君と私の恋の箱

華子

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涙のバケツ

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 熱が下がれば日常はすぐにやってくる。高校生になってから初めて、私は半袖シャツに腕を通した。

「乃亜ちゃん、昨日どうして休んだの?」

 登校早々心配してくれたのは、最近仲良くなったクラスメイトの双葉ふたばだった。

「ちょっと風邪引いちゃってて。でも昨日ずっと家にいたら、すっかりよくなったよ」
「そうだったんだ。実はね、私、乃亜ちゃんとふたりで遊んでみたくて、昨日の放課後に誘おうと思ってたの。今日も空いてるんだけど、乃亜ちゃん病み上がりだし、無理だよね?」

 その気持ちを嬉しく思い、笑顔になった。

「私も双葉と色々な話してみたいっ。遊ぼうよ!」
「ほんとに?やったあっ」

 にっこり笑った彼女はチャイムと同時に自身の席へ戻って行く。ハーフのような顔立ちにゆるふわヘアー。同級生の男子数名は、彼女に告白したって噂だ。


 放課後。私達は校舎最寄りのファミリーレストランへと腰を据える。

「乃亜ちゃんって、どうしてこの高校にしたの?」

 パンケーキを頬張りながら、双葉が聞く。私は相も変わらずホットのブラック。

「大きな理由はないの。家の周りは偏差値高い学校が多かったから、消去法で」
「そうなんだ。でもこの学校いいよね。校則ゆるいし、いい先生も多いし」
「私もそれ思った……って、あれ?」

 華奢な彼女の背中越し、同じ制服に身を包んだ男子がひとり、入店するのが目に入る。彼はゆっくりこちらへやって来た。

「双葉、あれってうちの学年じゃない?」
「どれ?」

 そう言って振り返った彼女の前で、彼は立ち止まる。

「す、須和双葉すわふたばちゃんっ?」
「そうですけど……」

 彼の視線は双葉へ直線。蚊帳の外の私は、ふたりのやり取りを眺め入る。

「俺、隣のクラスの尾崎慎吾おざきしんごっていうんだけど。よ、よかったら連絡先交換しない?」
「あー……はい、いいですけど」
「まじ?やったっ」

 小さくガッツポーズを作る彼は、遊び目当てには見えなかった。ただ純粋に好きな子と繋がりを持ちたいのだと、そう思えた。
 目的を成し遂げた彼は、ようやく私に目を向けた。

「ごめんね、急に。ふたりがこの店に入るの見えたからさ、つい」
「気にしてないよー」
「君は、ええっと……」
「双葉と同じクラスの乃亜です」
「そっか。双葉ちゃん、乃亜ちゃん、また学校で」

 軽い会釈をし、スマートに店外へ出た彼は好印象。私は双葉に視線を移す。

「尾崎君いいじゃん、礼儀正しくて」

 浮かれる私に対し、彼女は溜め息を漏らしていた。

「私、好きな人いるんだよなあ」
「そうなの?この学校?」
「ううん、違う学校。小学校と中学校は一緒だったけど」

 その途端に親近感が湧いた私は、身を乗り出して聞く。

「双葉は、その人に告白したことはあるの?」
「あるよお、何回も。全っ部撃沈」

 こんなに可憐な彼女でも、叶わない恋があるのだと知り驚いた。

 物憂げに頬杖をついた彼女は、窓の外を眺めて言った。

「彼じゃなくてもいいやって思うのに、どうしても彼じゃなきゃダメだって、そう思っちゃう自分が嫌になる時がある。彼は恋人もいないのに私をフるんだから、もう、頑張っても無理なのに」

 彼女の言葉はまるで、私の想いを代弁してくれているかのようだった。
 陸以外の人でいいと何度も思うけれど、やっぱり陸がいいと何度でも思ってしまう。失った今だからわかる。私には陸しかいなかった。

 しんみりとした雰囲気の彼女に、心ばかりの助言をした。

「私もね、幼馴染に好きな人がいるの。だけどもう、彼は私の親友と付き合っちゃったから、今の私はふたりを応援しなきゃいけないの。努力しちゃダメな立場なの」

 双葉の丸い瞳がせばまった。

「今の双葉はまだ、努力が許されるんだよね」
「努力……」
「双葉がこうやって他の人と番号交換をしている間にも、彼は誰かに告白されているかもしれない。彼がそこで付き合ってみようと思えばもう遅い。略奪するのはその誰かを傷付ける。だから、繋がれるうちに繋がって。諦められないなら、頑張って欲しい」

 彼女を説得するふりをして、私は己の言葉に耳を傾けていた。もう自分は手遅れなのだよ、と。

「乃亜ちゃん」

 切なげに、双葉が言う。

「辛かったね」

 辛かったね。そう過去形で言ってくれたから、じんわりと身に沁みた。もうこの恋は過去のもの、陸は前に歩んでいった。今後、陸が私を追いかけることはないし、私が彼を求めることもない。

 大丈夫。陸がくれたあの箱に、私達の思い出は綺麗なまま残っている。初めてされた告白も、お揃いの御守りも、夜の校庭でしたキスも。

 だから、いつまでもこんな態度で陸と接していてはダメなんだ。ずっと一緒にいたいから幼馴染でいる道を選んだのに、これで彼との関係が途絶えるのならば、恋愛をして別れがくるのと同じじゃないか。


「陸ー。歴史日本漫ガタリ、貸してー」

 双葉と別れた夕方。玄関扉を開けた陸は、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしていた。

「……は?な、何、突然」
「漫画貸してってば。あがっていい?」
「いや、いいけど……」

「お邪魔しまーす」と、ずかずか無遠慮に、陸の部屋へと上がり込む。

「ってか、この前一緒に読んだじゃん」
「そうだけど読み返したくなったのっ。どこにあるの?」
「どこだっけな。ちょっと待て、探す探す」

 本棚を漁る陸の後ろ、彼のベッドに腰を下ろし、週刊誌をぱらぱら捲って時間を潰す。
 横顔だけで、彼は聞いた。

「そういや風邪治ったのかよ。ってかなんで森といたの?」
「治った。森君はお見舞いに来てくれた」
「……そっ」

 発見した漫画本をベッドに置いて、陸はどかっと隣に座る。そして私の髪に触れた。

「どんどん色抜けて明るくなってくな、乃亜の髪。もうすぐ金髪じゃん」

 髪の毛一本一本、陸がいる左半身に、全神経が集中する。

「似合ってるよ」

 そんな言葉に、もう一喜一憂などしない。

 ベッドから勢いよく立ち上がった私は、本を手にしてお礼を告げる。

「ありがとうね。すぐ返すから」
「おう。いつでもいいよ」

 陸は玄関までついてくる。

「俺もこれからバイトだし、ついでに送ってくよ」
「何時から?」
「五時」
「まだちょっと早くない?」
「うっせ。送らせろ」

 そう言って、陸は制服姿のまま靴を履く。異なる制服を着て彼と並ぶのは、これが初めてだ。

 川沿いは行かない。彼女持ちの陸と長く過ごす必要はない。

「お前スカート短くね?金髪にミニスカート、危ねえよ」
「そんなことないよ。うちの学校、みんなこのくらいだもん」
「変な男寄ってくんぞ」

 足元の小石をひとつ蹴って、陸はそう言った。

「大丈夫。今日も友達の双葉って子だけが番号聞かれてて、私なんか相手にされなかった」
「へぇ、可愛いのその子?そりゃ、盾になっていいな」

 普通に話せている自分に、少し驚く。

「楓は元気?」
「元気。あいつ最近、彼氏できたらしいぞ」
「うそ!私の楓がお嫁にいっちゃったあ~」
「結婚してねぇよ」

 こうしていつも通り会話ができるのは、私の努力では決してなくて、どんな機嫌の私を前にしても、常にブレずにいてくれる陸のお陰だ。


 家のマンションが見えてきて、さようならまであと少し。咳を払って喉を整える。

「陸、ごめんね」
「何が」
「昨日の電話。心配してくれてたのに、態度悪くしちゃって」
「あーべつに、気にしてねーけど」

 ぶっきらぼうな優しさに、また涙が出そうになってしまう。

「凛花のこと大事にしてね。あの子の初めての恋だから、私、めちゃんこ応援してる」
「……ん」
「私と陸はさ、これからもずーっと幼馴染ね。時々こうやって、近況報告でもしようよ」
「おう……そうだな」

 陸は、私の心を読むなど簡単だろうから、私が涙を堪えたことくらい、わかったと思う。だけどもう、泣きそうな私を抱きしめはしない。彼が確実に、前へと進んでいる証拠だ。

 エントランスで陸に背を向けた途端、下瞼すぐそこまできていた涙はあっという間に地に落ちた。だけどこれは、悲しみの涙なんかじゃなくて。

「陸……っ」

 募る愛しさを流す涙だ。

✴︎

「レクリエーション大会?」
「うん、並河高校でやるんだって。乃亜ちゃん一緒に行こうよ」

 森君が通う高校との交流会。そういえば以前そんなことを、彼が言っていたかもしれない。双葉と私は揃って参加用紙に記入した。


「レクリエーション大会、俺も参加するよ」

 バイトの帰り道、森君に誘われゲームセンターへとやって来た。

「マルバツゲームは毎年難しいって噂だぞ。気をつけろ」
「あははっ。どう気をつければいいの」

 彼がプレイしたいと言った戦闘ゲームまで向かう途中、私の足はふと、一台のクレーンゲーム機の前で立ち止まる。ケースの中にはあの魚のぬいぐるみが数匹いた。

 森君が言う。

「これ、妖怪魚戦争のキャラクターじゃん」
「よ、妖怪?この魚、妖怪なの?」
「うん。ゲームの妖怪だよ」

 これに似ていると言われた私って一体。

「この魚、ぼけっとした顔してるけどけっこう強くてさ、俺まだ一回も倒せてないわ。口から泥みたいな気持ち悪いの出してくるんだよ。それにあたると一発で死ぬ」

 陸との淡い思い出が複雑な色へと変わろうとしたその時、背後からは声がした。

「あれ、乃亜と森君じゃーん」

 振り向くとそこには凛花がいた。一瞬にして鳥肌が立った原因は、彼女の隣。凛花と仲睦まじく手を繋ぐ陸の姿だ。

「何、お前等なんで手なんか繋いでんの?まさか……え、ええ!」

 森君は陸から何も聞かされていなかったのか、仰天していた。そのさまを見た凛花が言う。

「ちょっと陸、私と付き合ったってそろそろ地元の友達に言ってよね。もうすぐ二ヶ月は経つのにっ」

「そーだそーだ」と森君は、陸の首に腕を回す。

「陸、水くさいぞ!内緒にしてたな!」
「離せよ森っ、悪かったって」
「この秘密主義者がー!」

 男達が戯れている間に、凛花は私に耳打ちをした。

「乃亜は、森君とデート?」
「そ、そんなんじゃないよ。バイト帰りにゲームでもしようかって、立ち寄っただけっ」
「ふぅ~ん?」

 ニヤニヤと信じていない様子の彼女は、きっと陸とのデートで浮かれている。

「ところで乃亜達、何見てたの……ってこれ、妖怪魚戦争のボスじゃん!」

 クレーンゲーム機の中を覗いた凛花は、「陸!」とフロアに響くほどの大声を出した。森君に解放された首を右に左に傾けながら、陸は「何」と言う。

「これとってよ!このぬいぐるみ!」
「どれ」

 彼女の示すぬいぐるみがあの魚だと認識すると、陸はその魚と同じような瞳で私を見た。まあるくぱっくり開けられて、広がる白目。ずいぶん長いことそんな目を向けてくるものだから、感情を探られている気分になった。

「ごめん凛花。俺、こういうのは苦手で」
「えー、いいからやってみてよー」
「いや、でも……」

 再び陸と目が合って、心の中を覗かれる。居た堪れない。

「森君、早く戦闘ゲームしに行こーっ」

 大きな体を反転させて、私は森君の背中を押した。

「ああそうだな。じゃあな陸、凛花っ」

 凛花は笑顔で手を振っていた。陸の顔は見なかった。

 バスケ部の定休日に地元を彷徨くのは危険。胸に深く刻まれた。

 それから一時間ほどゲームを楽しんで、表へ出た。

「前の方歩いてるの、陸と凛花だな」

 私達の数十メートル前方、外灯に照らされながら並び歩くふたり。凛花の腕にはぬいぐるみが抱えられていた。

「陸の奴、結局取ってやったんだ。なんだかんだで優しいんだよなあ、そういうとこ」

 以前は三回挑んで無理だった。ならば今日は何度挑戦してあげたのだろうと思えばもう、悲嘆に暮れた。涙のバケツがものの見事にひっくり返り、そこら中を濡らしていく。

「おい乃亜!」

 突として膝から崩れ落ちた私に、森君は狼狽えていた。

「おいおい、どうしたんだよ!」

 なんでもないよと言いたいのに、バケツの中身があまりに多く、息をするのも困難だ。

 私の名を叫ぶ森君の声に気付き、陸が振り返り見たことは、後日森君から聞かされた。


「少し落ち着いた?」

 私をベンチに座らせて、自動販売機で水を購入してくれた彼。

「ありがとう、森君」

 鏡は手元にないけれど、今の私はとてつもなく、酷い顔をしているのだろう。

「もうちょっと休んでから、帰ろっか」

 彼は何も聞いてこなかった。恋人だった頃には気付けなかった、彼の優しさに触れる。

「森君って、意外と紳士だったんだね」
「今頃気付いたか。遅いなあ」
「泣いた理由、聞かないの?」
「ん~、予想は陸かな」

 その発言に驚き固まっていると、彼は続けた。

「俺ね、小学校の頃毎週楽しみにしてたドラマがあったの。一話二話って毎週必ず観てて、最終回のその日もテレビの前でワクワクしながらスタンバイしてた」

 突然始まった思い出話に困惑するが、彼は「だけどね」とまだ話す。

「観られなかったんだよ、最終回。その日に限って家の時計が一時間半も遅れてた。辛くて超泣いた。当時は今みたいに見逃し配信とかなかったからさ、どう足掻いても観られなくて」

 私は「う、うん」とぎこちない相槌を打つ。

「悔しくて何日も泣けた。だけど乃亜、不思議なんだよ。俺、その最終回を未だに観ていないのに、もう涙が出ないんだ」

 不思議だねとも思えずに言葉を選んでいると、彼はにっこり笑って言う。

「つまりは枯れない涙なんかないってことだ。今は辛くて悲しくてどうしようもないかもしれないけど、いつかは自然に治っていくんだよ。例えその願いが叶わなくたって」

 未練を残したドラマと失恋。並外れた彼の考え方に、思わず唸ってしまった。

「時が必ず解決してくれるから、今は泣けるだけ泣いて、スッキリしちゃいなよ」

 ははっと優しく微笑まれて、じんわり心に広がる何か。

「ありがとう森君。少し楽になった」

 この世に癒えぬ傷などない。ゆっくり治していけばいい。そう思えた。


 眠りにつく前。卒業式の日に陸と撮った写真を眺めた。

 ふたりで想いを確かめ合った日。その想いに鍵をかけた日。凛花のことがあってからは削除しようか迷っていたけれど、今は無理に消さなくていいのかもしれない。

 瞳を閉じればまだ、瞼の裏には陸がいる。その姿が消えるまで、彼が私の心からいなくなる時まで。今は静かに、時へ身を委ねよう。
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