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第二章 ヒノデの国(下)

かつての面影と差異

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「海の向こうに自分たちの知らない国があることなんてずーっと前から知っていたんです、私も。私の親も、おじいさんも。みんな知っていました。知っていたけど、外に出ようなんて思わなかった。出ちゃいけないって、海に食べられるって教わってた。だから外からこんなにも沢山の人が来るなんて夢にも思ってなかった。ずーっと私はこの国で、この町で、同じような生活をしていくんだろうなぁって思っていました」

 そよぐ風は柔らかく心地が良い。少しだけこぼれているおみつの後ろ髪がふわりと浮いた。

「でも人生って何が起きるかわかりませんね。ある日お国の偉い人が開国を決めて、そこからはあっという間でした。毎日が新しいことの連続で、ちょっと目まぐるしくもあったけど、私今のこの国がとても好きなんです」

 花のような笑顔は過去のことを思い出してくるくると表情を変えて、まるで四季のようだった。おみつはおしゃべり好きのようで語り口を変えながら色々な話をしてくれた。

 元々この町がどんな風だったか、自分の家族はどんな風か、団吉との出会いだったり、それから結婚にどう至ったかだったり、様々。おみつは明るい人だった。花のようにしとやかに笑って見せたかと思えば、花火みたいに大きく笑うこともある。
 まるで物語を読み聞かせるみたいに話す姿はちょっとした役者のようで、いつの間にかラファエルもその話に聞き入っていた。それこそ時折同じように笑いながら。

「それで、……ああっ、ごめんなさいいらっしゃいませっ」

 話すことにすっかり夢中になっていたせいかいつの間にか二人は向き合うように話し込んでいて、それを止めに入ったのは他でもない団子を求めにきた客だった。くるりと客と向き合ったおみつを見て、ラファエルはすっかり冷めてしまったお汁粉を手に取った。一口含んでみると仄かな甘さが広がって目を細める。けれど味は記憶にあるものとは少し違っていた。

「ありがとうございました」

 接客が終わった頃にはお汁粉も食べ終わっていて、すっかり長居してしまったなとラファエルは口元を布で覆いそのままこちらを振り返るであろうおみつにそろそろ帰ることを伝えようとしたのだが、思った通り振り返ったその顔がまだまだ話し足りないというのを如実に語っていて思わず苦笑する。
 けれどラファエルの口元が隠れていることで帰ることが伝わったのか眉を下げていた。

「あ、そろそろお帰りですね。すみません、私ったらずっとしゃべってしまって。話し出すと止まらなくなるの悪い癖なんです」

 きっとそのことを気にしているのか少しだけ頬を赤く染めたおみつがふと何かを思いついたようにぱちんと手を叩き、ラファエルの方にやって来る。ちょいちょいと手招きする仕草に誘われるように顔を寄せると内緒話をするように口元に手を当てたおみつが耳に近づいた。

「まだ団吉さんには言ってないんですけどね」

 そう前置きをした声はとても晴れやかだ。

「子供ができたんです」

 黒眼鏡の奥でラファエルの目が大きく見開かれた。

「最近体調が悪かったんですけど、今日の朝お医者様にかかったらそうだって言われて」

 初めてこの団子屋に来た日、確かに団吉はおみつに「家にいなきゃダメだ」と言っていた。それはおみつの体が弱いのだろうと思っていたがどうやら違ったらしい。
 見る者全てを幸福にしてしまいそうな笑顔でおみつは腹を撫でていて、ラファエルはそれをどこか現実味がないものとして捉えていた。

 どこからどう見ても平らなこの腹に命が宿っているというのがラファエルには信じ難かった。これまでだって旅の途中何人も子供にも、それこそ妊婦にも出会ってきた筈なのに、まるで生まれて初めてその現象に出会ったかのような衝撃がラファエルを襲っていた。

「…おめでとう、ございます」

 何か言わなければと絞り出した言葉はなんとも凡庸でありきたりなものだった。それでもおみつが心から嬉しそうに笑うから、ラファエルの心臓が痛くなった。紐で縛られたようなその苦しさがなんなのか、ラファエルはわからなかった。

 やはり話し足りなかったらしいおみつがそこからも子供の名前だったりラファエルの住む国での育児の方法だったりを次から次へと聞いてきて、ラファエルはそれに当たり障りなく返せていた筈だが、記憶は曖昧だった。ただおみつの嬉しそうな顔と、随分長い時間客に捕まっていたらしい団吉が戻って来てその報告を受けて泣きながら大喜びする姿を見て団子屋を後にするまで足元が覚束なかった。
 否、きちんと歩けてはいるのに自分がそこにはいないような感覚がずっと抜けないでいた。
 自分だけが世界と切り離されているような心地だった。

「…アルフ」

 気がついた時には走り出していた。今どうしてもアルフレッドに会いたくて、声を聞かなければ今すぐにでも自分が消えてしまいそうで、そんな漠然とした恐怖がラファエルの足を急がせた。
 なんとか人にぶつからないように注意して宿まで辿り着くと番頭に挨拶もせずに自分達に充てがわれた部屋へと走る。それくらいで息が切れるような体力ではない筈なのに呼吸は乱れて嫌な汗が背中を伝った。
 横開きの扉を開けて中へと入ると黒眼鏡も顔を隠す布も荒く外してアルフレッドの姿を探して部屋の中へ視線を巡らせる。

「エル、遅かった─」

 広縁で武具の手入れをしていたアルフレッドがラファエルの気配を感じて障子を開ける。
 聞き慣れているはずの声なのに胸が締め付けられるように痛んで脇目も触れずその胸に飛び込んだ。

「…エル…?」

 名前を呼ぶ声に何も答えられずに、ラファエルはアルフレッドに縋りついた。
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