君と私の恋の箱

華子

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決断

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 勇太君からのメールには『この前のカフェで待ち合わせ』と書かれていた。到着すると、ドリンクを嗜む彼の姿が目に入る。

「早かったんだね、勇太君」
「十分前に着いたんだけど、何もオーダーしないで座るのも悪いかなあって思って」

 メニュー表を開くことなく、私はグレープフルーツジュースを注文した。

「体調大丈夫なの?軽い貧血だって連絡くれたけど……」
「うん、もう大丈夫。心配かけてごめんね」

 突然襲ってくる嘔気に、今日だけは見舞われませんようにと心で願う。

「体育祭、陸には負けたけど収穫もあったんだよね」

 頬杖をついた彼は言った。

「乃亜が俺の恋人だって、全校生徒の前で言えたこと」

 その朗らかな表情に、ズキンと胸が痛む。

「だってさ」と理由を述べようとしてくれた彼を、幾らか大きな声で遮った。

「ふ、ふたつ!」

 カフェにはそぐわないその音量に、彼の目が点になる。

「今日はふたつ、勇太君に言いたいことがあるの……」

 神妙な面持ちの私を前に、一気にグレーを帯びた彼。私は気を引き締める。

「勇太君の子供を妊娠しました。産むことはできないから……一緒に病院へ行って欲しい」

 彼の瞳が広がった。

「あと」

 次のひとことの方が、傷付けてしまうかもしれない。

「私と別れて欲しいっ……」

 頭を下げた視線の先に映るは、可愛いエメラルドグリーンのテーブルとグレープフルーツジュース。耳に届くさざ波のBGMは、ヤシの木と壮大な海が想像できる。

 勇太君は今、どんな顔をしているのだろうか。


「ごめん」

 長い沈黙を越えて、彼は言った。私はゆっくりと顔を上げる。

「俺がきちんと避妊をしなかったせいで、乃亜に辛い思いをさせちゃったね」
「ううん、私も悪いの」

 落ち込む彼に、胸が詰まる。

 顔の前で祈るように手を組んで、その手に額を落とす彼は、何かと葛藤しているようにも見えた。

「乃亜ごめん。今言うべき言葉じゃないとわかっているんだけど、色々頭に浮かんだ中で、一番伝えたいことだから言ってもいい?」
「う、うん」

 一体何を言われるのだろうと怯えたが、彼は私の意表を突いた。

「ありがとう」

 目を見て、はっきりとそう言われた。

「純粋に、ふたりの間でできた赤ちゃんを愛しく思った。俺と乃亜の子を、今お腹の中で育ててくれてありがとうって、そう思った」

 身篭った当の本人は、妊娠が判明したその瞬間、米粒ほどの喜びさえも抱かなかったというのに、どうしてこの人は目にも見えぬその子を愛しいと思えるのか。

「乃亜は産まないって決めたのに、こんなこと言われても困るよね、ごめん」

 ははっと申し訳なさそうに笑う彼。中学三年生とは思えぬ中身、振る舞いに、脱帽した。

 彼との最後のデートとなる今日は、葬式にも似た雰囲気が漂うだろうと確信していた。しかし彼は、感謝を口にしてくれた。そして続けて、予想だにしていなかった未来を話す。

「乃亜の家と俺の家に行って親に話したら、すぐに病院へ行こう。それと、別れの話しなんだけど……」

 彼は「ごめん」と俯いた。

「また今度でもいいかな、その話。俺達の子供の前で、そんな話したくないよ」

 その言葉は、衝撃的だった。中学生だろうがなんだろうが、自分が親であることには変わりないのだと認識させてきた。

 まだペタンコのお腹を触ってみた。普段は痩せただの太っただのの目安でしかないこの場所が、彼のそのひとことで赤子の小さな部屋のように感じた。

「お願い乃亜。その子とお別れするまでは、俺を彼氏でいさせて欲しい。我儘でごめん」

 謝らなければいけないのは私の方だと思った。お腹の子を置き去りに、自分の気持ちしか考えていなかった。
 私がうんと頷くと、彼は安心して微笑んだ。


 その日の夜。勇太君の家を訪れて、彼のご両親に事情を説明する。彼の母は「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も私に頭を下げ、父は彼を怒鳴っていた。

 私の父はといえば、平日の夜なんてどこかで呑んでいるに決まっていて、私の電話には出なかった。けれど勇太君の家の固定電話からかけた途端、たったワンコールで「はい」と出た。知らぬ番号はビジネス関係かもしれない。父はきっと、そう思ったのだろう。

 勇太君のご両親は、私の自宅まで出向いてくれた。ほろ酔いで帰宅した父に妊娠した事実を話しても、中絶費用ばかりを気にされて、気が滅入る。それでもただひとことだけ──

「乃亜。体は大事にな」

 と、親らしいことを口にしていた。それが本心なのか建前なのか、父にしか知り得ない。勇太君のご両親は、終始平謝りだった。

 マンションの下で三人の背中を見送っていると、勇太君だけ反転し、こちらに向かって駆けてくる。

「どうしたの?忘れ物?」

 私がそう聞くと、彼は少し切れた息を整えながら「少しだけ話せる?」と言った。


 一番星がひとつ瞬く空の下、近所の広場のベンチに座る。

「乃亜、今日はありがとう。なんか丸一日かかっちゃったね。体調大丈夫?」
「平気だよ。こっちこそ勇太君のご両親にわざわざ来てもらっちゃって、ありがとう」

 勇太君の口元は微笑んでいるのに、瞳には悲しみの色が見てとれた。

「俺達が大人だったら、この子の未来は変わっていたのかな……」

 私のお腹に手をあてがった彼は「悔しい」と歯を食い縛った。この人は命の尊さを知っている。お腹の上の彼の手に、私も自分の手を置いた。

「ねえ、勇太君」
「うん?」
「この子の父親が、勇太君で良かった」

 その言葉で、彼の瞳が揺蕩った。

「心の底からちゃんとこの子を想ってくれる、勇太君で良かった」
「乃亜……」
「勇太君ってほんと、すごいねっ」

 広場では、キンモクセイの香りが漂っていた。だけど突然、勇太君の匂いしかしなくなった。

「勇太、君……」

 それは、彼が私を抱きしめたから。

 彼の腕の中は、秋の夜にも関わらず熱かった。そして、そのタイミングでどうしてだか。

「乃亜?」
「は、吐きそうっ」

 つわりが私を苦しめる。


「ごめん勇太君。み、見ないで……」

 公衆トイレへと飛び込んだ私は、付き添おうとした勇太君を突き放し、上着だけを彼に預けた。今日はほとんど何も食していないから、胃液が喉を刺激し痛い。

 涙ぐみながら不快な時間をトイレで過ごしていると、プルルと聞こえた着信音。私のものか、勇太君のものか。例え私のものだとしても、携帯電話は上着のポケットの中にある。そしてこの状況では、出るに出られない。

「はい」

 着信音が止むと同時に、彼の声がした。

「乃亜ならまだ一緒にいるよ。え?別れてないけど」

 鳴っていたのは私の電話。そしてその相手は陸。話の内容から、そう悟った。

「もう切っていい?どの立場で言ってくるんだよ」

 焦りも戸惑いも襲うのに、どうしようもない吐き気のせいで、私は未だに便器から顔を上げられない。

「乃亜は俺の彼女だ。気安く電話なんてしないで欲しい」

 心労が、気持ち悪さに拍車をかける。

✴︎

「こんなとこへ呼び出して、なんの用?」

 翌朝のホームルーム。そこに勇太君の姿はなかった。

「学校の屋上って入っちゃいけないんだよ?受験生なのにバレたらどうすんの?陸が責任とってくれよな」

 どうしていないのだろう。

「ああ、責任とるよ」
「で、用件は何?」
「勇太さあ、乃亜が別れたいって言ってんだから、別れてやれよ」
「は?」
「どうせ、お前が駄々こねたんだろ」
「……悪いけど、乃亜が昨日俺にくれた言葉知ってる?」
「そんなん知らねえよ」
「なら教える。『俺がお腹の子の父親で良かった』って、そう言ったよ」

 ドゴッ!
 
 勇太君がなかなか教室に現れないのは、もしかすると昨日の電話が関係しているのではないかと、胸騒ぎが止まらなかった。

「いってえ……」
「勇太が避妊しなかったから乃亜は苦しんでんだよ!それなのに何が父親だよふざけんな!結婚もできねえ年齢で乃亜のこと孕ませやがって!アイツがどれだけ辛い思いしてんのか、知ってんのかよっ!」
「……相変わらず、陸は熱いな」
「はあ!?」
「予想通り、陸はもう知ってたんだね、妊娠のこと」
「そうだよ、もうこれ以上乃亜を悩ますな!別れてやれよ!」
「おい離せよ。陸には関係ないだろっ」
「関係あんだよ!大体お前は勝手すぎんだよ、ただヤりてーだけのオスだよ!自分の所有物みたいに色んなとこキスマークつけて、乃亜を囲ってるだけじゃねえか!」
「おい、陸」
「んだよっ」
「色んなとこのキスマーク……?首以外は俺、脱がなきゃ見えない箇所にしかつけてないんだけど」
「あ、やべ」

 ボゴッ!

 時計を見る。もうそろそろ、ホームルームが終わる。

「……ッテエ」
「陸も結局変わらないじゃないか!人の彼女と勝手に寝て、何を俺に忠告してくれてんだよ、ふざけんな!」
「お、俺はっ」
「ヤりたいなら人の恋人でも構わない。陸の方が、よっぽどただのオスだよ」


 ざわざわと騒ぎ出した廊下に気付いた凛花が、私の席へとやって来る。

「ちょっと乃亜っ、やばいことになってる」

 そう言って、教室から小走りに出て行く彼女の後を追った。

「こら!関係ない生徒は教室に戻る!散った散った!」

 廊下に溢れ返った生徒を促す学年主任。野次馬の視線は、あるふたりの元へと注がれていた。

「陸と菊池勇太じゃん……」

 人混みの中でも確認できてしまった、双方の口元の血。陸が一足先に自身のクラスへ入室すると、私の目の前を通り過ぎた勇太君も教室へと入っていく。

 凛花が私の耳元で囁いた。

「何があったの?あのふたり」
「さあ……」

 学校でトイレに篭りたくもないので、私は考えることを放棄した。


 産婦人科の先生が目を丸くさせたのは、その日の放課後。

「あら、この方はどなたかしら?この前の彼と違うけど」

 無神経な彼女の発言に私がわたわたしていると、勇太君は「彼氏です」と、堂々と言ってのけた。

「ああ、この前一緒にいらっしゃった男の子は、身内の方だったのねっ。私、てっきり彼があなたの恋人だと思って、厳しく注意しちゃったわ。謝っておいてちょうだいっ」

 オホホと上品に笑ったところで、許さないと心に決めた。

 勇太君のご両親も一緒に中絶の説明を聞いて、手術日も決めて、その日は終わった。


 帰りのバス車内。私の隣に腰を下ろしたのは、勇太君の母だった。

「乃亜ちゃん、お父さんにも承諾書を書いてもらってね?」
「はい」
「体調はどうかしら。大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
「本当にごめんなさいね、勇太のせいでこんなことになって。お金は全てこっちでもちますって、お父さんに伝えといてもらえる?」
「え、そんな、悪いですっ」
「いいのよ。息子には代わってあげられない手術を、乃亜ちゃんが来週するんだもの。お父さんもきっと、気が気じゃないわ。せめてお金だけでも」

 父は私に興味がない。私を気にかけてくれるのはいつだって他人だ。それはとても有難いことで、感謝すべきことなのだけど、その度、胸にぽっかりと穴が開いてしまうのは、どうしてなのだろう。


「ただいま……」

 帰宅すると、食卓にはラップがかけられた炒め物と、冷めきったご飯が乗っていた。ネットでつわりを調べて、柑橘系のゼリーを本当に買ってきた陸を思い出す。

 夕ご飯として用意されたそれ等全てをゴミ箱に放りながら、私は涙も一緒に捨てた。

「私、妊婦なんだけどっ……」

 周りに優しくされればされるほど、家に帰ってからが辛い。どうやったって父との溝は埋まらない。

「手術までの一週間くらい、心配してよ……」

 放っておかれるのは昔から。それは母が死んだところで変わらなかった。それなのに、どん底の時くらいは家にいて欲しいと望んでしまう。そんな自分を憐れに思った。

 
『乃亜。手術の日までの塾は全部休んだから、なるべく三人で一緒にいようね』

 携帯画面の中。お腹の子をひとりの人間としてカウントしてくれる勇太君を尊く感じる。次に病院へ行くその日まで、赤ちゃんが死ぬその時まで、私達は許される限りの時間を三人で過ごすと決めた。

✴︎

「菊池勇太と別れるんじゃなかったの?」

 手術をとうとう明日に控えた昼休み、凛花は私に聞いた。

「むしろ最近仲良しじゃん。放課後毎日デートしてるけど、恋人関係続行するの?」

 妊娠の「に」の字も話していない彼女には、言えることが少ない。

「そ、そうだったんだけど、別れ話するタイミング逃しちゃって。また頃合い見て切り出そうかなって思ってる」

 心配はかけたくない。凛花を含め受験生は皆、忙しいのだ。

 潔さが売りの彼女は深く突っ込むこともせず、早々と話題を変えてくれた。

「そういえば、この前のあのふたりの喧嘩は何が理由だったの?気になる~」

 しかし、切り替えた話題の方向は悪かった。

「知らない、聞いてない」
「え!まじで?彼氏と幼馴染が流血したんだから、普通聞くでしょ」

 私が絡んでいない保証があるならば、私だってそうしたい。

「乃亜がよくわからないわあ」

 そう凛花に呆れられて、私も自分を鼻で笑う。

「意味わかんない人間だよね、私って」


 勇太君と別れた帰り道。太陽が西に沈む頃。いつものコンビニへ立ち寄ると、袋を提げた陸に声をかけられた。

「うっす」

 まだ微かに残っている、口元の傷。

「う、うっす」
「何買いに来たの?柑橘系のゼリーなら、もう買い占めたぞ」

 その言葉で陸の持つ袋を覗く。そこに見えるは、みかんやレモンの絵が描かれた多量のゼリー。

「買いすぎっ。お金払うっ」
「いいって。母さんも買ってやれってお金くれたし」

 でも、と財布を取り出すが、陸に睨まれ断念した。

 陸の家へと勝手に行こうが、偶然会おうが、私が帰ると言えば、陸は必ず家まで送ってくれる。そして彼といる時は、遠回りの川沿いコースが多い。

「乃亜に会えてよかった。ゼリー届けにピンポンしようかと思ってた」
「電話くれればいいのに」
「電話は勇太が出る可能性があるだろっ。あれ以来、トラウマ」

 陸はぶうっと頬を膨らませてみせた。

「あ、あの時はたまたま勇太君に携帯預けちゃっててっ。ごめんね、もうないから」
「絶対?」
「絶対っ」

 重そうな袋を持つ手を肩に乗せて、陸は笑った。

「手術の日、決まったの?」
「決まった決まった、明日」
「おい明日かよ、報告しろよ。ゼリーこんなにいらなかったじゃん」

 拗ねる陸の横顔の向こう、目を奪われるほど美しい赤に、足が自ずと立ち止まる。

「わあ、綺麗な夕陽……」

 陸も足を止めて、それを見た。

「ほんとだ。真っ赤だな」

 あの夕陽が沈めば、きっとすぐに明日はやって来る。ちょっと待ってはもうきかない、お腹の子とは、ばいばいだ。

「陸」

 水平線が太陽のてっぺんを隠したその瞬間、私は陸の名を呼んだ。

「明日が終わって体調が戻ったら、陸の家に行ってもいい?おばさんと楓にもお礼を言いたい」

 陸は「今更?」と前置きをしてから言葉を続けた。

「うちに来るのに許可とかいる?お礼もべつにいらんし。乃亜は家族同然じゃん」

 ふふっと私が微笑めば、陸も小さく笑みを溢す。


「ちょっと休憩」

 ゼリーがたっぷり入った袋を地面に置いて、陸は土手の段差に腰掛けた。私も隣に座り、太陽が残したの色が、段々と薄れていくさまを眺める。

「勇太と殴り合った理由、アイツから聞いたっしょ?」

 陸は自嘲気味に言った。

「聞いてないよ」
「まじかよ、聞いてないの?」

 頭をがしがし掻く陸は、ばつが悪そうだ。

「乃亜と寝たこと、バレた……」
「え」
「墓穴掘ったわ、ごめん」

 その時抱いた陸に対する怒りは手に負えないものではなく、むしろスーッとすぐに、姿を消した。

「いいよ、しょうがない」

 あっけらかんとした私の態度に、陸は亀の如く首を出す。

「怒んねえの?」
「それで勇太君が私に幻滅してくれるなら、お互いすっぱり別れられていいかな。ほら、あっちだって未練がない方がいいでしょ」
「そういうもん?」
「そういうもん」

 辺りが暗くなる。頬を撫でる風も冷んやりとしてきた。

「そろそろ行こっか」

 そう言って腰を上げた私に、陸がこんな質問を投げてきた。

「乃亜と勇太が別れたら、俺、お前に告白していい?もちろん、ゲームじゃないやつ」

 夜に近い空の下、曇りのない陸の瞳から彼の決心が伝わった。はいとも言えず、ノーとも言えず、私は曖昧に俯くだけ。

 
 たくさんのゼリーを冷蔵庫に入れると、空っぽだった庫内が鮮やかに彩られた。

「ずっとこのままでいようよ、陸……」

 そう呟いて、ひとつを取って。静かな部屋で、ひとりで食べた。

✴︎

「お母さん、天国そっちに小さな命が逝ったよ。私が逝くその日まで、迷子にならないように手を繋いであげて、守ってあげて。お願い」

 うん。わかった。


 瞼を開けた先には純白の天井。一瞬、天国かと思った。
 ボーッとするのは麻酔が効いているせいだ。そのお陰でどこも痛くない、心以外は。

 日帰りで中絶手術ができる時代。一体幾つの命が、一日の間で葬られているのだろう。
 自分のお腹をさすってみた。誰もいない部屋を確かに感じて痛む胸、溢れる涙。
 もう天国には着いたのだろうか。恨んでもいい、憎んでもいい。私は死ぬまでこの十字架を背負っていく。

 学校を休んで一緒に病院へ行くと言ってくれた勇太君を、私は登校するよう言い聞かせて、ひとりでの手術を望んだ。付き添いは、彼の母。
 何故彼を拒んだかと言うと、それは本当に些細な理由だ。麻酔でぐっすり眠っている姿を、見られるのが恥ずかしいから。涎を垂らしていないとは言い切れない。

 帰宅し、ごろんと布団に寝そべる。うつ伏せにはまだ抵抗があるから、仰向けで。
 夕方のこの時間、父は仕事。奈緒さんも開店準備の為、もうスナックにいる頃だろう。

 私は幼少期の母との会話を思い出す。

「ママはなんで乃亜のママになったの?」
「あら、どうしてそんなことを聞くの?」
「だって、さっき怒られたから。乃亜じゃないほうがよかったのかなあって」
「そんなことないわよ、乃亜。ママは乃亜に会いたくて一生懸命産んだの。きっと乃亜じゃなかったら、あんなに頑張れなかったわ」
「そうなの?よかったあっ」

 耳に垂れ落ちる、ぬるい涙。

「ごめん、ごめんなさいっ……」

 謝ったところで、過去は消せない。けれど知識も語彙力も乏しい私の口からは、そんな言葉しか出てこない。

「ごめんなさい、赤ちゃんっ……」

 ねえお母さん。私の赤ちゃんと逢えたかな。


「乃亜ちゃん、ちょっといい?」

 ノックの音と共に、奈緒さんの声が聞こえた。慌てて布団で顔を隠した私は、低い声で「はい」と言った。扉が開く。

「乃亜ちゃん、大丈夫?」
「うん。まだお店じゃなかったんだ」
「買い物行ってたの。でも、もうお店に行かないと」

 枕元に座る音がした。

「お父さんから聞いたよ。今日、手術だったんだね、大変だったね。何か私にできることがあれば、言ってね?」
「べつにない」
「そっか……ごめんね乃亜ちゃん。こんな時なのにお店も休めなくて。うちのスナック、私以外従業員がいないのよ。だから、急には閉められないんだ」

 奈緒さんが、私に歩み寄ろうとしてくれているのは伝わる。彼氏の娘だからって、ただそれだけの理由だろうけど、逆に言えばたったそれだけの理由で、こんな無愛想な態度をとっても、無視しても、私を見捨てない。

 返事をしない私に、彼女はまた言葉をかけた。

「スープ作ったから、もし飲めそうだったら飲んでね。そろそろ仕事行くね」
「ん」
「行ってきます、乃亜ちゃん」

 パタンと扉が閉まれば、再び訪れる静寂。酷い対応の己を正当化するは、こんな考え。

 いつか彼女も父と別れる時がくる。私が恋人の娘ではなく、他人に降格する日がくる。すると今まで築いた関係などなかったことにされる。だから、心を開かなくて正解だ。

✴︎

 週末、私は勇太君の部屋にいた。ソファーに腰を掛けたふたりは互いに、「あの話」を口にするのはどちらかを、探っているような気がした。

「乃亜、お菓子でも食べる?ポテトチップス、持ってこようか」

 普通に接してくれている彼だけど、口調はどこか、ぎこちない。

「ううん、大丈夫。それより勇太君、私達ってさ……」

 そこまで言っておいて、その先の言葉が喉仏で引っかかってしまう。

「あのさっ。えっと……」
「わかってる」

 彼は一度上げた尻を戻すと、ソファーに深く座り直す。

「別れ話、だよね」

 バクバク煩い心臓は、今にも爆発してこの部屋中に散らばりそう。人を傷付けることは、精神力が必要だ。だから、責めて欲しい。

 陸と私がしたこと、それは決して許される行為ではない。彼が陸に拳を向けた理由がそれならば、私だって咎められる立場にある。こんな最低な彼女と別れられてよかったと、彼にはすっきりして欲しい。

「乃亜」

 名前を呼ばれて、背筋が伸びる。

「乃亜は俺と別れたら、陸と付き合うの?」

 陸の文字に、体が萎縮した。

「そ、それはない。陸とは付き合わないっ」
「それじゃあ他に、好きな人がいる?」
「いないよそんなのっ。そういうのが理由なんじゃなくって──」

 はなから私は、終わりを意識しながら付き合っていたんだ。

 彼は私の手を握って言った。

「チャンスを下さい」

 微かに震えた唇と汗ばんだ手が、彼の緊張を物語っていた。

「なん、で……?」

 私は彼を裏切った。そして彼はそれを知っている。

「私、浮気したんだよ?それをずっと、隠してたんだよ?こんな最低な女、フってよ」
「最低なんかじゃないよ」
「最低だよっ」
「乃亜は最低じゃない」

 そう断言されて、頭の中の疑問符が濃くなって、またもや「なんで」と聞いてしまう。柔和な瞳を私に向け、彼は言う。

「愛してくれたから」
「え……?」
「俺達の赤ちゃん、最後の最後まで、愛してくれた。だから、乃亜は最低なんかじゃないよ」

 目眩めまいがした。勇太君がその瞬間、仏様のように見えた。

「そんな、だって私……」

 どうして逮捕されないのだろうと思っていた。命ある者を殺したのにも関わらず、何故捕まりもしないのだろうと。一層のこと罪を償う場を与えてくれた方が、幾らか楽になれるかもしれないのに、それさえ出来なくて。

「私が産みたくないって言って、それで……」

 罰も受けずにのうのうと暮らす自分が嫌だった。愛も情もない殺人犯と変わらないと思っていた。けれど彼は、そんな私の愛を肯定してくれた。

「乃亜?」

 俯き涙を流す私の顔を、彼は覗き込んだ。

「大好きな人が愛する子を失ったばかりなのに、俺、別れるなんてできないよ」

 そう言って私を抱きしめる彼。鼻を啜る音がした。

「俺だってこんなに辛いんだ。実際に手術をした乃亜が平気なわけない。だから、チャンスが欲しい。乃亜を支えるチャンス。好きになってもらえなくてもいいから、ただ隣にいさせて欲しい」

 ヒックヒックと乱れた呼吸の隙間を縫って、私は答えた。

「また、また絶対勇太君を傷付ける……」

 陸と付き合う気など毛頭ない。だけど私は拒めない。陸のことを、捨てられない。

「だから、別れよ……?」

 もうこれ以上、自分を嫌いになりたくないんだ。

「期間限定でもいいからっ」

 抱きしめられた腕に、力がこもった。

「受験が終わるまででもいい……その時までに乃亜の心を救えない情けない男なら、そんな奴、手放してくれていいからっ」
「そんなの、できないよっ」
「お願いっ」

 魚のように、自分の目が見開いたのがわかった。

「お願い乃亜。もう少しだけ、乃亜の側にいさせて……」

 懇願する彼の胸元で、私は彼の鼓動を聞いていた。ドキドキドキドキ速く打って、律動的だった。

「乃亜、お願いっ……」

 恋愛は終わるもの、愛など続かない。そのはずなのに、何故彼は私の元を去ろうとしないのだろうか。彼の真っ直ぐな想いが、私を酷く混乱させた。


 乃亜と勇太が別れたら、俺、お前に告白していい?もちろん、ゲームじゃないやつ。

 そう言った陸には伝えなければいけないと思い、その日の夜に、私は彼を呼び出した。

「どれだけしつこいんだよ、勇太の奴」

 公園ベンチの笠木に両腕を預け、陸は不快を露わにした。

「というか普通、オッケーするか?乃亜もどれだけお人好しだよ」

 言い訳も弁解もない私は陸の隣、彼の「もう帰ろうか」をひたすら待つ。寒いくらいの夜なのに、公園にはカップルが多かった。

 事実を告げただけで無言を貫く私との間を突として詰めた陸は、人目憚らずにキスをした。唇を微かに開けて、彼の温もりを受け入れる。ゆっくりとその唇を外した陸は、こう言った。

「また、拒否しないのな」

 理解し難い私の行動に、彼の目がつり上がる。

「なんなのお前。俺の気持ち知ってて勇太と付き合って、別れるって言ったのにまた付き合って、だけど俺のキスは受け入れる。何がしたいの?」

 頭を抱えた陸は、地に目を落として溜め息を吐いた。

「俺のこと、嫌い……?」

 陸の丸まった背中に答えを投げる。

「嫌いじゃない」
「勇太が好きなの?」
「好きじゃない」
「じゃあ──」

 ザワッと嫌な風が吹く。それが皮膚より外なのか内なのかは、わからなかった。

「俺のこと、好き?」

 ほらまた、ザワッと。

 私の体はいつだって、心に逆らう天邪鬼だ。見る気などなくとも目で追って、冷静を保ちたくとも涙を落として。

「好き……」

 そして今日も、何ひとつとして言うことをきかない。

「私、陸が好き」

 昼間の猫のような瞳をつけて、陸は顔を上げた。

「え……?」
「でも、陸とは付き合えない」
「は……?」
「失いたくないから」

 タガでも外れてしまったのか、私は小さな頃からずっと胸に抱えていた、蟠りを迸らせた。

「恋愛なんて所詮、終わりがくるでしょう?私のお父さんは浮気ばっかりだし、陸のお母さんだって離婚した。どうせこの公園にいるカップルだって、一年後またいるかって言ったら半分もいないよ。恋愛は始まったらいつか終わりがくるんだよ。私は、勇太君や他の人とは、いつか終わるって覚悟で恋愛できるけど、陸とは絶対に終わりたくない。そんな悲しい未来、想像もしたくない。だから陸とはずっと今みたいな関係でいたいの。始まりも終わりもない、幼馴染のままがいい」

 機械の如く淡々と述べていると、陸が狼狽え出した。

「ちょ、ちょっと待って。つまりは俺達、両想いってこと?」
「うん」
「だけど俺は幼馴染の枠にいるから、乃亜の恋愛対象外?」
「大切だから、そこから出したくない」

 心底愛しているから。だから陸とは付き合えない。

 再び頭を抱えた陸は、何やらぶつぶつ呟いて、整理し終えた頭をまた上げた。

「乃亜と付き合ったら、絶対別れないっていう自信があるんだけど」
「今の自信は関係ないよ。未来の気持ちはわからないでしょう?」
「この気持ちのまま、ずっといればいいじゃん」
「それも仮定だよ。確定じゃない」

 陸が止まる。苛々し始めている。

「……じゃあ何。乃亜はこれからもずっと、終わっても平気な奴とだけ付き合っていくの?乃亜は俺を好きなのに?他の奴を選ぶの?」

 こくんと頷いて、小さく「ごめん」と言った。

「納得いくかよそんなの……」

 陸もまた、独り言のように小さな声だった。
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