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一一章

奇跡の歌姫はパレードで天上の鐘を鳴らす

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 「何だと! マジか、そいつは⁉」
 暴れん坊ジャックの雷のような怒声が警察署内に響き渡りしまた。ですが、それもいつものことなので誰も気にしません。デスクに突っ伏して惰眠をむさぼったり、オンラインゲームに没頭していたりで、そもそも気付いてすらいない様子。外の世界ならばいざ知らず、霧と怪奇の都で警察に勤めようなどと思う奇特な人物はほとんどが『働かずに給料がもらえるから』という理由で志願するのですから警察署長の声にいちいち反応するはずもありません。下手に反応してしまい仕事を振られる羽目になったらせっかくのスローライフも台無しですから。無視されるのが当然の反応なのでありました。
 ただひとり、その怒声に顔をしかめたのは、ある報告をもってきたばかりに唾混じりの怒声をまともに顔面に浴びることになってしまった薄幸の女性、ウィルマ・ベイカー、愛称ビリーその人なのでありました。
 ビリーは――最近ではすっかりジャックの怒声と唾に慣らされてしまったので――常備しているウェットティッシュで顔とメガネに付いた唾を丁寧に拭き取ると、辟易した様子で抗議しました。
 「いつも言っているだろう。怒声とともに唾を他人の顔に飛ばす癖はやめてくれ。失礼にもほどがあるぞ」
 「そんなこたあどうでもいい! もう一度、言って見ろ」
 その怒声とともに再び唾が飛んできたので――今度はヒョイとファイスカバーを持ち上げて顔面に届くのを阻止しましたが――ビリーは不機嫌な表情で答えました。
 「何度でも言う。唾を他人の顔面に飛ばすのはやめろ。失礼にもほどがある」
 「そこじゃねえ! その前だ」
 「他人の顔に唾を飛ばすのはやめろ」
 「だから! そこじゃなくてその前だっつってんだろうが!」
 「だから、その前のことを言っている。『唾を吐くのはやめろ』の前に言ったのは『唾を吐くのはやめろ』だ」
 ジャックは口のなかで何やらモゴモゴ言っていましたが、やがて息をつきました。
 「……わかったよ。悪かったよ。今後は唾を飛ばさないように善処する」
 「最初からそう言えばいいのだ、まったく。時間を無駄にしてくれる」
 ビリーは不愉快そうな表情のまま、そう言いました。
 ジャックとしてもいちいちこんな指摘をされるのは不愉快なのですが、何しろビリーは警察組織内でただひとりの有力な味方。そのビリーにヘソを曲げられたままでいるわけにはいきません。意に沿わずとも謝るしかないのでした。
 「さあ、これでもういいだろう。報告を繰り返してくれ」
 「君がマスクを付けたら再度の報告をしよう」
 「………」
 ジャックは何とも言えない表情でビリーを睨み付けましたが、結局は言われたとおりにマスクを付けました。極めて渋々とではありましたが。
 ビリーは愛らしい少女にしか見えない顔に満足の表情を浮かべてうなずきました。そして、ジャックの怒声の原因となった報告を繰り返したのでございます。
 「死刑権解放同盟の次回のパレードで、君の思い人、クリス嬢が歌姫を務める」
 「嘘だ!」
 ジャックは声を限りに叫びました。ビリーは自分の先見の明に大いに満足したことでしょう。ジャックにマスクを付けさせていなければ大量の唾が宇宙からの侵略者よろしく自分の顔面に飛びかかってきたことは間違いないからです。何しろ、あまりの勢いにマスクが浮き上がり、千切れそうになるほどの怒声でしたから。
 「事実だ」と、ビリーは自らの先見の明によって被害を防いだことに満足しながら、ジャックに語りました。
 「新聞にも、死刑権解放同盟のパンフレットにもハッキリとそう予告されている。念のため、本部にも確認したがまちがいないと言われた。今度のパレードにおいて主役の歌姫を演じるのは紛れもなく君の思い人、オペラ座ノワールの歌姫、クリス嬢だ」
 「嘘だ……」
 ジャックは繰り返しました。
 「クリス嬢は警察に対して好意的だった。そのクリス嬢が死刑権解放同盟のパレードなんぞに出るわけがねえ」
 「ならば、パレード当日、見に行ってみよう」
 「なに?」
 「クリス嬢の言動はあまりにも不可解だ。わたしはそれを『薬物の使用による副作用』と仮説を立てた。しかし、これまで手を尽くして調査したにも関わらず、クリス嬢と薬物を結びつける情報は何ひとつとして得られなかった」
 「ああ。それはこっちも同じだ。都市中の科学者、情報屋……片っ端から当たってみたが、クリス嬢と関係のある奴はひとりもいなかった」
 「……君の時節をわきまえない訪問を受ける羽目になった人物には同情するが、君の調査能力は信用している。君が関係を見いだせなかったと言うのなら、実際に関係は『ない』と言うことだ。そうなると、クリス嬢の不可解な言動はますます説明が付かなくなる。そこへ来て、本来ならば引き受けるはずのない役割を引き受けたとなれば、そこに何らかの解決の糸口が見いだせると思うのは自然だろう。パレード当日はぜひとも調査に向かうべきだ」
 ビリーに言われてジャックは首をかしげました。それは『疑念に思った』ためではなく、自分を『納得させる』ための仕種でありました。
 「……たしかに、お前の言うとおりだ。こいつを調査しねえ手はないな」
 「決まりだな。では、手配しておく」
 ビリーはそう言って署長室を退出しようとしました。その小さな背中に向かってジャックが何やら遠慮がちに声をかけました。
 「あ、あ~、ビリー……」
 「なんだ?」
 「その、何だ……ありがとうよ」
 「なにが?」
 「なにがって、だからよ……」
 と、ジャックはまるで初恋相手に告白しようとする少年のようにモジモジしながら言ったものでございます。
 「熱心に協力してくれてありがとうって意味だよ。何しろ、お前だけだからな。この霧と怪奇の都の警察でおれにまともに協力してくれるのは。……感謝してるんだよ、ほんと」
 「何だ、そんなことか」と、ビリーはジャックの決死の告白をあっさり片付けたのです。
 「礼には及ばん。わたしもクリス嬢のあの不可解な言動には大いに興味がある。何としてもその謎を解き明かさないことには学究の徒としてのプライドが許さんのでな。君のためではない。すべてはわたし自身の知的興味のためだ」
 ビリーはそう言い残し、署長室を出て行きました。後に残されたジャックはひとり、さびしそうに呟きました。
 「……そこかよ」
 ――かわいそうなやつ。
 見る者がいれば一〇〇人が一〇〇人、そう思う。そんな姿でありました。
 そして、パレードの日はやってきました。
 霧と怪奇の都の中央通り、都市一番の大通りで死刑権解放同盟が唄い、踊り、行進するのです。街道沿いにはすでに人、人、人。無数の人だかりでができておりました。そして、手に手に死刑権解放同盟の旗を持ち、歓声を上げながら、パレードのはじまるのをまっておりました。例え、どんなに死刑権の解放に反対していようと、どんなに死刑権解放同盟を嫌っていようと、霧と怪奇の都の正義は死刑権解放同盟なのだと、そう認めずにはいられない光景でありました。
 人々の熱狂のなか、死刑権解放同盟のパレードははじまりました。ミニスカートから伸びた足もなまめかしいバトントワラーたちが華麗なバトン捌きを披露しながら行進すると、その後ろからは鼓笛隊、さらにその後ろには見上げるばかりに巨大な山車が何台もつづきます。そして、ついにひときわ巨大な移動式の劇場が姿を現わします。
 この移動式劇場の舞台でミュージカル仕立ての劇が演じられる。それが死刑権解放同盟のパレードのクライマックス。そして、その舞台上で主演を務める歌姫こそが死刑権解放同盟のその年の顔となるのです。
 その歌姫に抜擢されるのは大変に名誉なこととされ、霧と怪奇の都中の歌姫たちが虎視眈々と狙う地位なのでありました。
 そして、今年、その栄えある座を射止めたのが他ならぬクリス嬢なのでありました。
 移動式劇場が大通りを進むなか、多くの踊り子たちを従えてクリス嬢が姿を現わしました。その姿はまさに女王。つい先日の舞台で観客の失望を買い、散々に罵声を浴びて落ち込んでいた少女と同一人物とはとても思えない、堂々として貫禄に満ちた姿でありました。その姿を前にしてはどんな荒くれ男も威に撃たれ、ひざまずかずにはいられない。そう思わせるほどの威圧感であったのです。
 クリス嬢が舞台の中央で歌いはじめました。

 犯罪者がやってくる。
 われらを殺しにやってくる。
 あいつらは正気じゃない。
 誰でも殺す。

 ああ、神よ。あなたは何と言う奇跡をこの地上に送り届けたのでしょう。その歌声のすばらしさはもはや人の世のものとは思えませんでした。そう。まさに歌の妖精がこの世に姿を現わした。そうとしか思えない素晴らしい歌声だったのです。
 それはまさにジャックとビリーがはじめてクリス嬢の舞台を見に行ったときの再現、いえ、それ以上のものでありました。
 「ジャック。これは……」
 パレードに参加していたビリーがジャックに語りかけました。ジャックはビリーの言葉に深々とうなずきました。
 「……ああ、まちがいねえ。あれは、おれたちがはじめて劇場で会ったときのクリスだ」
 歌の出だしの部分を聞いただけで集まったすべての人々は震え、感動し、あれほどひっきりなしにあげていた歓声をあげることを一斉にやめたのです。
 誰に強制されたわけでもありません。その歌声を自分の声で汚さないため、一声でも聞き漏らさないため、誰もが自ら望んで声を出し、音を発することをやめたのです。
 無数の人々が集まり、その全員が熱狂している。それなのにシンと静まり返った不可思議な空間。その空間に歌姫クリスの奇跡としか言いようのない歌声は響きます。

 犯罪者に殺されたい?
 ノンノンノン。
 子供が殺されるのを見たい?
 ノンノンノン。
 ならば、殺そう。
  先に殺そう。
   先にこーろーそおう

 クリス嬢の体が舞台の上に躍動し、奇跡の歌声が響きます。まさにそこはクリス嬢の独壇場。いえ、クリス嬢のためだけの世界でした。クリス嬢と共に出席舞台を盛り上げるはずの踊り子たちも圧倒されてしまい、唄い、踊ることをやめてしまいました。ですが、誰もそのことを責めません。気にすることすらありません。
 なぜなら、それが正しかったからです。
 その世界にはクリス嬢さえいればいい。クリス嬢の歌と踊りだけがあればいい。それ以外のいかなる人間の歌も踊りも――例え、それが世界最高峰の俳優のものであっても――単なる邪魔もの、至高の舞台を穢す雑音でしかない。
 その場にいる誰もがそのことを知っていたのです。
 クリス嬢の歌声はそれほどまでに人の世から隔絶したものでありました。
 パレードの最後には死刑権解放同盟の協会長が姿を現わし、鐘を鳴らし、
 「死刑権解放同盟はこれからも皆の安全を守る! 我らから死刑権を取り上げ、犯罪者どもの食い物にしようとする卑劣な輩に屈することは決してない。死刑権解放同盟の協会長としていまここに誓う!」
 と、そう宣言する予定になっておりました。本来であれば、この瞬間こそがパレードのクライマックスであり、もっとも人々の沸き立つ瞬間であったのです。しかし――。
 今年に限ってはもう、協会長の出る幕などありませんでした。妖精と化したクリス嬢の歌の後では、他のいかなる出し物も蛇足でしかない。クリス嬢の歌はそれほどまでに世界を支配していたのでした。
 台風一過。
 嵐のあとの静けさ。
 まさに、そんな表現がピッタリくる光景でした。先ほどまでの熱気に満ちた喧噪が信じられないほどに、当たりは静まり返っていました。人がいないわけではありません。まだまだ大勢の人がそこかしこに残っています。ですが、その誰もがクリス嬢に魂を奪われ、呆けたままとなっていたのです。
 そのなかでまだ動くことができるだけの魂を残している数少ない例外であるふたり、ジャックとビリーがクリス嬢に近づきました。本来であれば、死刑権解放同盟の護衛にがっちりとガードされ、近づくことさえできないはずでした。ところが、いまやその護衛たちでさえ魂を抜かれ、生ける屍と化しておりました。ジャックとビリーがまっすぐにクリス嬢に近づくのを見ても、それと認識できないようで、止めようとするそぶりひとつ見せはしないのでした。もし、いまこの場でクリス嬢の暗殺を目論むものがいれば、それこそ赤子の手をひねるように簡単に目的を達することができたでしょう。もちろん、霧と怪奇の都警察署長ジャック・ロウともあろう者がクリス嬢、いえ、市民の暗殺などを行うわけもなく、護衛たちはまったく幸運なことに体面を失う結果を招かずにすんだのでした。
 ジャックはクリス嬢に遠慮がちに声をかけました。
 「あの……クリス嬢」
 「誰?」と、クリス嬢はジャックを睨み付けました。
 ――あの目だ。
 ジャックは直感しました。自分を見るクリス嬢の目。それは、あの夜、川辺で会ったクリス嬢のものではありませんでした。それは、はじめてクリス嬢の楽屋を訪れた際、『あなたなど知らない』と言い放った、あのクリス嬢の目であったのです。
 ――やはり、このクリスはおれの会ったクリス嬢とは別人だ。
 ジャックはそう確信しました。
 とすると、あの夜、出会ったクリス嬢はいったい……。
 ジャックは帽子を取ると、あえて『はじめまして』と名乗りました。
 「誰なの?」と、クリス嬢は聞き返しました。露骨に迷惑がっている視線です。
 『はじめまして』という言葉をまったく疑っていない態度です。このクリス嬢がジャックのことをまったく覚えてないのはまちがいのないことでした。
 ジャックは初対面のように自己紹介しました。
 「霧と怪奇の都警察署長、ジャック・ロウ。通称・暴れん坊ジャックというものです」
 「警察署長?」
 クリス嬢はいかにもうさん臭いものを見る目でジャックを睨みました。その表情は一〇代の少女にはとうてい似つかわしくない、むしろ、人生の辛酸をなめ尽くした老人にこそふさわしいものでありました。
 「ああ、犯罪応援団ね。何の用? わざわざ文句でも言いにきたの?」
 「とんでもない。もちろん、刑事として死刑権解放同盟を認めるわけには行きません。しかし、それはそれ。あなたの歌声はとても素晴らしいものだった。そのことを一言伝えたくてやってきた次第です」
 「そう。なら、もういいでしょう。さっさと帰って。わたしは疲れているの」
 「これは失礼をば。すぐに退散するとしますよ」
 ジャックは言葉通り、すぐに引き上げました。深々とした一礼だけを残して。帰り際、ビリーがジャックに話しかけました。
 「あれなら、わたしにもわかる。あのクリス嬢は前回、会ったクリス嬢ではない。はじめて楽屋に行った際、君のことを『知らない』と言ったクリス嬢だ。そうだろう?」
 ジャックはうなずきました。
 「ああ、その通りだ」
 「しかし、あのときのクリス嬢であれ、一度は君に会っている。なのに、まったく知らない様子だった。あれは演技だったのか?」
 「いや、演技じゃねえな。本当に忘れていたんだ。ただし、話の途中で思い出したはずだ。それでも、わざわざ思い出したことを伝える必要も感じなかったと言うことだ。それぐらい、おれのことなんざ眼中にねえってことさ」
 「ふむ。なるほど。しかし、我々はとんだ勘違いをしていたかも知れないぞ」
 「勘違い?」
 「そうだ。わたしたちは疑問も持たずに君のことを知っているのが本当のクリス嬢だと思い、君のことを無視するクリス嬢は薬物の副作用によるものと思っていた。逆かも知れないぞ。あのクリス嬢こそが本当のクリス嬢であり、君の思い人こそが薬品によって現れた偽の人格かも知れない。わたしたちはその判断ができるほどクリス嬢のことを知っているわけではないんだ」
 「いや、それはねえな」
 「なぜ、そう言いきれる?」
 「……あのクリス嬢の態度。あれは一〇代の人間のものじゃねえ。もっとずっと年取った人間のものだ。どう取り繕おうが、おれの目はごまかせねえ」
 「……ふむ。前にも言ったが、わたしは専門家の勘は信じる主義だ。君がそう言うならそうなのだろう。しかし、そうなるとどういうことかな。誰か年取った人間がクリス嬢に扮していると? この都市の科学力をもってしてもそこまでの全身整形の技術はないはずだがな」
 「何でもいいさ。だが、とにかく、はっきりしたぜ。こいつは何かとんでもねえ裏がある。事件の匂いがぷんぷんしやがる。ビリー。これからいそがしくなるぞ」
 「ああ。わたしもクリス嬢の秘密には興味が尽きないところだ。ぜひとも、突き止めたい」
 ふたりのクリス嬢がいる。
 ジャックはすでにそのことを刑事として確信しておりました。
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