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五章

歌姫は運命に抗う

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 テオドラはクリス嬢の腕をねじり上げたまま、オペラ座ノワールの稽古室に放り込みました。それはもはや『頑固な師が、弟子を無理やり連れ帰る』などというレベルの仕種ではありませんでした。『誘拐犯が人質を部屋に放り込む』、そう言った方がふさわしい態度でありました。
 「な、なにをするんですか⁉ いくら先生だからってこんな扱いをされる筋合いはありません!」
 クリス嬢はクッキリと手形の付いた腕――クリス嬢の腕にはテオドラに握りしめられていた跡がはっきりと残っていたのです。まるで、プロレスラーにでもつかまれていたかのように。まったく、八〇過ぎの老嬢とは思えないとてつもない握力でありました――を、さすりながらありったけの抗議の声をあげました。愛らしい顔立ちのなかの大きな目には紛う方無き本物の怒りが浮いています。いくら、愛らしい一〇代の少女とは言え、これほどまでの怒りを向けられたとなれば、たいていの人間は怯むことでしょう。ですが、テオドラは『怯む』という感情を知らないかのように堂々とその怒りを受けとめ、呟いたのでございます。
 「まったく、生意気な器ね」
 「だから、あたしは先生の器じゃありません!」
 テオドラの言葉がクリス嬢の怒りに油を注ぎます。ますます苛烈な怒りを込めて『師』を睨み付けました。
 「あなたは単なる器。ただただ、わたしの言うことを聞いて、わたしの言うとおりに行動していればいいの。それを、ちょっとばかり顔がいいからって、あんな訓練生の男にうつつを抜かしたりして……」
 ギン!、と、今度こそは怒りを通り越して明瞭な殺意がクリス嬢の瞳にはじけました。唇を噛みしめ、反射的に腕が跳ね上がりました。跳ね上がった腕を――大変な自制力を発揮して――途中で止めたのは、さすがに八〇過ぎの老人に暴力を振るうわけには行かなかったからでした。もし、もっと若い、壮年の人物ででもあったなら思いきり顔面を引っぱたいていたことでしょう。例え相手が主任講師、いえ、それどころか劇場の支配人であったとしても。
 その一件でオペラ座ノワールにいられなくなるとしてもクリス嬢はためらわなかったに違いありません。それほどにクリス嬢の怒りは激しいものでした。
 雷光のごとき平手打ちをお見舞いするかわりに、クリス嬢は言葉の弾丸を叩きつけました。それは比喩などではなく、正真正銘『弾丸』と呼べるレベルのものでありました。音速で放たれた空気の振動は事実、それほどの破壊力を秘めていたのです。
 「ドリアンのことは言わないでください! いくらあなたでも許しません」
 『先生』ではなく『あなた』と言ったのは、『いくら年寄りでも許さない!』という意味でありました。つまりは、『もう、あなたを先生とは認めない!』というクリス嬢からの絶縁宣言であったのです。
 クリス嬢の言葉に込められたその思いを、果たしてテオドラは汲み取っていたのでしょうか。オペラ座ノワールの女教師は少なくとも表向きはいささかも態度をかえることなく、静かに語りかけました。
 「目を覚ましなさい。あんな顔だけの、俳優としても、ダンサーとしても、素質も才能もない凡人と関わることに何の意味があると言うの。あなたの成長の妨げになるだけよ」
 「あなたにそんなことを言われる筋合いはないわ!」
 クリス嬢はついに敬語を使うこともやめて怒鳴りました。テオドラはあくまでもかわらない態度で淡々とつづけます。それは表面だけ見ればたしかに、経験豊富な師匠が若くて短絡的な弟子を辛抱強く諭している構図に見えたことでしょう。
 「いいこと。クリス。あなたは史上最高の歌姫になる存在。それがあなたの運命。あなたはただ、そのことだけを考えていればいい。それ以外のすべてはあなたにとっては不要のものよ」
 「やめて! 『運命』だなんて勝手に決めないで。そりゃあ、あたしだって最高の歌姫になりたい。最高の歌姫になって、世界一の舞台で『人魚姫』を演じたい。でも、それは運命とか、そんなことじゃない。あたしが決めること。もし、あたしにそれ以上に大切なことが出来ればやめることができる。それだけのことよ」
 「いいえ、ちがうわ。クリス。あなたは史上最高の歌姫になる。ならなくてはならない。それがあなたの運命。あなたはそのために用意された。それはもう決まっていること。かわりようのない宿命よ」
 「ちがう! あたしはあたしよ。たしかに、あたしのひいおばあちゃんのクリスチーヌはオペラ座ノワールの歌姫だったかも知れない。『史上最高の歌姫になれる』と期待された逸材だったかも知れない。そして、テオドラ……先生。あなたのライバルであり、親友だったかも知れない。でも、あたしはクリス。クリスチーヌじゃない。そして、あなたの器でもない。もし、あなたがどうしてもあたしを自分の器として扱うつもりなら……」
 「扱うつもりなら?」
 「今日を限りにオペラ座ノワールを辞めるわ」
 「辞める?」
 「ええ。そして、他の劇場に行く。どこでもいい。あたしをクリスチーヌのかわりにしたり、自分の器として扱ったりする人のいないところへね」
 「ちがう劇場?」
テオドラはクリス嬢の言葉に鼻を鳴らしました。そんな仕種をすると老いてなお、気品のある美しい顔立ちなだけに『厳格な女教師』感がより一層、とぎすまされ、なんとも憎たらしい印象になるのでした。
 「大きく出たものね。何の実績もない小娘の分際で。わたしの後ろ盾なしでまともな舞台に立てるとでも思っているの?」
 「じゃあ、あなたやクリスチーヌには誰の後ろ盾があったと言うの?」
 「なんですって?」
 「あなたやひいおばあちゃんだって、誰かの後ろ盾があったわけじゃないでしょう。身ひとつでこの世界に飛び込み、自分の実力で世間に認められる存在になったんじゃない。あたしはただ、あなたやひいおばあちゃんと同じことをしたい。そう言っているだけよ」
 クリス嬢の言葉に――。
 今度はテオドラの瞳に激しい怒りがはじける番でした。
 「……言ってくれるものね。お前ごときに、テオドラやわたしほどの才能があるとでも?」
 「史上最高の歌姫になる。それがあたしの運命なんでしょう? だったら、それだけの才能があるって言うことじゃない」
 クリス嬢は堂々とそう言い放ち、テオドラを睨み付けました。テオドラもクリス嬢をにらみ返します。空気が帯電し、すさまじいにらみ合いがはじまりました。
 それはもはや、いつ暴力沙汰に発展してもおかしくない雰囲気でありました。そうならずにすんだのはクリス嬢の側には『八〇過ぎの年寄りを殴るわけにも行かない』という倫理観があったからであり、テオドラの側には『自分の器を傷つけるわけにいはかない』という打算があったからでした。もし、そんな倫理も打算もなく、ただ単に感情だけをぶつけ合っていたならば、とっくに壮絶な殴り合いに突入していたことでしょう。それほどに、ふたりの感情のぶつかり合いは危険なものへとなっておりました。
 ふいに、帯電した空気が緩みました。テオドラが級に視線をそらし、溜め息をついたのです。その仕種に場の雰囲気が一気に緩みました。クリス嬢も意外な展開に一瞬、表情を緩めたほどでした。
 「……いいわ。分かったわ」
 テオドラはついにそう言いました。
 「……先生」
 クリス嬢の表情にかすかな期待の色が浮かびました。自分の思いを分かってくれた。そう思ったのでしょう。それは、あれほど激しくぶつかり合いながらもなお、本音をぶつけ合うことで関係を改善し、改めて師弟としてやっていける、と言う信頼があったと言うことなのでしょう。そして、テオドラの『わかったわ』という呟きにやっと自分の思いが通じたという思いを抱いた。そのための期待の表情であったのです。ですが――。
 それはとんでもない勘違いだったのです。テオドラはこう言い放ったのです。
 「いままでのやり方では生温かったというわけね」
 「えっ?」
 「エイリーク!」
 テオドラは鋭く叫びました。まるで、音声認識の自動ドアのように稽古室の扉が開き、そこからひとりの老人が入ってきました。
 ゾッとするような人物でした。
 歳の頃はテオドラと同じくらい。しかし、テオドラのような老いてなお衰えることを知らない生命の輝きなどは微塵もなく、人生の労苦と疲労とが積もりつもった人物のように見えました。
 一生を自分の道を究めることに費やした偏屈な職人。
 そう言えば聞こえは良いですが、老いさらばえた陰鬱な表情といい、作業台に向かいすぎて曲がった背中といい、機械いじりばかりしてきたせいですっかり節くれ立ってしまった指先といい、移ろう時の残酷さを象徴するかのような姿に見えました。
 「エ、エイリークさん……」
 クリス嬢はもちろん、その人物を知っておりました。オペラ座ノワールの舞台細工と演出の総監督。『オペラ座の怪人』とも揶揄される古株。そして、テオドラとは同期であり、十代の頃からもう七〇年以上、ともに自分の道を究めようと切磋琢磨してきた盟友。エイリーク翁でありました。
 ジロリ、と、エイリーク翁はクリス嬢を睨みました。その視線のあまりの不気味さにに、さしものクリス嬢も不安を抱き、一歩、後ろに下がりました。それからエイリーク翁はテオドラに視線を移しました。さすがにテオドラはどんなに不気味な視線であろうと動じたりせず、涼風のように受け流しておりました。
 「……本当にやるのか?」
 エイリーク翁は絞り出すようにしてそう言いました。それはまさに『……やっと』という表現がピッタリくる声の出し方でありました。
 テオドラは迷いの欠片もない声で答えました。
 「当たり前でしょう。わたしはこのときのために七〇年以上の時をかけたのよ。そもそも、お前がこんなよけいな性格付けをしなければこんな面倒は起きずにすんだ。責任を取りなさい」
 「……お前はあのときからかわってしまった。おれが唯一愛した人間ではなくなってしまった。だから、おれはかつてのお前を……」
 「よけいなことは言わなくていいの。やるべきことをやりなさい」
 テオドラはエイリーク翁にそう命じました。それはもはや『王が臣下に』というレベルさえ超えて『飼い主が飼い犬に対する』レベルの命令でありました。
 そして、エイリーク翁は『飼い主』の命令に従ったのです。クリス嬢に視線を向けると一歩、近づきました。
 クリス嬢は本能的に身の危険を感じました。顔面を蒼白にして後ろに飛び退きました。ですが、ここは狭い稽古室。すぐに背中が壁にぶつかり、逃げることなどかないません。
 ――エリック!
 クリス嬢は思わず心に叫んでおりました。
 ――助けて、エリック!
 しかし――。
 闇に潜み、クリス嬢を見守る声は、このときはついに現れなかったのです。
 「言っておくけど、あなたの幽霊は出てこられないわよ。このエイリークがいる限りはね」
 そう言い放ったときのテオドラの声の、なんと無慈悲に響き渡ったことでしょう。
 エイリーク翁は一歩、また一歩とクリス嬢に近づきます。そっと、右手を持ち上げました。若い頃から機械いじりばかりしてきたためにすっかり曲がり、節くれ立ってしまった指のなか。そこには小さな箱のような機械があったのでした。
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