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第二部 絆ぐ伝説
第八話一〇章 時の凍った世界を
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地上におけるありとあらゆるものが溶けあい、混じりあい、ひとつになろうとするそのさなか。時がとまり、凍りついた世界。すべてのものが色を失い、透明な白一色に染めあげられている。
そんな、幻想的とも言える世界のなかを、ロウワンたちはただひたすらに歩いていた。パンゲアの中心、大聖堂ヴァルハラを目指して。
教皇アルヴィルダに会い、なにが起きたのかを確かめる、そのために。
ロウワン、ビーブ、野伏、行者、メリッサ、ハーミド。
異界と化したパンゲア領を行く六人の胸には星の形の飾りがぶらさがっている。もちろん、ただのペンダントなどではない。メリッサたち『もうひとつの輝き』が作りあげた護符。亡道の世界の侵食を防ぎ、この世界の在り方を保つ力を秘めた天命の守りである。
いかに時が凍りつき、すべてが停止しているとは言え、ここはすでに亡道の世界によって半ば以上、侵食されてしまった地。この護符抜きでは長時間、歩きつづけることなど到底、不可能。一日も歩けば大地を踏みしめる靴の裏から徐々に亡道の世界が染み渡り、本人も気付かないうちに亡道の世界と溶けあい、呑み込まれていたはずだ。いや、それ以前に亡道に冒された空気を吸い込むことで意識が失われているかも知れないが。
ともかく、ロウワンたちはそんななかを歩いていく。
歩きつづける。
それ以外に術はない。時の凍りついたこの世界では馬車はもちろん、ウマそれ自体さえも手に入らない。人々が使っていたであろう馬車やウマを見ること自体はめずらしくない。しかし、そのすべてが他のなにかと溶けあい、混じりあい、ひとつになろうとしている醜悪なるオブジェと化していた。決して動くことのない、色を失った透明な結晶だった。
この世界に徒歩以外の移動手段を期待することはできない。かと言って、外の世界からウマを連れてくるわけにも行かない。ウマを連れてくるためには大量の水と穀物が必要になる。この世界でそんなものを確保することはできない。ロウワンたちの分の水と食糧さえ、プリンスが手配してくれた補給隊に届けてもらってやっと、という状態なのだ。ウマの分まで運んでくることはとうてい、現実的ではない。
『もうひとつの輝き』自慢の蒸気機関も同様で、蒸気機関を使った乗り物を作ることはできるが、肝心の蒸気機関を動かすための大量の水と燃料を運んでくることができない。結局、自分の足で歩くしかないのだ。
そして、その歩みは遅々として進まない。普段のかの人たちの歩みに比べて三分の一の速さもない。それはなにも、この異形の世界を歩くことにふてくされて歩が進まない……などというわけではまったくない。
未知の世界を進むには慎重にならざるを得ないからだ。
一歩いっぽ足元を確かめ、周囲に目を配り、気配を探りながら進んでいく。そのために、どうしても時間がかかる。また、そうやって時間をかけないとプリンスが送ってくれる補給隊が追いつけない、という理由もある。そのために、思わず焦れてしまうぐらいゆっくりとしか進めない。
ただでさえ、大聖堂ヴァルハラまでは遠い。普通の状態でも徒歩だけでは一月近くかかる。まして、こんな調子ではどれだけかかることか。だからと言って、
「こんなこと、やってられるか!」
などと叫ぶ愚者はこのなかにはひとりもいない。
このパンゲアの地でなにが起きたのか。どうして、こんなことになったのか。それを知ることの重大さは全員、知っていたし、未知の世界で慎重さを失うことの危険もよく知っていた。だからこそ全員、文句ひとつ言わずに慎重の上にも慎重を重ねながら黙々と歩きつづける。
唯一、救いだったのは、動くものがない分、邪魔も入らないという点だろう。
本来であれば侵入者を詰問すべき立場にある兵士たちも全員、透明な結晶と化してしまっている。おかげで、一切の邪魔されることなく文字通り『無人の野』を行くことができた。
それでも、稀に異形の怪物に襲われることはあった。そのときは野伏が即座に斬り捨て、歩きつづけた。いまも音を立てて太刀が振るわれ、異形の怪物が一体、両断されたところだった。
普段なら、すぐに太刀を鞘に戻すはずの野伏がジッと太刀を見つめている。その様子にロウワンが尋ねた。
「どうかしたのか、野伏?」
「太刀が、やつらを斬ることをきらっている」
「きらっている?」
「ああ。覚えているか、ロウワン? メリッサたち『もうひとつの輝き』の人員を加えて山越えをしているとき、異形の獣の群れに襲われたことがあっただろう」
「ああ。もちろん、覚えている。あのときはビーブが山の鳥獣たちを連れてきてくれたおかげで助かったな」
そう言われて――。
ビーブは『もっと言え』とばかりに得意そうな様子になった。
野伏はつづけた。
「あのときも、この太刀は異形の獣たちの血を吸うことを拒否した。あらゆる血を吸い、自らの力へとかえるこの太刀がだ。それが、今回はさらにひどい。斬ること自体、異形の怪物に自分の身がふれること自体をいやがっている」
「つまり、それだけ亡道の世界の影響が大きいということか」
「そういうことだ。いっそ、これだけ亡道の世界に冒された世界を歩けることが不思議だな」
「メリッサが用意してくれたこの護符のおかげだね」
行者が自分の胸に輝く星形の護符をいじりながら言った。
「この護符がなければたしかにこんなにも長い間、この世界にいつづけることはできないよ。メリッサ様々だね」
「お姫さま扱いされたくて同行しているわけじゃない、と言っているでしょう」と、メリッサ。
「わたしは『もうひとつの輝き』の長としての役割を果たすために同行しているのよ」
そのキッパリした物言いに――。
さしもの行者も肩をすくめたのだった。
――それにしてもよお。
ビーブがつまらなそうに言った。普段はピン! と立っている尻尾も、心なしか力を失っているように見える。
――なにもかもとまっちまってて、退屈ったらないぜ。たまに出てくる怪物もみんな、野伏が斬っちまうしよ。少しはおれにも残しておけよな。
自由の国第一の戦士にして、切り込み隊長。
自らをそう任ずるビーブにとっては、自分の見せ場がないのは気に入らないのだろう。不満たらたらの口調でそうこぼした。
そのぼやきに対して、野伏は答えた。
「なにを言っている。お前の役目はロウワンを守ることだろう。ロウワンが死ねば未来を指し示すものがいなくなる。ロウワンを守ることこそ最重要課題だ。敵を斬るなどというつまらん仕事はおれに任せて、お前はロウワンを守ることに専念しろ」
それが、ロウワンのきょうだい分たるお前の役目だろう。
野伏にそう言われて、ビーブは得意そうに胸を反らして見せた。心なしか元気を失っていたような尻尾がみるみるうちにピン! と天を目指して立ちあがる。
そんなビーブを見て、ロウワンはクスリと笑った。
「頼りにしているよ、ビーブ」
――おう、任せとけ!
ビーブはそう言うと尻尾に握ったカトラス――メリッサ直々に、対亡道の世界用の力を付与された業物――をブンブン振りまわした。
ロウワンたちは時の凍った世界を歩きつづけたがやがて、音をあげたくなってきた。
なにかがあったわけではない。その逆。なにも起こらない。起きようがない。なにもかもがとまり、透明な結晶となった世界をただ黙々と歩きつづける。
そこにはなんの刺激もない。ビーブの言うとおり『退屈極まりない』旅だった。
ロウワンたちはまちがいなく、人の世における勇と知と力の頂点であり、いかなる非常事態にも対処できるだけの能力をもっている。しかし、そんな事態の起こる余地すらない結晶世界のなかをただ黙々と歩きつづける。それは、精神的には相当に難儀なことだった。
「やれやれ。こんなふうになにも起きないなかを歩きつづけるぐらいなら、怪物の群れに襲われつづけた方がマシだね」
行者が頭を振ってそうボヤいた。自慢のかんざし飾りがシャラシャラと音を立てるその小さな仕種さえ、このなにもかもがとまった世界のなかでは、山が動くかのような巨大な動きに思える。そして、ロウワンも――不謹慎にも――行者の言葉にうなずいてしまうぐらい、退屈な旅路だった。
ただ、そのなかでひとりだけ、元気いっぱいなものがいた。
新聞記者のハーミドである。
どう見ても酒を飲んではケンカに明け暮れる肉体労働者、という出で立ちのこの新聞記者は毎日、両手にペンと紙とをもって時のとまった世界を紙面に描き写していた。その目は好奇心にあふれる子どものようにキラキラしている。
「おおお、なんということだ。こんな不可思議な世界に入り込むことができるとは! これは、なんとしても記事にして人々に伝えなくては……!」
そう言いながら目につくものすべてを描こうとする。
「う~む。しかし、これではペンも紙もすぐになくなってしまうな。プリンスどのにペンと紙を届けてくれるよう頼んでおくべきだった」
「補給隊は定期的にやってくる。そのときに頼めばいい」
ロウワンはそう言ったあと、ハーミドをたしなめた。
「それより、ハーミド卿。スケッチしている間、はなれすぎだ。メリッサ師が言っていただろう。おれたちの護符は近づけば近づくほど互いの力を増幅しあって強化される。一つひとつでは決して強くない、と。あまりにはなれると護符の力が弱まり、亡道の世界に呑み込まれかねない。はなれないよう気をつけてくれ」
「おお、そうでしたな! いくら見聞し、スケッチしてみたところで、生還できなければ記事にはできず、人々にこの驚異を知らせることはできない。注意するとしましょう」
ハーミドはそう言って、素直にロウワンたちの側に戻った。もちろん、その間もペンと紙を手に、あたりの風景を描き写すことを忘れない。
その護符の作り手であるメリッサは時折、立ちどまってはあたりから結晶化した世界の一部を手にとり、注意深く持参した容器のなかに収めていく。
その様子を見たロウワンが尋ねた。
「試料の採取ですか、メリッサ師?」
「ええ」と、メリッサは答えた。
「亡道の世界に関する資料はまだまだ少ない。解明のためにも少しでも多くの資料を集めておかないと」
メリッサはそう言いながら、容器に収めた資料をジッと見つめる。
「ほとんどは色を失った透明な結晶のままだけど、稀に色を取り戻しているものもあるわね。そういった部分は明らかに融合が進んでいるわ」
「つまり、色を取り戻すことは時が溶けて、動き出すということ。時が動くことで亡道の世界に呑み込まれていく。そう言うことですか?」
「ええ。その通りよ。襲ってくる怪物たちはとくに早く時が溶けた部分ね。本来ならそのまま融合が進んで完全に亡道の世界に呑みこまれるところだけど、他の部分の時が凍ったままだから、助かっている。呑み込まれることなく独立して動けるのね」
わたしたちにとっては迷惑なことだけど。
メリッサはそう言ったあと、頭を振りながらつづけた。
「いったいどうやったら、こんなにも広範囲の時を凍らせることができるのか見当もつかないけど……さすがに、その効果も切れつつあるみたいね。わずかずつだけど、時の溶けた部分が多くなっている」
「では、急がないと完全に時が溶け、亡道の世界に呑み込まれてしまうということですね」
「それもその通りよ。悔しいけど、わたしたちの作る護符ではまだまだ亡道の世界の影響を完全に遮断することはできない」
くやしそうに唇を噛みしめるメリッサに向かい、ロウワンは慰めるように言った。
「くやしがる必要なんてありませんよ。おれたちがこうしてこの世界を旅できるのは、まちがいなくメリッサ師の作ってくれた護符のおかげなんです。充分なことをしてくれていますよ」
そんなやりとりを見ながらハーミドは小首をかしげた。
「前から思っていたんだが……ロウワン卿はメリッサどのに対しては、やけに丁寧ではないか?」
すると、行者がいつもの、あるかなしかのかすかな微笑を湛えながらイタズラっぽく答えた。
「あなたも男ならわかるだろう? 『年上の女』っていうやつだよ」
「おお、なるほど! それならよくわかる。おれも若い頃は年上の女性に憧れを抱いたものだ」
「おや。あなたもなかなかに恋多き人生を歩んできたようだね。粋だね」
行者はそう言って、片目を閉じて見せた。中身はともかく外見だけなら妖しさを極めた美少年。そんな仕種をするとやたらとなまめかしく感じられる。
「しかし、これは良い。このような怪異に満ちた世界だけではなく、世界を守るために戦う勇者どのの恋路まで取材できるとは。これでこそ、新聞記者になった甲斐があるというものだ」
と、ハーミドはやたらと上機嫌である。
すべの時が凍りついた結晶世界のそのなかでそんなやりとりを重ねながら、ロウワンたちは歩きつづけていた。
大聖堂ヴァルハラを目指して。
教皇アルヴィルダに会うために。
そんな、幻想的とも言える世界のなかを、ロウワンたちはただひたすらに歩いていた。パンゲアの中心、大聖堂ヴァルハラを目指して。
教皇アルヴィルダに会い、なにが起きたのかを確かめる、そのために。
ロウワン、ビーブ、野伏、行者、メリッサ、ハーミド。
異界と化したパンゲア領を行く六人の胸には星の形の飾りがぶらさがっている。もちろん、ただのペンダントなどではない。メリッサたち『もうひとつの輝き』が作りあげた護符。亡道の世界の侵食を防ぎ、この世界の在り方を保つ力を秘めた天命の守りである。
いかに時が凍りつき、すべてが停止しているとは言え、ここはすでに亡道の世界によって半ば以上、侵食されてしまった地。この護符抜きでは長時間、歩きつづけることなど到底、不可能。一日も歩けば大地を踏みしめる靴の裏から徐々に亡道の世界が染み渡り、本人も気付かないうちに亡道の世界と溶けあい、呑み込まれていたはずだ。いや、それ以前に亡道に冒された空気を吸い込むことで意識が失われているかも知れないが。
ともかく、ロウワンたちはそんななかを歩いていく。
歩きつづける。
それ以外に術はない。時の凍りついたこの世界では馬車はもちろん、ウマそれ自体さえも手に入らない。人々が使っていたであろう馬車やウマを見ること自体はめずらしくない。しかし、そのすべてが他のなにかと溶けあい、混じりあい、ひとつになろうとしている醜悪なるオブジェと化していた。決して動くことのない、色を失った透明な結晶だった。
この世界に徒歩以外の移動手段を期待することはできない。かと言って、外の世界からウマを連れてくるわけにも行かない。ウマを連れてくるためには大量の水と穀物が必要になる。この世界でそんなものを確保することはできない。ロウワンたちの分の水と食糧さえ、プリンスが手配してくれた補給隊に届けてもらってやっと、という状態なのだ。ウマの分まで運んでくることはとうてい、現実的ではない。
『もうひとつの輝き』自慢の蒸気機関も同様で、蒸気機関を使った乗り物を作ることはできるが、肝心の蒸気機関を動かすための大量の水と燃料を運んでくることができない。結局、自分の足で歩くしかないのだ。
そして、その歩みは遅々として進まない。普段のかの人たちの歩みに比べて三分の一の速さもない。それはなにも、この異形の世界を歩くことにふてくされて歩が進まない……などというわけではまったくない。
未知の世界を進むには慎重にならざるを得ないからだ。
一歩いっぽ足元を確かめ、周囲に目を配り、気配を探りながら進んでいく。そのために、どうしても時間がかかる。また、そうやって時間をかけないとプリンスが送ってくれる補給隊が追いつけない、という理由もある。そのために、思わず焦れてしまうぐらいゆっくりとしか進めない。
ただでさえ、大聖堂ヴァルハラまでは遠い。普通の状態でも徒歩だけでは一月近くかかる。まして、こんな調子ではどれだけかかることか。だからと言って、
「こんなこと、やってられるか!」
などと叫ぶ愚者はこのなかにはひとりもいない。
このパンゲアの地でなにが起きたのか。どうして、こんなことになったのか。それを知ることの重大さは全員、知っていたし、未知の世界で慎重さを失うことの危険もよく知っていた。だからこそ全員、文句ひとつ言わずに慎重の上にも慎重を重ねながら黙々と歩きつづける。
唯一、救いだったのは、動くものがない分、邪魔も入らないという点だろう。
本来であれば侵入者を詰問すべき立場にある兵士たちも全員、透明な結晶と化してしまっている。おかげで、一切の邪魔されることなく文字通り『無人の野』を行くことができた。
それでも、稀に異形の怪物に襲われることはあった。そのときは野伏が即座に斬り捨て、歩きつづけた。いまも音を立てて太刀が振るわれ、異形の怪物が一体、両断されたところだった。
普段なら、すぐに太刀を鞘に戻すはずの野伏がジッと太刀を見つめている。その様子にロウワンが尋ねた。
「どうかしたのか、野伏?」
「太刀が、やつらを斬ることをきらっている」
「きらっている?」
「ああ。覚えているか、ロウワン? メリッサたち『もうひとつの輝き』の人員を加えて山越えをしているとき、異形の獣の群れに襲われたことがあっただろう」
「ああ。もちろん、覚えている。あのときはビーブが山の鳥獣たちを連れてきてくれたおかげで助かったな」
そう言われて――。
ビーブは『もっと言え』とばかりに得意そうな様子になった。
野伏はつづけた。
「あのときも、この太刀は異形の獣たちの血を吸うことを拒否した。あらゆる血を吸い、自らの力へとかえるこの太刀がだ。それが、今回はさらにひどい。斬ること自体、異形の怪物に自分の身がふれること自体をいやがっている」
「つまり、それだけ亡道の世界の影響が大きいということか」
「そういうことだ。いっそ、これだけ亡道の世界に冒された世界を歩けることが不思議だな」
「メリッサが用意してくれたこの護符のおかげだね」
行者が自分の胸に輝く星形の護符をいじりながら言った。
「この護符がなければたしかにこんなにも長い間、この世界にいつづけることはできないよ。メリッサ様々だね」
「お姫さま扱いされたくて同行しているわけじゃない、と言っているでしょう」と、メリッサ。
「わたしは『もうひとつの輝き』の長としての役割を果たすために同行しているのよ」
そのキッパリした物言いに――。
さしもの行者も肩をすくめたのだった。
――それにしてもよお。
ビーブがつまらなそうに言った。普段はピン! と立っている尻尾も、心なしか力を失っているように見える。
――なにもかもとまっちまってて、退屈ったらないぜ。たまに出てくる怪物もみんな、野伏が斬っちまうしよ。少しはおれにも残しておけよな。
自由の国第一の戦士にして、切り込み隊長。
自らをそう任ずるビーブにとっては、自分の見せ場がないのは気に入らないのだろう。不満たらたらの口調でそうこぼした。
そのぼやきに対して、野伏は答えた。
「なにを言っている。お前の役目はロウワンを守ることだろう。ロウワンが死ねば未来を指し示すものがいなくなる。ロウワンを守ることこそ最重要課題だ。敵を斬るなどというつまらん仕事はおれに任せて、お前はロウワンを守ることに専念しろ」
それが、ロウワンのきょうだい分たるお前の役目だろう。
野伏にそう言われて、ビーブは得意そうに胸を反らして見せた。心なしか元気を失っていたような尻尾がみるみるうちにピン! と天を目指して立ちあがる。
そんなビーブを見て、ロウワンはクスリと笑った。
「頼りにしているよ、ビーブ」
――おう、任せとけ!
ビーブはそう言うと尻尾に握ったカトラス――メリッサ直々に、対亡道の世界用の力を付与された業物――をブンブン振りまわした。
ロウワンたちは時の凍った世界を歩きつづけたがやがて、音をあげたくなってきた。
なにかがあったわけではない。その逆。なにも起こらない。起きようがない。なにもかもがとまり、透明な結晶となった世界をただ黙々と歩きつづける。
そこにはなんの刺激もない。ビーブの言うとおり『退屈極まりない』旅だった。
ロウワンたちはまちがいなく、人の世における勇と知と力の頂点であり、いかなる非常事態にも対処できるだけの能力をもっている。しかし、そんな事態の起こる余地すらない結晶世界のなかをただ黙々と歩きつづける。それは、精神的には相当に難儀なことだった。
「やれやれ。こんなふうになにも起きないなかを歩きつづけるぐらいなら、怪物の群れに襲われつづけた方がマシだね」
行者が頭を振ってそうボヤいた。自慢のかんざし飾りがシャラシャラと音を立てるその小さな仕種さえ、このなにもかもがとまった世界のなかでは、山が動くかのような巨大な動きに思える。そして、ロウワンも――不謹慎にも――行者の言葉にうなずいてしまうぐらい、退屈な旅路だった。
ただ、そのなかでひとりだけ、元気いっぱいなものがいた。
新聞記者のハーミドである。
どう見ても酒を飲んではケンカに明け暮れる肉体労働者、という出で立ちのこの新聞記者は毎日、両手にペンと紙とをもって時のとまった世界を紙面に描き写していた。その目は好奇心にあふれる子どものようにキラキラしている。
「おおお、なんということだ。こんな不可思議な世界に入り込むことができるとは! これは、なんとしても記事にして人々に伝えなくては……!」
そう言いながら目につくものすべてを描こうとする。
「う~む。しかし、これではペンも紙もすぐになくなってしまうな。プリンスどのにペンと紙を届けてくれるよう頼んでおくべきだった」
「補給隊は定期的にやってくる。そのときに頼めばいい」
ロウワンはそう言ったあと、ハーミドをたしなめた。
「それより、ハーミド卿。スケッチしている間、はなれすぎだ。メリッサ師が言っていただろう。おれたちの護符は近づけば近づくほど互いの力を増幅しあって強化される。一つひとつでは決して強くない、と。あまりにはなれると護符の力が弱まり、亡道の世界に呑み込まれかねない。はなれないよう気をつけてくれ」
「おお、そうでしたな! いくら見聞し、スケッチしてみたところで、生還できなければ記事にはできず、人々にこの驚異を知らせることはできない。注意するとしましょう」
ハーミドはそう言って、素直にロウワンたちの側に戻った。もちろん、その間もペンと紙を手に、あたりの風景を描き写すことを忘れない。
その護符の作り手であるメリッサは時折、立ちどまってはあたりから結晶化した世界の一部を手にとり、注意深く持参した容器のなかに収めていく。
その様子を見たロウワンが尋ねた。
「試料の採取ですか、メリッサ師?」
「ええ」と、メリッサは答えた。
「亡道の世界に関する資料はまだまだ少ない。解明のためにも少しでも多くの資料を集めておかないと」
メリッサはそう言いながら、容器に収めた資料をジッと見つめる。
「ほとんどは色を失った透明な結晶のままだけど、稀に色を取り戻しているものもあるわね。そういった部分は明らかに融合が進んでいるわ」
「つまり、色を取り戻すことは時が溶けて、動き出すということ。時が動くことで亡道の世界に呑み込まれていく。そう言うことですか?」
「ええ。その通りよ。襲ってくる怪物たちはとくに早く時が溶けた部分ね。本来ならそのまま融合が進んで完全に亡道の世界に呑みこまれるところだけど、他の部分の時が凍ったままだから、助かっている。呑み込まれることなく独立して動けるのね」
わたしたちにとっては迷惑なことだけど。
メリッサはそう言ったあと、頭を振りながらつづけた。
「いったいどうやったら、こんなにも広範囲の時を凍らせることができるのか見当もつかないけど……さすがに、その効果も切れつつあるみたいね。わずかずつだけど、時の溶けた部分が多くなっている」
「では、急がないと完全に時が溶け、亡道の世界に呑み込まれてしまうということですね」
「それもその通りよ。悔しいけど、わたしたちの作る護符ではまだまだ亡道の世界の影響を完全に遮断することはできない」
くやしそうに唇を噛みしめるメリッサに向かい、ロウワンは慰めるように言った。
「くやしがる必要なんてありませんよ。おれたちがこうしてこの世界を旅できるのは、まちがいなくメリッサ師の作ってくれた護符のおかげなんです。充分なことをしてくれていますよ」
そんなやりとりを見ながらハーミドは小首をかしげた。
「前から思っていたんだが……ロウワン卿はメリッサどのに対しては、やけに丁寧ではないか?」
すると、行者がいつもの、あるかなしかのかすかな微笑を湛えながらイタズラっぽく答えた。
「あなたも男ならわかるだろう? 『年上の女』っていうやつだよ」
「おお、なるほど! それならよくわかる。おれも若い頃は年上の女性に憧れを抱いたものだ」
「おや。あなたもなかなかに恋多き人生を歩んできたようだね。粋だね」
行者はそう言って、片目を閉じて見せた。中身はともかく外見だけなら妖しさを極めた美少年。そんな仕種をするとやたらとなまめかしく感じられる。
「しかし、これは良い。このような怪異に満ちた世界だけではなく、世界を守るために戦う勇者どのの恋路まで取材できるとは。これでこそ、新聞記者になった甲斐があるというものだ」
と、ハーミドはやたらと上機嫌である。
すべの時が凍りついた結晶世界のそのなかでそんなやりとりを重ねながら、ロウワンたちは歩きつづけていた。
大聖堂ヴァルハラを目指して。
教皇アルヴィルダに会うために。
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