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第二章 ヒノデの国(下)

おみつ、走る

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 昔からおじいさんやお婆さんに言われていた。「海神様を怒らせてはいけない」「海神様が怒ると大変なことになる」そんなことをそれこそ耳にタコが出来るくらい聞かされていた。そしてそれは自分だけに限らず、この町に住む人達は漏れなく全員それを親族から聞かされていた。

 それは遥か昔の話、かつてヒノデの国は外の国との交流を試みたことがあるそうだ。そうして外からの人を招き入れ、永く閉鎖的だった国の風潮に終止符を打とうとした時、それは現れた。
 雷鳴のような声を轟かせ、海を操りたった数時間で町を壊滅させた。
 御伽噺として伝えられている書物にはミミズの這ったような文字と、当時の絵描きがおこした海に飲み込まれる住人の姿、そして海に佇むこの世ならざるものの姿があった。

 それを人々は「海神様」と呼んで、それ以来再びヒノデの国は門を閉ざした。
 今生きている人のほぼ全員が「海神様」は空想の生き物だと思っていた。予想だにしない大天災に見舞われ、それを神の怒りに触れたものとしているのだと、誰もがそう思っていた。
 実際に「海神様」が現れるその時までは。

「…なに、あれ」

 それまで眩しいくらいだった青空が急に曇って、桶をひっくり返したみたいな豪雨になった。見たことがないくらいの太い稲妻がいくつも雲の中を走って町のどこかに落ちて鼓膜が破けるくらいの音がした。
 おみつと団吉はその日も団子屋にいていつも通り賑やかに商売をしていたのだが急な雨に急いで団子を店の中にしまおうと外に出た時だった。

 身体を冷やしてはいけないとわかっているのに、ふと見た海の方向にいる巨大な影に目が逸らせなくなって身体が石のように固まる。

「おみっちゃん何やってんでい!そんなのはオレがするから早く」
「団吉さん、…あれ、何…?」

 駆け寄ってきた団吉に海の方を指差して見せると、その先を追った団吉の目が見開かれる。唇を戦慄かせ「なんだありゃあ」同じくらい震える声でこぼした。
 まだ町でその存在に気付いているのは二人だけで、周りは大きな声を上げて店仕舞いをしている。二人の呼吸は視線と上り、顔面も蒼白だったがいち早く動いたのは団吉だった。おみつの肩を抱いて店に戻り、濡れた身体を労るように布を渡してから両肩を掴んだ。

「…おみっちゃん、出来るだけ高えとこに逃げるんだ。傘差して、身体冷やさねえようにするんだ。いいかい」

 おみつは団吉の剣幕に頷く他無かった。

「…よし。オラアちょいと足の悪い人達連れて行くからよ、一緒には行けねえが絶対に戻るからな。いい子で待っててくれよ」
「ぇ、団吉さ」

 おみつの言葉を聞くよりも早く、団吉は外へ飛び出して行った。そしてすぐに大きな声が聞こえた。

「海神様だーーーー‼︎すぐ高えとこに逃げろおーー‼︎男は女子供ジジババに手ぇ貸してやんな!少しでも高いとこに急げえええええ‼︎」

 大雨に負けない声で団吉が叫び、そこから町は阿鼻叫喚の光景となった。
 みんな必死に逃げ惑い、怒号が飛び交い、子供が泣いている声がする。

 ──子供…!

 おみつは咄嗟に両手で腹を押さえた。
 そうだ、私は逃げなければならない。この子と逃げて、生きなければならない。ならば呆けている時間などないとおみつは準備を整えて、なるべく人にぶつからないように注意しながら高い場所を目指した。
 勢いが強く大きな雨粒が傘を乱暴に叩き、地面から跳ね返る水が着物と足をぐしょぐしょに濡らしていく。けれどそんなことに気に留めている時間なんてない、少しでも高い
場所に逃げなくては。

 そうして足を進めていた時に、人混みの中を鮮やかな金色が過ぎていきおみつは思わず足を止めた。
 そこにいたのはラファエル達だった。傘もささず雨に濡れながらその人達は海の方を見て何やら話している。会話は聞こえないが、たった一言だけ聞き取ることが出来た。

「港から引き離す。西の方に海岸があったから、そっちに誘き寄せよう。囮は僕がやる」

 おみつは自分の耳を疑った。きっと聞き間違いだと思った。
 だってそれはまるで、あの巨大な影に戦いを挑むような言葉に思えて。
 呆然としている間にラファエルと細身の青年が駆け出し、その後に他の三人が西の海岸へと向かっていく。足が縫い止められたかのようにそこから動けなかった。

「あんた何やってんだい!」

 はっとしたのは知っている声がすぐ側で聞こえてから。顔をそちらに向けると血相を変えたおばちゃんがそこにいて、おみつは目を丸くした。

「おばちゃん」
「おばちゃん、じゃないよあんたって子は!妊婦がこんな雨の中突っ立てんじゃないよ!ほらほら、あたしもついて行くからさっさと避難するよ」
「で、でも」
「でももへちまもない!あんた一人の身体じゃないんだよ!言うこと聞きな!」

 凄まじい剣幕に圧されておみつはおばちゃんと共に歩き出し、背中越しに大きな獣の声を聞いた。町中が混乱し、どうにか高い場所に逃げて身体を温めて貰っている中でも激しい雷の音と獣の叫び声が聞こえる。只事ではないと誰もが不安に身を寄せる中、驚きの報が飛び込んできた。

「海神様と戦ってるやつらがいるぞ!オヅラとマヅラと、あとはわからねえが西の海岸がえらいことになってる!」

 そこに避難している人達が全員驚いていた。中には「罰当たりが」と叫んでいる人もいた。だが、おみつにはそうは思えなかった。
 幼い頃から聞かせれてきた御伽噺が今現実になっている、確かに海神様は存在したけれど、どうしてそれを神として崇めているのかおみつにはわからなくなった。

 だってあの生き物は、既に色々な物を壊している。たくさんの人を不安にさせている。今だっておみつは戻って来ない団吉が気がかりでしょうがないし、御伽噺のままならこの後町は消滅してしまう。ラファエルだけならともかく、あの中にはオヅラ達がいた。もしラファエルがこの言い伝えの内容を知った上であの生き物と戦っているのだとしたら。

 それは、自分達を守っているということではないのか。
 だって彼は囮になるといっていた。あれの攻撃が少しでも町から離れるようにと言った言葉ならおみつは納得出来た。最早そうとしか考えられなかった。
 不安と緊張が張り詰める中、それから時間が経ってまた声が上がった。

 ──海神様が殺された。

 建物の中に激震が走った。男も女も顔を蒼白にして口々に祟りが呪いが神殺しがと叫んで半狂乱になっている。おみつの「落ち着いて」と叫んだ声は掻き消され、やがて男達が立ち上がったのだ。

「…このままじゃ祟られちまう。海神様の供養を急がねえといけねえ」
「勝手なことしやがって他所者がよォ!」

 男達が雨が止んで光が差している空の下を怖い顔をして歩いていく。おみつはその光景が怖くて、そしてどうしようもなく腹立たしかった。

(どうして…?)

 そんな疑問が一度浮かぶともう頭から離れない。

(どうしてラファエルさん達を悪者みたいにいうの。あの人達は私達を守ってくれたのに)

 そう、守ってくれたのだ。おみつは立ち上がった。居ても立っても居られなくて外に出ようと扉に手を掛ける。

「ちょっとおみっちゃんどこ行くんだい?」
「止めに行きます、男衆を」

 おばちゃんの目が見開かれた。

「な、何を言ってるんだいおみっちゃん」
「止めに行きます。あのままじゃおじさん達が人を殺しちゃう」
「け、けど」
「団吉さんが来たら港の方に行ったって言っておいてください」

 おみつは扉を開けて外に出た。先程までの雷雨が嘘のように空は晴れ、澄んだ青空と柔らかい陽光が町を照らしていて、そのことが余計におみつをたまらない気持ちにさせる。

「待ちなおみっちゃん!あんたが行ってどうなるんだい!おみっちゃん!」
「どうにもならないかもしれないけど!」

 おみつは後ろを振り返った。真っ直ぐな目で射抜かれておばちゃんは言葉に詰まり、おみつはいつものように笑ってみせた。

「けど、私はあの人達を助けたい。たった今助けられたから、今度は私が助けなきゃ」

 助けられた、その言葉におばちゃんや建物の中にいた女性達の表情が僅かに変わる。

「それに!うちのお団子を美味しいって言ってくれる人に悪い人はいないの!」

 そう言って今度こそおみつは歩き出した。ぬかるんだ道を転ばないように慎重に、だけどできる限り急いで男達の姿を追う。恐怖と不安で手が震えて何度も足が止まりそうになった。けれどおみつは絶対に足を止めなかった。

(ここで何もしなかったら、絶対に死んでも後悔する…!)

 それだけは嫌だった。そんな母の姿を生まれてくる子供にも見せたくはなかった。
 だからおみつは進んだ。
 ようやく男達の背中が見えて、その殺気立っている様子に足が竦みそうになる。
 けれどやっぱりおみつの中にはラファエル達を見捨てる選択肢なんて一欠片も存在していなかった。

「生贄だ!こいつらを生贄にすれば海神様のお怒りは納まる!こいつらを殺せええ!」

 そうして恐れていた言葉が鼓膜を震わせた時、おみつは声の限りに叫んだ。

「待って‼︎」

 そうして男達を掻き分けて見つけた五人の姿に、おみつは自分の選択が間違っていないことを確信した。
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