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二〇章
自分にもできないことがあると知る
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家への帰り道、何やらうつむいて考え込んでいる様子の舞楽に気付いて陽菜が声をかけた。
「どうかした、舞楽?」
「……うん。あの人の言っていること、何かすごいって思った。きっと、あの人は誰かをねたんだり、ひがんだりするなんてないんでしょうね」
「あはは。それは褒めすぎよ。彼だって、売れている画家に対してねたんだり、ひがんだりするなんてしょっちゅうよ」
「そうなの?」
「当たり前よ。人間だもの。でも、ねたんでるだけじゃ人生おもしろくないものね。いまは昔とはちがう。結果ではなく、どこまで自分の運命に挑戦したかで評価してもらえる。先人たちがそんな世界を築いてくれた。だったら、わたしたちはその世界のなかで自分に出来ることを精一杯やる。それが、この世界を築いてくれた先人たちに対する礼儀であり、この世界を託す子供たちに対する教えだから」
舞楽がこの時代にやってきてからしばらくの日が過ぎた。焼け付くようだった夏の日差しは柔らかい秋の日差しにかわり、青々としていたイネも黄金色に熟しはじめた。リンゴの実が色づきはじめ、空を見れば秋のトンボたちが群れをなして舞っている。
舞楽もeFREEガ―デンでの生活にすっかり馴染み、デイリ―メイドぶりが板に付いてきた。体力はある。飲み込みは早いし、物覚えもいい。何より、『不安』とか『心配』といった言葉と無縁の性格。料理や掃除といった家事全般はもともと得意だし、eFREEガ―デンでの生活に慣れる条件はそろっていた。資格がないので売り物の加工はさせてもらえなかったけど、自分たちの食べるパンを焼いたり、あまったミルクでチ―ズやバタ―を作る経験もさせてもらった。これがなかなか楽しい。何より、『自分で作った』と思うと食べるときの感慨もひとしお。これはぜひ、これからもつづけていきたいと思った。
『ひのきガーデン』での舞楽の暮らしは順調だった。充実感もあった。ただひとつ、例外があった。ひなただ。乳牛のひなただけがいまだに舞楽になつこうとはしなかった。
その日の朝も舞楽はひなたを放牧場に連れて行こうとした。ところが、いくらリ―ドを引っ張っても動こうとしない。四肢を踏ん張り、頭を低くして舞楽を睨み付け『絶対、従ったりするもんか』という雰囲気。
出産の時期が迫っていたのでもう乳搾りはしていない。子供に栄養を与えるためとひなた自身の体力回復のために中断している。そのせいかただでさえ神経質な性質はますます過敏になり、舞楽に対してなつくどころかよりいっそう警戒感を抱くようになっていた。ここ数日はとくにその様子がひどくなり、普通に歩けば一〇分かからない場所まで連れて行くのに一時間以上かかるというありさまだった。
「もう! どうしてそんなに抵抗するのよ」
力任せにリ―ドを引っ張りながら舞楽は叫んだ。
「わたしがきらいなのはわかってるけど、毎日のことじゃない。放牧場に行くだけだってことぐらいわかってるでしょう? それとも、油断させておいてひどいことをするつもりだとでも思ってるわけ?」
いくら叫んだところで返事はない。当たり前だけど。あくまで四肢を踏ん張り、『てこでも動かない』といった構え。こうなると舞楽としてもイライラが募る。何しろ、毎朝このやりとりがつづくのだ。もともとが攻撃的な性格。しかも、いつだって我を押し通してきたのだ。『思い通りにならない』という事態にはまったく免疫がない。
「ああもう! いいかげんにしてよ!」
思わず――。
ひなたの頭をぶん殴っていた。
ひなたが激昂した。うなり声を上げ、頭を低く下げ、目には敵意の炎をメラメラさせて、舞楽に突進した。容赦も躊躇もない突進。子供を狙う肉食獣を追い払おうとする『母』の行動だった。
体重四〇〇キロを超える巨体が一四歳の少女めがけて突進したのだ。怖い物知らずの舞楽でさえ一瞬、ヒヤリとした。それでも、とっさに反応して飛び退いて逃れたのは舞楽ならではだった。並の女の子なら、いや、おとなの男でさえこの勢いの前には吹き飛ばされ、踏みつぶされ、痛い目にあっていたことだろう。殺されていたかも知れない。
その光景を見た陽菜の顔が真っ青になった。あわててひなたに飛びついた。首にしがみつくようにして話しかける。
「落ち着いて! 落ち着いて、ひなた! だいじょうぶだから」
全体重をかけて必死にひなたを押しとどめる。その甲斐あってようやくひなたは動きを止めた。とは言え、低くつづくうなり声は、いまだ興奮状態にあることを示していたし、舞楽を睨み付ける敵意に満ちた目もそのままだった。
キッ、と、陽菜は舞楽を睨み付けた。
「なんてことするの⁉ 殴りつけるなんて!」
「だって……」
「『だって』じゃない!」
ぴしゃり、と、陽菜は叫んだ。真っ青になった表情といい、その剣幕といい、eFREE世界においては『生き物を殴る』というのが決して受け入れられない行為なのだと思い知らされた。
だからといって黙っている舞楽ではない。相手が正しかろうが、まちがっていようが、そんなことには関係なく反射的に言い返す性格。あまりにも口答えする生意気な態度に教師がキレて、殴られたこともある。もちろん、そんなことをして後悔する羽目になったのは教師の方。その場で一〇倍にしてやり返し、病院送りにした。格闘技の心得があるわけでもないのに、女性に絡んでいたチンピラふたりをまとめてぶちのめしたこともある天が与えた身体能力。一教師風情が太刀打ちできるはずがない。その教師はそのまま退職。以来、舞楽に注意する教師はひとりもいなくなった……。
「ひなたが悪いんでしょ、いつまでたっても言うこと聞かないから……」
「何言ってるの⁉ あなた、道端の草を食べてきれいにできる? 残り物や生ゴミを食べて肉や乳を生み出せる? ウンチやオシッコを食べて作物を育てる肥料にできる」
「それは……できないけど」
得に『ウンチやオシッコを食べて』というのは絶対、無理。
「でしょう?」
陽菜は息をついた。いまだ興奮状態にあるひなたをなだめながらつづける。
「いい? 他の生き物は人間抜きでも生きていけるけど、人間は他の生き物抜きでは生きていけない。人間が他の生き物を必要としているんであって、その逆ではないの。結局、微生物の力がなければ人間は自分たちの排泄物ひとつ片付けられないんだから。だからこそ、人間は他の生き物が気持ちよく生きていけるように気を配る。環境を整える。その役割の代償として他の生き物が作ってくれた資源を利用させてもらう。愛護ではなく奉仕。支配ではなくマネジメント。それがeFREE世界の在り方。そのアップデートができないならeFREE世界で生きていく資格はないわよ」
陽菜はキッパリとそう言い切った。迷いひとつないその言い方が、その概念がeFREE世界では妥協の余地ひとつない鉄則であることをまざまざと示していた。
舞楽は不満そうに唇をとがらした。厳しく叱られたからと言って、傷ついたり、落ち込んだりするようなタマではない。しかし、不満はもつ。
――ひなたがおとなしくついてくればすむ話じゃない。わたしのせいじゃないでしょ。 「今日はわたしがひなたを連れて行くわ。このままでは本当にケンカになるから。あなたはミルクを運んでチ―ズ作りの準備をしておいて。それから……」
陽菜は口調を強めていった。
「マニュアルを読んでどうすればいいか、改めて調べておくこと。そして、どうしてひなたを殴ったりしたのか、そのことをちゃんと考えること。いいわね?」
陽菜はそう言うとひなたを連れて歩き出した。ひなたは連れて行かれるままに素直に付いていく。舞楽に対する態度と比べると、放牧場に連れて行かれるときと、屠殺場に連れて行かれるときぐらいの差があった。
その姿を見て舞楽はつぶやいた。
「わたしにもそれぐらい簡単に付いてくれば、なにも問題起きないんじゃない」
舞楽は言われたとおりミルクを倉庫に運び、チ―ズ作りの準備をした。もう充分、売り物になるチ―ズを作る自信はあるのだけど、資格をもっていないので売り物の加工に関わることはできない。必要な資格はちょっとした講習を受ければとれるそうなので取得しておこうかと思っている。
陽菜が戻るまでの間、舞楽はLebabを開いて『クマリお世話の心得』と題された部分を読んだ。
「何よりも大切なのはクマリとの間に信頼関係を結ぶこと。自分が主人だと思ったり、相手の生命に敬意を払わなかったり、そんな態度をとっていては決してクマリに信頼されることはない。常にクマリを観察し、生活環境を整え、クマリの幸福向上に心を砕くこと。日々のコミュニケ―ションも欠かせない。毎朝、ブラシをかけ、話しかけ……」
そこまで読んで舞楽はため息をついた。
「やってるじゃない。ちゃんと毎朝、ブラシをかけてるし、話しかけてもいる。なのに、なんでちっとも言うこと聞かないのよ?」
こんなことははじめてだ。いままでいつだって自分を通してきた。文句を言われれば力ずくで押し通る。相手がちょっかいをかけてくる男子であろうが、妬み根性丸出しの女子であろうが、規則を振りかざす教師であろうが、はたまたセクハラ目的のオヤジであろうが、いつだってそうやってきた。ところが、今回ばかりはその手が通用しない。何しろ、相手は分厚い皮膚に覆われた体重四〇〇キロを超える四足獣。殴ろうが、蹴ろうが、ビクともしない。起こらせれば舞楽の方こそ押しつぶされてしまう。
「『信頼関係を結ぶこと』って……信頼ってどうすればできるのよ」
そんなこと、何も知らない。
舞楽は途方に暮れた。これもまた生まれてはじめてのことだった。
「……わたしにも、できないことってあったのね」
思わずそうつぶやいたのだった。
一日の仕事が終わり、夕食の準備に取りかかった。舞楽は手際よく野菜を刻み、茹でたザリガニの殻をむき、魚をさばいた。ひとりで行う作業となればやはり、完璧。その手並みの鮮やかに陽菜があきれるように感心した。
「いつもながら手際いいわね。その歳でそれだけできるなんて。わたしなんて一八でここにきたときは何にもできなくて先輩たちに叱られながら覚えたのに」
――わたしと比べるのがまちがい。
といういつもの答えが返ってくるかな? 陽菜はそう思った。ところが、舞楽はちがうことを口にした。
「うちの母親、家事はなんにもしないから。幼稚園の頃から包丁握っていたもの」
「幼稚園の頃から⁉」
「ええ。おかげですっかり慣れちゃったわ」
「……個性的なお母さんなのね」
「ただのバカよ!」
ダン! と、舞楽は手近にあったキャベツをまな板に叩きつけた。猛烈な勢いで切り刻む。
「まったく! もともとは京都の旧家の出でれっきとしたお嬢さまなのに、一五でわたしを孕んで、中絶するよう迫られたら家出して、相手の男の所に転がり込んで、その男にもあっさり逃げられて、東京に出てきて歳をごまかしてホステス稼業ってなによ、それ⁉ それでいて、いつだって脳天気で、幸せそうで、バカ丸出し! わたしを産んだりしなければお嬢さまのまま、何不自由なく暮らせたのに……」
「そんな言い方ないでしょう。そこまでして産んでくれたんじゃない」
「そんな必要なかったのよ」
「舞楽!」
「一五歳の女の子を孕ませて逃げ出すような男の娘よ。なんの価値があるって言うのよ」
「……舞楽」
キャベツ丸ごと三つを千枚に下ろしてようやく落ち着いたのか、舞楽は一息ついた。いつものク―ルな口調に戻って言った。
「まあ、見た目はすごいんだけどね。全然年取らなくて、いまだに二〇かそこらにしか見えないし、背は高いし、胸なんてロケット砲みたいに突きだしてるし。見た目だけならいつでもハリウッドのトップスタ―になれると思う。わたしが叶わないと思う唯一の相手だしね」
「舞楽……」
陽菜は静かに言った。
「わたしは?」
「はっ?」
「わたしと比べてみてどう?」
舞楽はマジマジと陽菜を見た。そして、きっぱり言った。
「わたしと比べるのがまちがいだと思う」
「……あなた、友だちいる?」
「別にいらない」
「どうかした、舞楽?」
「……うん。あの人の言っていること、何かすごいって思った。きっと、あの人は誰かをねたんだり、ひがんだりするなんてないんでしょうね」
「あはは。それは褒めすぎよ。彼だって、売れている画家に対してねたんだり、ひがんだりするなんてしょっちゅうよ」
「そうなの?」
「当たり前よ。人間だもの。でも、ねたんでるだけじゃ人生おもしろくないものね。いまは昔とはちがう。結果ではなく、どこまで自分の運命に挑戦したかで評価してもらえる。先人たちがそんな世界を築いてくれた。だったら、わたしたちはその世界のなかで自分に出来ることを精一杯やる。それが、この世界を築いてくれた先人たちに対する礼儀であり、この世界を託す子供たちに対する教えだから」
舞楽がこの時代にやってきてからしばらくの日が過ぎた。焼け付くようだった夏の日差しは柔らかい秋の日差しにかわり、青々としていたイネも黄金色に熟しはじめた。リンゴの実が色づきはじめ、空を見れば秋のトンボたちが群れをなして舞っている。
舞楽もeFREEガ―デンでの生活にすっかり馴染み、デイリ―メイドぶりが板に付いてきた。体力はある。飲み込みは早いし、物覚えもいい。何より、『不安』とか『心配』といった言葉と無縁の性格。料理や掃除といった家事全般はもともと得意だし、eFREEガ―デンでの生活に慣れる条件はそろっていた。資格がないので売り物の加工はさせてもらえなかったけど、自分たちの食べるパンを焼いたり、あまったミルクでチ―ズやバタ―を作る経験もさせてもらった。これがなかなか楽しい。何より、『自分で作った』と思うと食べるときの感慨もひとしお。これはぜひ、これからもつづけていきたいと思った。
『ひのきガーデン』での舞楽の暮らしは順調だった。充実感もあった。ただひとつ、例外があった。ひなただ。乳牛のひなただけがいまだに舞楽になつこうとはしなかった。
その日の朝も舞楽はひなたを放牧場に連れて行こうとした。ところが、いくらリ―ドを引っ張っても動こうとしない。四肢を踏ん張り、頭を低くして舞楽を睨み付け『絶対、従ったりするもんか』という雰囲気。
出産の時期が迫っていたのでもう乳搾りはしていない。子供に栄養を与えるためとひなた自身の体力回復のために中断している。そのせいかただでさえ神経質な性質はますます過敏になり、舞楽に対してなつくどころかよりいっそう警戒感を抱くようになっていた。ここ数日はとくにその様子がひどくなり、普通に歩けば一〇分かからない場所まで連れて行くのに一時間以上かかるというありさまだった。
「もう! どうしてそんなに抵抗するのよ」
力任せにリ―ドを引っ張りながら舞楽は叫んだ。
「わたしがきらいなのはわかってるけど、毎日のことじゃない。放牧場に行くだけだってことぐらいわかってるでしょう? それとも、油断させておいてひどいことをするつもりだとでも思ってるわけ?」
いくら叫んだところで返事はない。当たり前だけど。あくまで四肢を踏ん張り、『てこでも動かない』といった構え。こうなると舞楽としてもイライラが募る。何しろ、毎朝このやりとりがつづくのだ。もともとが攻撃的な性格。しかも、いつだって我を押し通してきたのだ。『思い通りにならない』という事態にはまったく免疫がない。
「ああもう! いいかげんにしてよ!」
思わず――。
ひなたの頭をぶん殴っていた。
ひなたが激昂した。うなり声を上げ、頭を低く下げ、目には敵意の炎をメラメラさせて、舞楽に突進した。容赦も躊躇もない突進。子供を狙う肉食獣を追い払おうとする『母』の行動だった。
体重四〇〇キロを超える巨体が一四歳の少女めがけて突進したのだ。怖い物知らずの舞楽でさえ一瞬、ヒヤリとした。それでも、とっさに反応して飛び退いて逃れたのは舞楽ならではだった。並の女の子なら、いや、おとなの男でさえこの勢いの前には吹き飛ばされ、踏みつぶされ、痛い目にあっていたことだろう。殺されていたかも知れない。
その光景を見た陽菜の顔が真っ青になった。あわててひなたに飛びついた。首にしがみつくようにして話しかける。
「落ち着いて! 落ち着いて、ひなた! だいじょうぶだから」
全体重をかけて必死にひなたを押しとどめる。その甲斐あってようやくひなたは動きを止めた。とは言え、低くつづくうなり声は、いまだ興奮状態にあることを示していたし、舞楽を睨み付ける敵意に満ちた目もそのままだった。
キッ、と、陽菜は舞楽を睨み付けた。
「なんてことするの⁉ 殴りつけるなんて!」
「だって……」
「『だって』じゃない!」
ぴしゃり、と、陽菜は叫んだ。真っ青になった表情といい、その剣幕といい、eFREE世界においては『生き物を殴る』というのが決して受け入れられない行為なのだと思い知らされた。
だからといって黙っている舞楽ではない。相手が正しかろうが、まちがっていようが、そんなことには関係なく反射的に言い返す性格。あまりにも口答えする生意気な態度に教師がキレて、殴られたこともある。もちろん、そんなことをして後悔する羽目になったのは教師の方。その場で一〇倍にしてやり返し、病院送りにした。格闘技の心得があるわけでもないのに、女性に絡んでいたチンピラふたりをまとめてぶちのめしたこともある天が与えた身体能力。一教師風情が太刀打ちできるはずがない。その教師はそのまま退職。以来、舞楽に注意する教師はひとりもいなくなった……。
「ひなたが悪いんでしょ、いつまでたっても言うこと聞かないから……」
「何言ってるの⁉ あなた、道端の草を食べてきれいにできる? 残り物や生ゴミを食べて肉や乳を生み出せる? ウンチやオシッコを食べて作物を育てる肥料にできる」
「それは……できないけど」
得に『ウンチやオシッコを食べて』というのは絶対、無理。
「でしょう?」
陽菜は息をついた。いまだ興奮状態にあるひなたをなだめながらつづける。
「いい? 他の生き物は人間抜きでも生きていけるけど、人間は他の生き物抜きでは生きていけない。人間が他の生き物を必要としているんであって、その逆ではないの。結局、微生物の力がなければ人間は自分たちの排泄物ひとつ片付けられないんだから。だからこそ、人間は他の生き物が気持ちよく生きていけるように気を配る。環境を整える。その役割の代償として他の生き物が作ってくれた資源を利用させてもらう。愛護ではなく奉仕。支配ではなくマネジメント。それがeFREE世界の在り方。そのアップデートができないならeFREE世界で生きていく資格はないわよ」
陽菜はキッパリとそう言い切った。迷いひとつないその言い方が、その概念がeFREE世界では妥協の余地ひとつない鉄則であることをまざまざと示していた。
舞楽は不満そうに唇をとがらした。厳しく叱られたからと言って、傷ついたり、落ち込んだりするようなタマではない。しかし、不満はもつ。
――ひなたがおとなしくついてくればすむ話じゃない。わたしのせいじゃないでしょ。 「今日はわたしがひなたを連れて行くわ。このままでは本当にケンカになるから。あなたはミルクを運んでチ―ズ作りの準備をしておいて。それから……」
陽菜は口調を強めていった。
「マニュアルを読んでどうすればいいか、改めて調べておくこと。そして、どうしてひなたを殴ったりしたのか、そのことをちゃんと考えること。いいわね?」
陽菜はそう言うとひなたを連れて歩き出した。ひなたは連れて行かれるままに素直に付いていく。舞楽に対する態度と比べると、放牧場に連れて行かれるときと、屠殺場に連れて行かれるときぐらいの差があった。
その姿を見て舞楽はつぶやいた。
「わたしにもそれぐらい簡単に付いてくれば、なにも問題起きないんじゃない」
舞楽は言われたとおりミルクを倉庫に運び、チ―ズ作りの準備をした。もう充分、売り物になるチ―ズを作る自信はあるのだけど、資格をもっていないので売り物の加工に関わることはできない。必要な資格はちょっとした講習を受ければとれるそうなので取得しておこうかと思っている。
陽菜が戻るまでの間、舞楽はLebabを開いて『クマリお世話の心得』と題された部分を読んだ。
「何よりも大切なのはクマリとの間に信頼関係を結ぶこと。自分が主人だと思ったり、相手の生命に敬意を払わなかったり、そんな態度をとっていては決してクマリに信頼されることはない。常にクマリを観察し、生活環境を整え、クマリの幸福向上に心を砕くこと。日々のコミュニケ―ションも欠かせない。毎朝、ブラシをかけ、話しかけ……」
そこまで読んで舞楽はため息をついた。
「やってるじゃない。ちゃんと毎朝、ブラシをかけてるし、話しかけてもいる。なのに、なんでちっとも言うこと聞かないのよ?」
こんなことははじめてだ。いままでいつだって自分を通してきた。文句を言われれば力ずくで押し通る。相手がちょっかいをかけてくる男子であろうが、妬み根性丸出しの女子であろうが、規則を振りかざす教師であろうが、はたまたセクハラ目的のオヤジであろうが、いつだってそうやってきた。ところが、今回ばかりはその手が通用しない。何しろ、相手は分厚い皮膚に覆われた体重四〇〇キロを超える四足獣。殴ろうが、蹴ろうが、ビクともしない。起こらせれば舞楽の方こそ押しつぶされてしまう。
「『信頼関係を結ぶこと』って……信頼ってどうすればできるのよ」
そんなこと、何も知らない。
舞楽は途方に暮れた。これもまた生まれてはじめてのことだった。
「……わたしにも、できないことってあったのね」
思わずそうつぶやいたのだった。
一日の仕事が終わり、夕食の準備に取りかかった。舞楽は手際よく野菜を刻み、茹でたザリガニの殻をむき、魚をさばいた。ひとりで行う作業となればやはり、完璧。その手並みの鮮やかに陽菜があきれるように感心した。
「いつもながら手際いいわね。その歳でそれだけできるなんて。わたしなんて一八でここにきたときは何にもできなくて先輩たちに叱られながら覚えたのに」
――わたしと比べるのがまちがい。
といういつもの答えが返ってくるかな? 陽菜はそう思った。ところが、舞楽はちがうことを口にした。
「うちの母親、家事はなんにもしないから。幼稚園の頃から包丁握っていたもの」
「幼稚園の頃から⁉」
「ええ。おかげですっかり慣れちゃったわ」
「……個性的なお母さんなのね」
「ただのバカよ!」
ダン! と、舞楽は手近にあったキャベツをまな板に叩きつけた。猛烈な勢いで切り刻む。
「まったく! もともとは京都の旧家の出でれっきとしたお嬢さまなのに、一五でわたしを孕んで、中絶するよう迫られたら家出して、相手の男の所に転がり込んで、その男にもあっさり逃げられて、東京に出てきて歳をごまかしてホステス稼業ってなによ、それ⁉ それでいて、いつだって脳天気で、幸せそうで、バカ丸出し! わたしを産んだりしなければお嬢さまのまま、何不自由なく暮らせたのに……」
「そんな言い方ないでしょう。そこまでして産んでくれたんじゃない」
「そんな必要なかったのよ」
「舞楽!」
「一五歳の女の子を孕ませて逃げ出すような男の娘よ。なんの価値があるって言うのよ」
「……舞楽」
キャベツ丸ごと三つを千枚に下ろしてようやく落ち着いたのか、舞楽は一息ついた。いつものク―ルな口調に戻って言った。
「まあ、見た目はすごいんだけどね。全然年取らなくて、いまだに二〇かそこらにしか見えないし、背は高いし、胸なんてロケット砲みたいに突きだしてるし。見た目だけならいつでもハリウッドのトップスタ―になれると思う。わたしが叶わないと思う唯一の相手だしね」
「舞楽……」
陽菜は静かに言った。
「わたしは?」
「はっ?」
「わたしと比べてみてどう?」
舞楽はマジマジと陽菜を見た。そして、きっぱり言った。
「わたしと比べるのがまちがいだと思う」
「……あなた、友だちいる?」
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