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第四話 現実を知る
二二章 それは腐界
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「ハ、ハアハア……」
ハリエットは膝に両手をついた格好で荒い息をついていた。顔色は紙のように真っ白で、両目も口も大きく開かれている。顔中に脂汗が滲み、髪を額に貼り付けている。
ハリエットだけではない。その側にはジェイとアステスがいて、このふたりもまた顔面蒼白で荒い息をついている。ジェイにせよ、アステスにせよ、まだほんの少年の頃から戦場を疾駆し、剣を振るってきた身。
そのふたりにしてこれほどまでに顔色を失うとはいったい、何事があったのか。両目をいっぱいに開き、脂汗を滲ませたその姿はまるで『この世ならざるもの』を見てきたかのよう。そして、それはある意味、正しいことだった。
「……な、なんと言うことでしょう」
やっとのことで息を整えたハリエットがあえぎながらそう言った。
「まさか、下水というものがあんな場所だったなんて……」
現場の苦労を知るために計画した下水掃除。それを体験して地上に、自分たちの世界に戻ってきたところだった。
「……あのひどい匂い。淀んだ空気。積み重なった汚物。その上に群がる無数のウジ虫たち。そして、いたるところを闊歩する猫のように大きな鼠たち。戦場育ちだからひどい環境には慣れているつもりだったが……あれは、戦場よりもひどい」
戦場で剣を振るい、血と肉片のなかで生きてきたジェイでさえ、そう呻いた。
「……たしかに」
と、アステスも愛らしい顔を真っ白にしてあえいだ。
「私も認識を改めました。下水掃除に従事するような人間は努力も鍛錬もしない怠惰な人間。そう思っていましたが……そんなことはどうでもいい。あれは、人間を働かせていい場所でありません。早急に改善する必要があります」
「その通りです」
ハリエットがようやく背筋を伸ばして答えた。
「あんな場所で働かせるなんて人間の尊厳を否定する行為。そればかりではありません。あんなひどい場所の上で生活しているなど……」
「はい。知らないうちはともかく、知ってしまったからにはもういままでのようには暮らせません。いつ、あのひどい空気や害虫の群れが我々の足元に現れるかも知れないと思うと……」
戦場では怖れるものなどなにもないジェイでさえ、その想像には怖気をふるった。思いきり頭を左右に振ってその不吉な考えを追い出さなくてはならなかった。その横ではアステスも同じ想像をしてしまったのだろう。いまにも吐きそうな表情をしている。
「まったくです。下水の実態を知ってしまったからにはもういままでのような暮らしはできません。これは、鬼部との戦いがつづいているからと言って後回しにしていいことではありません。一刻も早く改善策を講じないと。
幸い、ポリエバトルから土木作業の専門形が派遣されてきます。かの人たちに相談して改善策を講じましょう」
「それが適切です」と、アステス。
「私も専門家たちの意見を聞いて考えてみます」
戦士としての働きではなく、組織の運営と装備品の工夫とでジェイを支えてきたアステスである。『下水の改善』という課題が見つかったとなれば、自ら解決したくもなる。
「ですが、今回は良い経験になりました」
キッパリと――。
ハリエットはそう言い切った。その姿からはたしかに『国王』としての威厳が感じられた。
「もし、少しでも下水のことを知っていたら、とても実際に潜る勇気はもてなかったでしょう。なにも知らなかったからこそ潜る気になり、実態を知ることが出来た。社会の底辺に生きる人たちがどれほどの苦労をしてわたしたちの生活を支えてくれているか。それを知ることが出来たのは大きな収穫でした」
「……はい」
と、社会の底辺に生きるものにはなにかと厳しいアステスでさえ、神妙な面持ちでそううなずいた。それほど、下水の実態を知った衝撃は大きかったのだ。
「……そして、もうひとつ。重要な知見を得ることができました。なぜ、社会にとって必要不可欠な仕事をしている人たちが低く見られ、蔑まれるのか。その理由がよくわかりました。
あんな仕事は絶対にしたくない。まして、自分の子供にはさせられない。でも、誰かがやらなければならない仕事。自分の子供にさせられないなら他人の子供にさせるしかない。そのためには、蔑み、差別し、他の仕事には就けない集団を作るのがいちばん、確実。
『誰もやりたくないけど、誰かがやらなければならない仕事』
それがある限り差別はなくならない。そのことを思い知りました」
「……たしかに」と、ジェイ。
「私も自分の子供にあんな仕事はさせられません。そのためなら、どんな差別でも行い、他人の子供にやらせることでしょう」
ジェイのその言葉に――。
アステスも無言のままにうなずいた。言葉にしないだけにその思いはより深いものだったかも知れない。
「この世から差別をなくし、人々の平等を達成するためには『誰もやりたくないけど誰かがやらなければならない仕事』をなくすしかない。そのために……みんなで知恵を絞りましょう」
ほどなくして、地下通路を開設するための人員が集まった。ポリエバトルからは鉱山の仕事に従事する鉱夫たち。オウランからはゴーレムを操る人形使いたち。
ポリエバトルの鉱夫たちをたばねるのはボド・チャグという男だった。がっしりとした体格だが背は低く、手足も短い。鞠のように見える、という点ではレオンハルトの宰相ラッセルと同じだが、ラッセルが空気がパンパンにつまった風船なら、こちらはなかまでぎっしり鉄でうまった鉄球。そう思えるぐらい分厚い筋肉の束が見て取れる。狭い坑道のなかで工具をふるい、穴を掘りつづけるのにまことに適した体と言えるだろう。
レオンハルト王都ユキュノクレストからエンカウンの町まで地下通路をつなげる、と言う計画に関しては事前に説明されていたし、それぞれに試案も重ねていたので話はすぐにすんだ。やることと言ったら簡単な調整ぐらいのものだった。
本題を早々に終わらせたハリエットは、新たなる懸案事項である下水の改善について相談した。例によって、最小限の調度品しかないハリエットの私室でのことだった。
「なるほど。下水の改善ですか」
「はい。あのような劣悪な環境のもとで人を働かせておくわけには行きません。最初は、ゴーレムを使ってなんとか出来ないかと思ったのですが……」
と、ハリエットはオウランからやってきた人形使いの一団を見た。人形使いの長はあっさりと首を横に振った。
「無意味ですな。掃除というのはあれで意外と繊細な作業。そのような作業をゴーレムに行わせるためには人間が近くで監督し、いちいち指示しなくてはなりません。結局、人間も下水に潜らなければならないのですから、人間を下水掃除の仕事から解放することはできません」
そもそも、人形使いの数が限られているのですから、大陸中の下水を掃除してまわるなど不可能ですし。
人形使いの長はそう付け加えた。その言葉にハリエットはうなずいた。
「はい。そう聞きました。ですから、なんとか下水そのものをかえられないかと思い、ご相談しているのですが……」
自信なさそうにそう言うハリエットに対し、鉱夫たちの長であるボド・チャグは答えた。
「そういうことなら心当たりがあります」
「心当たり?」
「はい。わしの知り合いにチノという老人がおります。この男が以前、面白いことを話しておりました」
「面白いこと?」
「はい。なんでも『下水を地下世界の庭園にかえる』とか」
ハリエットは膝に両手をついた格好で荒い息をついていた。顔色は紙のように真っ白で、両目も口も大きく開かれている。顔中に脂汗が滲み、髪を額に貼り付けている。
ハリエットだけではない。その側にはジェイとアステスがいて、このふたりもまた顔面蒼白で荒い息をついている。ジェイにせよ、アステスにせよ、まだほんの少年の頃から戦場を疾駆し、剣を振るってきた身。
そのふたりにしてこれほどまでに顔色を失うとはいったい、何事があったのか。両目をいっぱいに開き、脂汗を滲ませたその姿はまるで『この世ならざるもの』を見てきたかのよう。そして、それはある意味、正しいことだった。
「……な、なんと言うことでしょう」
やっとのことで息を整えたハリエットがあえぎながらそう言った。
「まさか、下水というものがあんな場所だったなんて……」
現場の苦労を知るために計画した下水掃除。それを体験して地上に、自分たちの世界に戻ってきたところだった。
「……あのひどい匂い。淀んだ空気。積み重なった汚物。その上に群がる無数のウジ虫たち。そして、いたるところを闊歩する猫のように大きな鼠たち。戦場育ちだからひどい環境には慣れているつもりだったが……あれは、戦場よりもひどい」
戦場で剣を振るい、血と肉片のなかで生きてきたジェイでさえ、そう呻いた。
「……たしかに」
と、アステスも愛らしい顔を真っ白にしてあえいだ。
「私も認識を改めました。下水掃除に従事するような人間は努力も鍛錬もしない怠惰な人間。そう思っていましたが……そんなことはどうでもいい。あれは、人間を働かせていい場所でありません。早急に改善する必要があります」
「その通りです」
ハリエットがようやく背筋を伸ばして答えた。
「あんな場所で働かせるなんて人間の尊厳を否定する行為。そればかりではありません。あんなひどい場所の上で生活しているなど……」
「はい。知らないうちはともかく、知ってしまったからにはもういままでのようには暮らせません。いつ、あのひどい空気や害虫の群れが我々の足元に現れるかも知れないと思うと……」
戦場では怖れるものなどなにもないジェイでさえ、その想像には怖気をふるった。思いきり頭を左右に振ってその不吉な考えを追い出さなくてはならなかった。その横ではアステスも同じ想像をしてしまったのだろう。いまにも吐きそうな表情をしている。
「まったくです。下水の実態を知ってしまったからにはもういままでのような暮らしはできません。これは、鬼部との戦いがつづいているからと言って後回しにしていいことではありません。一刻も早く改善策を講じないと。
幸い、ポリエバトルから土木作業の専門形が派遣されてきます。かの人たちに相談して改善策を講じましょう」
「それが適切です」と、アステス。
「私も専門家たちの意見を聞いて考えてみます」
戦士としての働きではなく、組織の運営と装備品の工夫とでジェイを支えてきたアステスである。『下水の改善』という課題が見つかったとなれば、自ら解決したくもなる。
「ですが、今回は良い経験になりました」
キッパリと――。
ハリエットはそう言い切った。その姿からはたしかに『国王』としての威厳が感じられた。
「もし、少しでも下水のことを知っていたら、とても実際に潜る勇気はもてなかったでしょう。なにも知らなかったからこそ潜る気になり、実態を知ることが出来た。社会の底辺に生きる人たちがどれほどの苦労をしてわたしたちの生活を支えてくれているか。それを知ることが出来たのは大きな収穫でした」
「……はい」
と、社会の底辺に生きるものにはなにかと厳しいアステスでさえ、神妙な面持ちでそううなずいた。それほど、下水の実態を知った衝撃は大きかったのだ。
「……そして、もうひとつ。重要な知見を得ることができました。なぜ、社会にとって必要不可欠な仕事をしている人たちが低く見られ、蔑まれるのか。その理由がよくわかりました。
あんな仕事は絶対にしたくない。まして、自分の子供にはさせられない。でも、誰かがやらなければならない仕事。自分の子供にさせられないなら他人の子供にさせるしかない。そのためには、蔑み、差別し、他の仕事には就けない集団を作るのがいちばん、確実。
『誰もやりたくないけど、誰かがやらなければならない仕事』
それがある限り差別はなくならない。そのことを思い知りました」
「……たしかに」と、ジェイ。
「私も自分の子供にあんな仕事はさせられません。そのためなら、どんな差別でも行い、他人の子供にやらせることでしょう」
ジェイのその言葉に――。
アステスも無言のままにうなずいた。言葉にしないだけにその思いはより深いものだったかも知れない。
「この世から差別をなくし、人々の平等を達成するためには『誰もやりたくないけど誰かがやらなければならない仕事』をなくすしかない。そのために……みんなで知恵を絞りましょう」
ほどなくして、地下通路を開設するための人員が集まった。ポリエバトルからは鉱山の仕事に従事する鉱夫たち。オウランからはゴーレムを操る人形使いたち。
ポリエバトルの鉱夫たちをたばねるのはボド・チャグという男だった。がっしりとした体格だが背は低く、手足も短い。鞠のように見える、という点ではレオンハルトの宰相ラッセルと同じだが、ラッセルが空気がパンパンにつまった風船なら、こちらはなかまでぎっしり鉄でうまった鉄球。そう思えるぐらい分厚い筋肉の束が見て取れる。狭い坑道のなかで工具をふるい、穴を掘りつづけるのにまことに適した体と言えるだろう。
レオンハルト王都ユキュノクレストからエンカウンの町まで地下通路をつなげる、と言う計画に関しては事前に説明されていたし、それぞれに試案も重ねていたので話はすぐにすんだ。やることと言ったら簡単な調整ぐらいのものだった。
本題を早々に終わらせたハリエットは、新たなる懸案事項である下水の改善について相談した。例によって、最小限の調度品しかないハリエットの私室でのことだった。
「なるほど。下水の改善ですか」
「はい。あのような劣悪な環境のもとで人を働かせておくわけには行きません。最初は、ゴーレムを使ってなんとか出来ないかと思ったのですが……」
と、ハリエットはオウランからやってきた人形使いの一団を見た。人形使いの長はあっさりと首を横に振った。
「無意味ですな。掃除というのはあれで意外と繊細な作業。そのような作業をゴーレムに行わせるためには人間が近くで監督し、いちいち指示しなくてはなりません。結局、人間も下水に潜らなければならないのですから、人間を下水掃除の仕事から解放することはできません」
そもそも、人形使いの数が限られているのですから、大陸中の下水を掃除してまわるなど不可能ですし。
人形使いの長はそう付け加えた。その言葉にハリエットはうなずいた。
「はい。そう聞きました。ですから、なんとか下水そのものをかえられないかと思い、ご相談しているのですが……」
自信なさそうにそう言うハリエットに対し、鉱夫たちの長であるボド・チャグは答えた。
「そういうことなら心当たりがあります」
「心当たり?」
「はい。わしの知り合いにチノという老人がおります。この男が以前、面白いことを話しておりました」
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