくて、逆に殿下が何でそんなにはっきりと覚えているのかと。
 もしかしたら、自分から動けなかった分、私のことを観察していたのかもしれない。それならつじつまが合う。


「あの時、貴様の姉に縛られていたからな。俺の上で揺れる胸に触れたかった。柔らかそうだった……」
「……」


 なぜか胸への執着を熱く語り、そして殿下は私の顔を見て、これ以上話したら機嫌が悪くなるだろうなと察してくれたらしく席を立った。机の上に置かれた山積みの書類を見て、ため息をつきつつも仕事に戻ろうとする殿下の姿勢はとてもよかった。
 何か手伝えることはないだろうかと私も立ち上がり、殿下のもとへ向かおうとすれば、珍しく足元の不注意で躓いてしまい殿下に倒れ掛かる形で受け止められる。その時、彼の腕がちょうど自分の胸に当たり、これもまた珍しく緩く巻いていたさらしがほどけて彼の腕に胸を押し付ける形になってしまった。


「なっ……」
「ベテル・アジェリット?」


 ささっと大切を立て直し距離をとったが、殿下は自分の腕と私を交互に見て口を開いた。


「ベテル・アジェリット、貴様、胸が……」
「ありません。気のせいです。殿下! ああ、そういえば、稽古に付き合ってほしいと呼ばれていたんでした。では、また!」


 おい、待て! と後ろから聞こえたが、脱兎のごとく私は部屋を飛び出した。あのままいたら問い詰められただろうし、それに何より、ペチカだということがばれてしまっていただろう。今ですら怪しいし、飛び出した時点で疑惑が膨れ上がるに違いない。今度どうやって顔を合わせればいいのか……お兄様に、男性に一時的になる魔法をかけてもらって、彼の前で脱ぐか……いろいろ考えたが、まずは帰ってこないことには相談すらできない。
 とりあえず、さらしを巻きなおそうと宿舎に戻ろうと曲がり角を曲がると、とびだしてきた人物に正面衝突してしまい、私は後ろによろけ尻もちをついた。


「……い、てて……」
「何だ、君か……ベテル・アジェリット……いや、ペチカ・アジェリット公爵令嬢」
「……貴方、は」


 顔を上げ、聞きなれた不穏をまとう声に、私は目を見開く。そこには、愉快そうに口をゆがめているディレンジ殿下の姿があった。

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