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1話

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 暴君と言う名を馳せていた男がいた。でも、その行いは全て自分の大切なものを守るための自己犠牲だったと私は知っている。彼は私にそれを明かすことなんてないだろうけど。そして私にも彼に1つだけ隠し事があった。だけどそれは私だけの秘密。だって、それはーー君の知らない物語だから。



  防災無線が高らかに鳴り響くと、自然と下校への道が開かれる。「夕焼けチャイム」と呼んでいるそのメロディは、私たちの居残りの終了を告げるものだ。
 いつもようにその合図が聞こえ、誰かが「じゃあ、そろそろ帰るか」と言い出す――その時だった。彼は何の前触れも無く、椅子の音をやけに大きく立てながら立ち上がった。そして固い決意、或いはただの思いつきとも取れる読みづらい表情で言った。
「今から星、観に行かない?」
 積極的な彼の発言が珍しかったのか、消しゴムを落としてさえ物音が聞こえてしまうような静寂に包まれた。しかしそれはほんの数秒で、失笑がその場の雰囲気を制する。
「相変わらず星のことになると目がないよな」
 誰かが冗談混じりにそう言うと、いろんな人が思い思いの言葉を発し、まるで我こそはと彼が生み出してしまった沈黙を打破しているようだった。
 どんなに計画性がなく、よく考えると本当にくだらないと思うようなことでも、勢いで始めてそれを熟してしまうのが学生である。
 みんなが席を立ち、意気揚々と廊下に向かう中、私は光輝く星を鮮明に想起しながらいつかは来ると思っていた運命を悟る。
 これが、きっと最後なのだと……。

 一旦それぞれ解散し、再び学校に集合する。そしてイラストでは描けないような満天の星々を拝める山頂を目指した。
 集合が少し遅くなったこと、この辺りには街灯がないことなどが相俟って、すっかり月明かりを十分に感じる暗さになっていた。
 いくら風鈴が涼感を運んでくれる季節とはいえ、山に危険は付き物である。それに外的な暗さというのは、総じて内的な暗さをまとってしまう。それが、将来への葛藤や自分は一人ではないのかという杞憂を生み出すのだ。
 しかし、私がこの山で連想したのは狐、狸、蛇などの霊に纏わる動物たちである。そう考えると、山には良くないものが憑き物であると言えるのかもしれない。
 いずれにせよ、このような普段あまり感じることのない状況に不安や孤独を感じているのは違いない。その負の感情によって自分を見失わないように笑い声や道化が飛び交っているのだろう。
 さすが思春期真っ盛りというべきか、誰も大きく息切れすることもなく目的地に到着した。
 点々としていたスマホの明かりが消えると、まるで私たちだけの世界が広がっているように感じた。
 そこには、海馬ではなく大脳皮質に保存してしまいたいほどの印象的な星々が夜空を飾っている。数えることさえ忘れてしまうその圧倒的な景色に思わず息を呑む。
 ……だけど。私が懐った星々とは少し違った。確かにそれらは光輝いているけど、私には無数の涙に見えたのだ。まるで今にも落ちてきそうな綺麗な雫。そしてそのように見誤った理由を私は言うまでもなく把握している。
  私は何かを追いかけたことなんてなかった。ましてや誰かを想って泣いたことなんか一度たりともない。
  それが今は届くはずもない星に手を伸ばすように、彼の背中を追い続けている。
 ……いつからなんだろう?君を遠く感じるようになったのは。
 きっかけなんて思い出すまでもなく脳に強く焼き付いているくせに、そんな愚問を投げかけてしまう自分に苦笑する。
  私は哀愁漂う星たちを前に、そっと手を合わせてお祈りする。
『どうか、私のこの想いは消えてなくなりませんように』
  そして気づかれないようそっと彼の方に顔を向けて、発声させずに口だけ動かした。
『言わなくても届くかな?私のこの想い』
 そんな言葉は知る由もなく、彼はひとりでに空を見上げて呟いた。
 それはこの季節にしかみられない、夏の大三角を示す星座の名前だった――。
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