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第二部 絆ぐ伝説
第八話七章 旅立ちの前
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「なるほど。報告通りだ。すごい靄だな」
「ああ。しかし、いくらなんでもここまで濃い靄が存在するものか? まるで、ぶちまけられたミルクが空中にとどまっているみたいだ。海での暮らしももう長いが、ここまで濃い靄なんて見たことがないぞ」
ロウワンとプリンス。
いまやともに一国の主となったふたりが立ち並び、目の前の光景に見入っている。
そこにあるものは靄。恐ろしく濃い靄だった。プリンスの言ったとおり、もはや『靄』と言うよりも『ぶちまけられたミルク』といった方がふさわしい。それぐらい、濃い靄だった。
濃密なミルク色、コップですくえばそのまま液体として飲めるのではないかと思うほどに濃い靄が生き物のようにたゆたい、渦を巻き、濃淡の模様を描きながらうつらうつらと姿をかえている。
模様は一時もとどまることなく、見ている目の前で次々とうつろい、姿をかえていく。その様はまるで、濃淡のみで描かれた墨絵を次からつぎへと見せられているようだった。
こうしてジッと見つめていると、常にうつろいつづける不可思議な世界に引き込まれ、魂まで吸い込まれてしまいそうな気になる。
場所は旧ローラシア大公国の北西、パンゲアの侵略から国を守るための最重要拠点であったイスカンダル城塞群の跡地。アドニス回廊をはさんでパンゲア領と接する地域。うつろいつづけるミルク色の靄は、見渡すかぎりどこまでもつづき、パンゲアをすっぽりと包み込んでいる。ほんの半日程度、歩いた先にあるはずのパンゲア側の侵攻拠点、雷霆の長城も靄に包まれ、影も形も見えはしない。
トウナとプリンスの結婚式からおよそ一ヶ月の時が過ぎていた。
〝賢者〟たちによって甚大な被害を受けたローラシアは、まだまだ復興がはじまったばかり。それでも、この一月で、もっともつらい最初の山は越えたところだった。
放置された遺体を回収して服装や持ち物から素姓を確認。生存者を調べあげ、家族が判明すれば引き合わせる。その後、埋葬し、祈りを捧げ、慰霊碑を建てる。瓦礫と化した家屋を撤去し、さら地に戻し、再建の基盤を作る。
それだけの膨大な作業がこの一ヶ月で進められた。旧ローラシア人の復興に懸ける思いもさることながら、ゴンドワナやレムリアが多くの人を送り込んでくれたおかげだった。
そうして、もっともつらい時期が過ぎるとようやく、周囲に目を向ける余裕も生まれた。パンゲアの侵攻に備えるためにイスカンダル城塞群跡地に兵を派遣した。その兵たちからしきりに報告があがってきたのだ。
――パンゲア全体がやたら濃い靄に包まれている、と。
そして、ロウワンたちが確認のためにやってきた、と言うわけだった。
プリンスが目の前の靄を見つめながら、腕組みして言った。
「〝賢者〟たちと戦っている間に、パンゲアもえらいことになったみたいだな」
プリンスの言葉にロウワンもうなずいた。
「パンゲア全土が靄に包まれているなんて正直、信じられない思いだったけどな。完全に正しかったわけだ。パンゲアからの情報がまったく入ってこなくなったのもこの靄が原因というわけか」
自由の国の情報担当であるブージは言ったものである。
――まるっきり、パンゲアからの情報が入らなくなっちまった。まるで、パンゲアそのものがこの世からなくなっちまったみてえにな。
この靄が本当にパンゲア全土を包んでいるのだとしたらなるほど、『パンゲアがこの世から消えた』というのはあながちまちがいとは言えない。
ロウワンとプリンスはジッと佇んだまま、目の前の靄を見つめている。見つめながら、それぞれの思考を進めている。
こうして並んで立っているとやはり、ふたりの体格差ははっきりしている。ロウワンも成長期の男子らしく日々、成長しているとは言えやはり、プリンスと並ぶとまだまだおとなと子ども。身長、体重、肩幅、胸の厚み、すべてにおいてプリンスが上回る。なにより、プリンスにはその黒い肌に支えられた精悍さがある。それこそ、ロウワンにはないものだった。
とは言え、ロウワンはべつに外見で勝負している人間ではないし、プリンスもロウワンの価値は外見や顔付きなどにあるのではないことを知っている。なので、どちらも外見の差異など気にしていないのだが。
プリンスが腕組みしたままロウワンに視線を向けた。尋ねた。
「それで、ロウワン。どうするんだ?」
「なかに入って調べる。それしかないだろう」
「なかに入る? この靄のなかに入っていくって言うのか?」
プリンスは、さすがに驚いて尋ねた。思わず、組んでいた腕をほどいている。
こくり、と、ロウワンはうなずいた。迷いのかけらもない表情と口調で答えた。
「パンゲアでなにが起こっているにせよ、放っておくわけにはいかない。パンゲアの教皇アルヴィルダは、大陸を統一することを絶対の正義と思っていた。そのためならなんでもするだろう。そう。どんなことでも」
「この靄もそのためだと? 教皇アルヴィルダが大陸統一のために仕掛けたことだと言うのか?」
「わからない。だから、それを知りに行く。アルヴィルダの仕業であろうと、あるまいと、これだけのことをできる『なにか』がいるのはまちがいない。その『なにか』の正体は確かめないといけない」
正体とそして、目的を。
ロウワンは強い決意をもってそう付け加えた。
「お前、自ら行くのか?」
「もちろん」
「しかし、お前は自由の国の主催なんだぞ?」
「だからこそだ。その立場にあるからこそおれは、先陣を切って進まないといけない。でなければ誰がついてくる?」
「しかし、危険だ。なにがあるかわからないんだぞ。お前にもしものことがあったら、誰が都市網社会を進めていくんだ?」
「そのためのあなただろう」
「なっ……」
ロウワンの言葉に――。
さしもの剛胆なプリンスも気圧された。驚きの目を見開き、思わず仰け反ってしまった。
そんなプリンスをロウワンは強い意思を込めた瞳で見つめた。
「おれは戦場で戦う。人と人の争う必要のない世界を作る。その目的を叶えるための時間を稼ぐために。あとのことはトウナに託した。もし、おれが死んでも、トウナが都市網社会を進めてくれる。人と人が争う必要のない世界を実現してくれる。そして、プリンス。そのトウナを守るのは、夫であるあなたの役目だ。そうだろう?」
その言葉に――。
プリンスは『コクリ』とうなずいた。
「その通りだ。トウナはおれが守る」
そう宣言したあと、さらに付け加えた。
「おれはこの地に、おれの国を作る。このイスカンダル城塞群の跡地に『平等の国リンカーン』を。お前とともに靄のなかに入ることはできない。そのかわり、おれは世界を守る盾となる。この靄のなかからいかなる脅威が表われようと、この世界に指一本ふれさせはしない。都市網社会はおれに妻を与えてくれた。奴隷の子であるおれにだ。その恩は必ず返す。都市網社会はおれが守る」
プリンスは右の拳を心臓の上に当てて、そう宣言した。それは、限りない誇りと生命によって支えられた誓約。決して破られることのない誓いだった。
プリンスの言葉に今度はロウワンがうなずく番だった。
「任せる」
答えたのはただ、その一言。しかし、それで充分だった。一〇〇万の言を費やすよりも深い思いが、そのたった一言に込められていたのだから。
ふいに、ロウワンの表情がかわった。それまでの、怖いほどに真剣な雰囲気がくずれ、なにやらバツの悪そうな表情になった。なにか口ごもりながら視線をそらした。頬をかすかに赤く染めてうつむいた。
その仕種にプリンスの方が面食らった。不思議そうに尋ねた。
「なんだ? どうしたんだ、いきなり?」
「い、いや、その……」
「なんだ。らしくないじゃないか。言うべきことがあるならはっきり言え」
「だから、その……」
「なんだ?」
プリンスの声に若干の苛立ちが混じった。それに促されたようにロウワンは意を決して尋ねた。
「トウナと結婚して一ヶ月だけど……子作りには励んだのか?」
「なっ……⁉」
プリンスもさすがに絶句した。両目と口とで三つの『○』を作っている。黒い肌のおかげで目立たなかったが、そうでなければ耳まで真っ赤になっているのがはっきりわかるところだった。
――結婚したら一ヶ月の間は、ハチミツ酒を飲んで子作りに励むものでしょう。
結婚式のすぐあと、トウナ自身がそう言っていた。その言葉を思い出してしまったための問いだった。
プリンスはそっぽを向いた。口のなかでモゴモゴ言ったあと、ようやく答えた。
「……まだ、結果はわからない」
――つまり、励むことははげんだわけだな。
いくら朴念仁のロウワンでも『そういう意味』だということはわかる。
ふたりの間にやや気まずい沈黙が流れたあと、
「ロウワン」
と、ふたりともによく知った声がした。反射的に振り向くとそこにはトウナ、メリッサ、セシリアの女性陣三人がいて、こちらに向かって歩いてくるところだった。横にはビーブ、野伏、行者、それに、従軍記者のハーミドも並んでいる。
ロウワンとプリンスがふたりそろって頬を赤らめながらトウナの腹部に視線を向けてしまったのは――やはり少々、問題だったかも知れない。
「? どうかした?」
と、トウナ。ふたりの視線に不思議そうに尋ねた。
「い、いや、なんでもない……」
ロウワンとプリンスはあわてて視線をそらした。トウナは不思議そうに『?』を頭のまわりに浮かべていたが、こういうことにはとにかく察しのいい行者がふたりの内心を見透かし、クスクス笑っている。そのたびに、結いあげた長い髪に挿されたかんざしの飾りがシャラシャラと音を立てる。
「おお」
と、従軍記者のハーミドが目の前を埋め尽くすミルク色の靄を見て感嘆の声をあげた。
「こいつはすごい! たしかに聞いたとおり、こんな濃い靄は見たことがない。こいつは何がなんでも正体を確かめて記事にしないとな。くぅ~、記者魂が燃えるぜ」
ハーミドは拳ダコのできた拳と手のひらを打ちあわせた。靄を見る目が、未知を前にした好奇心旺盛な子どものように輝いている。
その仕種といい、靄を見て舌なめずりする表情といい、どう見ても強敵相手の試合を前にした格闘家。『新聞記者』などという文化的な職業についているとは信じられない物騒な雰囲気だった。
――鳥たちを集めて話を聞いたけどよ。
ビーブがそう切り出した。
――やっぱし、この靄はパンゲア中を覆っているみたいだぜ。どこまで行っても切れ目がない。まるで、ばかでかい丼をひっくり返してパンゲア全土に乗っけたみたいだとよ。
「そ、そうか……」
ロウワンがあわてて答えた理由は……言うまでもない。
「それで、ロウワン」
と、すべてを見透かしている行者がクスクス笑いながら言う。その笑いを向けられることでロウワンもプリンスもなおさら真っ赤になってしまう。
「これから、どうするつもりなんだい?」
「靄のなかに入る」
「この靄のなかに?」
と、トウナ。眉をひそめて聞き返した。
ロウワンはコクリと頷いた。
「なかでなにが起きているのか確かめないといけない。そのためには、靄のなかに入ってみるしかないだろう」
「たしかにな。放っておくわけにはいかないし、外からはなにもわからない。なかに入ってみるしかあるまい」と、野伏。
「たしかに、わたしにもなかのことはまるで感じられないけど……」
メリッサがとまどった様子でミルク色の靄を見つめながら言った。
「だけど、だいじょうぶ? なかがどうなっているかもわからないのに、いきなり入ってみたりして……」
学究の徒として『未知なるもの』の恐ろしさはよく知っているメリッサである。下調べもせずに未知の事態に挑むことには抵抗があるのだろう。表情も口調もいささか不安げである。もっとも、その『下調べ』をするためにも靄のなかに入ってみるしかないわけなのだが。
「まあ、だいじょうぶなんじゃないか?」
メリッサとは対照的に、脳天気なほど気楽に言ってのけたのは行者である。
「世の中、たいていのことはなんとかなるものだからね」
そう言って、靄目指して歩きだす。ロウワンたちがとめる間もなく、その姿は靄のなかに入っていく。
「行者!」
ロウワンは叫んだが、その姿は靄のなかに入ったまま。もはや、影すらも見えず、声が届いているかどうかもわからない。
沈黙がその場を支配し、刻々と時が過ぎていく。
行者は――。
戻ってこない。
――行者。
ロウワンをはじめ、全員が思った。
――心配させて楽しむために、わざと時間をかけているな。
行者が聞いていれば、さすがに苦笑するしかなかっただろう。まったく、その通りであったので。
それでも、とにかく、行者は靄のなかから戻ってきた。その姿はいささかもかわっていない。
「だいじょうぶ。靄のなかでも生きていられる。ただし……」
「ただし?」
「なかに入るなら覚悟が必要だよ」
「ああ。しかし、いくらなんでもここまで濃い靄が存在するものか? まるで、ぶちまけられたミルクが空中にとどまっているみたいだ。海での暮らしももう長いが、ここまで濃い靄なんて見たことがないぞ」
ロウワンとプリンス。
いまやともに一国の主となったふたりが立ち並び、目の前の光景に見入っている。
そこにあるものは靄。恐ろしく濃い靄だった。プリンスの言ったとおり、もはや『靄』と言うよりも『ぶちまけられたミルク』といった方がふさわしい。それぐらい、濃い靄だった。
濃密なミルク色、コップですくえばそのまま液体として飲めるのではないかと思うほどに濃い靄が生き物のようにたゆたい、渦を巻き、濃淡の模様を描きながらうつらうつらと姿をかえている。
模様は一時もとどまることなく、見ている目の前で次々とうつろい、姿をかえていく。その様はまるで、濃淡のみで描かれた墨絵を次からつぎへと見せられているようだった。
こうしてジッと見つめていると、常にうつろいつづける不可思議な世界に引き込まれ、魂まで吸い込まれてしまいそうな気になる。
場所は旧ローラシア大公国の北西、パンゲアの侵略から国を守るための最重要拠点であったイスカンダル城塞群の跡地。アドニス回廊をはさんでパンゲア領と接する地域。うつろいつづけるミルク色の靄は、見渡すかぎりどこまでもつづき、パンゲアをすっぽりと包み込んでいる。ほんの半日程度、歩いた先にあるはずのパンゲア側の侵攻拠点、雷霆の長城も靄に包まれ、影も形も見えはしない。
トウナとプリンスの結婚式からおよそ一ヶ月の時が過ぎていた。
〝賢者〟たちによって甚大な被害を受けたローラシアは、まだまだ復興がはじまったばかり。それでも、この一月で、もっともつらい最初の山は越えたところだった。
放置された遺体を回収して服装や持ち物から素姓を確認。生存者を調べあげ、家族が判明すれば引き合わせる。その後、埋葬し、祈りを捧げ、慰霊碑を建てる。瓦礫と化した家屋を撤去し、さら地に戻し、再建の基盤を作る。
それだけの膨大な作業がこの一ヶ月で進められた。旧ローラシア人の復興に懸ける思いもさることながら、ゴンドワナやレムリアが多くの人を送り込んでくれたおかげだった。
そうして、もっともつらい時期が過ぎるとようやく、周囲に目を向ける余裕も生まれた。パンゲアの侵攻に備えるためにイスカンダル城塞群跡地に兵を派遣した。その兵たちからしきりに報告があがってきたのだ。
――パンゲア全体がやたら濃い靄に包まれている、と。
そして、ロウワンたちが確認のためにやってきた、と言うわけだった。
プリンスが目の前の靄を見つめながら、腕組みして言った。
「〝賢者〟たちと戦っている間に、パンゲアもえらいことになったみたいだな」
プリンスの言葉にロウワンもうなずいた。
「パンゲア全土が靄に包まれているなんて正直、信じられない思いだったけどな。完全に正しかったわけだ。パンゲアからの情報がまったく入ってこなくなったのもこの靄が原因というわけか」
自由の国の情報担当であるブージは言ったものである。
――まるっきり、パンゲアからの情報が入らなくなっちまった。まるで、パンゲアそのものがこの世からなくなっちまったみてえにな。
この靄が本当にパンゲア全土を包んでいるのだとしたらなるほど、『パンゲアがこの世から消えた』というのはあながちまちがいとは言えない。
ロウワンとプリンスはジッと佇んだまま、目の前の靄を見つめている。見つめながら、それぞれの思考を進めている。
こうして並んで立っているとやはり、ふたりの体格差ははっきりしている。ロウワンも成長期の男子らしく日々、成長しているとは言えやはり、プリンスと並ぶとまだまだおとなと子ども。身長、体重、肩幅、胸の厚み、すべてにおいてプリンスが上回る。なにより、プリンスにはその黒い肌に支えられた精悍さがある。それこそ、ロウワンにはないものだった。
とは言え、ロウワンはべつに外見で勝負している人間ではないし、プリンスもロウワンの価値は外見や顔付きなどにあるのではないことを知っている。なので、どちらも外見の差異など気にしていないのだが。
プリンスが腕組みしたままロウワンに視線を向けた。尋ねた。
「それで、ロウワン。どうするんだ?」
「なかに入って調べる。それしかないだろう」
「なかに入る? この靄のなかに入っていくって言うのか?」
プリンスは、さすがに驚いて尋ねた。思わず、組んでいた腕をほどいている。
こくり、と、ロウワンはうなずいた。迷いのかけらもない表情と口調で答えた。
「パンゲアでなにが起こっているにせよ、放っておくわけにはいかない。パンゲアの教皇アルヴィルダは、大陸を統一することを絶対の正義と思っていた。そのためならなんでもするだろう。そう。どんなことでも」
「この靄もそのためだと? 教皇アルヴィルダが大陸統一のために仕掛けたことだと言うのか?」
「わからない。だから、それを知りに行く。アルヴィルダの仕業であろうと、あるまいと、これだけのことをできる『なにか』がいるのはまちがいない。その『なにか』の正体は確かめないといけない」
正体とそして、目的を。
ロウワンは強い決意をもってそう付け加えた。
「お前、自ら行くのか?」
「もちろん」
「しかし、お前は自由の国の主催なんだぞ?」
「だからこそだ。その立場にあるからこそおれは、先陣を切って進まないといけない。でなければ誰がついてくる?」
「しかし、危険だ。なにがあるかわからないんだぞ。お前にもしものことがあったら、誰が都市網社会を進めていくんだ?」
「そのためのあなただろう」
「なっ……」
ロウワンの言葉に――。
さしもの剛胆なプリンスも気圧された。驚きの目を見開き、思わず仰け反ってしまった。
そんなプリンスをロウワンは強い意思を込めた瞳で見つめた。
「おれは戦場で戦う。人と人の争う必要のない世界を作る。その目的を叶えるための時間を稼ぐために。あとのことはトウナに託した。もし、おれが死んでも、トウナが都市網社会を進めてくれる。人と人が争う必要のない世界を実現してくれる。そして、プリンス。そのトウナを守るのは、夫であるあなたの役目だ。そうだろう?」
その言葉に――。
プリンスは『コクリ』とうなずいた。
「その通りだ。トウナはおれが守る」
そう宣言したあと、さらに付け加えた。
「おれはこの地に、おれの国を作る。このイスカンダル城塞群の跡地に『平等の国リンカーン』を。お前とともに靄のなかに入ることはできない。そのかわり、おれは世界を守る盾となる。この靄のなかからいかなる脅威が表われようと、この世界に指一本ふれさせはしない。都市網社会はおれに妻を与えてくれた。奴隷の子であるおれにだ。その恩は必ず返す。都市網社会はおれが守る」
プリンスは右の拳を心臓の上に当てて、そう宣言した。それは、限りない誇りと生命によって支えられた誓約。決して破られることのない誓いだった。
プリンスの言葉に今度はロウワンがうなずく番だった。
「任せる」
答えたのはただ、その一言。しかし、それで充分だった。一〇〇万の言を費やすよりも深い思いが、そのたった一言に込められていたのだから。
ふいに、ロウワンの表情がかわった。それまでの、怖いほどに真剣な雰囲気がくずれ、なにやらバツの悪そうな表情になった。なにか口ごもりながら視線をそらした。頬をかすかに赤く染めてうつむいた。
その仕種にプリンスの方が面食らった。不思議そうに尋ねた。
「なんだ? どうしたんだ、いきなり?」
「い、いや、その……」
「なんだ。らしくないじゃないか。言うべきことがあるならはっきり言え」
「だから、その……」
「なんだ?」
プリンスの声に若干の苛立ちが混じった。それに促されたようにロウワンは意を決して尋ねた。
「トウナと結婚して一ヶ月だけど……子作りには励んだのか?」
「なっ……⁉」
プリンスもさすがに絶句した。両目と口とで三つの『○』を作っている。黒い肌のおかげで目立たなかったが、そうでなければ耳まで真っ赤になっているのがはっきりわかるところだった。
――結婚したら一ヶ月の間は、ハチミツ酒を飲んで子作りに励むものでしょう。
結婚式のすぐあと、トウナ自身がそう言っていた。その言葉を思い出してしまったための問いだった。
プリンスはそっぽを向いた。口のなかでモゴモゴ言ったあと、ようやく答えた。
「……まだ、結果はわからない」
――つまり、励むことははげんだわけだな。
いくら朴念仁のロウワンでも『そういう意味』だということはわかる。
ふたりの間にやや気まずい沈黙が流れたあと、
「ロウワン」
と、ふたりともによく知った声がした。反射的に振り向くとそこにはトウナ、メリッサ、セシリアの女性陣三人がいて、こちらに向かって歩いてくるところだった。横にはビーブ、野伏、行者、それに、従軍記者のハーミドも並んでいる。
ロウワンとプリンスがふたりそろって頬を赤らめながらトウナの腹部に視線を向けてしまったのは――やはり少々、問題だったかも知れない。
「? どうかした?」
と、トウナ。ふたりの視線に不思議そうに尋ねた。
「い、いや、なんでもない……」
ロウワンとプリンスはあわてて視線をそらした。トウナは不思議そうに『?』を頭のまわりに浮かべていたが、こういうことにはとにかく察しのいい行者がふたりの内心を見透かし、クスクス笑っている。そのたびに、結いあげた長い髪に挿されたかんざしの飾りがシャラシャラと音を立てる。
「おお」
と、従軍記者のハーミドが目の前を埋め尽くすミルク色の靄を見て感嘆の声をあげた。
「こいつはすごい! たしかに聞いたとおり、こんな濃い靄は見たことがない。こいつは何がなんでも正体を確かめて記事にしないとな。くぅ~、記者魂が燃えるぜ」
ハーミドは拳ダコのできた拳と手のひらを打ちあわせた。靄を見る目が、未知を前にした好奇心旺盛な子どものように輝いている。
その仕種といい、靄を見て舌なめずりする表情といい、どう見ても強敵相手の試合を前にした格闘家。『新聞記者』などという文化的な職業についているとは信じられない物騒な雰囲気だった。
――鳥たちを集めて話を聞いたけどよ。
ビーブがそう切り出した。
――やっぱし、この靄はパンゲア中を覆っているみたいだぜ。どこまで行っても切れ目がない。まるで、ばかでかい丼をひっくり返してパンゲア全土に乗っけたみたいだとよ。
「そ、そうか……」
ロウワンがあわてて答えた理由は……言うまでもない。
「それで、ロウワン」
と、すべてを見透かしている行者がクスクス笑いながら言う。その笑いを向けられることでロウワンもプリンスもなおさら真っ赤になってしまう。
「これから、どうするつもりなんだい?」
「靄のなかに入る」
「この靄のなかに?」
と、トウナ。眉をひそめて聞き返した。
ロウワンはコクリと頷いた。
「なかでなにが起きているのか確かめないといけない。そのためには、靄のなかに入ってみるしかないだろう」
「たしかにな。放っておくわけにはいかないし、外からはなにもわからない。なかに入ってみるしかあるまい」と、野伏。
「たしかに、わたしにもなかのことはまるで感じられないけど……」
メリッサがとまどった様子でミルク色の靄を見つめながら言った。
「だけど、だいじょうぶ? なかがどうなっているかもわからないのに、いきなり入ってみたりして……」
学究の徒として『未知なるもの』の恐ろしさはよく知っているメリッサである。下調べもせずに未知の事態に挑むことには抵抗があるのだろう。表情も口調もいささか不安げである。もっとも、その『下調べ』をするためにも靄のなかに入ってみるしかないわけなのだが。
「まあ、だいじょうぶなんじゃないか?」
メリッサとは対照的に、脳天気なほど気楽に言ってのけたのは行者である。
「世の中、たいていのことはなんとかなるものだからね」
そう言って、靄目指して歩きだす。ロウワンたちがとめる間もなく、その姿は靄のなかに入っていく。
「行者!」
ロウワンは叫んだが、その姿は靄のなかに入ったまま。もはや、影すらも見えず、声が届いているかどうかもわからない。
沈黙がその場を支配し、刻々と時が過ぎていく。
行者は――。
戻ってこない。
――行者。
ロウワンをはじめ、全員が思った。
――心配させて楽しむために、わざと時間をかけているな。
行者が聞いていれば、さすがに苦笑するしかなかっただろう。まったく、その通りであったので。
それでも、とにかく、行者は靄のなかから戻ってきた。その姿はいささかもかわっていない。
「だいじょうぶ。靄のなかでも生きていられる。ただし……」
「ただし?」
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