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八章
美しき未来を見る
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紅は自分のスク―タ―に乗り込む。舞楽と陽菜もスク―タ―に乗った。そのときふと、紅のスク―タ―に山積みされたポリバケツのなかから『ガサガサ、ゴソゴソ』という音がした。普通の女の子ならその音を聞いたとたん、全身から血の気が引き、毛という毛が逆立ってしまう。そんな音。ただし、それはあくまでも『普通の女の子』の場合。あいにく木花舞楽は良くも悪くも『普通』ではない。
「中身は虫?」
普通の女の子ならとても怖くて聞けないようなことをはっきり口にする。
「はい、そうです。ビタ―で採集した虫たちですよ」
「こんなにたくさん、どうするの?」
「それは見てのお楽しみです」
と、紅はにこやかに笑って見せた。
紅がスク―タ―を走らせた。舞楽と陽菜もあとにつづく。長くつづく地下通路を通ってやってきたのは自然―杜循環業者の本部。エレベ―タ―を使って直接、本部内に入り、そのままスク―タ―で移動する。建物のなかとは思えないぐらい広々とした通路がつづき、ちょっとした工場のよう。大型のスク―タ―で移動するのが前提の作りのためだろう。
建物の外に出るとそこには天使の姿の飛行船が停まっていた。
「ここからはこの飛行船を使います」
紅が飛行船の前でいったん、スク―タ―を止めて説明する。
「わたし、飛行船に乗るのなんてはじめてだわ」
「そうなんですか? ご安心ください。飛行船はきわめて安全な乗り物です。なにしろ、それ自体に浮力がありますから、事故が起こっても飛行機みたいに一気に墜落したりはしません。徐々に落ちていくだけですから。安全なものです」
「それって『安全』って言うの?」
「もちろんです。多くの死傷者が出るような事故なんて起きた試しはありませんから」
――『死傷者の少ない事故』なら起きてるってことね。
舞楽はそう思ったけど、別に気にはしなかった。例え、落ちる羽目になっても自分なら何とかなるだろう。
三人は飛行船のなかに乗り込んだ。スク―タ―はゴンドラの最下層にある倉庫に置いておき、人間たちはその上のコックピットに向かう。コックピットは全面ガラス張り。しかも、上の方が大きく張り出していて角度が付いているので地上の様子がはっきり見える。
紅が操縦席に座り、パネルを操作した。かすかに、本当にかすかに天使が動いた。その動きがほのかな揺れとなって床下から舞楽に伝わる。
「おおっ」
舞楽の口から思わず声が漏れる。最初はほんのかすかだった揺れが次第に大きくなる。スウッ、という感じで天使が空に舞い上がる。
「おっ、おっ、おっ」
自分の体が音もなく浮き上がる不思議な感覚に舞楽は声を連呼する。はじめての飛行船体験。何となく興奮してしまう。
舞楽は窓辺に立ち、下界を見下ろした。
「うわあっ」
一目見たとたん、舞楽の口から感嘆の声が漏れた。それほどに空から見るはじまりの大地は美しかった。
一面に木が生え、草が茂り、水路が流れ、銀に輝く魚が跳ねて、日の光をキラキラと反射する。草がいっぱいに生えた道を行く人々と動物たち。緑の絨毯の上を光を浴びて移動するその様はまるで動く宝石のよう。
そして、何よりも建物の配置が美しい。緑地を中心に家々が立ち並ぶ住宅地はそれ自体がまるで大きな花のよう。色とりどりの大輪の花がいくつも杜のなかに咲いている。こんな光景は見たこともなかった。
「はじまりの大地では最初から飛行船を主要な輸送機関とすることが決まっていたから……」
陽菜がさり気なく舞楽の両肩に手を乗せ、耳元でやさしく微笑む。
「空から見て美しく見えるよう、都市計画が作られたのよ。緑地と家々が織り成す花は『はじまりの大地の花畑』と呼ばれているわ」
「素敵ね」
舞楽は答えた。どこまでも生活を楽しく、美しいものにしようとするeFREE世界の人々の思いには感心するしかない。
天使は風に乗り、空を行く。杜の周りをグルリとまばらに木の生えた林が囲んでいるのが見えた。あちこちに服らしきものを身につけたイヌもいる。
「杜と外界とを隔てる境界林よ。林のなかには防護服を着込んだ警備犬がはなされていてね。杜の生き物が外の世界に勝手に出ていったり、野性動物が杜に侵入したりするのを防いでいるのよ」
「へえ」
舞楽はそう言ったけど不思議な気もした。
――防護服を着込んだ警備犬? そんなものをはなしておかなければならないほど危険な生き物って日本にいたっけ? アフリカならともかく、日本にはゾウもライオンもいないのに……。
天使はさらに高く舞い上がり、杜の外へと漂っていく。こうして空から見るとこの時代は本当に緑豊かなことがわかる。緑の海のなかにポツンと小さな杜があり、杜と杜を高架式の鉄道がつないでいる。その他の場所はすべて森、あるいは草原、でなければ自然の川や湖。杜の外に一歩出ればそこはもう本当に大自然の真っ只中なのだ。舞楽の時代からはとても考えられない。
もちろん、何もせずにいてある日、目覚めたら自然が勝手に蘇っていた、というのではない。この世界に住む人々が一〇〇年の時をかけて蘇らせてきたのだ。
一〇〇年もあればどんな変化も起こせるということか。それとも、たった一〇〇年でよくぞここまで自然を蘇らせたと言うべきか。いずれにしても、いったい、どうやってこんなことを成し遂げたのか。舞楽はますますこの世界の成り立ちを知りたくなった。
森の上には鳥たちが舞い、天使を囲んで……。
――えっ? 鳥?
舞楽はまわりを見渡した。
いつの間にか――。
空を行く天使は無数の鳥たちに囲まれていた。大きな鳥、小さな鳥、白い鳥、黒い鳥……さまざまな鳥がそれこそ無数にと言っていいほど天使を取り囲み、まわりを飛んでいる。そのギラギラした野性の目がこちらをにらんでいるようで……。
「なに、この鳥の群れ? なんか、いまにも襲ってきそうだけど」
「だいじょうぶ。心配いりませんよ」
答えたのはそれまで黙って操縦に専念していた紅だった。
「食事にありつこうとよってきただけですから」
「食事?」
「さあ、行きましょう」
紅は自動操縦に切り替えると階下の倉庫へと降りていった。陽菜に笑顔で促され、舞楽もそのあとにつづく。紅は倉庫に降りると大きなポリバケツを両手で抱えた。倉庫のドアを開け、ポリバケツの蓋をとり、中身を空にぶちまける。ポリバケツのなかからは大量の糞塊とともに、黒光りするものすごい数の甲虫が飛び出した。それはまさに『無数』といった感じで、花火が爆発するようにポリバケツの中身が炸裂して四方に飛び散ったようだった。
「うわっ」
そのすさまじさに舞楽が思わず声をあげる。
「糞虫ですよ」と、紅。
「糞虫?」
「ビタ―のなかの虫たちは排泄物や草を食べてどんどんふえます。放っておいたら虫だらけになってしまいます。そこで、こうして定期的に虫たちを採集しては森にはなすんです。すると、ほら」
紅は空を指差した。
そこでは野性の饗宴の真っ最中。四方八方に散らばった虫たちを狙って大小さまざまな鳥たちが空を舞い、その嘴で虫たちを捕らえている。
「糞虫たちは鳥たちの食料となります。すべての糞虫が鳥に食べられるわけではなく、地上に降り立つ糞虫もいます。そこでもまたトカゲやカエルといった小動物たちの食料となります。そうしてふえた小動物を食べることでより大型の動物たちも繁栄します。その動物たちは死んで土に返って植物を育てます。積もった落ち葉や枯れ草は無数の微生物が繁殖した最高の土壌改良材です。
僕たちスカラベは糞虫という形で都市の排泄物を自然に返し、森を育て、落ち葉や枯れ草を市街に持ち込むことで、市街の土を豊かにします。だから、自然―杜循環業。
杜の排泄物をただ自然に撒き散らすだけでは環境汚染にしかなりません。そこで、生森遠見は糞虫という仲介者を置くことで杜の排泄物を自然の滋養として送り返すシステムを確立したのです。糞虫、すなわちスカラベ。だから、僕たちもまたその名で呼ばれるのです。『スカラベ』と」
紅は限りない誇りを込めて自らの職業名を口にする。堂々と胸を張ったその姿が、舞楽より小さな体をまるで巨人のように見せていた。
紅の言葉に舞楽はようやく思い出していた。
スカラベ。
それは古代エジプトにおいて、丸く整形した糞の塊を押して歩くことから、太陽を運ぶ神の化身とされた聖なる昆虫のことだった。
紅は次々にポリバケツの中身をぶちまけていく。そのたびに無数の糞虫たちが空に舞い、鳥たちが追い掛ける。糞虫たちは何としても逃げ延び、生き長らえようとし、鳥たちは何がなんでも捕まえ、その生命を自分自身の糧にしようとしている。
何のフィルタ―もかかっていない、生々しい生命の饗宴がそこにはあった。舞楽はまるで憑かれたかのようにその光景に見入っていた。
紅はすべてのポリバケツの中身をぶちまけ、やれやれと額を袖で拭った。
「有史以来……」
ポツリ、と紅は言った。
「有史以来、都市は森を犠牲にすることで繁栄してきました。都市が栄えた場所では必ず森が切り開かれ、破壊され、自然が失われていきました。そして、自然が失われると同時に都市も滅びを迎えたのです。
それは、都市と自然の関わりの宿命のようなものでした。ですが、それはかわったんです。生森遠見と彼に賭けた人々によって永遠にかえられたんです。現代の都市は自然を食い潰す存在ではありません。木々が落ち葉をもたらすことで森を育てるように、排泄物を森に返すことで森を育てる存在。都市という名の樹木。
生森遠見の手によって、都市は自然の破壊者から自然を育む存在へと生まれ変わったのです。それは都市を自然の一器官として含む『新しい自然』の創造。eFREE世界は地球生態系そのものを進化させたのです!」
そのとき、上のコックピットからブザ―の鳴る音がした。三人はコックピットに戻った。紅が操縦席につき、何やらパネルを操作する。振り返り、ニッコリと微笑む。
「見付けました。わりと近くにいますよ」
「そう」
と、陽菜。紅の言葉にうれしそうにうなずく。
舞楽ひとりが事情がわからない。キョトンとして尋ねる。
「なにを見付けたの?」
陽菜は答えなかった。そのかわり、イタズラっぽく微笑んでみせた。そしていきなり――。
舞楽に目隠しをした。
「なに いきなり」
「あはは。ごめんなさい。しばらく辛抱してね。いきなり見て驚いてほしいから」
何がなんだかわからないけど、先輩にそう言われたのでは従う他ない。舞楽は目隠しをされたままおとなしく立ち尽くしていた。
それからどれだけの時間がたったのだろう。ほんの数分のような気もするし、一時間以上のような気もする。目隠しをされていると時間の感覚がまるでわからない。
「さあ、ついたわ。もういいわよ」
陽菜の声がした。たおやかな手がそっと目隠しを外す。舞楽は目をパチクリさせた。目隠しをされていたせいでぼんやりとしていた視界が徐々にはっきりとしてくる。そして、目の前の光景を認識したとき、舞楽は心からの驚きの声をあげた。
「ぞ、ぞぞぞぞゾウ…… 」
まったく、いつもク―ルで物事に動じない舞楽がこんなに驚いたのは生まれてはじめてのことだったかも知れない。それはまさに『泡を食う』という表現がピッタリくるものだった。
そこにいたのはゾウの群れ。森のなかにできた大きな獣道を、赤い夕日を浴びながら何十頭というゾウの群れが行進していた。
それは何と力強く、雄大な光景だったことか。大地を踏みしめる足が、動くごとに揺れる皮膚が、力強く脈打ち、野性の息吹を伝えてくる。特撮でもCGでもない。たしかに目の前で生きた野性のゾウの群れが行進しているのだ。
「なんで日本にゾウが……」
もしかして、いつの間にかアフリカまで連れてこられてしまったのだろうか。いくら何でもそれほどの時間はたっていないはずだけど、いやまって、この時代ならそれぐらいのことはできるのかも……いや、でも、それはやっぱり変だし、でも、実際、目の前にゾウがいて、日本にはゾウはいないわけで……。
「そう。あなたの時代の日本にゾウはいなかった。でも、昔はいたわ」
「えっ?」
「数万年も昔、まだ人間が住み着く前の日本列島には多くのゾウが住んでいた。ケナガマンモスやナウマンゾウ。とくにナウマンゾウは北海道から沖縄まで広く分布していた。有史以前の日本列島はゾウの王国だったのよ」
「……ゾウの王国」
「でも、そのゾウたちも人間に狩り尽くされて滅びた。日本列島だけじゃない。世界中で大型動物たちが人間に狩り尽くされ、滅びていった。残ったのは本来の爪も牙も失った『ミニチュア化した自然』だけ。
ちょうどあなたの時代のことなんだけど、日々、貧弱化していく自然を憂えた生物学者たちがとてつもなく野心的なプロジェクトを立ち上げたの。『人間が訪れる前の自然を復活させよう』と」
「人間が訪れる前の……」
「そう。言ったように、人間の入り込んだ土地ではどこでも大型動物が姿を消し、滅びていった。結果として自然はどんどん貧弱になっていき、荒れ果てていった。
『スライム化』と呼ばれる現象が起きていたの。トラやライオンやオオカミがいなくなり、野良ネコやコヨ―テに取って代わられ、ワシやタカがいなくなり、カラスに取って代わられる。海を見ればサメはいなくなり、小魚がふえ、ついにはクラゲだらけになってしまう。過去の姿を知る人はいなくなり、それが普通の自然なのだと思う人ばかりになってしまう。そして、自然はさらに衰弱していく。その悪循環に歯止めをかけようと、生物学者たちが声をあげはじめたの。
『失われた牙を、爪を、翼を、巨大な生き物たちを自然界に呼び戻そう。それも、どうせなら人間がおとずれる前の雄大な自然を蘇らせようじゃないか。その頃の生き物はすでに滅びていて復活させることはできない。けれど、近縁の動物たちならまだ生き残っている。それらの動物を野にはなし、自然を蘇らせ、再び野性の進化をはじめよう』と。
もちろん、そんな呼び掛けに応える人はいなかった。誰だって自宅の庭にライオンが侵入してくることなんて想像したくもないものね。その計画が実行されるためには人間と自然が完全に住み分けることが絶対に必要だった。そして、eFREE世界がその条件を満たした。
人間は杜に引きこもり、周りに境界林を設けて警備犬をはなし、野性動物の杜への侵入を防ぐ。そんな暮らしが当たり前になってはじめて、野性を蘇らせるための挑戦ができるようになったのよ。世界中で動物園の檻が開かれ、閉じこめられていた動物たちが解放され、野にはなされた。いまの日本列島にはゾウだけじゃない。トラやヒョウも生きて、動いているのよ」
「トラやヒョウも……」
「いま、世界中で『人類以前の野性』を取り戻すための挑戦が行なわれている。結果がどうなるかはまだわからない。自然はジグソ―パズルとはちがう。よそからピ―スを持ち込んで当てはめればそれで完成する、なんていうほど単純なものじゃないものね。
でも、それでも、人類は野性を蘇らせるための挑戦をはじめた。すごいと思わない? 何万年か、何十万年かの後、再び進化をはじめ、さまざまに分化した野性の生き物たちがこの大地を闊歩しているのよ。そして、人類はその光景を宇宙のどこかから見つめている。そんな未来を生み出すための挑戦がいま、はじまっているのよ」
舞楽は目の前の光景に見入っていた。日本とは、いや、地球とは思えない光景だった。どこか別の惑星の上のことだとしか思えない。
この世界は単に一〇〇年の時がたっているだけではない。何もかもが生まれ変わったまったくの別世界なのだ。
紅が操縦席のスイッチを操作した。円筒形の光が立ち上り、そのなかに立体映像が浮かび上がる。白いドレスをまとった美しい女性が自分よりも大きな竪琴をかき鳴らしながら歌っている。
マイラ。
eFREE世界の象徴として活躍した伝説の歌姫。その歌姫の静かな歌声がコックピットのなかに響き渡る。
草は生え 花は咲き 木は茂り 樹木は実を実らせる
蝶が舞い 鳥が飛び 獣たちが走る
生命あふれる森の姿 夢よりも美しい
先人たちの体が土に還り生まれた大地の上
わたしたちは先人の体に包まれているのだと
気付かせてくれたのはあなたでした
流れる生命 紡ぎだすこの美しい世界
この世界こそ楽園なのだと
気付かせてくれたのはあなたでした
やがて死に 土に還り わたしは森になってこの身を分け 子供たちを育む
明るい笑顔 にぎやかな声 幸せな姿
子供たちよいつまでも
「舞楽」
歌姫マイラの歌声に乗るようにして、陽菜が舞楽の肩に優しく手をそえる。
「天国ってどんな世界だかイメ―ジできる?」
「えっ?」
唐突な質問に舞楽は戸惑った。でも、言われてみれば『天国』のイメ―ジというのは思いつかない。せいぜい『光輝く世界』というような漠然としたイメ―ジしか。これが地獄なら血の池とか針の山とか、恐ろしげなイメ―ジがいくらでもわいてくるのに……。
舞楽の表情から内心を読み取ったのだろう。陽菜はコクンとうなずいた。
「生森遠見はこう言ったわ。
『人類はさまざまな地獄をイメ―ジしてきた。だが、天国を明確にイメ―ジできた人間はひとりもいない。それはなぜか。この世界こそ、現実におれたちの生きているこの世界こそ、人間にとってもっともすばらしい世界だからだ』
生森遠見は取り戻そうとしたの。人間が忘れていたもっとも大切な思い、『この世界に生きる喜び』を」
「この世界に生きる喜び……」
「この世界に生まれた喜び。人類に生まれた喜び。他の生き物を殺すことならどんな動物もやる。でも、穴に落ちた野良ネコを助けるために必死になるのは人類だけ。残酷さや好戦性じゃない。その慈愛の心こそ人類の人類たる証し。eFREE世界はその心を育んできた。eFREE世界人は生まれたときから様々な生き物とふれあうことで生命そのものに対する愛情と敬意を育んでいく。そしてついに、人類は自然の破壊者から、自然を守り、育む、地球の管理者へと進化した。それがeFREE世界の奇跡」
「eFREE世界の……奇跡」
「そう。そして、それこそが生森遠見が本当に望んだこと。
人間に生まれたことを喜ぶ世界。
この世に生きて在ることを喜ぶ世界。
人類がせっかくの能力を争いに浪費することなく、その可能性を限界まで引き出せる世界。
それが生森遠見の望んだこと。飢餓や貧困や争いをなくしたのはそのための準備にすぎない。
生森遠見は人類の歴史と可能性を愛していた。『サルからはじめてここまできたんだ。人類にできないことなどあるものか』ってね。
だからこそ、せっかくの能力を無駄使いし、自ら可能性を捨てようとしていた世界を憎んだ。だからこそ、新しい世界を作り上げた。
『環境の破壊者だの、心の闇だの、そんなことばかり言われて誰が人間として正しく生きようとする? いったい、どれだけの人間が悲観主義に押しつぶされ、その可能性を摘まれてきたことか。だが、それも終わりだ。おれが終わらせる。いま! あらゆる技芸、芸術は新たに生まれ変わる! eFREE世界より生まれるあらゆる物語、音楽、演劇、芸術は、人間であることの喜びを思い起こさせ、人間の心から世界を革める!』
人々は彼を嗤ったわ。
『そんなことが簡単に出来るわけがない』ってね。
生森遠見は答えた。
『人類が空を飛べるようになったのは簡単なことだったか? 海に潜れるようになったのは簡単なことだったか? 世界中にダムを建設したのは? 世界中にケ―ブルを張り巡らせたのは? どれかひとつでも簡単なことがあったというのか? そうではない。どれも難しく、大変なことだった。だが、人類はそれを達成してきた。本気になって取り組めばできないことはない』
わたしたちはその精神を受け継いでいる。いまの時代はね。ついに軌道エレベ―タや火星都市の建設が現実のプランとして動きはじめた時代でもある。人類はついに地球生態系の生殖細胞としての役割を果たせるまでになったのよ」
「生殖細胞?」
陽菜は舞楽を見て微笑んだ。これほど力強い笑顔は見たことがない。舞楽がそう思うほど、ふてぶてしいまでの生命力に満ちた笑顔だった。
「そう。生命の本質とは広まること。生命は発生以来、常に自分たちの住みかを広げてきた。海に生まれ、地中深くにもぐり、陸に上がり、空に舞った。だったら、地球生命は宇宙にまで進出したがっている、そう思うのが当然じゃない?
生森遠見は言った。
『エコロジーだと? ふざけるな! より少なく環境を汚し、より少なく他の生き物を犠牲にし、より少なく地球を食い物にする! そんな存在でありつづけることに何の意味がある 人類の存在が他の生き物、地球、さらには宇宙そのものにとっても有益なものとなる。そうでなければ人類に存在価値などない! 作りあげるんだ。人類がその欲望を満たすことが地球と地球生命にとっても利益となる世界、利益の大統一理論を!
そのために宇宙に飛び出す。宇宙への進出は人類にとってはより多くの生息地、より多くの資源、より多くの富をもたらすこととなり、地球生命にとってはどこまでも広まるという生命の本質を叶える結果となり、地球にとっては多すぎる人間という負担から解放される結果となる。この点において人類の欲望と地球生命と地球の欲求は完全に一致する。そのために必要な技術はすでに存在している。あとはその技術をどう使うか、その技術を使った世界をどうデザインするか、それだけの問題だ。やがては地球生命と地球だけではなく、宇宙そのものの利益とも人類の存在を合致させる。人類が宇宙に対するより深い知識と理解を得られたとき、それは完成する。利益の超統一理論がだ!
おれの望む世界。それは、地球上の癌として小さくなって生きる世界でもなければ、聖人君子となって取り澄まして生きる世界でもない。血湧き肉躍る、挑戦に満ちた世界だ!』
生森遠見によってわたしたちは、欲望を満たしながら地球と地球生命にとって『良き存在』となるための道を得た。それこそが、eFREE世界に生まれたわたしたちのやるべきことそして、わたしたちはいずれは完成させる。生森遠見がやり残したこと、利益の超統一理論の完成を」
完成させる。
陽菜の言葉が舞楽の頭のなかでこだまする。
その言葉を心のなかで反芻しながら――。
舞楽は目の前の光景にいつまでも見入っていた。
「中身は虫?」
普通の女の子ならとても怖くて聞けないようなことをはっきり口にする。
「はい、そうです。ビタ―で採集した虫たちですよ」
「こんなにたくさん、どうするの?」
「それは見てのお楽しみです」
と、紅はにこやかに笑って見せた。
紅がスク―タ―を走らせた。舞楽と陽菜もあとにつづく。長くつづく地下通路を通ってやってきたのは自然―杜循環業者の本部。エレベ―タ―を使って直接、本部内に入り、そのままスク―タ―で移動する。建物のなかとは思えないぐらい広々とした通路がつづき、ちょっとした工場のよう。大型のスク―タ―で移動するのが前提の作りのためだろう。
建物の外に出るとそこには天使の姿の飛行船が停まっていた。
「ここからはこの飛行船を使います」
紅が飛行船の前でいったん、スク―タ―を止めて説明する。
「わたし、飛行船に乗るのなんてはじめてだわ」
「そうなんですか? ご安心ください。飛行船はきわめて安全な乗り物です。なにしろ、それ自体に浮力がありますから、事故が起こっても飛行機みたいに一気に墜落したりはしません。徐々に落ちていくだけですから。安全なものです」
「それって『安全』って言うの?」
「もちろんです。多くの死傷者が出るような事故なんて起きた試しはありませんから」
――『死傷者の少ない事故』なら起きてるってことね。
舞楽はそう思ったけど、別に気にはしなかった。例え、落ちる羽目になっても自分なら何とかなるだろう。
三人は飛行船のなかに乗り込んだ。スク―タ―はゴンドラの最下層にある倉庫に置いておき、人間たちはその上のコックピットに向かう。コックピットは全面ガラス張り。しかも、上の方が大きく張り出していて角度が付いているので地上の様子がはっきり見える。
紅が操縦席に座り、パネルを操作した。かすかに、本当にかすかに天使が動いた。その動きがほのかな揺れとなって床下から舞楽に伝わる。
「おおっ」
舞楽の口から思わず声が漏れる。最初はほんのかすかだった揺れが次第に大きくなる。スウッ、という感じで天使が空に舞い上がる。
「おっ、おっ、おっ」
自分の体が音もなく浮き上がる不思議な感覚に舞楽は声を連呼する。はじめての飛行船体験。何となく興奮してしまう。
舞楽は窓辺に立ち、下界を見下ろした。
「うわあっ」
一目見たとたん、舞楽の口から感嘆の声が漏れた。それほどに空から見るはじまりの大地は美しかった。
一面に木が生え、草が茂り、水路が流れ、銀に輝く魚が跳ねて、日の光をキラキラと反射する。草がいっぱいに生えた道を行く人々と動物たち。緑の絨毯の上を光を浴びて移動するその様はまるで動く宝石のよう。
そして、何よりも建物の配置が美しい。緑地を中心に家々が立ち並ぶ住宅地はそれ自体がまるで大きな花のよう。色とりどりの大輪の花がいくつも杜のなかに咲いている。こんな光景は見たこともなかった。
「はじまりの大地では最初から飛行船を主要な輸送機関とすることが決まっていたから……」
陽菜がさり気なく舞楽の両肩に手を乗せ、耳元でやさしく微笑む。
「空から見て美しく見えるよう、都市計画が作られたのよ。緑地と家々が織り成す花は『はじまりの大地の花畑』と呼ばれているわ」
「素敵ね」
舞楽は答えた。どこまでも生活を楽しく、美しいものにしようとするeFREE世界の人々の思いには感心するしかない。
天使は風に乗り、空を行く。杜の周りをグルリとまばらに木の生えた林が囲んでいるのが見えた。あちこちに服らしきものを身につけたイヌもいる。
「杜と外界とを隔てる境界林よ。林のなかには防護服を着込んだ警備犬がはなされていてね。杜の生き物が外の世界に勝手に出ていったり、野性動物が杜に侵入したりするのを防いでいるのよ」
「へえ」
舞楽はそう言ったけど不思議な気もした。
――防護服を着込んだ警備犬? そんなものをはなしておかなければならないほど危険な生き物って日本にいたっけ? アフリカならともかく、日本にはゾウもライオンもいないのに……。
天使はさらに高く舞い上がり、杜の外へと漂っていく。こうして空から見るとこの時代は本当に緑豊かなことがわかる。緑の海のなかにポツンと小さな杜があり、杜と杜を高架式の鉄道がつないでいる。その他の場所はすべて森、あるいは草原、でなければ自然の川や湖。杜の外に一歩出ればそこはもう本当に大自然の真っ只中なのだ。舞楽の時代からはとても考えられない。
もちろん、何もせずにいてある日、目覚めたら自然が勝手に蘇っていた、というのではない。この世界に住む人々が一〇〇年の時をかけて蘇らせてきたのだ。
一〇〇年もあればどんな変化も起こせるということか。それとも、たった一〇〇年でよくぞここまで自然を蘇らせたと言うべきか。いずれにしても、いったい、どうやってこんなことを成し遂げたのか。舞楽はますますこの世界の成り立ちを知りたくなった。
森の上には鳥たちが舞い、天使を囲んで……。
――えっ? 鳥?
舞楽はまわりを見渡した。
いつの間にか――。
空を行く天使は無数の鳥たちに囲まれていた。大きな鳥、小さな鳥、白い鳥、黒い鳥……さまざまな鳥がそれこそ無数にと言っていいほど天使を取り囲み、まわりを飛んでいる。そのギラギラした野性の目がこちらをにらんでいるようで……。
「なに、この鳥の群れ? なんか、いまにも襲ってきそうだけど」
「だいじょうぶ。心配いりませんよ」
答えたのはそれまで黙って操縦に専念していた紅だった。
「食事にありつこうとよってきただけですから」
「食事?」
「さあ、行きましょう」
紅は自動操縦に切り替えると階下の倉庫へと降りていった。陽菜に笑顔で促され、舞楽もそのあとにつづく。紅は倉庫に降りると大きなポリバケツを両手で抱えた。倉庫のドアを開け、ポリバケツの蓋をとり、中身を空にぶちまける。ポリバケツのなかからは大量の糞塊とともに、黒光りするものすごい数の甲虫が飛び出した。それはまさに『無数』といった感じで、花火が爆発するようにポリバケツの中身が炸裂して四方に飛び散ったようだった。
「うわっ」
そのすさまじさに舞楽が思わず声をあげる。
「糞虫ですよ」と、紅。
「糞虫?」
「ビタ―のなかの虫たちは排泄物や草を食べてどんどんふえます。放っておいたら虫だらけになってしまいます。そこで、こうして定期的に虫たちを採集しては森にはなすんです。すると、ほら」
紅は空を指差した。
そこでは野性の饗宴の真っ最中。四方八方に散らばった虫たちを狙って大小さまざまな鳥たちが空を舞い、その嘴で虫たちを捕らえている。
「糞虫たちは鳥たちの食料となります。すべての糞虫が鳥に食べられるわけではなく、地上に降り立つ糞虫もいます。そこでもまたトカゲやカエルといった小動物たちの食料となります。そうしてふえた小動物を食べることでより大型の動物たちも繁栄します。その動物たちは死んで土に返って植物を育てます。積もった落ち葉や枯れ草は無数の微生物が繁殖した最高の土壌改良材です。
僕たちスカラベは糞虫という形で都市の排泄物を自然に返し、森を育て、落ち葉や枯れ草を市街に持ち込むことで、市街の土を豊かにします。だから、自然―杜循環業。
杜の排泄物をただ自然に撒き散らすだけでは環境汚染にしかなりません。そこで、生森遠見は糞虫という仲介者を置くことで杜の排泄物を自然の滋養として送り返すシステムを確立したのです。糞虫、すなわちスカラベ。だから、僕たちもまたその名で呼ばれるのです。『スカラベ』と」
紅は限りない誇りを込めて自らの職業名を口にする。堂々と胸を張ったその姿が、舞楽より小さな体をまるで巨人のように見せていた。
紅の言葉に舞楽はようやく思い出していた。
スカラベ。
それは古代エジプトにおいて、丸く整形した糞の塊を押して歩くことから、太陽を運ぶ神の化身とされた聖なる昆虫のことだった。
紅は次々にポリバケツの中身をぶちまけていく。そのたびに無数の糞虫たちが空に舞い、鳥たちが追い掛ける。糞虫たちは何としても逃げ延び、生き長らえようとし、鳥たちは何がなんでも捕まえ、その生命を自分自身の糧にしようとしている。
何のフィルタ―もかかっていない、生々しい生命の饗宴がそこにはあった。舞楽はまるで憑かれたかのようにその光景に見入っていた。
紅はすべてのポリバケツの中身をぶちまけ、やれやれと額を袖で拭った。
「有史以来……」
ポツリ、と紅は言った。
「有史以来、都市は森を犠牲にすることで繁栄してきました。都市が栄えた場所では必ず森が切り開かれ、破壊され、自然が失われていきました。そして、自然が失われると同時に都市も滅びを迎えたのです。
それは、都市と自然の関わりの宿命のようなものでした。ですが、それはかわったんです。生森遠見と彼に賭けた人々によって永遠にかえられたんです。現代の都市は自然を食い潰す存在ではありません。木々が落ち葉をもたらすことで森を育てるように、排泄物を森に返すことで森を育てる存在。都市という名の樹木。
生森遠見の手によって、都市は自然の破壊者から自然を育む存在へと生まれ変わったのです。それは都市を自然の一器官として含む『新しい自然』の創造。eFREE世界は地球生態系そのものを進化させたのです!」
そのとき、上のコックピットからブザ―の鳴る音がした。三人はコックピットに戻った。紅が操縦席につき、何やらパネルを操作する。振り返り、ニッコリと微笑む。
「見付けました。わりと近くにいますよ」
「そう」
と、陽菜。紅の言葉にうれしそうにうなずく。
舞楽ひとりが事情がわからない。キョトンとして尋ねる。
「なにを見付けたの?」
陽菜は答えなかった。そのかわり、イタズラっぽく微笑んでみせた。そしていきなり――。
舞楽に目隠しをした。
「なに いきなり」
「あはは。ごめんなさい。しばらく辛抱してね。いきなり見て驚いてほしいから」
何がなんだかわからないけど、先輩にそう言われたのでは従う他ない。舞楽は目隠しをされたままおとなしく立ち尽くしていた。
それからどれだけの時間がたったのだろう。ほんの数分のような気もするし、一時間以上のような気もする。目隠しをされていると時間の感覚がまるでわからない。
「さあ、ついたわ。もういいわよ」
陽菜の声がした。たおやかな手がそっと目隠しを外す。舞楽は目をパチクリさせた。目隠しをされていたせいでぼんやりとしていた視界が徐々にはっきりとしてくる。そして、目の前の光景を認識したとき、舞楽は心からの驚きの声をあげた。
「ぞ、ぞぞぞぞゾウ…… 」
まったく、いつもク―ルで物事に動じない舞楽がこんなに驚いたのは生まれてはじめてのことだったかも知れない。それはまさに『泡を食う』という表現がピッタリくるものだった。
そこにいたのはゾウの群れ。森のなかにできた大きな獣道を、赤い夕日を浴びながら何十頭というゾウの群れが行進していた。
それは何と力強く、雄大な光景だったことか。大地を踏みしめる足が、動くごとに揺れる皮膚が、力強く脈打ち、野性の息吹を伝えてくる。特撮でもCGでもない。たしかに目の前で生きた野性のゾウの群れが行進しているのだ。
「なんで日本にゾウが……」
もしかして、いつの間にかアフリカまで連れてこられてしまったのだろうか。いくら何でもそれほどの時間はたっていないはずだけど、いやまって、この時代ならそれぐらいのことはできるのかも……いや、でも、それはやっぱり変だし、でも、実際、目の前にゾウがいて、日本にはゾウはいないわけで……。
「そう。あなたの時代の日本にゾウはいなかった。でも、昔はいたわ」
「えっ?」
「数万年も昔、まだ人間が住み着く前の日本列島には多くのゾウが住んでいた。ケナガマンモスやナウマンゾウ。とくにナウマンゾウは北海道から沖縄まで広く分布していた。有史以前の日本列島はゾウの王国だったのよ」
「……ゾウの王国」
「でも、そのゾウたちも人間に狩り尽くされて滅びた。日本列島だけじゃない。世界中で大型動物たちが人間に狩り尽くされ、滅びていった。残ったのは本来の爪も牙も失った『ミニチュア化した自然』だけ。
ちょうどあなたの時代のことなんだけど、日々、貧弱化していく自然を憂えた生物学者たちがとてつもなく野心的なプロジェクトを立ち上げたの。『人間が訪れる前の自然を復活させよう』と」
「人間が訪れる前の……」
「そう。言ったように、人間の入り込んだ土地ではどこでも大型動物が姿を消し、滅びていった。結果として自然はどんどん貧弱になっていき、荒れ果てていった。
『スライム化』と呼ばれる現象が起きていたの。トラやライオンやオオカミがいなくなり、野良ネコやコヨ―テに取って代わられ、ワシやタカがいなくなり、カラスに取って代わられる。海を見ればサメはいなくなり、小魚がふえ、ついにはクラゲだらけになってしまう。過去の姿を知る人はいなくなり、それが普通の自然なのだと思う人ばかりになってしまう。そして、自然はさらに衰弱していく。その悪循環に歯止めをかけようと、生物学者たちが声をあげはじめたの。
『失われた牙を、爪を、翼を、巨大な生き物たちを自然界に呼び戻そう。それも、どうせなら人間がおとずれる前の雄大な自然を蘇らせようじゃないか。その頃の生き物はすでに滅びていて復活させることはできない。けれど、近縁の動物たちならまだ生き残っている。それらの動物を野にはなし、自然を蘇らせ、再び野性の進化をはじめよう』と。
もちろん、そんな呼び掛けに応える人はいなかった。誰だって自宅の庭にライオンが侵入してくることなんて想像したくもないものね。その計画が実行されるためには人間と自然が完全に住み分けることが絶対に必要だった。そして、eFREE世界がその条件を満たした。
人間は杜に引きこもり、周りに境界林を設けて警備犬をはなし、野性動物の杜への侵入を防ぐ。そんな暮らしが当たり前になってはじめて、野性を蘇らせるための挑戦ができるようになったのよ。世界中で動物園の檻が開かれ、閉じこめられていた動物たちが解放され、野にはなされた。いまの日本列島にはゾウだけじゃない。トラやヒョウも生きて、動いているのよ」
「トラやヒョウも……」
「いま、世界中で『人類以前の野性』を取り戻すための挑戦が行なわれている。結果がどうなるかはまだわからない。自然はジグソ―パズルとはちがう。よそからピ―スを持ち込んで当てはめればそれで完成する、なんていうほど単純なものじゃないものね。
でも、それでも、人類は野性を蘇らせるための挑戦をはじめた。すごいと思わない? 何万年か、何十万年かの後、再び進化をはじめ、さまざまに分化した野性の生き物たちがこの大地を闊歩しているのよ。そして、人類はその光景を宇宙のどこかから見つめている。そんな未来を生み出すための挑戦がいま、はじまっているのよ」
舞楽は目の前の光景に見入っていた。日本とは、いや、地球とは思えない光景だった。どこか別の惑星の上のことだとしか思えない。
この世界は単に一〇〇年の時がたっているだけではない。何もかもが生まれ変わったまったくの別世界なのだ。
紅が操縦席のスイッチを操作した。円筒形の光が立ち上り、そのなかに立体映像が浮かび上がる。白いドレスをまとった美しい女性が自分よりも大きな竪琴をかき鳴らしながら歌っている。
マイラ。
eFREE世界の象徴として活躍した伝説の歌姫。その歌姫の静かな歌声がコックピットのなかに響き渡る。
草は生え 花は咲き 木は茂り 樹木は実を実らせる
蝶が舞い 鳥が飛び 獣たちが走る
生命あふれる森の姿 夢よりも美しい
先人たちの体が土に還り生まれた大地の上
わたしたちは先人の体に包まれているのだと
気付かせてくれたのはあなたでした
流れる生命 紡ぎだすこの美しい世界
この世界こそ楽園なのだと
気付かせてくれたのはあなたでした
やがて死に 土に還り わたしは森になってこの身を分け 子供たちを育む
明るい笑顔 にぎやかな声 幸せな姿
子供たちよいつまでも
「舞楽」
歌姫マイラの歌声に乗るようにして、陽菜が舞楽の肩に優しく手をそえる。
「天国ってどんな世界だかイメ―ジできる?」
「えっ?」
唐突な質問に舞楽は戸惑った。でも、言われてみれば『天国』のイメ―ジというのは思いつかない。せいぜい『光輝く世界』というような漠然としたイメ―ジしか。これが地獄なら血の池とか針の山とか、恐ろしげなイメ―ジがいくらでもわいてくるのに……。
舞楽の表情から内心を読み取ったのだろう。陽菜はコクンとうなずいた。
「生森遠見はこう言ったわ。
『人類はさまざまな地獄をイメ―ジしてきた。だが、天国を明確にイメ―ジできた人間はひとりもいない。それはなぜか。この世界こそ、現実におれたちの生きているこの世界こそ、人間にとってもっともすばらしい世界だからだ』
生森遠見は取り戻そうとしたの。人間が忘れていたもっとも大切な思い、『この世界に生きる喜び』を」
「この世界に生きる喜び……」
「この世界に生まれた喜び。人類に生まれた喜び。他の生き物を殺すことならどんな動物もやる。でも、穴に落ちた野良ネコを助けるために必死になるのは人類だけ。残酷さや好戦性じゃない。その慈愛の心こそ人類の人類たる証し。eFREE世界はその心を育んできた。eFREE世界人は生まれたときから様々な生き物とふれあうことで生命そのものに対する愛情と敬意を育んでいく。そしてついに、人類は自然の破壊者から、自然を守り、育む、地球の管理者へと進化した。それがeFREE世界の奇跡」
「eFREE世界の……奇跡」
「そう。そして、それこそが生森遠見が本当に望んだこと。
人間に生まれたことを喜ぶ世界。
この世に生きて在ることを喜ぶ世界。
人類がせっかくの能力を争いに浪費することなく、その可能性を限界まで引き出せる世界。
それが生森遠見の望んだこと。飢餓や貧困や争いをなくしたのはそのための準備にすぎない。
生森遠見は人類の歴史と可能性を愛していた。『サルからはじめてここまできたんだ。人類にできないことなどあるものか』ってね。
だからこそ、せっかくの能力を無駄使いし、自ら可能性を捨てようとしていた世界を憎んだ。だからこそ、新しい世界を作り上げた。
『環境の破壊者だの、心の闇だの、そんなことばかり言われて誰が人間として正しく生きようとする? いったい、どれだけの人間が悲観主義に押しつぶされ、その可能性を摘まれてきたことか。だが、それも終わりだ。おれが終わらせる。いま! あらゆる技芸、芸術は新たに生まれ変わる! eFREE世界より生まれるあらゆる物語、音楽、演劇、芸術は、人間であることの喜びを思い起こさせ、人間の心から世界を革める!』
人々は彼を嗤ったわ。
『そんなことが簡単に出来るわけがない』ってね。
生森遠見は答えた。
『人類が空を飛べるようになったのは簡単なことだったか? 海に潜れるようになったのは簡単なことだったか? 世界中にダムを建設したのは? 世界中にケ―ブルを張り巡らせたのは? どれかひとつでも簡単なことがあったというのか? そうではない。どれも難しく、大変なことだった。だが、人類はそれを達成してきた。本気になって取り組めばできないことはない』
わたしたちはその精神を受け継いでいる。いまの時代はね。ついに軌道エレベ―タや火星都市の建設が現実のプランとして動きはじめた時代でもある。人類はついに地球生態系の生殖細胞としての役割を果たせるまでになったのよ」
「生殖細胞?」
陽菜は舞楽を見て微笑んだ。これほど力強い笑顔は見たことがない。舞楽がそう思うほど、ふてぶてしいまでの生命力に満ちた笑顔だった。
「そう。生命の本質とは広まること。生命は発生以来、常に自分たちの住みかを広げてきた。海に生まれ、地中深くにもぐり、陸に上がり、空に舞った。だったら、地球生命は宇宙にまで進出したがっている、そう思うのが当然じゃない?
生森遠見は言った。
『エコロジーだと? ふざけるな! より少なく環境を汚し、より少なく他の生き物を犠牲にし、より少なく地球を食い物にする! そんな存在でありつづけることに何の意味がある 人類の存在が他の生き物、地球、さらには宇宙そのものにとっても有益なものとなる。そうでなければ人類に存在価値などない! 作りあげるんだ。人類がその欲望を満たすことが地球と地球生命にとっても利益となる世界、利益の大統一理論を!
そのために宇宙に飛び出す。宇宙への進出は人類にとってはより多くの生息地、より多くの資源、より多くの富をもたらすこととなり、地球生命にとってはどこまでも広まるという生命の本質を叶える結果となり、地球にとっては多すぎる人間という負担から解放される結果となる。この点において人類の欲望と地球生命と地球の欲求は完全に一致する。そのために必要な技術はすでに存在している。あとはその技術をどう使うか、その技術を使った世界をどうデザインするか、それだけの問題だ。やがては地球生命と地球だけではなく、宇宙そのものの利益とも人類の存在を合致させる。人類が宇宙に対するより深い知識と理解を得られたとき、それは完成する。利益の超統一理論がだ!
おれの望む世界。それは、地球上の癌として小さくなって生きる世界でもなければ、聖人君子となって取り澄まして生きる世界でもない。血湧き肉躍る、挑戦に満ちた世界だ!』
生森遠見によってわたしたちは、欲望を満たしながら地球と地球生命にとって『良き存在』となるための道を得た。それこそが、eFREE世界に生まれたわたしたちのやるべきことそして、わたしたちはいずれは完成させる。生森遠見がやり残したこと、利益の超統一理論の完成を」
完成させる。
陽菜の言葉が舞楽の頭のなかでこだまする。
その言葉を心のなかで反芻しながら――。
舞楽は目の前の光景にいつまでも見入っていた。
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