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第3部2章

02 貴方の婚約者だから

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「――誰だ。お前」
「……え」


 鈍器で殴られたような感覚と、ちかちかと白黒と目の前が光るようだった。そしてゆっくりと真っ暗になっていくような、そんな深い絶望に叩き落され、私は開いた口がふさがらなかった。


「殿下!」
「何だ、マルティン。そんな慌てて」


 私の後ろから、マルティンが一歩前に出ると、殿下は私のことを気にする様子もなく、彼の慌てっぷりに、呆れたようにため息を漏らした。まるで、そこに私がいないように扱うものだから、きゅっと心臓が握られるような感覚になった。
 そんな私に気づいたイーリスは、殿下の横たわるベッドの周りをぐるりと回ってこちらに来て、倒れそうな私の身体を支えた。


「ロルベーア様っ」
「ありがとう、イーリス」
「いえ……その…………」


 何も言えない、何をいったらいいかも分からない、といった感じで、イーリスは視線を下に落とす。
 私も、何が起こっているのか、いや怒っていることは分かっても受け止めきれず、そして彼を見ることが出来なかった。その瞳は、以前向けられたことがある冷たい……誰にも関心のないような瞳だったから。


(であった時みたいな……でも、あの時よりも冷たい。興味も、関心も……何もないんだわ。私に)


 すぐに、記憶喪失なのではないか。ということが頭に浮かび、私たちは、殿下が目覚めたことで、再び主治医の診察が始まると部屋を出ることにした。その間通された、応接間で、私は震えるようにしてイーリスに抱きしめられていた。


「ロルベーア様きっと大丈夫ですって。まだ、混乱しているだけで……」
「ううん、私にはわかるわ。あれは、違う……記憶喪失、じゃないかしら」
「記憶喪失ですか?」
「頭を強く打ったって言っていたから……その線はあり得ると思う。でも、もしそうだったら……」


 まだ私は、彼からただいまを聞いていない。彼は私のもとに帰ってくることなく、その記憶を飛ばしてしまったのだ。もちろん、彼のせいではない。彼を陥れた人間のせいなのだが。
 トントンと部屋がノックされ、失礼します、という声とともにマルティンが、その後ろに見慣れた真紅の彼がめんどくさそうにしながら入ってきた。そうして、私たちの前に殿下は腰を下ろし、はあ、と大きなため息をつく。


「マルティン、まだ俺は混乱しているんだが?」
「そうは言いましても。ロルベーア様と、聖女様にある程度事情を説明した方がいいかと」


 あとから殿下を診察した主治医も入ってき、部屋には五人――そうして、マルティンと主治医による殿下の容態についての説明が始まった。内容はいたってシンプルで、そして、残酷なものだった。


「――と、殿下はここ二年ほどの記憶を忘れております」
「二年って、私と出会ってから、これまで……」


 座っていても、気を失いそうなほどに強い衝撃だった。
 記憶喪失というだけでも心配なのに、ここ二年の記憶がごっそり抜けているというのが何とも不可解だった。そして、私にとってこれほどない絶望だった。


(二年ほどの記憶……私と出会ってから、今日にいたるまでの記憶……それまでの記憶はあるみたいで、番契約のこととか、私が婚約者だってことも、きっと――)


 説明は受けただろうが、それでも記憶のない殿下にとって私は悪女ロルベーア・メルクールなのだろう。女性に関心のない殿下でも、それくらいは知っていたため、私の情報だけを得ればそう思うかもしれない。記憶のない殿下は、私との日々を忘れているわけだから、悪女ロルベーアが戻ってきてしまったと。それでも、私はその状態から殿下と番として、そして婚約者としてここまで歩んできたのだから、少しだけ希望というか、自信はあった。これまで積み上げてきたものがあるからこそ、私は下を向かず、懸命に現実を受け止めようとしていると。


(大丈夫よ。きっと)


 しかし、私の思いとは裏腹に、殿下の関心は私ではなくイーリスに向いており、イーリスも困り眉で視線を漂わせていた。


「それで? 俺も大まかに話は聞いたが、俺の呪いは本当に解けたんだな」
「ええ、そういったじゃありませんか。ロルベーア様と番となり、一年の時間を経て、殿下は証明されたんです」
「『真実の愛』を、か? ばかばかしい」


と、殿下は端っから信じないように鼻を鳴らせば、足を組み替えた。態度が悪いのも、思えば二年前にい戻ったようだった。記憶だけではなく、感情や精神さえも二年前に戻ったというのなら、本当に面倒な話である。

 二年前の殿下は、誰も信じなくて、自身の愛さえ疑うような男で……時間をかけなければ、自身の気持ちにさえ気づけないような男なのだから。
 またあの一年を繰り返すの? と思うと、気が遠くなる。そして、イーリスに興味を示したことが、私の中で決定打となった。


(自分を助けてくれたのがイーリスだって思っているんでしょうね。実際そうだし……それに、ヒーローと、ヒロインなんだから、惹かれあっても仕方ないわ)


 イーリスにそんな気持ちが全くないのが救いだが、殿下の興味がイーリスに向いてしまったのは、心のどこかで、ああやっぱり、と思ってしまうわけで。


(大丈夫、大丈夫だから……)


 二年前の日々を思い出すと、自分でも情けなくなるし、自分も殿下の気持ちに気づいて好きだってもっと早く伝えていればと、自分の卑屈さと未熟さに後悔を抱かずにはいられなかった。意地を張っていたのもあって、私たちは、長い間すれ違い続けてしまった――


「ですが、殿下! 呪いが解けているということはそういうことなのですから、いい加減に認めてください!」
「信じられないな。俺が『真実の愛』を見つけただと? それも、悪女と名高い、ロルベーア・メルクール公爵令嬢とか。いったいどんな手を使ったんだ?」
「……」


 夕焼けの瞳はこちらに向けられる。少しの殺意と、そして少しの興味を抱いた瞳が私を射抜く。
 すべての言葉を否定し、悪女でも何でもなく、ただのロルベーア・メルクールだと言いたかった。貴方と出会って生まれ変わったロルベーア・メルクールだと。
 しかしそんなことをいってもさらに混乱させるだけであり、今の彼には伝わらないだろう。
 私が大人になって、相応の態度を示したうえで、彼の記憶が戻る手伝いをしなければ。


「お言葉ですが殿下、事実です。確かに、私たちは愛のない番契約をしましたが、それは初めだけでした。私も殿下も、徐々に互いに惹かれあっていったのです」
「……それがよく分からない。なぜ俺がお前に惚れる?」
「知りませんよ。それに関してはあまり、殿下はなしてくれなかったので」
「怪しいな……だが、呪いが解かれているというのは事実らしい。あの忌々しい感覚が体の中にないのがその証拠だ。本当にどうやって……」


と、殿下はうわ言をつぶやくように言うと、自身の胸に手を当てた。

 そう、彼も二年前は、その呪いで死ぬつもりだったのだ。やり残したことがなければ呪いで死んでもいいと思っていた。自分の命をどこまでも軽く考えていた男だったのだ。けれど、その考えも変わり、彼は自身を少しずつ大切にするようになっていった。その変化を見るのが、私は好きだった。


「殿下――いえ、アイン。貴方がすべて忘れていても、私がすべて覚えています。なので、貴方の記憶が戻る手伝いを私にさせてくれないでしょうか」
「……ロルベーア嬢が?」
「はい」


 私が力強くうなずけば、殿下は私を見定めるように上から下と見ると、ふむ、と顎に手を当てた。
 婚約者として、殿下の記憶を取り戻す義務があると感じていた。何よりも私が思い出してほしいと思っているから。ただ殿下はすぐには了承せず、その視線はイーリスへと移される。


「聖女がいるのに、俺は何故ロルベーア嬢と番になったんだ? それも、番を切らざるを得なかった状況にでもなったのか?」
「殿下!」
「……それも、思い出していけばいいでしょう。何事も疑うことから始めて、貴方は――」
「疑うも何も、俺は愛だの恋だの信じていない。それは、俺を知る人間ならだれでも知っていることだが?」


と、挑発的に私を睨みつける。

 それは、二年前の殿下だからだ。
 私は、いろいろといいたい気持ちを飲み込んで、息を吐く。これ以上心を搔き乱されてはいけない。感情的になったとして、何かが変わるわけでもなかった。情に訴えて戻る記憶ならどれほどいいか。


「――必ずあなたの記憶を取り戻して見せますし、私は何度だって貴方を惚れさせて見せます。だって私は、貴方のことを愛しているから」

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