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過去編
あの頃の僕ら 1
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セシルとニルの過去編になります。
※この地点のニルには前世の記憶なし
※実はこんな関係の始まりでしたよ~のお話です。若干、第2部に重なってくる情報有ります
※第2部の始まりは12月1日からです
※1~3は幼少期、4~8は少年期になります
✂― ― ― ― ― ― ― ―
兄弟のように育ってきたが、彼を兄と呼んだことも、名前で呼んだこともなかった。
皇宮の庭園に咲き乱れる薔薇はいつ見てもきれいだった。だが、触ろうとすると「触るな、やめろ」と俺の手を強く引っ張っり、乳兄弟であり皇太子のセシルは止める。
セシル・プログレス皇太子殿下。
白銀の狼のような艶やかな銀髪に、満天の夜空を閉じ込めた夜色の瞳を持ったきれいな人。どこにいてもすぐに見つけられるし、そのたび目が奪われる不思議な魅力を持った殿下だった。
同い年。生まれた月も一緒。春生まれ。
皇族の血筋、第一子。生まれたその時に既に、平均以上の魔力を保持し、未来に希望を抱かれた人間。現在は、六歳になり、皇位継承権第一位、皇太子として生きているのが、幼馴染のセシル・プログレス皇太子殿下。
そんな人間が近くにいるものだから、子供ながらに委縮してしまった。
「だから、ダメだといってる」
「痛い、です。殿下」
薔薇の花弁に乗った朝露を落そうと指を伸ばすと、パシッとそれを止められてしまった。むっとした表情の殿下がこっちを見ていて、少し怖い。
きれいなんだけど、この薔薇のようにトゲがある人だと思った。何で怒っているのかいまいち理解できないし、同じ六歳だけど、殿下の表情は硬かった。眉間にしわがよっている。
グッと手首をつかんでいる彼の手に力が籠められる。
「何かい言わせるんだ」
「ごめんなさい…………」
朝露落してみたかったんです、とかいったら怒られるだろうか。もう、何回も注意されてるもんな。呆れられているかな。
乳兄弟で、生まれたときから一緒ではあるものの、いまいち殿下のことはつかみづらいというか。何を考えているのかわからない顔に、子供とは思えないほどの知識量。俺なんかと話していてもつまらないだろうなとは思っていた。
現皇帝も、父も俺たちの関係は慎ましいものだとか、微笑ましいものだとかいう。だが、俺にとっては彼は皇太子で、皇族で……そして、俺はいずれこの人の護衛をすることが決まっている騎士である。今はその自覚はそこまでないが、彼のそばにいる理由は、彼を命を懸けて守る騎士になるための練習。もちろん、護衛するのが嫌だとか、殿下のそばにいるのが怖くて嫌だとかいう気持ちはない。いや、ちょっとあるけど。
(殿下、笑わないんだよな……)
殿下は俺と一緒にいない日は、部屋にこもって勉強していた。俺よりも、勉強量が多くて、騎士団長である父の稽古もすでにつけてもらっていて。とにかく、彼が学んでいる量というのは計り知れない。俺なんかまだ習い始めてばかりなのに。
すでにたいそうなものを背負っている、小さな手も、背中も、見ていると遠く感じてしまう。
掴まれた手を見ながら、同い年なのにちょっと大きい手に嫉妬したりもした。恵まれている、から。
「痛いです」
「……す、まない」
「ああ、いえ。その、俺が、悪いんです、けど」
しどろもどろになっていく。
自分の立場を考えたとき、意見しちゃだめだと思った。自分の気持ちは押し殺さないといけない。そう教えられてきたから。父だけは、違ったが。
また怒られるんじゃないかと思ってうつむけば、はあ、と大きなため息が上から降ってくる。
「なんで、そんなにめそめそする」
「めそめそ?」
「ああ! お前は、俺といてつまらなそうな顔をする。それに、何度言ってもトゲのある薔薇を触ろうとする。危ないだろ。けがしたらどうするつもりだ」
「ええと……」
怒っているのはわかった。けど、最後のセリフに優しさを感じた。気のせいじゃない。
ずっと、薔薇が傷つくから触るなという意味でとらえていたので、その言葉に驚いてしまった。俺が、目を丸くして殿下のほうを見ると、またむすっとした表情で、俺の頬を叩いた。
「い、痛い! 何すんの! ……あ」
「それでいい。お前は、それでいい」
「だから、わかんない。わかんないんですって、殿下」
いきなり、頬を叩かれたし。それに、よくみたら殿下は笑っていた。これは俗にいう家庭内暴力……いや、血はつながってないけど、暴力だろう。暴力をふるって笑っているのだろうか。
俺が忌々しそうに睨みつければ、殿下はふっと笑って、今度は打って変わって俺の頬を優しくなでた。
「もちもちだな」
「うるさいですよ、殿下。殿下だって、もちもちなんじゃないですか?」
「触ってみるか?」
と、冗談で言ったのに、「ほら」と俺の手を掴んで、自分の頬に触らせる。すべすべだったが、もちもちじゃなかった。なんだか、それは残念だったが、殿下に自分から触れたことはなかったので、しばらく手が離せなかった。その肌に触れているだけで、心が和やかになるというか。手に吸い付くような柔らかさと、心地よさはあって。
「ニルの手は冷たいな」
「……っ」
「どうした?」
そういえば、名前を呼ばれたのは初めてだった気もする。
バッと彼の頬から手を離そうとすれば、優しく包み込むように殿下が手を重ねる。そのせいで、引きはがそうにも引きはがせなくなった。
「殿下、名前」
「俺の?」
「いや、ちがくて。その、俺の名前……ニル、って」
「ああ」といって、殿下は数回瞬きした。
名前がどうとかじゃなくて、はにかむように笑って俺の名前を言ったのが忘れられなかった。ぶわっと体の奥底から熱があふれてくるような感覚がした。よく、手は冷たいといわれるけど、その手のひらに、殿下の頬の温もりが伝わってきて、指先から解けていくような感覚がしたのだ。
「ニルは、ニルだろ。ニル・エヴィヘット」
「そう、ですけど」
「何だ、名前を呼ばれたことに驚いているのか? いまさらだろ」
「いや、呼んでもらっていた記憶がなくって。恐縮ですけど……うん。それに、その、殿下は俺にずっと怒ってたのかな、とか」
さっきのトゲを触る云々は、それがけがをしないようにという忠告だったとわかったけど。でも、日ごろからむすっとしているから、俺といて、それこそ殿下はつまらないのかなと思っていた。俺がいい具合に彼の機嫌をとれないから?
表情が硬いし、怒っているように見えるしわからなかった。
でも、殿下はまたきょとんとした顔でこちらを見て、今度はその頬を少し膨らませる。
「怒ってなどいない。いや、怒っている」
「ど、どっち……」
「だって、お前が! ニルが、俺といてつまらなそうな顔をするからだ。俺は、父上にニルは乳兄弟だと聞いた。同じくらいに生まれて、育って、兄弟みたいな関係だと聞いていた。なのに、お前は、俺と距離を置くように接するだろ!」
「でも、それは殿下が、殿下だから……」
「その殿下という言い方も嫌いだ!」
なんて理不尽。
息をするように、ペチンとまた頬を叩かれてしまった。手形がいっていないか心配だ。
だが、そんなことを考える暇もないくらい、殿下が目を腫らせて俺を見るので、なんとなく言いたいことが分かってしまった。
俺も、ちょっとは思ってたけど。
殿下は、はあ、はあ……と息を切らして、また俺の両頬をつぶす。口がうっと前に出てしまい、喋ろうにも喋れない。
「いいか、ニル。ニルは、俺の……俺のなんだぞ。ん? これは、何かおかしいな。ニルは、そう、俺の特別枠だ。だから、殿下など距離を置くような呼び方をするな」
「じゃあ、なんて呼べば?」
「……セシルと呼べ。それと、敬語も禁止だ」
と、殿下は顔を近づけて言う。目いっぱいにその夜の瞳が移って、吸い込まれそうになる。真剣な目。まっすぐで純粋な。俺に、名前を呼んでほしいとせがんでいるのだ、あの殿下が。
ちょっとだけ、子供っぽい顔を見た気がした。依然として、眉間にしわがよっている気がするけど。
もしかして、怒っていたのは俺が距離をとるように接していたから?
(でも、理不尽過ぎない?)
だって、家庭教師からはそうするようにっていわれて。でも、父からは分け隔てなく話しても大丈夫だろうといわれた。皇帝陛下後任らしいから。けど、俺の中の従者像が、セシルという皇太子を前にして、そんな無礼なことはできないと思っていた。だから、呼びにくいけど殿下って口にして、慣れない敬語を使って。
でも、そのせいで殿下が機嫌が悪かったのなら申し訳なくも思う。俺が悪いのかはおいて置いて。
「いいの?」
「いいと、俺がいったらいいんだ」
「何、その暴論……でも、殿下は、殿下ですよ。いずれ皇帝になる……」
「だったとしてもだ。お前は氷のように固いな。俺がいいといっている。それに、俺がそれがいいんだ。ニルに、セシルと呼ばれたい。もっと、こう、友だちっぽいことをしたい」
「友だち……」
「何? 友だちじゃ不満か? じゃあ、特別に親友という枠をニルに贈呈する」
「それは、贈呈できるものなのかなあ……」
今日は一段とおしゃべりだと思った。殿下がこんな人だったなんて知らなかった。思えば、俺と同じ六歳だ。遊び盛り。しかし、彼には責任と期待がある。
(でも、俺の前だけは、素でいられるっていうのなら……肩の荷を下ろして、ただのセシルでいられるのなら)
俺の使える人。俺が未来、いや今からでも守るべき人。そんな人が、俺を欲しているのならそれに応えないわけにはいかなかった。
それと、俺もそれを望んでいたのだと、跳ねる心臓を抑えて殿下を見る。
「セシル」
「……っ、ああ、そうだ。ニル。かっこいいだろう、俺の名前」
「うん。世界一、かっこいい。それと……ずっと言えなかったけど、その髪の毛の色も、夜をぎゅっと閉じ込めたような瞳も好き」
どうしてだろうか、許された瞬間にぽろぽろと言葉が出てくるのは。まるで、胸の内にその言葉たちを押し込めていたように。言わなくてもいいことを言ってしまった気がする。でも、そう思っていたのも事実であった。
恥ずかしいことを言ったかもしれないと、セシルを見ると彼は顔を真っ赤にし、耳まで染めていた。
ぱちくりと、瞬きをすればセシルが俺の頬をまた叩く。だから理不尽が過ぎる。
「いったあぁ……何で叩くのさ、セシル」
「わ、わからない!」
「わからないなら、叩かないでよ。叩かれるの痛いんだからね?」
「じゃあ、ニルも俺を叩け」
それは違う。
もうめちゃくちゃだよ、とため息が漏れそうだった。それでも、目の前にいる同い年のセシルがおかしくって笑てしまう。頬はまだじんじんと痛いけど、それもいいと思えるくらい、彼の素の顔を見た気がした。
(なんだ、一緒じゃん……)
年相応。皇太子として取り繕っているだけの子供。俺と一緒。そう思うと、さらに彼との距離が近づいた気がした。セシルのいう通り、こっちのほうが気楽でいい。
「叩かないよ。セシルのこと、俺は意味もなくたたいたりしない」
「うっ、嫌味を言われた気がするんだが」
「ふふ、どうだろう。ありがとう、セシル」
「何がだ?」
自然とまた言葉が漏れる。
そのありがとうの意味を、セシルは理解していないようだった。まあ、このありがとうも変な話だけど。
彼が先ほど言った親友という言葉が胸を熱くする。彼の特別になれたことが嬉しかった。友だち、とかとはまた違うんだろうけど。親友、なんて一日でなれるものでもないと思うけど。セシルがその言葉を使うのなら、俺もその言葉を使おうと思う。
「俺をセシルの親友にしてくれて。俺、セシルのこと好きになっちゃったかも」
「なっ」
「セシルは? 俺のこと好き? 俺と仲良くなりた~いってずっと思ってたんでしょ?」
「……お前は、よく、喋るな」
「結構、おしゃべりだと思ってるよ、自分のこと」
普段は喋らないだけで。話したいことはあるし。
セシルが、普段俺をどう見てきたかわかる言葉だった。彼曰く、俺は氷なのだとか。まあ、そんなこと気にしないけど、と笑ってやれば、セシルは面食らったように口を曲げた。
「で、どうなの?」
「俺も、喋りたいと思っていた。ニルの素が見えたのは、とても貴重だと思う」
「ふ~ん、それだけ?」
「ほかに何があるっていうんだ。ニル。意地悪すると、俺も怒るぞ?」
「叩かれるのは嫌かも。痛いし」
「た、叩きはしない。そうだな、恥ずかしいことをする。ニルが恥ずかしいことをだ」
と、セシルはなぜか威張って言う。恥ずかしいことって例えばどんなこと? と思っていたら、ぎゅっと俺の手を掴み、するりと指の間に自分の指を滑り込ませた。そして、見せつけるように、ん! と突き出す。
「恋人つなぎというやつだ。これは、恋人にしかしないつなぎ方だ。これで、皇宮内を歩き回る」
「それ、恥ずかしいのセシルじゃない? 俺は、別に手をつなげたって、嬉しいって思うけど」
「な、な、な! ニル!」
墓穴掘りすぎでしょ……
なんだかかわいくて、かわいそうになってきた。まあでも、それがセシルだと思えば、いいのか。
これから、もっと彼の素を知っていくことになるだろう。隣にいつづけるうちは。
「まあ、そういうことだから。俺は恥ずかしいことあまりないし。セシルが面白い人だって知れてよかったかも」
「俺は面白くないぞ」
「面白いよ。俺が勝手に君にいろいろ押し付けていたみたい、イメージとか、ね。だから、君の……本当の君をみれたみたいで、嬉しい」
「……っ、に、る」
「ん? 何?」
俺が聞き返せば、何でもない、と言ってセシルはそっぽを向いてしまう。顔が赤くなっているから、また恥ずかしかったんだろう。何についてかはわからないが。
俺はそんなセシルをからかうのが楽しくて、ふふっと笑う。笑うな、と怒られてしまうけど、それは本当に心の底から怒っているんじゃないとわかってしまった。だから、もっと仕切りが低くて、セシルを正面から見れる。
思った以上に簡単なことだった。俺も、これを望んでいた。
(セシル、セシル……俺、君と話すの楽しいよ。おんなじかな?)
あっちも、同じ気持ちだったらいいなと思って、まだ恋人つなぎをしているセシルの手を優しくきゅっと握り返してやった。
※この地点のニルには前世の記憶なし
※実はこんな関係の始まりでしたよ~のお話です。若干、第2部に重なってくる情報有ります
※第2部の始まりは12月1日からです
※1~3は幼少期、4~8は少年期になります
✂― ― ― ― ― ― ― ―
兄弟のように育ってきたが、彼を兄と呼んだことも、名前で呼んだこともなかった。
皇宮の庭園に咲き乱れる薔薇はいつ見てもきれいだった。だが、触ろうとすると「触るな、やめろ」と俺の手を強く引っ張っり、乳兄弟であり皇太子のセシルは止める。
セシル・プログレス皇太子殿下。
白銀の狼のような艶やかな銀髪に、満天の夜空を閉じ込めた夜色の瞳を持ったきれいな人。どこにいてもすぐに見つけられるし、そのたび目が奪われる不思議な魅力を持った殿下だった。
同い年。生まれた月も一緒。春生まれ。
皇族の血筋、第一子。生まれたその時に既に、平均以上の魔力を保持し、未来に希望を抱かれた人間。現在は、六歳になり、皇位継承権第一位、皇太子として生きているのが、幼馴染のセシル・プログレス皇太子殿下。
そんな人間が近くにいるものだから、子供ながらに委縮してしまった。
「だから、ダメだといってる」
「痛い、です。殿下」
薔薇の花弁に乗った朝露を落そうと指を伸ばすと、パシッとそれを止められてしまった。むっとした表情の殿下がこっちを見ていて、少し怖い。
きれいなんだけど、この薔薇のようにトゲがある人だと思った。何で怒っているのかいまいち理解できないし、同じ六歳だけど、殿下の表情は硬かった。眉間にしわがよっている。
グッと手首をつかんでいる彼の手に力が籠められる。
「何かい言わせるんだ」
「ごめんなさい…………」
朝露落してみたかったんです、とかいったら怒られるだろうか。もう、何回も注意されてるもんな。呆れられているかな。
乳兄弟で、生まれたときから一緒ではあるものの、いまいち殿下のことはつかみづらいというか。何を考えているのかわからない顔に、子供とは思えないほどの知識量。俺なんかと話していてもつまらないだろうなとは思っていた。
現皇帝も、父も俺たちの関係は慎ましいものだとか、微笑ましいものだとかいう。だが、俺にとっては彼は皇太子で、皇族で……そして、俺はいずれこの人の護衛をすることが決まっている騎士である。今はその自覚はそこまでないが、彼のそばにいる理由は、彼を命を懸けて守る騎士になるための練習。もちろん、護衛するのが嫌だとか、殿下のそばにいるのが怖くて嫌だとかいう気持ちはない。いや、ちょっとあるけど。
(殿下、笑わないんだよな……)
殿下は俺と一緒にいない日は、部屋にこもって勉強していた。俺よりも、勉強量が多くて、騎士団長である父の稽古もすでにつけてもらっていて。とにかく、彼が学んでいる量というのは計り知れない。俺なんかまだ習い始めてばかりなのに。
すでにたいそうなものを背負っている、小さな手も、背中も、見ていると遠く感じてしまう。
掴まれた手を見ながら、同い年なのにちょっと大きい手に嫉妬したりもした。恵まれている、から。
「痛いです」
「……す、まない」
「ああ、いえ。その、俺が、悪いんです、けど」
しどろもどろになっていく。
自分の立場を考えたとき、意見しちゃだめだと思った。自分の気持ちは押し殺さないといけない。そう教えられてきたから。父だけは、違ったが。
また怒られるんじゃないかと思ってうつむけば、はあ、と大きなため息が上から降ってくる。
「なんで、そんなにめそめそする」
「めそめそ?」
「ああ! お前は、俺といてつまらなそうな顔をする。それに、何度言ってもトゲのある薔薇を触ろうとする。危ないだろ。けがしたらどうするつもりだ」
「ええと……」
怒っているのはわかった。けど、最後のセリフに優しさを感じた。気のせいじゃない。
ずっと、薔薇が傷つくから触るなという意味でとらえていたので、その言葉に驚いてしまった。俺が、目を丸くして殿下のほうを見ると、またむすっとした表情で、俺の頬を叩いた。
「い、痛い! 何すんの! ……あ」
「それでいい。お前は、それでいい」
「だから、わかんない。わかんないんですって、殿下」
いきなり、頬を叩かれたし。それに、よくみたら殿下は笑っていた。これは俗にいう家庭内暴力……いや、血はつながってないけど、暴力だろう。暴力をふるって笑っているのだろうか。
俺が忌々しそうに睨みつければ、殿下はふっと笑って、今度は打って変わって俺の頬を優しくなでた。
「もちもちだな」
「うるさいですよ、殿下。殿下だって、もちもちなんじゃないですか?」
「触ってみるか?」
と、冗談で言ったのに、「ほら」と俺の手を掴んで、自分の頬に触らせる。すべすべだったが、もちもちじゃなかった。なんだか、それは残念だったが、殿下に自分から触れたことはなかったので、しばらく手が離せなかった。その肌に触れているだけで、心が和やかになるというか。手に吸い付くような柔らかさと、心地よさはあって。
「ニルの手は冷たいな」
「……っ」
「どうした?」
そういえば、名前を呼ばれたのは初めてだった気もする。
バッと彼の頬から手を離そうとすれば、優しく包み込むように殿下が手を重ねる。そのせいで、引きはがそうにも引きはがせなくなった。
「殿下、名前」
「俺の?」
「いや、ちがくて。その、俺の名前……ニル、って」
「ああ」といって、殿下は数回瞬きした。
名前がどうとかじゃなくて、はにかむように笑って俺の名前を言ったのが忘れられなかった。ぶわっと体の奥底から熱があふれてくるような感覚がした。よく、手は冷たいといわれるけど、その手のひらに、殿下の頬の温もりが伝わってきて、指先から解けていくような感覚がしたのだ。
「ニルは、ニルだろ。ニル・エヴィヘット」
「そう、ですけど」
「何だ、名前を呼ばれたことに驚いているのか? いまさらだろ」
「いや、呼んでもらっていた記憶がなくって。恐縮ですけど……うん。それに、その、殿下は俺にずっと怒ってたのかな、とか」
さっきのトゲを触る云々は、それがけがをしないようにという忠告だったとわかったけど。でも、日ごろからむすっとしているから、俺といて、それこそ殿下はつまらないのかなと思っていた。俺がいい具合に彼の機嫌をとれないから?
表情が硬いし、怒っているように見えるしわからなかった。
でも、殿下はまたきょとんとした顔でこちらを見て、今度はその頬を少し膨らませる。
「怒ってなどいない。いや、怒っている」
「ど、どっち……」
「だって、お前が! ニルが、俺といてつまらなそうな顔をするからだ。俺は、父上にニルは乳兄弟だと聞いた。同じくらいに生まれて、育って、兄弟みたいな関係だと聞いていた。なのに、お前は、俺と距離を置くように接するだろ!」
「でも、それは殿下が、殿下だから……」
「その殿下という言い方も嫌いだ!」
なんて理不尽。
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だが、そんなことを考える暇もないくらい、殿下が目を腫らせて俺を見るので、なんとなく言いたいことが分かってしまった。
俺も、ちょっとは思ってたけど。
殿下は、はあ、はあ……と息を切らして、また俺の両頬をつぶす。口がうっと前に出てしまい、喋ろうにも喋れない。
「いいか、ニル。ニルは、俺の……俺のなんだぞ。ん? これは、何かおかしいな。ニルは、そう、俺の特別枠だ。だから、殿下など距離を置くような呼び方をするな」
「じゃあ、なんて呼べば?」
「……セシルと呼べ。それと、敬語も禁止だ」
と、殿下は顔を近づけて言う。目いっぱいにその夜の瞳が移って、吸い込まれそうになる。真剣な目。まっすぐで純粋な。俺に、名前を呼んでほしいとせがんでいるのだ、あの殿下が。
ちょっとだけ、子供っぽい顔を見た気がした。依然として、眉間にしわがよっている気がするけど。
もしかして、怒っていたのは俺が距離をとるように接していたから?
(でも、理不尽過ぎない?)
だって、家庭教師からはそうするようにっていわれて。でも、父からは分け隔てなく話しても大丈夫だろうといわれた。皇帝陛下後任らしいから。けど、俺の中の従者像が、セシルという皇太子を前にして、そんな無礼なことはできないと思っていた。だから、呼びにくいけど殿下って口にして、慣れない敬語を使って。
でも、そのせいで殿下が機嫌が悪かったのなら申し訳なくも思う。俺が悪いのかはおいて置いて。
「いいの?」
「いいと、俺がいったらいいんだ」
「何、その暴論……でも、殿下は、殿下ですよ。いずれ皇帝になる……」
「だったとしてもだ。お前は氷のように固いな。俺がいいといっている。それに、俺がそれがいいんだ。ニルに、セシルと呼ばれたい。もっと、こう、友だちっぽいことをしたい」
「友だち……」
「何? 友だちじゃ不満か? じゃあ、特別に親友という枠をニルに贈呈する」
「それは、贈呈できるものなのかなあ……」
今日は一段とおしゃべりだと思った。殿下がこんな人だったなんて知らなかった。思えば、俺と同じ六歳だ。遊び盛り。しかし、彼には責任と期待がある。
(でも、俺の前だけは、素でいられるっていうのなら……肩の荷を下ろして、ただのセシルでいられるのなら)
俺の使える人。俺が未来、いや今からでも守るべき人。そんな人が、俺を欲しているのならそれに応えないわけにはいかなかった。
それと、俺もそれを望んでいたのだと、跳ねる心臓を抑えて殿下を見る。
「セシル」
「……っ、ああ、そうだ。ニル。かっこいいだろう、俺の名前」
「うん。世界一、かっこいい。それと……ずっと言えなかったけど、その髪の毛の色も、夜をぎゅっと閉じ込めたような瞳も好き」
どうしてだろうか、許された瞬間にぽろぽろと言葉が出てくるのは。まるで、胸の内にその言葉たちを押し込めていたように。言わなくてもいいことを言ってしまった気がする。でも、そう思っていたのも事実であった。
恥ずかしいことを言ったかもしれないと、セシルを見ると彼は顔を真っ赤にし、耳まで染めていた。
ぱちくりと、瞬きをすればセシルが俺の頬をまた叩く。だから理不尽が過ぎる。
「いったあぁ……何で叩くのさ、セシル」
「わ、わからない!」
「わからないなら、叩かないでよ。叩かれるの痛いんだからね?」
「じゃあ、ニルも俺を叩け」
それは違う。
もうめちゃくちゃだよ、とため息が漏れそうだった。それでも、目の前にいる同い年のセシルがおかしくって笑てしまう。頬はまだじんじんと痛いけど、それもいいと思えるくらい、彼の素の顔を見た気がした。
(なんだ、一緒じゃん……)
年相応。皇太子として取り繕っているだけの子供。俺と一緒。そう思うと、さらに彼との距離が近づいた気がした。セシルのいう通り、こっちのほうが気楽でいい。
「叩かないよ。セシルのこと、俺は意味もなくたたいたりしない」
「うっ、嫌味を言われた気がするんだが」
「ふふ、どうだろう。ありがとう、セシル」
「何がだ?」
自然とまた言葉が漏れる。
そのありがとうの意味を、セシルは理解していないようだった。まあ、このありがとうも変な話だけど。
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「俺をセシルの親友にしてくれて。俺、セシルのこと好きになっちゃったかも」
「なっ」
「セシルは? 俺のこと好き? 俺と仲良くなりた~いってずっと思ってたんでしょ?」
「……お前は、よく、喋るな」
「結構、おしゃべりだと思ってるよ、自分のこと」
普段は喋らないだけで。話したいことはあるし。
セシルが、普段俺をどう見てきたかわかる言葉だった。彼曰く、俺は氷なのだとか。まあ、そんなこと気にしないけど、と笑ってやれば、セシルは面食らったように口を曲げた。
「で、どうなの?」
「俺も、喋りたいと思っていた。ニルの素が見えたのは、とても貴重だと思う」
「ふ~ん、それだけ?」
「ほかに何があるっていうんだ。ニル。意地悪すると、俺も怒るぞ?」
「叩かれるのは嫌かも。痛いし」
「た、叩きはしない。そうだな、恥ずかしいことをする。ニルが恥ずかしいことをだ」
と、セシルはなぜか威張って言う。恥ずかしいことって例えばどんなこと? と思っていたら、ぎゅっと俺の手を掴み、するりと指の間に自分の指を滑り込ませた。そして、見せつけるように、ん! と突き出す。
「恋人つなぎというやつだ。これは、恋人にしかしないつなぎ方だ。これで、皇宮内を歩き回る」
「それ、恥ずかしいのセシルじゃない? 俺は、別に手をつなげたって、嬉しいって思うけど」
「な、な、な! ニル!」
墓穴掘りすぎでしょ……
なんだかかわいくて、かわいそうになってきた。まあでも、それがセシルだと思えば、いいのか。
これから、もっと彼の素を知っていくことになるだろう。隣にいつづけるうちは。
「まあ、そういうことだから。俺は恥ずかしいことあまりないし。セシルが面白い人だって知れてよかったかも」
「俺は面白くないぞ」
「面白いよ。俺が勝手に君にいろいろ押し付けていたみたい、イメージとか、ね。だから、君の……本当の君をみれたみたいで、嬉しい」
「……っ、に、る」
「ん? 何?」
俺が聞き返せば、何でもない、と言ってセシルはそっぽを向いてしまう。顔が赤くなっているから、また恥ずかしかったんだろう。何についてかはわからないが。
俺はそんなセシルをからかうのが楽しくて、ふふっと笑う。笑うな、と怒られてしまうけど、それは本当に心の底から怒っているんじゃないとわかってしまった。だから、もっと仕切りが低くて、セシルを正面から見れる。
思った以上に簡単なことだった。俺も、これを望んでいた。
(セシル、セシル……俺、君と話すの楽しいよ。おんなじかな?)
あっちも、同じ気持ちだったらいいなと思って、まだ恋人つなぎをしているセシルの手を優しくきゅっと握り返してやった。
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