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第二部 絆ぐ伝説

第六話一九章 海の漢へ

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 「クワアッー!」
 甲高かんだかい鳥の鳴き声が部屋のなかに響いた。
 ガレノア亡き後、〝ブレスト〟の方をこそ己の居場所と定めた鸚鵡おうむが、部屋のなかに設えられた止まり木の上で一声、鳴いたのだ。そのまま大きく翼をはためかせて宙を飛び、〝ブレスト〟の肩に飛び乗った。その場で羽繕はづくろいをはじめる。
 それを合図とするかのように、〝ブレスト〟がセシリアに尋ね返した。
 「息子?」
 「はい」
 と、セシリアはうなずいた。力強く。その表情はあくまでも引き締まり、覚悟のほどを示していた。
 「僕はセシル。ローラシア伯爵家の息子です」
 きっぱりと――。
 〝ブレスト〟の布の間からのぞく瞳をまっすぐに見返しながら、重ねてそう言った。
 かつての、貴族の屋敷のなかで蝶よ、花よと育てられていた頃のセシリアであれば、胸をむき出しにした〝ブレスト〟の服装を見て顔をしかめていただろう。『はしたない!』と動転し、白皙はくせきほおを赤く染めていたにちがいない。しかし、国を出てからのここまでの旅の間に、その程度のことでは動じない程度にはセシリアの精神も鍛えられていた。
 セシリアはいま『セシル』として、〝ブレスト〟の瞳だけを見つめ、その場にまっすぐに立っていた。
 〝ブレスト〟が瞳を閉じた。そうすると顔中に巻きつけられた布が目元まで覆い、顔のすべてを包み隠すように見える。
 「……そう」
 と、〝ブレスト〟はそれだけを言った。その短い言葉のなかにどれだけの思いが込められていることか。それは、余人には決してわからないことだった。
 ただ一話、肩にとまったふる強者つわもの鸚鵡おうむだけが、その思いを汲み取ったかのように〝ブレスト〟のほおくちばしを当てた。
 「では、貴族の息子に対して尋ねるわ。セシル。お前はなぜ、自由の国リバタリアに行きたいの?」
 〝ブレスト〟の瞳が冷たく輝いた。口調が完全に詰問きつもん調ちょうになっている。いままでの、どこか甘さを含んだ表情とも口調ともまったくちがう『憎い男』を相手にするときのものになっていた。
 「救援を求めに」
 「救援?」
 「はい」
 と、セシリアはうなずいた。自分自身に覚悟を示すかのように。その引きしまった表情はたしかに『少女』と言うよりも『少年』のものだった。
 セシリアは自分の胸元を服の上からつかんだ。そこには大切にたいせつに守り抜いてきた手紙が隠されている。長兄ルドヴィクスから預けられた大切な手紙が。
 「ローラシアはいま、化け物たちの脅威にさらされています。〝賢者〟を名乗る謎の集団によって操られる人外の化け物。その化け物たちによって、ローラシアは滅ぼされようとしています。兄ルドヴィクスはローラシアを守り、人々を避難させるため、国に残り、戦っています。そして、僕は兄ルドヴィクスから命じられたんです。自由の国リバタリアに行って、主催しゅさいであるロウワンさまに会い、救援を求めろと。だから、どうしても自由の国リバタリアに行かなくてはいけないんです」
 「国のため、と言うことね」
 「はい」
 「でも、なぜ、自由の国リバタリアに? 自由の国リバタリアに、ローラシアを救わなくてはならないどんな理由があると言うの?」
 「それは……」
 セシリアは胸元をつかむ手にギュッと力を込めた。そうすることで、〝ブレスト〟の詰問きつもんに立ち向かう勇気を得られると言うかのように。
 「……僕にはわかりません。でも、兄は言ったんです。ロウワンさまならきっと助けてくれる。救援を送ってくれるって。ここに……」
 セシリアは胸元をつかむ手を浮かせて見せた。
 「兄から託された手紙があります。この手紙を読めば必ず助けてくれるって」
 「そう」
 〝ブレスト〟は再び、短く言った。立ちあがった。セシリアに近づいた。まるで、氷の上を滑るかのようになめらかで、優雅な足取り。セシリアを見つめる瞳はまさに氷の冷たさ。
 吹きつけてくる気配にセシリアは恐怖を感じた。思わず、仰け反った。ただ、それだけで、一歩も退くことがなかったのは『兄から託された使命を果たす』という責任感ゆえだったろう。
 その勇気をたたえるかのように、〝ブレスト〟の肩の上で鸚鵡おうむが一声、鳴いた。それは、〝ブレスト〟に自制を求めるためでもあったかも知れない。
 セシリアは服の上から手紙をつかんだまま、かすかに体を震わせながら必死に〝ブレスト〟に対峙している。ともすればそらしそうになる顔を、懸命に〝ブレスト〟の瞳に向けている。
 すっ、と、音もなく〝ブレスト〟の手が伸びた。手のひらを上に向けて、差し出した。
 ――渡しなさい。
 と、その手の形が告げていた。
 「その手紙を見せなさい」
 「……駄目です」
 「駄目?」
 〝ブレスト〟は短く問い返した。その声には、かすかに意外そうな響きがあった。顔中を覆う布がなければ、その眉が『ピクリ』と動くのが見えたことだろう。
 「駄目とはどういうこと? その手紙を渡すのがお前の役目でしょう」
 「そうです。でも、この手紙はあくまでもロウワンさまに渡すよう言われたものです。ロウワンさま以外の誰にも渡すことはできません」
 「わたしは自由の国リバタリア第二代提督。自由の国リバタリアの軍権は、わたしが握っている。救援のために軍を動かすとなれば、その手紙の内容はロウワンからわたしに知らされる。わたしに隠しても意味はないわ」
 「だとしても。僕はたしかにロウワンさまに渡すよう言われたんです。その言いつけを破るわけにはいきません」
 セシリアはかたくなに、そう繰り返す。〝ブレスト〟は冷ややかな目でセシリアを見つめた。そんな〝ブレスト〟の肩の上で、鸚鵡おうむが盛んにくちばしで〝ブレスト〟のほおのあたりをかじっている。
 セシリアは震えながらも必死に勇気を奮い起こし、〝ブレスト〟の瞳を見返していた。
 「……そう」
 と、〝ブレスト〟が短く言った。目を閉じた。その次の瞬間――。
 ヒュン!
 空気を裂く音がして、セシリアの右手がセシリアのほおを打った。
 「キャアッ!」
 セシリアは悲鳴をあげた。吹き飛ばされ、床に転がった。貴族の娘らしいなめらかな白い肌に一筋の、まるで、むちで打たれでもしたかのようなミミズ腫れができていた。
 それが、〝ブレスト〟の手刀の威力。全身を一本のむちのようにしなやかに操るその独特の体術は、肉の塊に過ぎない手足を切れ味鋭い刃物にかえていた。
 しかし、実はこれでも相当に手加減したのだ。もし、〝ブレスト〟が本気で手刀を振るっていれば吹き飛ぶのではなく、切れていた。ほおがパックリと切り裂かれ、そこから滝のように血を流していたところだったのだ。
 悲鳴をあげて床に転がったセシリアを、〝ブレスト〟は軽蔑けいべつするかのような冷ややかな瞳で見下ろしていた。
 「キャアッ? 息子のくせに、娘のような悲鳴をあげるのね」
 「うっ……」
 「生意気な上にひ弱。どうしようもないクズね。わたしは男が憎い。すべての男を殺してやりたい。男がわたしの船に乗るからには、死に物狂いで役に立ちなさい。でなければ、この手で殺す」
 その宣告と共に――。
 セシリアの『砂漠の踊り子』号での生活がはじまった。

 「起きろ! 仕事の時間だぞ!」
 何十人という船員が押し込まれた船室に、大きなドラ声が響き渡る。セシリアはその声に吹き飛ばされたかのような勢いで寝台しんだいから飛び起きると、自分の持ち場に向かった。
 あの日以来、セシリアは居心地の良い個室から追い出されて大人数が共に寝起きする大部屋に押し込まれていた。そして、下働きとして働く日々。食事の配膳はいぜんから皿洗い、船中の掃除、荷の上げ下げ、武器の手入れ……。
 とにかく、ありとあらゆる雑用がセシリアに言いつけられた。提督である〝ブレスト〟の指示によって。その仕事量はひとりの船員に対して与えられるものとしては明らかに多すぎるもので、〝ブレスト〟による新人イジメとしか思えないものだった。
 他の船員たちにはそれがわからない。〝ブレスト〟の常軌を逸した『男』という存在に対する恨みと憎しみは〝ブレスト〟の部下であれば誰もが知っている。だからもし、セシリアが本当に『男』だというならこの扱いも納得いく。しかし、セシリアは娘。本人がいくら『息子』だと言い張ったところで『娘』であることは見ればわかる。
 セシリアの見た目も、立ち居振る舞いも、まだまだ貴族令嬢としてのそれであって、男物の服を着たぐらいではごまかせるものではない。誰がどう見ても『かわいい女の子』のままなのだ。まして、〝ブレスト〟がそんなことに気がつかないわけがない。
 それだけに、船員たちにとって、〝ブレスト〟のセシリアに対する過酷な扱いは不可解だった。とは言え、
 「……下手に口出しして、怒らせるわけにはいかないからなあ」
 それが、船員たちに共通する思い。
 〝ブレスト〟は狂気に取りつかれているかと思わせるほどに勇敢であり、腕も立つ。襲撃に際しては常に先陣に立って相手に斬り込む。おかげで、後につづくものたちはずっと安全に戦える。指揮の手際も見事なもので、戦利品の分配はあくまで公平。仕事さえこなしていればよけいなことは言わないし、船員たちにとっては信頼のおける、歓迎すべき指揮官だった。しかし――。
 ひとたび、怒らせたときの恐ろしさも身に染みて知っている。
 それだけに、セシリアに対する扱いに不可解さを感じてはいても、口出しすることはできなかったし、手を貸すこともできなかった。なんらかの理由があってのことと予測はつくだけになおさらだった。下手にセシリアの手助けをして〝ブレスト〟の目的を台無しにするような結果になってしまったら……。
 どんな目に遭わされるかなど想像もしたくない。
 船員たちとしてはセシリアとは極力、関わり合いにならないよう距離を保ちながら、見守っているしかなかった。
 そんななかでセシリアは必死に働いた。何十人分もの食事を運び、皿を洗い、甲板かんぱんを掃除し、船内のいたるところを拭いてまわる。港に入れば水と食糧、それに、酒の入った樽を背負って何度もなんども陸と船とを行き来する。
 まさに一日中、仕事、仕事。朝、起きてから夜、寝るまでの間、仕事以外のことなどなにもする時間がない。夜になれば疲れはてた体を引きずって寝台しんだいにもぐり込み、泥のように眠る。そして、日の出と共にドラ声によって起こされ、仕事に向かう……。
 大の男でも根をあげそうなそんな毎日をセシリアはしかし、歯を食いしばってこなしつづけた。
 そんな日々のなかで、黄金の髪は容赦ようしゃない日差しに照らされて色褪せ、貴族らしい白い肌は潮風に吹かれて赤く染まった。銀の食器と刺繍ししゅう道具どうぐ以外もったこともない手は荒れ果て、ゴツゴツしたものにかわっていった。華奢きゃしゃだった体つきも日いちにちと厚みを増していくようだった。
 貴族の箱入り娘はいま、うみおとこに生まれ変わろうとしていた。
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