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第二部 絆ぐ伝説

第六話一三章 セシリアの旅立ち

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 フィルの町はすでにローラシアからやってきた避難民たちでごった返していた。ここからさらに、サラスヴァティー長海ちょうかいを下ってゴンドワナやレムリアに逃れようとする人々が我もわれもと港へと押しよせ、収拾のつかない事態になっていたのだ。
 なにしろ、フィルは人口二〇〇〇人程度の小さな町。これといった産業もなく、人々はサラスヴァティー長海ちょうかいで魚や貝を採って生活している。
 『町』と言うよりも『漁村ぎょそん』。
 そう言った方が正しい町だ。港こそあるものの、そこに出入りするのは地元民の漁船がほとんどであり、貿易船ひとつ、ろくにやってくることはない。貿易船のほとんどは中流域から下流域にあるゴンドワナが管理する港町に入港し、そこから陸路で荷を運ぶ。こんな上流域までやってくることはほぼないのだ。
 そんな小さな町に多くの避難民が一斉に押しよせた。ローラシアはライン公国から、最も近い港町であったために。町の人口をはるかに超える避難民が押しよせ、船に乗って逃れようと港へ押しかける。日頃、これといった事件もないなかでのんびりした暮らしに慣れている港の管理官たちにとっては、とてもではないがさばききれる量ではない。
 そもそも、何万という人間を乗せられるほとの船など、この小さな港町には存在しない。ゴンドワナやレムリアに連絡して船をまわしてもらおうにも、大型船をつけることのできる桟橋さんばしがない。結局、限られた数の小型船をひっきりなしに往復させるしか手がなく、一度に運べる人間の数はわずかなものだった。
 それなのに、避難民は次からつぎへとやってくる。
 「船に乗せろ!」
 と、騒いでいる。
 手にてに札束を振りかざし、
 「船を用意すれば金はいくらでも出すぞ!」
 と、叫んでいる。
 「ですから、その船がないんです!」
 港の管理官は必死になってそう説明した。
 「このフィルの町は小さな港町なんです! こんな大勢の方々を乗せられるほどの船はありませんし、船員だって少ない。一度に多くの人を運ぶことなんてできないんです! おとなしく順番をまつか、そうでなければ、もっと下流の大きな港に行ってください!」
 声が枯れるまでそう叫んだが、一刻も早くローラシアの化け物どもから逃れたい人々には、そんな声を聞いている余裕はなかった。
 まして、この場に押しよせた避難民の多くが貴族であった。自分の要求はすぐに通ることが当たり前であり、思い通りにならないことに慣れていない人々だ。管理官の説明に対して、たちまち怒りをあらわにした。
 「そんな備えもないのか、たるんどるぞ!」
 「貴族である我々に不便をかける気か⁉」
 「金ならいくらでも出す! さっさと、貴族用の特別船を用意せい!」
 このに及んでなお特権意識を振りかざし、管理官たちに詰め寄る始末。とてもではないがまともな乗船手続きなどできるはずもない。混乱は深まるばかり。無理やりにでも船に乗り込もうとする避難民たちと、それをとめようとする管理官たちの間で衝突が起き、いまにも暴動に発展しそうな騒ぎになっていた。
 そんななか、セシリアはやってきたのだ。
 美しい黄金の髪を切り落とし、町の少年の服を着て。
 町の様子にセシリアは唖然あぜんとした。セシリアがそこで見たものは鬼のような形相をして怒鳴りあい、罵りあう人、人、人……。
 その殺気立った様子はまさに戦場。いや、本物の戦場の方が訓練され、規律のとれた軍勢同士の衝突の分、まだ秩序が保たれていると言える。ここにあったものは混迷、混乱、そして、恐慌きょうこう。恐怖から逃れたい一心で理性も良識もかなぐり捨てた人間の群れ。獣の群れよりなお始末の悪い、無法と無秩序の個の集まり。
 誰もが怯えていた。
 誰もが必死だった。
 化け物どもの恐怖から逃れるために。
 自分と家族が逃れることだけで精一杯。他人のことなど、とてもかまっていられない。ときには、家族さえ捨てて自分ひとり逃げ延びようとするものもいた。もとより、自分は特別な存在だという特権意識に凝り固まったローラシア貴族たちである。自分が生き残るためには他人が犠牲に当たり前だと思っている。他人を思い、譲り合っての秩序ある行動など望むべくもなかった。
 そのありさまに――。
 セシリアは身がすくんだ。
 心が恐怖に縛られた。
 貴族の箱入り娘として、荒事あらごととはまったく無縁に生きてきた。それがいきなり、修羅しゅらの世界に放り込まれた。恐怖に縛られ、身動きひとつできなくなるのが当たり前だった。
 ひときわ大きな叫び声が響いた。
 つづいて、大きな破壊音。
 セシリアはビクリと身をすくめた。見ると、音のした方から火の手があがっていた。避難民の一部がついに暴発し、無理やり船に乗り込もうと係官を殴り飛ばし、入場口を叩き壊し、わずかにとまっている船に殺到したのだ。その数は船に乗れる人数をはるかに超えていた。これだけの数の人間が一度に乗り込めば浮力を失い、人間たちの重みで船が沈んでしまうのは明らかだった。
 「やめろ、落ち着け、落ち着くんだ! そんなに一度に乗り込んだら船は沈んでしまうぞ! おぼれ死にたくなければおとなしく、まて!」
 その係官の態度は賞賛されてしかるべきだったろう。力任せに殴り飛ばされ、鼻から血を流しながらも人々の安全のために声を張りあげたのだから。
 しかし、そんな声もすでに恐慌きょうこうきたしている人々には届かない。人々はとにかく船に乗り込もうと我先にと殺到する。押し合い、へし合いのなかで突き飛ばされ、転倒するものも数多くいた。誰もそんなことにはかまわない。倒れた背中を踏みにじって駆けていく。怒声とともにいくつもの悲鳴があがった。
 そこへ、港を守る警備兵たちがやってきた。たちまち、衝突になった。もとより、押しよせてくる人間たちの大半は戦闘訓練どころか、武器をもったことすらない貴族たち。一対一であれば、抵抗するすべもなくいともたやすく取り押さえられていたにちがいない。
 しかし、なにしろ、数が多い。その数は、この小さな港町のすべての警備兵を合わせたよりも一〇〇倍も、二〇〇倍も多かったのだ。しかも、完全に恐慌きょうこう状態であり、理性を失っている。警備兵たちが銃を構えているのを見ても怯んだりしない。むしろ、興奮して襲いかかる。
 警備兵たちは最初のうちこそ人々を落ち着かせようと空に向けて発砲していたが、恐慌きょうこうに駆られた人々はかまわず押しよせる。殴りつけ、蹴り飛ばし、突破しようとする。その勢いに――。
 警備兵たちもとうとう直接、相手に向けて発砲しなくてはならなくなった。
 銃声が連鎖れんさし、悲鳴があがり、あたりに血の匂いが立ちこめる。それがますます恐慌きょうこうに駆られている人々を興奮させる。暴動はまわりに広がり、フィルの町そのものを呑み込もうとしていた。
 その騒ぎのなか――。
 セシリアはひとり、その場に立ちすくんでいた。
 数日前までのセシリアならたちまち心が壊れ、その場で泣きくずれていたにちがいない。しかし、いまのセシリアは恐怖に顔を青ざめさせながらも泣きくずれることなく立ちつづけている。
 ここに来るまでの数日の旅。その間、いくら泣いても誰にも助けてもらえない、自分の力で成し遂げなければならないのだと思い知らされてきた。その経験が、セシリアの精神をギリギリのところでどうにか守っていた。
 ――そうよ。わたしはもう泣かない。泣いてなんかいられない。わたしは自由の国リバタリアに行かなくてはならない。自由の国リバタリアに行って、主催しゅさいのロウワンさまに出会い、ルドヴィクス兄さまの手紙を渡さなければならない。そうでなければ……。
 もう二度と会えない。
 陸路で自由の国リバタリアに向かっているはずのソフィアにも、ローラシアに戻ったアルバートにも、そのローラシアで人々を避難させるために必死の抵抗をつづけているルドヴィクスや両親にも。
 ――いやっ!
 セシリアは心に叫んだ。
 ――そんなの絶対にいや! わたしは絶対に姉さまや兄さま、父さまや母さまたちに会うんだから!
 そして、家族みんなで、なんの心配もなく暮らせる日々を取り戻す。
 ――そうよ。ソフィア姉さまはおっしゃったわ。『自由の国リバタリアに行けば会える』って。アルバート兄さまだっておっしゃっていたじゃない。『自分は死なない。必ずまた会える』って。そして、ルドヴィクス兄さまはいまもローラシアで戦いつづけている。だから……。
 自分は絶対に自由の国リバタリアに行かなくてはならない。自由の国リバタリアにたどり着き、ロウワンに出会い、助けを求めなくてはならない。それができなければ、二度と再び大切な家族に会うことはできない……。
 いつだって優しかった父さま。しつけには厳しいけれど、いつだって愛してくれていた母さま。忙しい両親にかわり、幼い頃から世話をしてくれていたルドヴィクス兄さま。いつもいつもワガママに付き合い、なにかあればすぐに助けてくれたアルバート兄さま。一緒に本を読み、様々なことを教えてくれたソフィア姉さま。
 その思い出の日々。
 ――取り戻す。絶対に取り戻す。
 その思いを胸に秘め、涙をこらえ、セシリアは歩きだす。暴動が起き、混迷を極めるそのなかへと。数日前までのかのなら考えられない行動。
 セシリアは声の限りに叫んだ。
 「わたしを自由の国リバタリアに向かう船に乗せてください!」
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