籠の中の天才

中岡 始

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プロローグ

父の教え

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自宅の奥にある小さな一室。天井近くまで積み上げられた本棚には、技術書や雑誌がぎっしりと詰まっている。その一角に置かれた古いデスクトップパソコンが、静かな唸りをあげている。その前に腰掛ける男性は、膝の上に小さな男の子を乗せていた。

れい、見てごらん。この数字が全部、命令なんだよ」

父親は柔らかな声で語りかける。6歳の黎は、父の言葉に目を輝かせながら、カタカタと動くキーボードを見つめていた。画面には、シンプルなプログラムコードが流れ、緑の文字が規則的に並んでいる。

「これが命令?」

「そう。これをちゃんと書くと、コンピュータがその通りに動いてくれるんだ」

父の指は滑らかにキーを叩く。その手つきを見ているだけで、黎は不思議な気持ちになった。大人びた言葉を使うわけでもなく、手品のような派手な動きでもない。ただ淡々と画面に文字を打ち込んでいるだけなのに、その光景には何か特別なものがあった。

「じゃあ、ここを押してみて」

父は黎の小さな手を優しく握り、Enterキーへ導く。黎がそっと力を込めると、画面に小さな窓が開き、「Hello, World!」という文字が現れた。

「動いた!」

黎は小さな手を口元に当てて笑った。自分が押したたった一つのキーが、画面の向こうの何かを変えたような気がして、胸が高鳴った。

「そう、動いたね。でも、君が押す前に僕が書いた命令があったから動いたんだ」

父は、黎が驚きと興奮の中にいるのを感じ取りながら、さらに言葉を続けた。

「技術って、こうやって人の手で命令を作って動かすものなんだ。でも、それだけじゃ足りないんだよ」

「どうして?」

「技術って何のためにあると思う?」

父の問いに、黎は一瞬首をかしげる。考え込んだ末に、思いついた答えを口にする。

「んー…面白いものを作るため?」

父は笑みを深め、頷いた。

「それも正解だ。でも、本当にすごい技術っていうのは、人を助けたり、笑顔にするものなんだ」

「笑顔にする?」

黎は不思議そうに目をぱちくりとさせた。彼にとって技術とは、不思議で楽しいおもちゃのようなものだった。どうしてそれが笑顔につながるのか、まだ理解できない。

「例えばね、病気で困っている人を助ける機械とか、遠くにいる家族と話せる電話とか。技術があれば、誰かの生活を少しでも楽にすることができるんだ」

父の言葉を聞きながら、黎は画面に表示された「Hello, World!」の文字をじっと見つめた。その小さなメッセージが、どこか遠くで誰かに届いたらどうだろう。その瞬間、その人が笑ってくれたら。それは、とても素敵なことだと思った。

「僕も、そんな技術作れるかな?」

黎は父の顔を見上げて聞いた。その瞳には純粋な期待と憧れが宿っていた。父は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑み、黎の肩を軽く叩いた。

「もちろんだよ。君ならきっと誰よりもすごいものを作れる。大事なのは、その気持ちを忘れないことだ」

---

部屋には古い電球の暖かな光が広がっていた。黎は父と並んでパソコンの画面を見つめながら、次に何を打ち込もうか考えていた。父の手の温もりが、黎の背中を支えている。その時の光景は、黎にとって一生忘れることのできない記憶となった。

---

それからというもの、黎は父と一緒に過ごす時間を楽しみにするようになった。家に帰ると、ランドセルを放り出して「お父さん、今日は何を作るの?」と駆け寄るのが日課だった。

父は時々、古いラジオや壊れたおもちゃを持ち込んで修理を見せてくれた。ネジを外し、中身を分解しながら、部品がどんな役割を持つのか丁寧に説明してくれる。黎はその手元を食い入るように見つめ、「次は僕にやらせて」と言うと、父は笑いながら工具を渡してくれるのだった。

「失敗してもいい。大事なのは、どうして失敗したかを考えることだよ」

そう言いながら父は、失敗に落ち込む黎を慰めることもあれば、うまくいった時に一緒に喜んでくれることもあった。その積み重ねが、黎にとって技術への興味と父への尊敬を深める時間だった。

しかし、それが永遠に続くものではないことを、黎はまだ知らなかった。

---

ある日、父が帰宅しない日が増えた。母が「お仕事が忙しいのよ」と言うのを聞き、黎は納得しようとしたが、それでも寂しさを拭えなかった。何かが変わり始めていることを幼いながらも感じていた。

やがて、父が仕事のトラブルで会社を辞め、家庭が不安定になったことを知るのは少し後のことだった。部屋にこもる時間が増えた父は、徐々に黎との会話も減らしていった。

それでも黎は信じていた。いつかまた、あの暖かな部屋で一緒にプログラムを作る日が来ると。

だが、それは叶うことはなかった。

---
現代の黎の部屋は、かつて父と過ごした作業部屋に似ていながら、どこか違っていた。机の上には最新のデバイスが並び、コードが映し出されたモニターがいくつも点滅している。その中で一際静かな存在感を放つのが、彼のAI「セルフィア」だった。

「黎、作業はこれで一区切りではありませんか?」

セルフィアの柔らかな声が部屋に響く。しかし、黎は何も答えず、コードを眺めながらキーボードを叩き続けた。

机の端には父と並んで撮った写真が飾られている。その写真は、埃をかぶり、どこか色褪せているように見えた。

「父さんが教えてくれたあの頃の気持ち…。それは今も僕の中に残っているのだろうか」

ふと、そんな言葉が頭に浮かぶ。セルフィアが再び声をかける。

「黎?」

しかし、黎は答えなかった。続けるように手を動かし、目の前の画面に集中するだけだった。

部屋に響くのはキーボードの音と、PCの冷却ファンの微かな唸りだけ。その中で、かつて父と過ごした暖かな日々の記憶が、静かに浮かんでは消えていった。  
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