2 / 14
君の告白
しおりを挟む
「乃亜って好きな奴いる?いないなら俺と付き合ってよ」
中学三年生の夏休み、連日熱帯夜。周りは皆、受験勉強で忙しなく過ごしているというのに、私と陸は夜空の下、コンビニの傍でアイスを頬張っていた。
「陸、垂れてるよ」
「わ。やっべー」
コーンを伝うアイスを舌で掬う陸。変てこな顔に、少し笑う。
「どうせまた、罰ゲームでしょ?」
クラスの男子が考案したゲームの延長線で、過去に何度も愛を告げてきた陸の「付き合って」は、もう信じないと決めている。
ぽりぽりと頬を掻いて、陸は言う。
「今回はそのお……罰ゲームじゃないんだ」
陸の耳はほんのりと赤かったかもしれない。でもそれは、勘違いかもしれない。
「なあ、乃亜」
真剣な眼差しを寄越されて、思わず息を飲む。
「お前のことが好きなんだ。本当に」
陸の向こう、夜空の中。大きな夏の大三角。
✴︎
「乃亜ちゃん、お湯沸いたわよ」
翌朝。ポンッというケトルの合図と共に、奈緒さんは言った。
「コーヒー注いじゃうね」
半袖でも汗ばむこんな朝でさえ、私はホットを好む。
パジャマ姿のままに食卓へ着くと、コトンと置かれたマグカップ。奈緒さんは対面に腰を下ろした。
「今日の夕ご飯、何か作っておこうか?お父さんは、私のお店に来るって言ってたから」
「いいや、悪いし。適当に買って済ますよ」
「そう……夕飯代、ある?」
「うん。先週お父さんにもらった残りがまだあるから」
湯気立つコーヒーに口をつけ、私は興味もないワイドショーへと目をやった。
空がオレンジ色に染まる頃、陸を誘う。
「なんだよ乃亜、昨日の話も中途半端なまんま、急に帰っておいて」
私がコンビニへ到着するよりも前に、彼はいた。
「そんな話いいから夕飯奢ってよ。私今、全財産百三十二円しかないんだからっ」
「あーあ、俺んち今日カレーだったのに!」
頬を膨らませながらも、陸は私の頭を優しく寄せる。
「乃亜の夕飯くらい、用意してから遊び行けよな親父さんっ」
ピザ味のパンを手に取って、陸に渡す。
「それだけで足りんの?」
「足りる」
「うさぎより少食じゃんか」
会計時、ポケットから出したありったけの小銭をキャッシュトレーに置くと、陸は「お釣り」と言って、百円玉二枚を私の手に押し付けた。
「陸さま、いただきます」
店の壁際にしゃがみ込み、パンで乾杯。陸は聞く。
「今日も親父さん遅いの?飲み会?」
パンを飲み込んでから、私は答える。
「そうなんじゃない?彼女の店に行くらしいし」
「彼女……ああ、スナックの経営してるっていう」
「そう。カウンター越しのナンパから始まったくせして、一緒に住むとかすごくない?」
「え、まじで?親父さんの彼女、乃亜んちに住んでんの?」
陸の口からは、ぽーんとひとかけらのパンが駐車場へ飛んで行った。
「先週だったかな?いきなり荷物まとめて来た」
「まじかよ」
「べつにこんなの、初めてのことじゃないから慣れてるけどね。今日もふたり揃って仲良く酔っ払ってるんじゃない?パンごちそうさまっ」
立ち上がって、うーんとひとつ、伸びをした。チキンを口に押し込んだ陸は言った。
「乃亜、ちょっと川行くか」
「川ぁ?」
「散歩散歩っ」
私の手からパンの袋を奪った陸は、代わりに自身の手をあてがった。
歩いて数分。川沿いへと続く階段を降りていると、小学生くらいの子供が数人、花火をしているのが目に入る。
段差に腰を掛け、その光景を眺め出した陸の隣に私も座る。ふと込み上げる、笑い。
「何これっ。散歩って言ったくせに、歩いてないじゃん」
「ははっ。そういやそうだな」
頬を撫でる川風が、気持ちいい。
「懐かしいよなあ、ああいうの。俺達もよく子供の頃、ここでやったよな」
「やったやった。私のお母さんが生きてた頃ってたぶんさ、陸のお母さんと一番仲が良かったんだよね。だからよく、一緒に遊ばされてたよね」
「おう。乃亜の人形遊び、だいぶ付き合わされてた。いぬ役とかくま役とか」
「へびとか」
「あ、それが一番むずかった。鳴き声わからんし」
母がいた頃の話をするのは心地が良い。彼女はよく、私をふんわりした笑顔で眺めていた。
名も知らぬ小学生達に過ぎ去った日々を回顧していると、陸の顔がこちらに向く。
「乃亜」
低いトーン。
「昨日の返事、聞きたいんだけど」
腿に肘をつき、頬杖をしながら私を見る陸。真面目な顔だから、目を逸らさずにはいられない。そしてとぼける。
「なんだっけ、それ」
その瞬間、はあーっと大きな溜め息が聞こえた。視界の隅で捉えたのは、項垂れる陸の姿。
「……またはぐらかされるの?俺」
暗い声。気まずい雰囲気には、なりたくない。
「嘘だってばっ。昨日のあれでしょ?覚えてる覚えてるっ」
ふたつの手の平をぶんぶんと振って、戯けて見せた。陸は二の腕から半分だけ覗かせた瞳で、私をうかがう。
「ノー、かなぁ」
僅かに裏返ってしまった声でそう答えると、陸は先ほどよりも深い息を吐いた。またもやすっぽり隠れる彼の顔。そしてそのまま「なんで?」と、こもった声で聞いてきた。
「だって、私達友達じゃん、幼馴染じゃん。陸とそうゆうのとか、考えたことないよっ」
陸の前髪が、さらさらと風に靡くさまを見つめていた。相変わらず細くて綺麗だなあ、と思う。
次に陸が言葉を発するまでの時間は、とても長く感じた。その間俯いたままの彼だから、もしかしたら泣いているのかもしれないとさえも思った。
彼にかける言葉も見つけられずに、盛り上がる子供達がフィナーレだと言って仕掛けた打ち上げ花火に視線を移す。
ヒューと鳴って、バンッと咲く。それに混ざって聞こえた陸の声。
「俺、諦めねぇから」
✴︎
蝉が喧しくなればなるほどに、夏は増す。受験生を揶揄うように、上がる気温。
「乃亜ちゃんおはよう。冷たい麦茶でも飲む?それともやっぱり、ホットのブラックコーヒー?」
「自分でやるからいい」
食器棚からマグカップを取った私に、「コーヒーね」と言った奈緒さんは、ケトルに水を溜め出した。
『乃亜も母さんに似て、いつもホットばかり飲んでるなあ。こんなに外は暑いのに』
父にそう言われたのは先週のこと。その隣に彼女もいたかもしれない。
私が小学六年生の時に亡くなった母は、ドリンクといえば温かい物しか飲まない人だった。
「ママってどうして、つめたいものはのまないの?」
幼い頃の私は聞いた。湯呑みを抱えた母はこう答えた。
「体温は高い方が免疫力が上がるのよ。ママのママは癌っていう病気で死んじゃったから、普段から予防してるの。なるべく温かいものを摂取して、体温を上げておこうと思って」
「そうなんだあ。じゃあ乃亜もそうしよっかな」
「ええ?乃亜はいいのよ。夏は冷たい飲み物の方が美味しいでしょ?」
「いいの!乃亜もびょうき、きらいだもん!ママとながいきする!」
「じゃあママと一緒に、百歳目指そっか。えいえいおーっ」
その数年後に母は死んだ。癌という病気に侵されて。
自室の冷房温度を「弱」にして、ご無沙汰な教科書を開く。コチコチと時計の音しか聞こえない空間で思い出すのは、昔のことだらけ。
コーヒーから立つ白い湯気に母の面影を重ねては、どうせ死ぬんだったらかき氷でも何でも好きに摂れば良かったのに、などと思う。
母に逢いたい想いは、母が死んだあの日から変わらない。
私が近所の商店街を訪れたのは、その日の午後のこと。
受験勉強の何も進まずに午前は過ぎ、ただぼんやりと教材を眺める時間を終えた。
高校に行きたいとは思っていない。しかしそれならば、来年の自分は家で引きこもるのか、働くのか。そのどちらに進む勇気もない。
結局、夢がなくて進学する金が家庭にあるならば、大抵の人間は高校へと入学するのだろう。それがべつに、自分の行きたい道ではないとしても。
かたちだけでも受験生に近付こうと思い、リングノートやマーカーペンを購入した。
「あれっ。乃亜じゃん」
商店街の出口でそう声をかけてきたのは、同じクラスの菊池勇太君だった。
「久しぶりー。勇太君、買い物?」
「うん、ペンの芯がきれちゃって。それだけの為にこんな暑い中、出てきたよ」
「あつー」と左手をうちわにする勇太君。彼は学級委員であると共に、テストでも毎回上位に名を刻む、私とは別世界の人間だ。
「乃亜も買い物?」
「うん。ちょっとノートやペンを」
私が手元に抱えるそれ等を見て、彼は言う。
「乃亜も受験勉強してるんだ。えらいじゃん」
「勉強というか、これからというか……」
天と地ほどの差がある彼を前に、胸を張れることなどない。
彼は「そっかそっか」とひとり頷くと、何かを閃いたように手を叩く。
「買い物ついでに今から図書館に行って勉強しようと思ってたんだけど、乃亜もどう?」
キラキラした瞳を向けられて、あまりにも違う熱意を感じ取った私の首は、当の然、横に振るわれた。
「いや、私はいいや。参考書も何も持ってないし」
「そんなの、俺のを使えばいいよ。何冊かあるよ」
「いいよいいよ、帰る」
「ノートはあるんでしょ?」
「今買ったやつならあるけど……」
「じゃあ行こっ」
そう言うと、彼はくるりと反転し、どんどん図書館へ向かって歩み出す。
「ゆ、勇太君っ。ちょっと」
学校では知り得なかった彼の強引さに、思わず背中を追ってしまう。
タタタと速まる私の足音に、彼は振り向き立ち止まった。
「日陰探しながら、ゆっくり行こー」
その笑顔は、眩しかった。
館内での勇太君は、驚くほど真剣そのものだった。私は彼に貸りた参考書と向き合うふりをしながら、そんな彼の横顔に見入る。
しばらくして、元々皆無に等しかった集中力を更に欠いた私を悟った彼は言った。
「少し、休憩しようか」
図書館一階にある休憩所。ベンチに腰を下ろすとすぐに、彼はトイレに行くと言って席を立つ。ベンチ傍、小さなラック。雑誌を一冊取った私は、ぱらぱら捲って時間を潰した。
「ブラックとミルク、どっちがいい?」
上から降ってきた声に顔を上げると、そこにはふたつの缶を手にした勇太君。
「ありがとう。ブラックがいいな」
「じゃあはい、こっち」
黒の缶を渡した彼は、私の隣に腰を掛ける。
「そういえば俺、乃亜の連絡先知らないや」
白の缶をカコッと開けて、彼は言う。
「交換しようよ」
鞄から携帯電話を取り出す彼に続き、私もパンツポケットから同じ物を取り出した。
「その待ち受け、乃亜んちの犬?」
「ううん、近所の犬。勝手に撮っちゃった」
「あははっ。可愛い」
彼の待ち受け画面は、内蔵されたシンプルなものだった。
「じゃあ、私はそろそろ帰ろうかな」
ポケットに携帯電話を戻した私がそう言うと、彼は「もう?」と肩を竦めたが、席を立つ私が手を振れば、振り返す。
「また一緒にここで勉強しようよ。ひとりでやるより楽しいし」
「え。私、お邪魔じゃない?」
「そんなことないよ。また連絡する」
どう考えても彼の受験勉強に私は不必要だと思えたが、とりあえずは軽めに頷いた。本当に連絡が来れば、断ればいい。
「ばいばい」と彼に別れを告げて、十度は温度差がありそうな表へと出る。
「ほっんと、暑いなあ」
ぼやきながら歩く家路。自宅マンションの前まで来て、右手の違和感にふと気付く。
「あ」
そこには勇太君の参考書。彼とはまた近々会うこととなりそうだ。
✴︎
「おはよう乃亜。今日も暑いねえ」
いつもならまだ家で、コーヒーでも飲みながら朝のワイドショーを観ている時間。いや、まだ起床すらしていないかもしれない。そんな時間でも、勇太君は爽やかだ。
参考書の謝罪メールを送れば、すぐに約束は取り付けられた。夏休み中に二日連続会うなんて、家族か陸くらいだと思っていたのに。
「ご、ごめん!遅れちゃったっ」
とかした髪を結う余裕もなく、ほぼ起きたままの状態で息を切らせる私。
「そんなに待ってないよ。急がなくてもよかったのに」
「あ、暑い……」
「あははっ。そりゃそうだ。早いとこ中入ろーっ」
汗だくの私に対し、彼は清涼飲料水のコマーシャルに出演できそうなほどに清々しい。彼で涼をとれそうだ。
館内には多くの人がいた。勇太君は辺りを見回し呟いた。
「今日はけっこう混んでるなあ。こんなにも暑いから、余計なんだろうな」
冷房の効いている図書館は、猛暑日の人気スポット。
「あ、あそこの間、一個だけ席空いてる」
窓辺の席を指さして、彼は言う。
「あそこにもう一脚、椅子を持って行っちゃおうか」
壁際にぽつんと置かれた予備の椅子をそこへと運ぶと、彼は「すみません」と周囲に頭を下げて、設置した。
「乃亜できたよ。座って」
私が着席するまでの間、背もたれを持ち続けてくれた彼に、レストランのウェイターみたいだなと少し思った。
「じゃあ、何かわからないところがあったら、遠慮なく聞いてね」
私の隣、愚民では到底理解できそうもない問題集が、机の上に広げられた。こんなにもハイレベルな人間の傍でやるのが学校の宿題だなんて、今にも顔から火が出そうだ。
夏休み中一度だって触れなかった真白なプリントを、私はそっと取り出した。
「あ」
一問目を解き始めてすぐ。こつんとぶつかったのは、彼の肘と私の肘。私は「ごめん」と慌てて引っ込めた。
「こっちこそごめん。俺、左利きだからこんなに狭いとこで右側に座っちゃダメだよね。あたっちゃう」
席を交換しようと尻を浮かせた彼を、すぐさま阻止する。
「だ、大丈夫だよっ。このままでいいよ」
「え、本当に?」
「うん、平気平気。だから座って」
その言葉で、ゆっくりと姿勢を戻す彼。
「時々あたるかもだけど、ごめん」
彼は再びペンを持った。
席の交換を拒んだ理由はただ、自分の体温が座面に残っていると思い、恥ずかしかったからだ。この温もりは、大して仲良くもない人物とシェアできるものではない。
こつんこつんと案の定、幾度も私達の肘はぶつかった。こつんこつんと触れ合う度に、ふたり目を合わせてくすり、笑っていたけれど、そのうち気にも留めずに学習できたことが、不思議な感覚だった。
それからというもの、週に二度は勇太君から誘いがきて、私は図書館へと向かった。お陰であれだけ山積みだった宿題も、もう終盤。しかし、それ以外の時間を受験勉強に費やせない自分がいたのも事実だ。
暇を持て余しては友人に連絡を入れて、相手をしてもらえたりもらえなかったり。どちらかといえば、断られる方が多かった。
受験生の夏は、夏期講習や短期集中塾などで、皆一様に忙しい。「親が勉強しろって、うるさいんだもん」などと不満を漏らす友もいた。
今日の夜も父は不在、行き先は奈緒さんのスナック。私はひとり、家で過ごす。尻に火をつけてくれる母でもいれば、私も今頃熱心に、机へと向かっていたのだろうか。
✴︎
「おい乃亜、そろそろ宿題やらねえとやばいぞ。俺、ひとつもやってない」
とある週末、夜十時。陸からの着信。
「もー、こんな夜に電話してくるなしー」
「ごめんごめんっ。寝てたの?」
「ううん、すっごい起きてた」
「だったらいいじゃんかよ!とにかく作戦会議だ、今からいつもの場所集合なっ」
私がコンビニの前へ着くと、ふたつのカップを手にした陸が待っていた。
「はい、これ。乃亜の分」
湯気立つホットのブラックコーヒー。陸は私の好みを、ちゃんとわかっている。
店の傍に腰を下ろした陸は聞く。
「夏休みの宿題、乃亜もまだ全然やってねえだろ?今年はいつやる?」
陸と会うのは、川辺で子供達の花火を眺めた以来。真剣な話を有耶無耶に終えたにもかかわらず、普段通りに接してくる彼。いや、あの告白がおふざけだからこそ、もしかしたら普通にできるのかもしれない。彼の本音はわからない。
喉を通っていく体温より熱い液体に、汗が滲む。
「今年の宿題はさ、私もうすぐ終わるんだよね」
「おいおいまじかよ。やるならやるって言えよ。俺ひとりだけ焦るだろうがっ」
焦慮した陸をははっと笑って、私も彼の隣でしゃがみ込む。
「でも、長期休みの駆け込み宿題は陸との恒例行事だから、残りは一緒にやろうよ。手伝ってあげる」
その途端、彼は無邪気に微笑んだ。
「よっしゃ!」
「いつにする?」
「明日!俺んち!」
こんな些細なことでガッツポーズまで作るものだから、腹を抱えて笑ってしまった。
✴︎
「乃亜ちゃん、いらっしゃい」
「おばさん、お邪魔しまーす」
翌日の昼過ぎに、私は陸の家を訪れた。
「ちょっと見ない間にずいぶん髪の毛が伸びたのねえ。すっかり大人っぽくなっちゃって」
「いつもボサボサで、ケアしきれてないです。はは」
「陸の部屋、散らかってるけどごめんね」
昔から、陸の母は親しみやすい。生前の母との思い出も時々教えてくれるし、いつも優しい笑顔で私を出迎えてくれる。
玄関先での褒め言葉に私が謙遜で返していると、彼女の背中から陸がひょっこり顔を出した。
「散らかってるけど、いつもよりは綺麗にしたぞ。母さん、後でお茶持ってきて」
「そんなの陸が自分でやんなよ、ばかっ」
持っていた勉強道具一式で、陸の頭をバチンと叩く。
「すみませんおばさん。私がやりますよ」
口元に拳をあてた陸の母は、クスクスと笑って言った。
「いいのよ乃亜ちゃん、ありがとうね。後で茶菓子も一緒に持って行くから、ゆっくりしててちょうだい」
陸の部屋の勉強机。積み重ねられたプリント。
「これ全部やってないの!?絶対終わるわけないよ!」
「いやいや、なんの為の乃亜だよ。一緒にやるぞ」
「偉そうに言うなっ。私の残りの宿題が終わってからね」
多少の雑談を挟みつつ、ローテーブルでふたり、宿題を進めていると、扉から聞こえてきたノックの音。
「お兄ちゃん、持ってきたよ」
陸の妹である楓が、茶と茶菓子を運んで来てくれたのだ。
「楓、お邪魔してまーす」
「乃亜ちゃん久しぶり。学校がないと、なかなか会わないよね」
私や陸とひとつしか歳の変わらぬ楓とは、幼い頃からよく遊んでいた。陸と同様、幼馴染と言っても過言ではない。
「楓は宿題終わったの?よかったら、一緒にやらない?」
「いいの?」
「あったりまえじゃん。ねえ、陸?」
指先でペンを回していた陸は、唇の動きだけで「いやだ」と言ってきたが、そんなことはどうでもいい。
「楓、お兄ちゃんもいいって言ってるから勉強道具持ってきなー」
「うん!」
茶菓子の乗ったトレーをテーブルに置くと、彼女は自身の部屋へと駆けて行く。陸が言う。
「なんで楓も一緒なんだよ」
「べつにいいじゃん。なんでダメなの?」
「だって、せっかく乃亜とふたり……」
そこまで言って、グビッと茶を流し込む。その先の言葉も、彼はおそらく一緒に飲み込んだのだろう。トントントントンと、ペンと机で奏でられる不満。
せっかく乃亜とふたりきりなのに。
そんな台詞、絶対に言わないで欲しい。
「乃亜ちゃん、ここわかる?」
「うーんと、なんだっけなこれ。たしか、簡単に解ける数式があったはず」
「数学の先生がもう少し男前だったら、授業も楽しいのにね」
「おじさんだもんねー」
楓も交ざってする宿題は、私達女子の会話が弾む。陸は専らツッコミ役だ。
「乃亜、わかんねえなら素直にそう言え。中学二年の記憶なんて、もうないだろ」
「わ、わかるもんっ。たった一年前じゃん」
必死になる私を、陸は鼻で笑ってくる。しかしこちらには、味方がいるのだ。
「乃亜ちゃん、お兄ちゃんってほんと嫌な男だからさ、無視しよー」
血筋を超えた、強い味方が。
「そうだね。ちょっと陸、どっか行っててよ」
今度は女ふたりでクスクス笑う。
「なんでだよ!ここは俺の部屋だろーがっ!」
昔からずっと、こんなやり取りができるふたりといると、心は癒される。
夕ご飯までご馳走になり、私の家までの道を陸と歩く。
「なあ、またアイツら花火やってないかな?」
「この前の小学生達?どうだろう」
「ちょっと見てみよーぜ」
家まで少し遠回りになる、川沿いの道を進んだ。
先日賑やかだったその場所に人影はなし。今宵は閑散としていた。
「この前より遅いもんね。もう九時だもん」
「そっかー、そうだよなあ」
川は静かに波をうつ。陸といる時間は時に短く、時に長く感じてしまうことがある。
「今日さあ」
手すりに腕を預けて川を眺めた陸は言う。
「宿題手伝ってくれて、ありがとな」
「そんなのいいよ。毎年のことじゃん」
「そうだけどさ、普通にしてくれてたじゃん。この前俺、乃亜にフラれたばっかなのに」
ちゃぷんちゃぷんと小魚が跳ねているような音が、陸の言葉に哀愁を添えていく。
「って、こんなこと言ったらまた変な雰囲気になるよな、ごめん。だけど、これだけは言わせてよ」
ちゃぷんと、ほらまた。
「俺が乃亜のことを好きって言ったのも、諦めないって言ったのも、全部本心だから。いつかまたお前に告白したいって思ってるし、俺はお前と付き合いたい」
外方を向いたままの陸の表情は、私からは全く見えなかった。
「乃亜にとっては迷惑かもしれないけど、往生際が悪くてごめん」
でもだからこそ、私の顔も陸にはわからない。それで良かったんだ。何故なら今の私は、すごく青ざめていると思うから。
中学三年生の夏休み、連日熱帯夜。周りは皆、受験勉強で忙しなく過ごしているというのに、私と陸は夜空の下、コンビニの傍でアイスを頬張っていた。
「陸、垂れてるよ」
「わ。やっべー」
コーンを伝うアイスを舌で掬う陸。変てこな顔に、少し笑う。
「どうせまた、罰ゲームでしょ?」
クラスの男子が考案したゲームの延長線で、過去に何度も愛を告げてきた陸の「付き合って」は、もう信じないと決めている。
ぽりぽりと頬を掻いて、陸は言う。
「今回はそのお……罰ゲームじゃないんだ」
陸の耳はほんのりと赤かったかもしれない。でもそれは、勘違いかもしれない。
「なあ、乃亜」
真剣な眼差しを寄越されて、思わず息を飲む。
「お前のことが好きなんだ。本当に」
陸の向こう、夜空の中。大きな夏の大三角。
✴︎
「乃亜ちゃん、お湯沸いたわよ」
翌朝。ポンッというケトルの合図と共に、奈緒さんは言った。
「コーヒー注いじゃうね」
半袖でも汗ばむこんな朝でさえ、私はホットを好む。
パジャマ姿のままに食卓へ着くと、コトンと置かれたマグカップ。奈緒さんは対面に腰を下ろした。
「今日の夕ご飯、何か作っておこうか?お父さんは、私のお店に来るって言ってたから」
「いいや、悪いし。適当に買って済ますよ」
「そう……夕飯代、ある?」
「うん。先週お父さんにもらった残りがまだあるから」
湯気立つコーヒーに口をつけ、私は興味もないワイドショーへと目をやった。
空がオレンジ色に染まる頃、陸を誘う。
「なんだよ乃亜、昨日の話も中途半端なまんま、急に帰っておいて」
私がコンビニへ到着するよりも前に、彼はいた。
「そんな話いいから夕飯奢ってよ。私今、全財産百三十二円しかないんだからっ」
「あーあ、俺んち今日カレーだったのに!」
頬を膨らませながらも、陸は私の頭を優しく寄せる。
「乃亜の夕飯くらい、用意してから遊び行けよな親父さんっ」
ピザ味のパンを手に取って、陸に渡す。
「それだけで足りんの?」
「足りる」
「うさぎより少食じゃんか」
会計時、ポケットから出したありったけの小銭をキャッシュトレーに置くと、陸は「お釣り」と言って、百円玉二枚を私の手に押し付けた。
「陸さま、いただきます」
店の壁際にしゃがみ込み、パンで乾杯。陸は聞く。
「今日も親父さん遅いの?飲み会?」
パンを飲み込んでから、私は答える。
「そうなんじゃない?彼女の店に行くらしいし」
「彼女……ああ、スナックの経営してるっていう」
「そう。カウンター越しのナンパから始まったくせして、一緒に住むとかすごくない?」
「え、まじで?親父さんの彼女、乃亜んちに住んでんの?」
陸の口からは、ぽーんとひとかけらのパンが駐車場へ飛んで行った。
「先週だったかな?いきなり荷物まとめて来た」
「まじかよ」
「べつにこんなの、初めてのことじゃないから慣れてるけどね。今日もふたり揃って仲良く酔っ払ってるんじゃない?パンごちそうさまっ」
立ち上がって、うーんとひとつ、伸びをした。チキンを口に押し込んだ陸は言った。
「乃亜、ちょっと川行くか」
「川ぁ?」
「散歩散歩っ」
私の手からパンの袋を奪った陸は、代わりに自身の手をあてがった。
歩いて数分。川沿いへと続く階段を降りていると、小学生くらいの子供が数人、花火をしているのが目に入る。
段差に腰を掛け、その光景を眺め出した陸の隣に私も座る。ふと込み上げる、笑い。
「何これっ。散歩って言ったくせに、歩いてないじゃん」
「ははっ。そういやそうだな」
頬を撫でる川風が、気持ちいい。
「懐かしいよなあ、ああいうの。俺達もよく子供の頃、ここでやったよな」
「やったやった。私のお母さんが生きてた頃ってたぶんさ、陸のお母さんと一番仲が良かったんだよね。だからよく、一緒に遊ばされてたよね」
「おう。乃亜の人形遊び、だいぶ付き合わされてた。いぬ役とかくま役とか」
「へびとか」
「あ、それが一番むずかった。鳴き声わからんし」
母がいた頃の話をするのは心地が良い。彼女はよく、私をふんわりした笑顔で眺めていた。
名も知らぬ小学生達に過ぎ去った日々を回顧していると、陸の顔がこちらに向く。
「乃亜」
低いトーン。
「昨日の返事、聞きたいんだけど」
腿に肘をつき、頬杖をしながら私を見る陸。真面目な顔だから、目を逸らさずにはいられない。そしてとぼける。
「なんだっけ、それ」
その瞬間、はあーっと大きな溜め息が聞こえた。視界の隅で捉えたのは、項垂れる陸の姿。
「……またはぐらかされるの?俺」
暗い声。気まずい雰囲気には、なりたくない。
「嘘だってばっ。昨日のあれでしょ?覚えてる覚えてるっ」
ふたつの手の平をぶんぶんと振って、戯けて見せた。陸は二の腕から半分だけ覗かせた瞳で、私をうかがう。
「ノー、かなぁ」
僅かに裏返ってしまった声でそう答えると、陸は先ほどよりも深い息を吐いた。またもやすっぽり隠れる彼の顔。そしてそのまま「なんで?」と、こもった声で聞いてきた。
「だって、私達友達じゃん、幼馴染じゃん。陸とそうゆうのとか、考えたことないよっ」
陸の前髪が、さらさらと風に靡くさまを見つめていた。相変わらず細くて綺麗だなあ、と思う。
次に陸が言葉を発するまでの時間は、とても長く感じた。その間俯いたままの彼だから、もしかしたら泣いているのかもしれないとさえも思った。
彼にかける言葉も見つけられずに、盛り上がる子供達がフィナーレだと言って仕掛けた打ち上げ花火に視線を移す。
ヒューと鳴って、バンッと咲く。それに混ざって聞こえた陸の声。
「俺、諦めねぇから」
✴︎
蝉が喧しくなればなるほどに、夏は増す。受験生を揶揄うように、上がる気温。
「乃亜ちゃんおはよう。冷たい麦茶でも飲む?それともやっぱり、ホットのブラックコーヒー?」
「自分でやるからいい」
食器棚からマグカップを取った私に、「コーヒーね」と言った奈緒さんは、ケトルに水を溜め出した。
『乃亜も母さんに似て、いつもホットばかり飲んでるなあ。こんなに外は暑いのに』
父にそう言われたのは先週のこと。その隣に彼女もいたかもしれない。
私が小学六年生の時に亡くなった母は、ドリンクといえば温かい物しか飲まない人だった。
「ママってどうして、つめたいものはのまないの?」
幼い頃の私は聞いた。湯呑みを抱えた母はこう答えた。
「体温は高い方が免疫力が上がるのよ。ママのママは癌っていう病気で死んじゃったから、普段から予防してるの。なるべく温かいものを摂取して、体温を上げておこうと思って」
「そうなんだあ。じゃあ乃亜もそうしよっかな」
「ええ?乃亜はいいのよ。夏は冷たい飲み物の方が美味しいでしょ?」
「いいの!乃亜もびょうき、きらいだもん!ママとながいきする!」
「じゃあママと一緒に、百歳目指そっか。えいえいおーっ」
その数年後に母は死んだ。癌という病気に侵されて。
自室の冷房温度を「弱」にして、ご無沙汰な教科書を開く。コチコチと時計の音しか聞こえない空間で思い出すのは、昔のことだらけ。
コーヒーから立つ白い湯気に母の面影を重ねては、どうせ死ぬんだったらかき氷でも何でも好きに摂れば良かったのに、などと思う。
母に逢いたい想いは、母が死んだあの日から変わらない。
私が近所の商店街を訪れたのは、その日の午後のこと。
受験勉強の何も進まずに午前は過ぎ、ただぼんやりと教材を眺める時間を終えた。
高校に行きたいとは思っていない。しかしそれならば、来年の自分は家で引きこもるのか、働くのか。そのどちらに進む勇気もない。
結局、夢がなくて進学する金が家庭にあるならば、大抵の人間は高校へと入学するのだろう。それがべつに、自分の行きたい道ではないとしても。
かたちだけでも受験生に近付こうと思い、リングノートやマーカーペンを購入した。
「あれっ。乃亜じゃん」
商店街の出口でそう声をかけてきたのは、同じクラスの菊池勇太君だった。
「久しぶりー。勇太君、買い物?」
「うん、ペンの芯がきれちゃって。それだけの為にこんな暑い中、出てきたよ」
「あつー」と左手をうちわにする勇太君。彼は学級委員であると共に、テストでも毎回上位に名を刻む、私とは別世界の人間だ。
「乃亜も買い物?」
「うん。ちょっとノートやペンを」
私が手元に抱えるそれ等を見て、彼は言う。
「乃亜も受験勉強してるんだ。えらいじゃん」
「勉強というか、これからというか……」
天と地ほどの差がある彼を前に、胸を張れることなどない。
彼は「そっかそっか」とひとり頷くと、何かを閃いたように手を叩く。
「買い物ついでに今から図書館に行って勉強しようと思ってたんだけど、乃亜もどう?」
キラキラした瞳を向けられて、あまりにも違う熱意を感じ取った私の首は、当の然、横に振るわれた。
「いや、私はいいや。参考書も何も持ってないし」
「そんなの、俺のを使えばいいよ。何冊かあるよ」
「いいよいいよ、帰る」
「ノートはあるんでしょ?」
「今買ったやつならあるけど……」
「じゃあ行こっ」
そう言うと、彼はくるりと反転し、どんどん図書館へ向かって歩み出す。
「ゆ、勇太君っ。ちょっと」
学校では知り得なかった彼の強引さに、思わず背中を追ってしまう。
タタタと速まる私の足音に、彼は振り向き立ち止まった。
「日陰探しながら、ゆっくり行こー」
その笑顔は、眩しかった。
館内での勇太君は、驚くほど真剣そのものだった。私は彼に貸りた参考書と向き合うふりをしながら、そんな彼の横顔に見入る。
しばらくして、元々皆無に等しかった集中力を更に欠いた私を悟った彼は言った。
「少し、休憩しようか」
図書館一階にある休憩所。ベンチに腰を下ろすとすぐに、彼はトイレに行くと言って席を立つ。ベンチ傍、小さなラック。雑誌を一冊取った私は、ぱらぱら捲って時間を潰した。
「ブラックとミルク、どっちがいい?」
上から降ってきた声に顔を上げると、そこにはふたつの缶を手にした勇太君。
「ありがとう。ブラックがいいな」
「じゃあはい、こっち」
黒の缶を渡した彼は、私の隣に腰を掛ける。
「そういえば俺、乃亜の連絡先知らないや」
白の缶をカコッと開けて、彼は言う。
「交換しようよ」
鞄から携帯電話を取り出す彼に続き、私もパンツポケットから同じ物を取り出した。
「その待ち受け、乃亜んちの犬?」
「ううん、近所の犬。勝手に撮っちゃった」
「あははっ。可愛い」
彼の待ち受け画面は、内蔵されたシンプルなものだった。
「じゃあ、私はそろそろ帰ろうかな」
ポケットに携帯電話を戻した私がそう言うと、彼は「もう?」と肩を竦めたが、席を立つ私が手を振れば、振り返す。
「また一緒にここで勉強しようよ。ひとりでやるより楽しいし」
「え。私、お邪魔じゃない?」
「そんなことないよ。また連絡する」
どう考えても彼の受験勉強に私は不必要だと思えたが、とりあえずは軽めに頷いた。本当に連絡が来れば、断ればいい。
「ばいばい」と彼に別れを告げて、十度は温度差がありそうな表へと出る。
「ほっんと、暑いなあ」
ぼやきながら歩く家路。自宅マンションの前まで来て、右手の違和感にふと気付く。
「あ」
そこには勇太君の参考書。彼とはまた近々会うこととなりそうだ。
✴︎
「おはよう乃亜。今日も暑いねえ」
いつもならまだ家で、コーヒーでも飲みながら朝のワイドショーを観ている時間。いや、まだ起床すらしていないかもしれない。そんな時間でも、勇太君は爽やかだ。
参考書の謝罪メールを送れば、すぐに約束は取り付けられた。夏休み中に二日連続会うなんて、家族か陸くらいだと思っていたのに。
「ご、ごめん!遅れちゃったっ」
とかした髪を結う余裕もなく、ほぼ起きたままの状態で息を切らせる私。
「そんなに待ってないよ。急がなくてもよかったのに」
「あ、暑い……」
「あははっ。そりゃそうだ。早いとこ中入ろーっ」
汗だくの私に対し、彼は清涼飲料水のコマーシャルに出演できそうなほどに清々しい。彼で涼をとれそうだ。
館内には多くの人がいた。勇太君は辺りを見回し呟いた。
「今日はけっこう混んでるなあ。こんなにも暑いから、余計なんだろうな」
冷房の効いている図書館は、猛暑日の人気スポット。
「あ、あそこの間、一個だけ席空いてる」
窓辺の席を指さして、彼は言う。
「あそこにもう一脚、椅子を持って行っちゃおうか」
壁際にぽつんと置かれた予備の椅子をそこへと運ぶと、彼は「すみません」と周囲に頭を下げて、設置した。
「乃亜できたよ。座って」
私が着席するまでの間、背もたれを持ち続けてくれた彼に、レストランのウェイターみたいだなと少し思った。
「じゃあ、何かわからないところがあったら、遠慮なく聞いてね」
私の隣、愚民では到底理解できそうもない問題集が、机の上に広げられた。こんなにもハイレベルな人間の傍でやるのが学校の宿題だなんて、今にも顔から火が出そうだ。
夏休み中一度だって触れなかった真白なプリントを、私はそっと取り出した。
「あ」
一問目を解き始めてすぐ。こつんとぶつかったのは、彼の肘と私の肘。私は「ごめん」と慌てて引っ込めた。
「こっちこそごめん。俺、左利きだからこんなに狭いとこで右側に座っちゃダメだよね。あたっちゃう」
席を交換しようと尻を浮かせた彼を、すぐさま阻止する。
「だ、大丈夫だよっ。このままでいいよ」
「え、本当に?」
「うん、平気平気。だから座って」
その言葉で、ゆっくりと姿勢を戻す彼。
「時々あたるかもだけど、ごめん」
彼は再びペンを持った。
席の交換を拒んだ理由はただ、自分の体温が座面に残っていると思い、恥ずかしかったからだ。この温もりは、大して仲良くもない人物とシェアできるものではない。
こつんこつんと案の定、幾度も私達の肘はぶつかった。こつんこつんと触れ合う度に、ふたり目を合わせてくすり、笑っていたけれど、そのうち気にも留めずに学習できたことが、不思議な感覚だった。
それからというもの、週に二度は勇太君から誘いがきて、私は図書館へと向かった。お陰であれだけ山積みだった宿題も、もう終盤。しかし、それ以外の時間を受験勉強に費やせない自分がいたのも事実だ。
暇を持て余しては友人に連絡を入れて、相手をしてもらえたりもらえなかったり。どちらかといえば、断られる方が多かった。
受験生の夏は、夏期講習や短期集中塾などで、皆一様に忙しい。「親が勉強しろって、うるさいんだもん」などと不満を漏らす友もいた。
今日の夜も父は不在、行き先は奈緒さんのスナック。私はひとり、家で過ごす。尻に火をつけてくれる母でもいれば、私も今頃熱心に、机へと向かっていたのだろうか。
✴︎
「おい乃亜、そろそろ宿題やらねえとやばいぞ。俺、ひとつもやってない」
とある週末、夜十時。陸からの着信。
「もー、こんな夜に電話してくるなしー」
「ごめんごめんっ。寝てたの?」
「ううん、すっごい起きてた」
「だったらいいじゃんかよ!とにかく作戦会議だ、今からいつもの場所集合なっ」
私がコンビニの前へ着くと、ふたつのカップを手にした陸が待っていた。
「はい、これ。乃亜の分」
湯気立つホットのブラックコーヒー。陸は私の好みを、ちゃんとわかっている。
店の傍に腰を下ろした陸は聞く。
「夏休みの宿題、乃亜もまだ全然やってねえだろ?今年はいつやる?」
陸と会うのは、川辺で子供達の花火を眺めた以来。真剣な話を有耶無耶に終えたにもかかわらず、普段通りに接してくる彼。いや、あの告白がおふざけだからこそ、もしかしたら普通にできるのかもしれない。彼の本音はわからない。
喉を通っていく体温より熱い液体に、汗が滲む。
「今年の宿題はさ、私もうすぐ終わるんだよね」
「おいおいまじかよ。やるならやるって言えよ。俺ひとりだけ焦るだろうがっ」
焦慮した陸をははっと笑って、私も彼の隣でしゃがみ込む。
「でも、長期休みの駆け込み宿題は陸との恒例行事だから、残りは一緒にやろうよ。手伝ってあげる」
その途端、彼は無邪気に微笑んだ。
「よっしゃ!」
「いつにする?」
「明日!俺んち!」
こんな些細なことでガッツポーズまで作るものだから、腹を抱えて笑ってしまった。
✴︎
「乃亜ちゃん、いらっしゃい」
「おばさん、お邪魔しまーす」
翌日の昼過ぎに、私は陸の家を訪れた。
「ちょっと見ない間にずいぶん髪の毛が伸びたのねえ。すっかり大人っぽくなっちゃって」
「いつもボサボサで、ケアしきれてないです。はは」
「陸の部屋、散らかってるけどごめんね」
昔から、陸の母は親しみやすい。生前の母との思い出も時々教えてくれるし、いつも優しい笑顔で私を出迎えてくれる。
玄関先での褒め言葉に私が謙遜で返していると、彼女の背中から陸がひょっこり顔を出した。
「散らかってるけど、いつもよりは綺麗にしたぞ。母さん、後でお茶持ってきて」
「そんなの陸が自分でやんなよ、ばかっ」
持っていた勉強道具一式で、陸の頭をバチンと叩く。
「すみませんおばさん。私がやりますよ」
口元に拳をあてた陸の母は、クスクスと笑って言った。
「いいのよ乃亜ちゃん、ありがとうね。後で茶菓子も一緒に持って行くから、ゆっくりしててちょうだい」
陸の部屋の勉強机。積み重ねられたプリント。
「これ全部やってないの!?絶対終わるわけないよ!」
「いやいや、なんの為の乃亜だよ。一緒にやるぞ」
「偉そうに言うなっ。私の残りの宿題が終わってからね」
多少の雑談を挟みつつ、ローテーブルでふたり、宿題を進めていると、扉から聞こえてきたノックの音。
「お兄ちゃん、持ってきたよ」
陸の妹である楓が、茶と茶菓子を運んで来てくれたのだ。
「楓、お邪魔してまーす」
「乃亜ちゃん久しぶり。学校がないと、なかなか会わないよね」
私や陸とひとつしか歳の変わらぬ楓とは、幼い頃からよく遊んでいた。陸と同様、幼馴染と言っても過言ではない。
「楓は宿題終わったの?よかったら、一緒にやらない?」
「いいの?」
「あったりまえじゃん。ねえ、陸?」
指先でペンを回していた陸は、唇の動きだけで「いやだ」と言ってきたが、そんなことはどうでもいい。
「楓、お兄ちゃんもいいって言ってるから勉強道具持ってきなー」
「うん!」
茶菓子の乗ったトレーをテーブルに置くと、彼女は自身の部屋へと駆けて行く。陸が言う。
「なんで楓も一緒なんだよ」
「べつにいいじゃん。なんでダメなの?」
「だって、せっかく乃亜とふたり……」
そこまで言って、グビッと茶を流し込む。その先の言葉も、彼はおそらく一緒に飲み込んだのだろう。トントントントンと、ペンと机で奏でられる不満。
せっかく乃亜とふたりきりなのに。
そんな台詞、絶対に言わないで欲しい。
「乃亜ちゃん、ここわかる?」
「うーんと、なんだっけなこれ。たしか、簡単に解ける数式があったはず」
「数学の先生がもう少し男前だったら、授業も楽しいのにね」
「おじさんだもんねー」
楓も交ざってする宿題は、私達女子の会話が弾む。陸は専らツッコミ役だ。
「乃亜、わかんねえなら素直にそう言え。中学二年の記憶なんて、もうないだろ」
「わ、わかるもんっ。たった一年前じゃん」
必死になる私を、陸は鼻で笑ってくる。しかしこちらには、味方がいるのだ。
「乃亜ちゃん、お兄ちゃんってほんと嫌な男だからさ、無視しよー」
血筋を超えた、強い味方が。
「そうだね。ちょっと陸、どっか行っててよ」
今度は女ふたりでクスクス笑う。
「なんでだよ!ここは俺の部屋だろーがっ!」
昔からずっと、こんなやり取りができるふたりといると、心は癒される。
夕ご飯までご馳走になり、私の家までの道を陸と歩く。
「なあ、またアイツら花火やってないかな?」
「この前の小学生達?どうだろう」
「ちょっと見てみよーぜ」
家まで少し遠回りになる、川沿いの道を進んだ。
先日賑やかだったその場所に人影はなし。今宵は閑散としていた。
「この前より遅いもんね。もう九時だもん」
「そっかー、そうだよなあ」
川は静かに波をうつ。陸といる時間は時に短く、時に長く感じてしまうことがある。
「今日さあ」
手すりに腕を預けて川を眺めた陸は言う。
「宿題手伝ってくれて、ありがとな」
「そんなのいいよ。毎年のことじゃん」
「そうだけどさ、普通にしてくれてたじゃん。この前俺、乃亜にフラれたばっかなのに」
ちゃぷんちゃぷんと小魚が跳ねているような音が、陸の言葉に哀愁を添えていく。
「って、こんなこと言ったらまた変な雰囲気になるよな、ごめん。だけど、これだけは言わせてよ」
ちゃぷんと、ほらまた。
「俺が乃亜のことを好きって言ったのも、諦めないって言ったのも、全部本心だから。いつかまたお前に告白したいって思ってるし、俺はお前と付き合いたい」
外方を向いたままの陸の表情は、私からは全く見えなかった。
「乃亜にとっては迷惑かもしれないけど、往生際が悪くてごめん」
でもだからこそ、私の顔も陸にはわからない。それで良かったんだ。何故なら今の私は、すごく青ざめていると思うから。
0
お気に入りに追加
2
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる