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第三章 東の国の大きなお風呂編

上回る

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「あーあ、もう完全に回っちゃってるじゃん。だからぼく言ったでしょお? 変なことしないでねって」

 一歩一歩キースが近付いてくる。側に寄られたくもないのにもう指先一つまともに動かすことが出来ない。呼吸が辛い、でもここで息すら止めてしまったら待っているのは死だ。ステラは喘ぐように息をしながらキースの輪郭を見上げた。

「でもさすが聖女さまだよねぇ。あんな濃度の媚薬飲ませたのに自我保ってるんだもん。女神様の加護があるからかなぁ? それともこの腕輪のせい?」
「~~っ‼︎」

 膝を着いたキースがステラを抱き上げた。その手がステラに触れた瞬間、目の前が爆発したのではと思うほどの刺激が全身を駆け抜けた。魚みたいに体が跳ねる。頭が一気に回らなくなる。泣きたくないのになんの生理現象なのか目からはぼたぼたと涙が溢れた。
 耳が自分の心臓の音と呼吸の音しか拾わない。視界もただでさえぼやけていたのに泣いてしまったせいで朧げな色しかもうわからない。それなのに、残酷なくらい肌の感覚は鋭敏だ。

「これ多分外からの攻撃には強いんだろうねぇ。……ほら、ロゼさんもお前も出て行ってよ。これからぼくは聖女さまのことたーっぷり愛さないといけないから」
「そう、いい趣味ね。ああそうだ飽きたらそれわたしに頂戴? 聖女だもの、食えばわたしはさらに強く」
「ねえ、今ぼくがこの人に飽きるって言った?」
「……冗談よ。ところで今日の分はどこにあるの? わたしお腹空いちゃったわ」
「そいつに案内させるよー。地下にあるから、さっさと行って」

 すぐ近くでされている会話のはずなのにその内容が全くと言っていいほど理解ができない。聞き取ろうと意識を集中させたらそれを阻害するように脳の回路が切れていくような気がする。
 うまく呼吸が出来ない。大きく口を開けてみっともないくらいに息を荒げているのに、楽になるどころかどんどん苦しくなる。呼吸が出来ているのに窒息している気分だ。

「あは、苦しいよね。でも大丈夫だよ、ぼくがすぐ楽にしてあげるからね」

 肌に、キースの指が触れている。その側から火傷になったかのようにその箇所が酷く熱くなって、じりじりとひりつく。この部屋も外の気温もどちらかといえば涼しいくらいだったのに、今は熱くてしょうがない。

「……聖女さま、本当に生きてた。信じてた、信じてたけどあなたが死んだって聞いた時ぼくも死んじゃおうかなって思ったんだ。だけどさ、女神さまの御加護を受けたあなたが死ぬわけないって思って、探してたんだ。ずっとずっと探してたら手掛かりを見つけた。絶対にあなただって思った。そしたら会えた。これは運命だよ、聖女さま。初めて会ったあの日から、ぼくとあなたは結ばれる運命だったんだ」

 肩に、胸に、腹に、キースの手が触れる。不愉快でしょうがないのに、体が自分の意思とは関係なく跳ねる。でもそれが本当に自分の意思なのかどうかすらもわからない。

(ああでも、)

 嫌だと思った。この状況も、自分に触れるキースの温度も、全てが嫌だった。けれど喉が焼かれたように声が出ない。体だって動かせない。絶望からか諦めからか目からは涙だって止まらない。頭が、目が回る。
 あの魔族を倒せなかったことも、自分がまんまと捕らえられてしまったことも、そして何かを盛られたことも全てが不甲斐ないと思う。けれどその不甲斐なさを上回る嫌悪感があった。
 キースの手がステラの頬に触れる。気配が近付いて、息が触れた。その時ステラの脳裏に過ったのは鮮やかな赤だった。

「ぃ、やだ…っ」

 絞り出した声と、必死に持ち上げた腕がキースの体を押した瞬間、建物が大きく揺れた。
 地震が起きたのかと思うほど大きく揺れ、天井からパラパラと埃が落ちて来る。外からは悲鳴と怒号が聞こえ、また建物が震える。断続的にではなく、突発的に起こるその揺れが自然的なものではないと察したキースが苛立たしげにステラから顔を離した。

 キースが何かを言っている気がする。けれど理解をするのは難しくて、意識を保つことすらギリギリで目を閉じかけたその時また大きく揺れた。揺れがどんどんステラたちがいる部屋に近付き、それに合わせて悲鳴も近付く。その時微かに触れた魔力の揺れに、ステラは閉じ掛けた目を力の限り押し開けた。
 相変わらず視界は滲んでいる。声も音もわからない。けれど、きっとステラはこの気配を間違えることなんてしない。
 ステラの意識が部屋の外に向いたことに気が付いたキースが咄嗟にステラを抱き上げる。逃げるべきだと窓に視線を向けたけれど、それよりも早く襖に手が掛かった。その僅かな隙間から流れ込む魔力が、香りが、意識を突き動かした。

「リヴィ…っ!」

 声というにはあまりに小さくて、息というには乱れていた。
 それが空気を振動させて、もう二度と開くことはないかもしれないとすら思った襖が破壊される勢いで開け放たれた。滲んだ視界の中見えたのは見間違えるはずのない鮮やかな赤。ああ、来てくれたのか。そう思うと同時に、ステラの意識は途切れた。

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