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ソの郷

盲目《もうもく》

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助五郎達が街道から見えなくなり、水茶屋が急に騒がしくなった。
由は店終いみせじまいを始め、弦も一緒に手伝っている。
まだ陽は高く、終いをするのは早すぎる気がしたが、由にも都合があるのだろう。

それに、今日中に子毛に行き、助五郎と話をつけなければならない、石にもそのほうが都合は良い。

先程さっき、弦を一晩泊めてくれないか? と頼むと、由は嫌な顔もせずこころよく承諾してくれた。

「一人と言わず、二人とも来ればいいよ、狭い家だけど、二人くらいは寝泊まりできるから」

と言ってくれたので有り難い。
とりあえず弦が体を休めることさえ出来るなら、いまは充分だ。

人目をはばかり江戸を目指す旅。
弦は険しい山を越えて、野宿も覚悟しなくてはいけない事を重々じゅうじゅう理解してただろうし、弱音を吐くことも出来なかったのだろう。
自分が当たり前だからと言って、女の身の弦が同じように出来るわけがないことを忘れていた。

それに助五郎が居る子毛の町では、宿を取るわけにはいかなかったので、助かった。
ここで、由と会えた事は幸運だった。

「とりあえず、余り物は家で食べることにするから経木きょうぎに包んで、荷車の下に入れて置いて」

「この下に?」

弦は取っ手があることに気付き、そこを開く。

「それから包丁やまな板は、その横に引っ掛けて置けるから、その前にあたしが洗ってくるわ」

「わかりました。あ、この薬缶はどこに?」

「あぁ、それは...」

もう二人はずっと昔からコンビだったかのように、お互いの息が合っている。

...こりゃあ、邪魔しねぇほうが良さそうだ...

石が静かに店から離れようとすると、弦が近寄ってきた。

「煙草は吸わないで下さい」

小声で注意されたので、小声で返す。

「うるせぇな、そんなこたぁ分かってるよ」

「わかってるなら良いんです」

そう言うと弦は離れていった。

石は不機嫌そうに鼻を鳴らすと、店から離れ、街道の周りを囲む草むらの手前に立って周囲の気配を感じていた。

...さて、面倒な事になったな..

嫌なことは早めに片付けたいのが石の性分だ。 
挨拶を済ませて取り敢えず助五郎の顔を立てておけば、しばらく町に居ても放置してもらえるだろう。
子毛の町であれば按摩の客も多少は見つかりそうだし、路銀を稼いで金が貯まったら、逃げる。

普段なら、土地の有力者に上手く取り入って仕事に有りつくのだが、今回はその有力者と揉めてしまったので、それが出来そうにない。

..失敗したな、いつもならもっと上手くやれるんだがなぁ...

自分でもよく分からない、八九三ヤクザなど野っ原の糞のようなもので、石の人生には当たり前に存在してきたもの、嫌だとか憎むとかそんな感情は無い。

勿論、八九三も人であるから色んな奴がいて、人としての好き嫌いはあるが、最初から毛嫌いしたのは、自分にとっても珍しい事だった。

今からなら、由の家まで3人を送った後に子毛の町に行っても、時間的にはそれほどは遅くはならないはずだ。

例え遅くなろうが、夜道の歩き方は慣れてるから特に構いはしないが。

ずっと深い闇の底で足掻あがいてきた人生だ。
弦と出会い、明るい道に強引に引っ張って貰ったおかげで、太陽の下を歩くことも出来るようになったが、それでもまだ暗い道のほうが、息がしやすく体に馴染んでいる気がする。

こんなこと言えば、弦が怒って泣くかもしれないが。

話が決まればとやかく言わなくても、弦は自分で何をするべきか考えて、勝手に行動してくれる。 
せわしなく店の中で動いている大人の二人の女。 
妙も小さな体で自分にできることを手伝っているようだ。

店から二、三歩離れた道の端っこで、中座りをしてぼんやりと周りの音に耳を澄ます。

風の、虫が鳴く声、女達が話し合う声。

煙草がまた吸いたくなったが、いまはさすがに無神経だろう。

「由さん、荷車これどうやって動かすのでしょうか?」

荷車を眺め、動かし方に迷っていた弦は、まな板や包丁などを洗った汚れた水の入った桶を外に持って行き、棄てていた由に大声で尋ねた。

「あ、ちょっと待ってね」

店の裏のほうから由の返事が返って来る。

段取りよく働く女性が二人いたので、帰る準備がだいたい出来たようだ。
後は、荷車を外に出し、腰掛けを屋根の下に入れれば、終わり。

..そろそろ出番か?...

石がのそのそと動き出す。
店の中に入ると、荷車を眺めてる弦の前に割り込んで、荷車に手を這わせ、ストッパーらしきものを触る。

ガクッと荷車が少し揺れた。

「動かすのは、荷台の横に...」

と現れた由が、荷車の動かし方を言いかけて立ち止まる。

石は、車輪に手を伸ばして噛ましてある輪留めをのけると、由を振り返った。

「姉さん、輪留めこいつは持って帰るのかい?」

石が輪留めを由に見せる。

「...あ、いや....店に」

「じゃあここに置いとくよ。弦、荷車こいつを出すから、ちょいと案内あないしてくれ」

輪留めを脇に置くと、石は荷車の取り手を持ち動かし始めた。

..え?

由が呆気に取られてるうちに、弦の指示を聞きながら石は荷車は外に出し、腰掛けを店に収めた。
そして石は、街道に出した荷車の取り手囲いの中に入り、取り手を掴んで引き上げる。

そこまで黙って見ていた由だったが、慌てて石を制止しようとして、弦に止められた。

「まだ小さな妙ちゃんも働いてたのに、いっさんはずっと怠けてただけですから。 ほら、あのお腹を見て下さい」

弦の指さすほうに、石のぽっこりとした中年腹があった。 

「最近太り気味なんですよ。痩せるのに、これぐらいの力仕事は良いんです」

由に向かって弦が微笑んだ。

...ひでぇ言いようだ..

石は心で愚痴をこぼす。
由を説得するための方便ではあるとは思うが、

...ホントにそうか?...

石は首をかしげた。

「でも、石さんは、」

一瞬、目が見えないと言いそうになったが、まだそれを気軽に言えるほどの仲ではない。
口に出すことは由にははばかられた。

弦は、由の言いたいことも理解している。 
その上で、

「大丈夫ですから、いっさんに任せてください」

と言った。

「行きましょうか、いっさん」

「ああ」

弦の声に返事して、石は取り手を握りしめ荷車を引き始めた。


カラカラ回る車輪の音、そのまわりを子供を含めて3人の女性がとり囲み、荷車は進んでいく。

最初は荷車から荷物が落ちないか、石が怪我をしないかと心配していたよし
今は沈む夕陽を見ながら、弦と談笑している。

「弦ちゃん達が居てくれて助かったわ、一人だと店終いすることはできなかったから」

「そんな、由さん。泊めて頂くのですから、お礼を言うのはこちらですよ」

二人の会話が石に聞こえてくる。

「でも、いつもこれぐらいでお店を閉められるんですか?」

弦が由に聞く。

「普段はもう少し遅いかな?、いつも荷車を引きに誰か来てくれるの。大抵は定吉さんだけれど」

うつむき加減でそう言いながら、少し照れたような由。

「...お優しいんですね。定吉さん」

微笑ほほえみながら弦が由の顔を覗き込む。
山向うに陽が落ちかけて、あたりは赤く染まっていく。
由の顔も、少し赤いようだ。

「途中で会えたらいいんだけど..もし会えなかったら、後で、定吉さんに謝っておかなきゃね」

と由が独り言のように言う。

弦は、なんとなく由が急いで店を閉めたことに思い当たる気がした。
橋梁工事の現場に行った助五郎達だが、街道を子毛に戻る時にまた由の店の前を通るはず。
由と助五郎の間の雰囲気を見れば、由はおそらく助五郎と会いたくなかったのだろうと思う。
それは弦も同じ、また会いたいとは思わなかった。

「お詫びに、定吉さんになにか作りましょう。夕食の準備のいでですから」

そう言う弦に、由が顔を向ける。

「そうね。手伝って」

「はい」

弦と由はお互い笑顔で顔を見合わせた。


..手伝ってもバチは当たんねぇと思うんだが、誰も手伝う気はねえのかなぁ..

重い荷車をひとりで引っ張る石の顔を、夕陽が赤く染めていく。
荷車は、盲目の石に触って誘導しなくても、

「すこし左に寄せて、進んで下さい。」

弦がそう言うと、その通りに動く。

由は不思議な面持おももちでそれを見ていたが、妙は由よりも、もっと不思議に思ったようだ。
駆け出すと、荷車の前に出て赤く染まった石の顔を見上げ、本当に見えてないかを確かめようとした。

「嬢ちゃん、あしの顔になにかついてるかい?」

石には妙の姿は見えてないはずなのに、顔を向けられ、妙は心から驚いた。
また走って、荷車の少し後ろを歩く由の足下に飛び込み、着物のすそにしがみつく。

「ありゃ、どうしたかな?」

石は頭を掻いた。

「いっさんは、顔はおっかないけど、ああ見えて心持こころもちは優しい人なのよ」

由の隣を歩く弦は、妙が石の顔に脅えたのかと思って、妙の髪を撫でながらなだめた。

妙は、弦に頭を撫でられながら、じっと前を向いて、荷車を引く石の背中を見つめた。 

..このおじさんは、目を閉じているだけで、本当は色んなものが全部見えているのかもしれない..

そんな感覚を抱きながら。
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