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第1部3章
09 クラウトの誘惑
しおりを挟む「――ちょうど外に出たかったから、よかったわ。ありがとう。クラウト子息」
「クラウトでいいですよ。でもよかった。僕も、人が多いところはちょっと苦手で、一緒ですね」
と、夜風に揺れる黒髪を抑えながら、恥ずかしそうにクラウトは言った。
テラスには誰もおらず、真っ黒な空には満天の星空が広がっていた。夜風もそよそよと吹き付け、中のくぐもった空気から解放され、身体があらわれていくような気もした。
クラウトは、ミステルと違って高圧的な感じもなく、敵意も感じなかった。優しげな雰囲気だが、少し頼りないようなそんな印象を受ける。私が関わってきた男が皆荒々しくて、強引だからそう思うだけなのだろう。もしかしたら、クラウトみたいな男性が普通なのかも知れない。まあ、殿下が優しかったらそれはそれで、殿下ではないのだろうが。
(……また、殿下のこと考えている)
でも、それは仕方ないじゃないかと思う。だって、彼の真紅の髪は頭に残るのだから。どれだけデータを消しても、全てに付着しているインクのような。消えてくれない抹消不可能なデータのように私の頭の中に居座り続ける。きっぱりと忘れることができたら楽だろうに、中途半端に彼の匂いや温度を思い出そうとしてしまう。
このまま殿下の事を考えていても仕方ないと、私はクラウトに話題を振ることにした。
「ミステル嬢とは上手くいっているのですか?」
「ミステルと、ですか。一応婚約者なので……」
「狩猟大会の時見ましたよ? 熱烈なキスをしているところを」
と、私がからかえば、分かりやすくボンと顔を赤くさせて、クラウトは手と首を同時に横に振った。
「そ、そんな、お恥ずかしい」
「仲慎ましくて羨ましいです」
「……っ、ロルベーア嬢は、殿下と、その上手くいっていないのですか?」
ああ、失言をした。と、私は口を閉じた。
羨ましいなんて、自分がそんな関係になれると思っているからこそ飛び出す言葉だ。私は、クラウトの伺うような目を見て、首を横に振った。
「別に、上手くいっていると思いますよ。殿下は少し強引ですが優しいところもありますし。でも、最近は聖女様と一緒にいることが多いみたいですね」
「あ、ああ……確かに、噂には聞きます」
「聖女様が、殿下の呪いを解いてくれれば、私は要無しなわけです。番契約を破棄したくなったら、殿下は私を殺せばいいですし」
「そ、そんな!」
クラウトは、声を荒げ、まるで自分事のように焦っていた。
私もいきなり彼が声を荒げたので、そんな声出せるんだ、と驚きつつ、冷静を装って「何か変なことを言いましたか?」と返す。
クラウトは、それを聞いて、また驚いたように顔をハッとさせると、ふりふりと首を横に振った。
「ロルベーア嬢は何故、そこまで自分に関心がないのですか?」
「クラウト子息は何か勘違いしているようですが、私達はまだ親から爵位を譲渡して貰っていない身です。まして、女性は爵位を貰えない。クラウト子息はまだ、侯爵子息なのであって、侯爵ではないのですよ。だから、私達は親のいいなり人形なんです。クラウト子息は、ミステル嬢と愛し合っているみたいなので、親が決めた政略結婚であっても拒否しないでしょうが、私は違います」
「ロルベーア嬢……」
「そう思うと、何だか私は貴方が羨ましいです。クラウト子息」
心から漏れた本音か。こんなよく知りもしない男によくもまあ、こんなことが言えたと自分でも感心した。けれど、聞いて欲しかったのかも知れない。上手くいっているクラウトとミステルを見ていると、何だか私にもあんな未来があったのだろうかと思ってしまうから。政略結婚であっても、愛があればそれは結果オーライなんじゃないかと。
「ロルベーア嬢……昔の話ですが、僕達はよく遊んだ仲なんですよ」
「昔?」
「はい。まだ、ミステルとの婚約が決まっていないとき……今の三家が、権力を均衡に保っていたときの話ですが」
と、クラウトは昔話を始める。
ロルベーア本人の記憶は断片的にしか覚えていないので、昔の話をされてもどう答えれば良いのか分からなかった。適当に相槌でも打って返しておくか、と私は話を聞くことにする。
「ミステルは、活発的で感情的で。でも、あの頃のロルベーア嬢は落ち着いていて、知的で……公爵令嬢になるべくして生れてきた人間のようでした。そんな貴方に、僕はいつも驚かされて、惹かれていたんです」
「そう」
確かにミステルは、感情的というか活発……やることが姑息だけど、ロルベーアも大概そうだったんじゃないかと思った。でも、違うのは、プライドの高さか。公爵令嬢として、淑女の鏡として彼女はそれだけは守っていた。気高く、求められている以上の姿でいた。それがかえって、人を寄せ付けない原因になって、誰も彼女に釣り合わなくなって、離れていったと……難儀だし、可愛そうだなとは思う。
クラウトは、照れくさそうにしながらも楽しそうに話をしていた。話題に出るのはミステルよりも、ロルベーアの話ばかりで、彼が昔はロルベーアのことを穴が開くくらい見ていたんだなと言うことが分かった。
「でも、ロルベーア嬢は変わりましたね」
「変わった?」
「はい。殿下と番になってから、人が変わったように……素敵だとは思いますが、何だか寂しそうで。幼馴染みとして心配なんです」
「……そう」
人が変わったのは、中身が変わったからだろう。それは仕方がないことだ。
でも、心配する理由が分からない。だって、彼は、彼らはお父様の政敵であるから。私を心配して恩を売って、弱みを――
「……っ」
「す、すみません。綺麗だったのでつい」
「……、あの、いきなり触らないで貰えますか」
そんなことに気を取られていれば、クラウトが私の髪に触れた。たったそれだけで、全身の毛が逆立って、吐き気が込み上げてきた。番以外の男性に触れられた拒絶反応だろう。
私は、クラウトから距離を取りつつ睨み付ければ、彼は申し訳なさそうに眉をハの字に曲げた。
「ロルベーア嬢、殿下と番契約を結んで、もう半年が経っています」
「え、ええ、知っているわ」
「このままだと、ロルベーア嬢は殿下の呪いで死んでしまいます」
と、クラウトは必死に私にむかって言って来た。その目がからかっているものでも、喜んでいるものでもなく、本当に必死に、真剣に。サファイアの瞳には怒りさえも滲んでいるような気がした。
クラウトは私に手を差し伸べ、自分と一緒に来い、とでも言わんばかりに私を見つめる。
「ずっと貴方を見てきたから……こんな所で死ぬなんて、考えられません。貴方がこの世界からいなくなることを、僕は誰よりも悲しむと思います。きっと、殿下よりも」
この男の真意が読めなかった。けれど、本気で思ってくれているのだろう、ということだけは伝わった。けれど、それが本当の、本当に、本気なのか、それとも演技なのか分からない。迷いはなかったが、不安と疑心暗鬼で心の中が一杯になっていく。だって、彼はミステルの婚約者だから。いや、それだけじゃなくて……番ではない男性であるから。
「なんでそこで殿下が出てくるの。それに、クラウト子息には関係無いことじゃない」
「……そうかも知れませんが、僕は心配なのです。殿下はこれまでに多くの番を殺してきました。番契約という、一度結べば一生きれないとまでいわれる契約を、何度も破棄して。ロルベーア嬢も分かるでしょう。番契約を切る方法は、番を己の手で殺す事……ロルベーア嬢にまでそうなって欲しくないんです」
「だから、なんで貴方が」
「聖女様は、殿下に気があるみたいです。それに、呪いの解除方法についても、核心に迫ってきている――」
「……っ」
「殿下と聖女様が恋に落ちるのは時間の問題だとは思いませんか? そしたら、ロルベーア嬢は、殿下に」
「やめて」
「殿下は、聖女様と一緒になるためにロルベーア嬢を殺しに来るかも知れません」
「殿下は――ッ」
耳を塞ぎたくなった。それが、現実になる気がして、怖かった。
私がもう一度叫ぼうとすれば、その瞬間上空から赤い星が落ちてきた。
「俺の番と、何を話していたかは知らないが……俺の番を誑かすのはやめて貰おうか、シュテルン侯爵子息」
「で、殿下!?」
「まずは、お帰りといえ、公女」
強く吹き付けた風に揺れたのは、真紅の髪。彼は振返ると、フッといつものように笑い、私を見つめてきた。
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