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六章 次女とふたりきり
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「オチンチン、ちょん切っちゃうの⁉」
隣近所の迷惑を顧みない希見の絶叫が響いた。
その声の大きさたるや、広めの一軒家である四葉家を文字通りに震わせるほどのものであって、もし、これが壁の薄いアパートででもあったらすべての部屋に声が伝わり、さぞかし気まずい思いをする羽目になったことだろう。広めの家を建ててくれた両親に感謝、である。
「希見お姉ちゃん。小学生の前」
三女の心愛にクールにたしなめられて――。
希見はあわてて口を押さえたが、もう遅い。姉の絶叫はしっかり小学生の末っ子、多幸にも届いていた。しかし、当の多幸は、
「オチンチン、ちょん切る? どういう意味?」
と、まるでピンと来ていない様子。多幸が正真正銘のピュアっ子であって助かった希見であった。
「と、とにかく……!」
と、こちらは自分で言い出したことなのに、姉の露骨すぎる絶叫を聞いて自分の言ったことの意味を思い知ったのだろう。志信が男前の美貌を赤く染め、少々うろたえた様子でつづけた。
「オレには、姉ちゃんと妹たちを守る責任がある! 少しでも危険なやつを近づけるわけにはいかない。この条件を飲まない限り、絶対に同居なんて認めないからな!」
指を突きつけながらのその言葉に――。
「わかった」
育美は静かに答えた。
「わかっちゃうんですか⁉」
またも響く希見の絶叫。心愛はクールな無表情顔にほんのりと面白がっている表情を浮かべ、多幸はやはり、事態がわかっていないのか、ピンときていない表情。
そのなかで育美はきっぱりと答えた。
「希見さん。おれは伊達や酔狂で空飛ぶ部屋を作ろうとしているんじゃない。それは、おれの人生そのものなんだ。そのために必要だと言うなら去勢でもなんでもする」
「山之辺さん……」
「キョセイって、そんなに大変なことなの?」
言葉の意味を知らない小学生に真顔でそう問われて、志信は思わず耳まで真っ赤に染めてそっぽを向いた。かわりに答えたのはクールな三女だった。
「男が女に仕える立場になるってこと」
「ふうん? そんなに悪いことでもないんじゃない?」
と、やはり、よくわかっていない多幸なのだった。
「……よ、よおし、いい覚悟だ」
志信は顔を真っ赤にしたまま、腕組みし、胸を張って見せた。こちらは小学生でもわかる意味での『虚勢』である。
「明日一日、たっぷりテストしてやるからな。少しでも下心を見せたら本気でちょん切ってもらうぞ。いいな」
「わかった」
育美は再び、うなずいた。
かくして、希見、心愛、多幸の三人は急遽、小旅行に出かけることになった。
この手の手続きには慣れているのか、末っ子の多幸がテキパキと各地に連絡をとり、電車や宿を手配し、姉妹の分の荷物もまとめてしまった。その手際の良さは育美をして『こんな嫁がほしい!』と思わせるほどのものだった。
「くれぐれも、くれぐれも気をつけてくださいね! 志信は良い子だけど、ときどき凶暴になることがありますから……」
希見は出発前、そう何度も念を押したものだが、
――無自覚の怪力よりマシ。
と、思われていることに気付かずにすんだのは幸運だったろう。
とにもかくにも希見たちは出発し、四葉家には志信と育美だけが残された。
ジロリ、と、はなはだ非友好的な視線を向ける志信に対し、育美は冷静な態度で言った。
「おれはもう眠ませてもらうよ。痛み止めのせいか、やけに眠いんだ」
という言葉の後半は胸の奥にそっと潜め、布団の敷かれた居間へと引っ込んだ。
そして、翌日。
痛み止めのせいか、朝までグッスリ寝入っていた育美を起こしたもの。それは、味噌汁の香りとリズミカルな包丁の音……などではなく、野性の防衛反応を刺激するやけに焦げ臭い匂いだった。
「な、なんだ……⁉」
育美はその匂いに怪我も忘れて飛び起きた。
匂いの元に駆け込んだ。
「なんだ、この匂いは⁉ 火事か、出火か⁉ どこか、燃えているのか⁉」
育美は叫んだが、そこで見たものは燃えあがる炎……ではなく、キッチンに棒立ちになって『見られた!』という表情を浮かべて硬直しているエプロン姿の志信と、すっかり煮詰まり変色している味噌汁、そして、フライパンのなかで真っ黒に焼け焦げ、異臭を放っている目玉焼き――もと目玉焼き――だった。
「え、ええと……」
事態を察した育美は見てはいけないものを見てしまったことに気がついたが、なにしろ、大声をあげて飛び込んできたのだ。いまさら見て見ぬ振りはできないし、ごまかすこともできない。
「な、なんだよ……! なんで、こんなに早く起き出してきてるんだよ!」
「い、いや、だって、ひどく焦げ臭い匂いがしたから、火事かなって……」
あわてふためいた志信に問い詰められ、ごまかす余裕もないままについつい正直に答えてしまう育美であった。
「……わ、悪かったな! 見ての通り、ただの失敗だよ! ……オレは料理は苦手なんだ。うちでは料理は心愛や多幸の役目だから……」
と、志信は拗ねたような表情になってそっぽを向いてしまう。その頬が真っ赤に染まっている。その姿を見た育美は――。
黙って、キッチンのテーブルに着いた。
「……おい」
「早く食べよう。すぐに仕事なんだろう?」
「そ、そうだけど……」
「気にすることはない。おれだってこの四年間、男三人、女ふたりのシェアハウスで暮らしていたんだ。丸焦げの料理には慣れている」
「う、うん……」
結局、志信もうなずいた。ふたり分の皿を用意して、べちゃべちゃのおかゆ状のご飯と、煮詰まりすぎた味噌汁と、黒焦げになった目玉焼きの朝食をすませた。育美もさすがに『おいしいよ』とまでは言わなかったが――この状況でそんなことを言えば、よけい怒らせることは目に見えているので――とにかく、料理はすべて平らげた。
「それじゃ、工場に向かおう。いろいろと教えてもらわなくちゃいけないことがある」
「あ、ああ……」
ふたりは流しに並んで洗い物をすませたあと、作業着に着替えて工場に向かった。と言っても、育美自身の作業着などないので、父親の作業着を借りたのだが。
四葉家は二階建ての一軒家であり一階部分が工場と事務室。二階が住居となっている。工場でもあるからだろうが敷地面積は一般家庭としてはかなり広く、二階には夫婦の寝室の他、四姉妹それぞれの部屋とダイニングキッチン、それに居間がある。それだけの広さの家を建てられたと言うだけで、亡き両親の腕の良さがわかるというものだ。
育美はさっそく工場内をつぶさに見学した。
町工場としては決してせまくはないが、雑多な工作機械やら材料やらが所狭しと置かれているので、広さは感じない。しかし、雑然とした印象はまったくなく、すべてのものが意味をもって規則正しく配置されている。
雑多な機械類はよく手入れされて汚れひとつないし、器具の類もきちんと収納されている。ドライバーひとつ、放り出されたりはしていない。床にも小さなゴミひとつ落ちていない。
育美はその様子に素直に感心した。
「きれいな工場ですね。どこもよく手入れが行き届いているし、きちんと整頓されている」
「当たり前だろ」
志信が威張っているようにも、怒っているようにも見える態度で腕組みして答えた。
「工場は技術者の城なんだからな。気を使わずにどうする」
その言葉に――。
育美は心からうなずいた。
「それに、規模の割に設備が整っている。これなら、たいていの注文に対応できるでしょうね。主な仕事はなんだったんです?」
「大部分、車の部品製造だな。最近はとくにハイブリッド車の部品の注文が多かった」
「そういう時代ですからね。自然な流れですか」
そう言ってうなずく育美に対し、志信は怪訝そうな視線を向けた。
「なにか?」
「……いや。なんで、お前、いきなり敬語になってるんだよ?」
「あなたはここの責任者ですから。上司であり、先輩です。仕事中は敬語を使うのが当然でしょう」
言われて、志信は急に機嫌を良くした。ふんぞり返って先輩風を吹き散らす。
「ああ、その通りだ。では、上司であり、先輩であるオレが、四葉工場伝統の技を見せてやろう」
「お願いします」
育美は素直にうなずいた。
志信はすぐに工作機械に向かい、部品作りをはじめた。鼻歌などを交えつつ機械を動かすその姿がなんとも楽しそうで、本当に機械いじりが好きなんだなと言うのが伝わってくる。
志信はたちまちのうちに小さな部品をひとつ、完成させた。
「どうだ!」
と、ばかりに育美に手渡す。
育美は渡された部品をじっくりと見つめた。
「いい出来です。実に丁寧な作りだ。部品作りへの真摯な姿勢が伝わってくる一品ですね」
「当たり前だ。親父譲りの技だからな。親父はいつも言ってたもんだ。『たったひとつ、たったひとつの部品が不出来だっただけで、機械は人の命を奪う凶器と化す。どんなにつまらない部品に見えてもおろそかにしてはいけない。魂を込めて作らなければならないぞ』ってな」
「技術者の鑑ですね。立派です」
父親を褒められてさらに気分がよくなったのだろう。志信はますますふんぞり返った。
そんな志信を前に育美はつづけた。
「ですが……」
「なんだ?」
「ちょっと、妙な癖がありますね。ここを直せばもっと良くなる。作ってみてかまいませんか?」
「ああ。かまわない」
上司の許可が出たので、育美は自ら機械を動かしはじめた。その手際の良さは、志信が思わず口笛を吹いたほどだった。
出来上がったのは同じ部品。しかし、さらに精緻な出来だった。
「この通り、癖を直せばより精密に動きますし、耐久性もあがります。ちょっとのちがいですけど、そのちょっとのちがいが機械では大きい差になりますら」
精密な機械になればなるほどね。
育美はそう付け加えた。
「な、なるほど。しかし、お前、いい腕してるな。機械の扱いも堂に入ってたし、大したもんだ」
「これでも、前のチームではチーフ・エンジニアでしたからね。でも、あなたこそ立派ですよ。その歳であれだけの技術を身につけているんですから。大学時代の私ではとても、あなたほどの部品は作れなかった」
「当たり前だろ。オレは小さい頃から親父にたっぷり仕込まれてるんだ。機械いじりの腕では誰にも負けない」
「なるほど。あなたの腕を見れば、師匠であるお父上が一流の技術者であったことはわかります。しかし、だとすると、あんな癖があるのは……もしかしたら、欠陥などではなくて、なにか意味があるのかも知れませんね。その点で説明を受けたことは?」
「……いや、そう言われると、そんな説明を受けたことはないな。オレはまだ基礎的な技術しか教えてもらえなかったしな」
「では、ちょっと調べてみましょうか。お父上の作った部品はありますか?」
「ああ。いくつか残ってる」
ふたりは亡き父親の作った部品を並べ、その品質や癖をチェックした。技術者同士、あれこれと議論を交わす。その議論に熱中するあまり、昼食を食べるのを忘れたほど。一二時をかなり過ぎたところでお互いの腹の虫が大きく鳴いた。それで、ようやく、昼食を食べていなかったことを思い出す。
いまから料理するのも面倒なので近くのコンビニで弁当を買ってくることにした。その際、育美が提案した。
「そうだ。志信さん。夕食はおれが作っていいかな?」
これは、仕事上の話ではないので敬語は使わない。
言われて、志信はムッとした表情になった。
「なんだよ。オレの料理は食えないってのか?」
「い、いや、そう言うことじゃなくて……住み込みの従業員となるからには世話になりっぱなしというわけにはいかないだろう。おれも、なにかしらやらないと」
「良い心がけだな。でも、お前、料理なんてできるのか?」
「簡単なものぐらいならね。シェアハウスでは家事は当番制で、皆で順番にこなしていたから」
「ふうん。それじゃ任す」
志信がそう言ったのは、実は自分でも自分の料理など食べたくなかったからなのだった。
隣近所の迷惑を顧みない希見の絶叫が響いた。
その声の大きさたるや、広めの一軒家である四葉家を文字通りに震わせるほどのものであって、もし、これが壁の薄いアパートででもあったらすべての部屋に声が伝わり、さぞかし気まずい思いをする羽目になったことだろう。広めの家を建ててくれた両親に感謝、である。
「希見お姉ちゃん。小学生の前」
三女の心愛にクールにたしなめられて――。
希見はあわてて口を押さえたが、もう遅い。姉の絶叫はしっかり小学生の末っ子、多幸にも届いていた。しかし、当の多幸は、
「オチンチン、ちょん切る? どういう意味?」
と、まるでピンと来ていない様子。多幸が正真正銘のピュアっ子であって助かった希見であった。
「と、とにかく……!」
と、こちらは自分で言い出したことなのに、姉の露骨すぎる絶叫を聞いて自分の言ったことの意味を思い知ったのだろう。志信が男前の美貌を赤く染め、少々うろたえた様子でつづけた。
「オレには、姉ちゃんと妹たちを守る責任がある! 少しでも危険なやつを近づけるわけにはいかない。この条件を飲まない限り、絶対に同居なんて認めないからな!」
指を突きつけながらのその言葉に――。
「わかった」
育美は静かに答えた。
「わかっちゃうんですか⁉」
またも響く希見の絶叫。心愛はクールな無表情顔にほんのりと面白がっている表情を浮かべ、多幸はやはり、事態がわかっていないのか、ピンときていない表情。
そのなかで育美はきっぱりと答えた。
「希見さん。おれは伊達や酔狂で空飛ぶ部屋を作ろうとしているんじゃない。それは、おれの人生そのものなんだ。そのために必要だと言うなら去勢でもなんでもする」
「山之辺さん……」
「キョセイって、そんなに大変なことなの?」
言葉の意味を知らない小学生に真顔でそう問われて、志信は思わず耳まで真っ赤に染めてそっぽを向いた。かわりに答えたのはクールな三女だった。
「男が女に仕える立場になるってこと」
「ふうん? そんなに悪いことでもないんじゃない?」
と、やはり、よくわかっていない多幸なのだった。
「……よ、よおし、いい覚悟だ」
志信は顔を真っ赤にしたまま、腕組みし、胸を張って見せた。こちらは小学生でもわかる意味での『虚勢』である。
「明日一日、たっぷりテストしてやるからな。少しでも下心を見せたら本気でちょん切ってもらうぞ。いいな」
「わかった」
育美は再び、うなずいた。
かくして、希見、心愛、多幸の三人は急遽、小旅行に出かけることになった。
この手の手続きには慣れているのか、末っ子の多幸がテキパキと各地に連絡をとり、電車や宿を手配し、姉妹の分の荷物もまとめてしまった。その手際の良さは育美をして『こんな嫁がほしい!』と思わせるほどのものだった。
「くれぐれも、くれぐれも気をつけてくださいね! 志信は良い子だけど、ときどき凶暴になることがありますから……」
希見は出発前、そう何度も念を押したものだが、
――無自覚の怪力よりマシ。
と、思われていることに気付かずにすんだのは幸運だったろう。
とにもかくにも希見たちは出発し、四葉家には志信と育美だけが残された。
ジロリ、と、はなはだ非友好的な視線を向ける志信に対し、育美は冷静な態度で言った。
「おれはもう眠ませてもらうよ。痛み止めのせいか、やけに眠いんだ」
という言葉の後半は胸の奥にそっと潜め、布団の敷かれた居間へと引っ込んだ。
そして、翌日。
痛み止めのせいか、朝までグッスリ寝入っていた育美を起こしたもの。それは、味噌汁の香りとリズミカルな包丁の音……などではなく、野性の防衛反応を刺激するやけに焦げ臭い匂いだった。
「な、なんだ……⁉」
育美はその匂いに怪我も忘れて飛び起きた。
匂いの元に駆け込んだ。
「なんだ、この匂いは⁉ 火事か、出火か⁉ どこか、燃えているのか⁉」
育美は叫んだが、そこで見たものは燃えあがる炎……ではなく、キッチンに棒立ちになって『見られた!』という表情を浮かべて硬直しているエプロン姿の志信と、すっかり煮詰まり変色している味噌汁、そして、フライパンのなかで真っ黒に焼け焦げ、異臭を放っている目玉焼き――もと目玉焼き――だった。
「え、ええと……」
事態を察した育美は見てはいけないものを見てしまったことに気がついたが、なにしろ、大声をあげて飛び込んできたのだ。いまさら見て見ぬ振りはできないし、ごまかすこともできない。
「な、なんだよ……! なんで、こんなに早く起き出してきてるんだよ!」
「い、いや、だって、ひどく焦げ臭い匂いがしたから、火事かなって……」
あわてふためいた志信に問い詰められ、ごまかす余裕もないままについつい正直に答えてしまう育美であった。
「……わ、悪かったな! 見ての通り、ただの失敗だよ! ……オレは料理は苦手なんだ。うちでは料理は心愛や多幸の役目だから……」
と、志信は拗ねたような表情になってそっぽを向いてしまう。その頬が真っ赤に染まっている。その姿を見た育美は――。
黙って、キッチンのテーブルに着いた。
「……おい」
「早く食べよう。すぐに仕事なんだろう?」
「そ、そうだけど……」
「気にすることはない。おれだってこの四年間、男三人、女ふたりのシェアハウスで暮らしていたんだ。丸焦げの料理には慣れている」
「う、うん……」
結局、志信もうなずいた。ふたり分の皿を用意して、べちゃべちゃのおかゆ状のご飯と、煮詰まりすぎた味噌汁と、黒焦げになった目玉焼きの朝食をすませた。育美もさすがに『おいしいよ』とまでは言わなかったが――この状況でそんなことを言えば、よけい怒らせることは目に見えているので――とにかく、料理はすべて平らげた。
「それじゃ、工場に向かおう。いろいろと教えてもらわなくちゃいけないことがある」
「あ、ああ……」
ふたりは流しに並んで洗い物をすませたあと、作業着に着替えて工場に向かった。と言っても、育美自身の作業着などないので、父親の作業着を借りたのだが。
四葉家は二階建ての一軒家であり一階部分が工場と事務室。二階が住居となっている。工場でもあるからだろうが敷地面積は一般家庭としてはかなり広く、二階には夫婦の寝室の他、四姉妹それぞれの部屋とダイニングキッチン、それに居間がある。それだけの広さの家を建てられたと言うだけで、亡き両親の腕の良さがわかるというものだ。
育美はさっそく工場内をつぶさに見学した。
町工場としては決してせまくはないが、雑多な工作機械やら材料やらが所狭しと置かれているので、広さは感じない。しかし、雑然とした印象はまったくなく、すべてのものが意味をもって規則正しく配置されている。
雑多な機械類はよく手入れされて汚れひとつないし、器具の類もきちんと収納されている。ドライバーひとつ、放り出されたりはしていない。床にも小さなゴミひとつ落ちていない。
育美はその様子に素直に感心した。
「きれいな工場ですね。どこもよく手入れが行き届いているし、きちんと整頓されている」
「当たり前だろ」
志信が威張っているようにも、怒っているようにも見える態度で腕組みして答えた。
「工場は技術者の城なんだからな。気を使わずにどうする」
その言葉に――。
育美は心からうなずいた。
「それに、規模の割に設備が整っている。これなら、たいていの注文に対応できるでしょうね。主な仕事はなんだったんです?」
「大部分、車の部品製造だな。最近はとくにハイブリッド車の部品の注文が多かった」
「そういう時代ですからね。自然な流れですか」
そう言ってうなずく育美に対し、志信は怪訝そうな視線を向けた。
「なにか?」
「……いや。なんで、お前、いきなり敬語になってるんだよ?」
「あなたはここの責任者ですから。上司であり、先輩です。仕事中は敬語を使うのが当然でしょう」
言われて、志信は急に機嫌を良くした。ふんぞり返って先輩風を吹き散らす。
「ああ、その通りだ。では、上司であり、先輩であるオレが、四葉工場伝統の技を見せてやろう」
「お願いします」
育美は素直にうなずいた。
志信はすぐに工作機械に向かい、部品作りをはじめた。鼻歌などを交えつつ機械を動かすその姿がなんとも楽しそうで、本当に機械いじりが好きなんだなと言うのが伝わってくる。
志信はたちまちのうちに小さな部品をひとつ、完成させた。
「どうだ!」
と、ばかりに育美に手渡す。
育美は渡された部品をじっくりと見つめた。
「いい出来です。実に丁寧な作りだ。部品作りへの真摯な姿勢が伝わってくる一品ですね」
「当たり前だ。親父譲りの技だからな。親父はいつも言ってたもんだ。『たったひとつ、たったひとつの部品が不出来だっただけで、機械は人の命を奪う凶器と化す。どんなにつまらない部品に見えてもおろそかにしてはいけない。魂を込めて作らなければならないぞ』ってな」
「技術者の鑑ですね。立派です」
父親を褒められてさらに気分がよくなったのだろう。志信はますますふんぞり返った。
そんな志信を前に育美はつづけた。
「ですが……」
「なんだ?」
「ちょっと、妙な癖がありますね。ここを直せばもっと良くなる。作ってみてかまいませんか?」
「ああ。かまわない」
上司の許可が出たので、育美は自ら機械を動かしはじめた。その手際の良さは、志信が思わず口笛を吹いたほどだった。
出来上がったのは同じ部品。しかし、さらに精緻な出来だった。
「この通り、癖を直せばより精密に動きますし、耐久性もあがります。ちょっとのちがいですけど、そのちょっとのちがいが機械では大きい差になりますら」
精密な機械になればなるほどね。
育美はそう付け加えた。
「な、なるほど。しかし、お前、いい腕してるな。機械の扱いも堂に入ってたし、大したもんだ」
「これでも、前のチームではチーフ・エンジニアでしたからね。でも、あなたこそ立派ですよ。その歳であれだけの技術を身につけているんですから。大学時代の私ではとても、あなたほどの部品は作れなかった」
「当たり前だろ。オレは小さい頃から親父にたっぷり仕込まれてるんだ。機械いじりの腕では誰にも負けない」
「なるほど。あなたの腕を見れば、師匠であるお父上が一流の技術者であったことはわかります。しかし、だとすると、あんな癖があるのは……もしかしたら、欠陥などではなくて、なにか意味があるのかも知れませんね。その点で説明を受けたことは?」
「……いや、そう言われると、そんな説明を受けたことはないな。オレはまだ基礎的な技術しか教えてもらえなかったしな」
「では、ちょっと調べてみましょうか。お父上の作った部品はありますか?」
「ああ。いくつか残ってる」
ふたりは亡き父親の作った部品を並べ、その品質や癖をチェックした。技術者同士、あれこれと議論を交わす。その議論に熱中するあまり、昼食を食べるのを忘れたほど。一二時をかなり過ぎたところでお互いの腹の虫が大きく鳴いた。それで、ようやく、昼食を食べていなかったことを思い出す。
いまから料理するのも面倒なので近くのコンビニで弁当を買ってくることにした。その際、育美が提案した。
「そうだ。志信さん。夕食はおれが作っていいかな?」
これは、仕事上の話ではないので敬語は使わない。
言われて、志信はムッとした表情になった。
「なんだよ。オレの料理は食えないってのか?」
「い、いや、そう言うことじゃなくて……住み込みの従業員となるからには世話になりっぱなしというわけにはいかないだろう。おれも、なにかしらやらないと」
「良い心がけだな。でも、お前、料理なんてできるのか?」
「簡単なものぐらいならね。シェアハウスでは家事は当番制で、皆で順番にこなしていたから」
「ふうん。それじゃ任す」
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