上 下
2 / 2

Calling [売れっ子歌手X平凡一般人]

しおりを挟む
ゴミ溜め生まれ、施設育ちの俺と、100万人のために歌う男の話。 出遭ったのは偶然だった。
お互い独りには慣れているはずだった。
けれど共に過ごしているうちに、この瞬間がまるで永遠に続いていくような甘い夢を見た。
―― 夢は必ず覚めるのだと、痛いくらい知っていたはずなのに。

key ; 歌手 x 孤児院育ちの男 / 居候 / 歌えない歌手 / 公開告白 / 街をジャック! 





 ※   ※   ※



 この夜を漕いで君の元へ。





 誰かが唄った歌詞じゃないけど、でもあの男は確かに100万人のために歌を唄う男だった。
 100万人以上のファンが、男の作る歌と、男の書く歌詞を待ち望んでいた。男はまさに皆から切望される存在だった。
 そしてそんな男と比べて俺はというと、ゴミ捨て場生まれの、施設育ちで、定職にもついていない人間のクズのお手本のような人間だった。なぜ生まれてきたのかが分からなければ、こんな俺を誰が生んだのかさえ、果たしてその親は今生きているのか、それとももうこの世にはいないのかさえ知らなかった。
 俺は男と出会うまで本当の独りきりだった。そしてそれは、俺にとって当たり前のことだった。

 16になった年に施設を出てから一年半余り、碌なものを食べてなかった俺。浮いたあばらとこけた頬は見るも無残で、まるで生きながら死んでいるみたいだった。
 道端で力尽きへたり込んでいた俺。そんな俺を男はまるで捨て猫を拾う子供みたいな手つきで抱え上げ、そしてそのまま何故か自分の家へと連れ帰り、食事を与え、フロに入れ、髪を乾かし、自分と同じ布団で眠らせた。
 男に俺は何故こんなことをすると聞いた。その俺の問いに男は、気まぐれでだよ、とだけ答えた。しかし気まぐれに拾ったにしては、男の俺を世話する手つきは余りに柔らかすぎた。直ぐに放り出されると思っていた男の家に未だにとどまっている俺。しばらく経ってからまた同じ問いを重ねた俺に、男は今度は少し真剣な表情で、それでもしかしまた、気まぐれだよ、と前と同じ答えを返した。
 そしてそれから暫くして俺は唐突に男が俺を拾った理由を知るのだ。



 同じにおいがするような気がしていた。
 本当の孤独を知っているような、同じ穴の狢のようなにおいが。
 男もまた俺と同じような境遇の人間だった。だがしかし、一人も身内が居ない俺と違い、身内は居るが自らその繋がりを切った男は、本当の意味で言えば同じではなかった。でもそれでも男からは俺と同じ孤独のにおいがした。

 俺を拾った男は決して此処に居ろとは言わなかった。けれども、出て行けとも決して口にしなかった。ぼんやりと男の家で過ごすうち、俺は朝食がいつも二人分用意されていて、歯ブラシも箸もマグカップも、男の家にあるほとんどの食器が二人分になったことに気がついた。初めちぐはぐだった俺の茶碗と男の茶碗が二つ揃いで食卓に並べられているのを見たとき。洗面所の歯ブラシ立てに男の歯ブラシと俺のそれが並んで置かれているのを見たとき。俺は決まって目頭が熱くなる自分を感じずにはいられなかった。
 男は決して此処に居ろとは言わなかった。
 でも時折俺が折れそうなくらい強く抱きしめるその腕は、確かに言葉より雄弁に俺にここに居ろと言っていた。男の腕は言葉少ない男の意思を伝えるための一つの有効な手段だった。



 男が歌手だと、それも飛び切り売れているトップーアーティストの一人なのだと知ったのは、俺が男の家で過ごすようになって一ヶ月ほど経ったある日の夕刻だった。一人の男が男の家を訪ねてきたのだ。
 初めて見た男はひどく冷たい目をしてただ一言「まだですか」とだけ男に向かって言った。同じ部屋に居た俺には、目もくれなかった。
 まだ唄えない、と男は言った。その声に初めてやってきた冷たい目をした男はまた一言、声が出るようになったのはいつですか、と少し苛立った声を零す。いつですか。いつから声が。冷たい目の男はじりっと男の方へ詰め寄った。メールではそんな素振り一言も。冷たい男のそれは、今度は何故か燃えるようにぎらついていた。
 言う必要がないと思ったから言わなかっただけだ。声が出ても歌は唄えない。俺はまだ商品としては使えない。だから、だ。燃える熱と厚い壁一枚隔てた向こう側に居るみたいな熱の伝わらない冷めた表情で男は淡々とそう言った。
 「いつ」
 聞いた男の目からはもう完全に熱は去っていた。
 用は済んだだろう。もう帰ってくれないか。男は客である男の腕を引っ張り無理矢理立たせるとそのまま引きずって廊下へ連れて行く。
 「一ヶ月前だ」
 男の声が聞こえた。
 「声が戻ったのは、一ヶ月前だ」
 男の声には熱の欠片一つ見つからなかった。

 男の声が戻ったのだという一ヶ月間。その月日の長さは、男と俺が共に居る時の長さと偶然にも重なっていた。



 夜には決まって悪夢を見た。
 夢の中で俺はいつも鎖に繋がれ広い舞台に置き去りにされている。そしてその舞台の周りには無数の目が光っていて、その目は何が可笑しいのかは分からないが、それでもいつも愉悦を刻むみたいに少しゆがんだ形をしている。
 逃げたくても逃げられない舞台の上。飛び降りるには鎖が足りない。俺は立ちすくみ泣き喚く。周りを囲む目がまた愉悦と、今度は侮蔑まで混ぜて歪む。
 そこで俺はいつも飛び起きるのだ。体にじっとりかいた不快な汗と、頬を伝う温い涙に顔を濡らして。
 ――俺を囲んでいた目は道で倒れていた俺を見るともなく見ていたあの周りの目にとてもよく似ていた。

 息が少し苦しくて、動悸がする。そして少しの吐き気と、酷い倦怠感を感じる。でもこれはいつものことだ。施設を出てからずっと消えない悪夢。きつく自分の腕で抱く自分の体が小刻みに震える。まだ此処が軟らかいベッドの上だからマシだ。冬の凍りかけた道路脇なんかとは比べ物にならない。
 ごそり。起き上がらせた体を倒し、布団にもぐりこむ。すると急に背後からぐるりと腕が俺の体に巻きつき、その腕にぐいと体を後ろに引っ張られる。まず腕が暖かい体温に触れ、その後体全体がその温もりに包まれる。

 「また眠れないの?」
 また怖い夢みた?首の直ぐ後ろで話しているのか、男が声を発するたび息が首元にかかってくすぐったい。
 「ごめん、起こして」
 小さな声で謝った俺を、男は腕に力をこめてきつく抱きしめることで黙らせる。
 初めてこの家にきてからずっと俺と男は同じベッドで眠っている。一人暮らしをしているらしい男の家にベッドが二つあるわけでもなく、俺は男と同じベッドで夜を過ごす。ソファで寝ると言い張った俺を、初めの夜も同じベッドで寝たのだから、今更だろう、と男が無理矢理自分のベッドに引きずり込んだからだ。
 「いいよ。また見たの?」
 まるでキリストの母のように、俺のやったこと全てを赦す男は、その言葉の後いつものようにさりげない口調で、
 「じゃぁ怖い夢見ないように子守唄唄ってあげるよ。」
 そう云って、その後唐突にまた新しい、俺の知らない歌を唄い始める。
 ゴミ捨て場生まれの、施設育ちの俺が知っている曲は両手両足で十分足りるくらい少ししかない。その俺の知っているどの曲よりも男の唄う歌は綺麗で優しくて心地よかった。男の唄っていた歌は全て男が作ったオリジナルの歌だった。
 男の家に連れてこられ、同じベッドで初めて眠った夜から続く男の子守唄。突然体を震わせ飛び起きた俺に男は理由を聞こうとはしなかった。そして勿論俺も言おうとしなかった。突然沈黙が支配する夜の闇に、男の掠れた声が響いた。声は俺の知らない歌を唄っていた。曲の名を聞くことも、何故男が急に唄い出したのかを聞くことも、ありがとうと云うこともなく、ただ俺は男の伸ばす腕に埋もれて目を閉じた。そうして男の唄う歌は俺から悪夢を綺麗さっぱり取り払っていった。男の優しい歌声と暖かい体温に抱かれて俺はまた眠りの森へ舟を漕ぐ。男のおかげでそのときも、その後も、そして今日も二度目の眠りに悪夢はやってこなかった。



 またあの男がやってきた。
 岸谷(キシタニ)というらしい男は、今日もまたあの冷たい眼をして男と、そして今度は何故か俺までまるで睨み付けるみたいな目で見回した。
 「歌は思い出しましたか」
 岸谷という男の声は、目と同じくらい冷ややかな空気を孕んでいた。まるでこの間のあの熱が嘘みたいに冷たい冷たい声だった。

 「相変わらず」

 男は一言だけそう返す。その言葉に岸谷という男は嘆息し、俺は目を見開いた。
 「そうですか。まだ歌えないままですか」
 そろそろマスコミが気づき始めています。もう時間があまり残されてません。岸谷という男がそうつらつら話すのを、男は何の表情も浮かんでいない顔で見ていた。
 そんな男を俺はどうしようもなく可哀想だと思った。

 「相変わらず」
 そう返した男はまるで酷い痛みを必死で堪えているような表情をしていた。きっと岸谷という男は、男の零した言葉の後に続くはずだった言葉を取り違えている。
 相変わらずそのことばかりなんですね。
 男はきっとこう云いたかったのだろう。
 男が噛み殺した言葉をおもって俺は俯き唇を噛んだ。

 男が俺を拾った理由が唐突に分かった気がした。

 男はきっと自分を見てくれる人間が欲しかったのだろう。男の持つ才能――最も俺はその才が何なのか知らないが――ではなく、男自身を見てくれる人間が欲しかったのだろう。何て可哀想で愚かな人間なのだろうと思った。
 噛み締める男の唇がかすかに震えている。それが怒りからくるものなのか、はたまた別の感情からくるものなのかは、俺には判断がつかなかった。
 ただ男が欲した人間が自分自身を見てくれる人間なら別に俺でなくても良かったということが何故か少し辛かった。――そしてその理由から俺はあえて目を逸らした。気づかないふりをしたのだ。自分自身がこれ以上傷つかないために。自分以外の誰も傷つけないために。



 それからまた少し経った。俺と男の付き合いは早や三ヶ月もの期間に達していた。男が歌を思い出したことは、ついにこの間あの岸谷という男に知られてしまった。キッチンでふんふん唄っていた男の歌声を岸谷という男に聞かれてしまったのだ。
 それからというもの、男は岸谷という男に連れられ毎朝決まって同じ時間にどこかへ外出するようになった。毎日決まって朝九時半過ぎから夕方五時過ぎまで男は家を空けた。男が出かけた後俺は男の住む家に一人ぽつんと取り残された。何かすることがあるわけでもなく、かといってどこかへ行くあてもない俺は、ただただ流れる雲、色の変わる空、男の部屋の隅に置かれた観葉植物、水滴のついたグラス、少し錆びた灰皿、そういった男の部屋にあるもの、男の部屋から見えるもの、俺の目に付く全てのものを男からもらった一冊のスケッチブックに描いていった。
 人を描くことは得意ではなかった。物を、花を、木を描くのが好きだった。男から貰った12色の色鉛筆と2Bの鉛筆を使って俺はただひたすらに絵を描き続ける。そうすれば空腹も忘れることができた。男の居ない家では食事を取る気にもならなかった。冷蔵庫にあるものを好きに食べていいと云われていたが、俺がその食材に手をつけることは一度もなかった。触れてはならない気がしたのだ。冷蔵庫なんてもの、俺には似つかわしくなく感じられた。
 ふと店の裏に置かれている残飯の詰め込まれたゴミ箱を思い出した。あれが俺にはお似合いなのかもしれない。そう思って、直ぐにその思いをかき消そうと手に握った色鉛筆を画用紙に滑らせた。思った以上に空の色は濃くその紙の上に刻まれ溶けた。



 スケッチブックが二冊目になったある日のことだった。突然男の家の玄関が開き、今まで一度も朝に男を迎えに来る以外顔を見せることのなかった岸谷という男がやってきた。男は相変わらず部屋のベランダで空を描いていた俺を睥睨すると、そのままつかつかと俺に歩み寄り、そしてグイと俺の腕を無言で引っ張るとそのまま何も云わず俺を男が今しがた通ってきた玄関へと連れて行く。手に持っていた色鉛筆が床に音を立てて落ちた。
 岸谷という男が云った。こんな得体の知れない子供をいつまでも家に置いておくなんて。岸谷という男は俺の手からスケッチブックと鉛筆をもぎ取ると、その換わりみたいに数枚の紙幣を空いたそこに突っ込んで俺の背中をドンと押した。気づけば玄関の外に放り出されていた。
 「あなたもそろそろ自分の居るべきところへ戻りなさい」
 岸谷という男が俺にかけた最後の言葉はそれだった。そうして俺はまるで手切れ金みたいな金を掴まされ、靴も履かされぬまま男の家から追いやられたのだった。

 オートロックの鍵が音を立てて閉じた。一度出たらもう二度と入れない男の家。その家のポストに無意識のうちに今しがた握らされた紙幣を突っ込んだ。そしてそのまま踵を返し、俺は男のマンションを後にした。外に出て初めて見上げた男のマンションは酷く高かった。今さっきまであの窓のどこかから下を見ていたなんて思えないほど、そのマンションは俺を完全に拒絶していた。知らない建物だった。このマンションのどこかに男の部屋があるなんて思えないほど、その建物はよそよそしかった。

 裸足の足が痛い。こんなことならあの金を少し貰ってくるんだったと思ったが、しかし手元に置いておいたところでどうせそこらのゴミ箱に捨ててしまうだろうことは何故だか容易に想像できた。あんな金使おうとも思わない。仕方なしに裸足のまま暫く歩く。3時間くらい歩きに歩いてようやく見慣れた街に出た。そのまま街に入って懐かしいゴミ捨て場から履けそうな靴を引っ張り出す。そしてその靴を履いて俺は街の裏地へ溶けていく。
 男のマンションなんかより、こっちのほうがよっぽど俺には似合っていると思った。だがしかし、何故かその考えに胸が少し痛んだ。そうして唐突に夜が怖いと思った。

 これは以外に堪えるかもしれないと思った。それは手元に何もないからではない。勿論裸足だからでもない。男が傍に居ないからだ。こんなことでは夜もろくに眠れない。少し前までは、男に出会う前までは少なくとも俺はこんなに弱くはなかった。
 男に出会う前も、男に出会った後も、俺は相変わらず悪夢を見た。しかし男に出会った後は俺はその悪夢を毎夜引き連れてくる夜に怯えることはなかった。夜が覚めれば、夢が明ければ、男が傍らに居てくれることを知ったからだ。だから夜も怖くはなかった。
 だがしかし今日からはまた男の居ない夜に逆戻りする。果たして俺は今日から無事に夜を越えることができるのだろうか。男の温もりを知ってしまった今、俺は一人でこの冷たい路地の上で眠ることができるのだろうか。出来ないかもしれないと思う。でも出来なくても無理して眠るほか方法はない。もう男は居ない。男なしで眠れなければならないのだ。
 まるで夢を見ていたみたいだ。それもとびきり上等の酷い悪夢を。男の存在も、男と過ごした日々も全部が夢みたいだった。そして今はその夢が覚めただけ。現実の世界に戻っただけなのだ。だから何ともない。
 夢というものはいつかは覚めるものなのだ。たとえそれがどんなにいい夢でも、どんなにその夢の中に居たいと願っても、朝が来れば自然と覚めるものなのだ。
 たとえ俺がそれを必死で食い止めようとどれだけ無駄に足掻いても、それは無駄なことなのだ。

 明けない夜がないのと同じように、覚めぬ夢もまた存在しない。



 男と最後に言葉を交わしてからだいぶ経った。その間に俺の体は男と出会って少しは付いた肉を完全に削ぎ落とし、以前と全く同じ体つきに戻っていた。あばらは完全に浮き上がり、少し力を入れられれば直ぐにでも折れそうだった。
 日払いのバイトをいくつか掛け持ちして何とか糊口を凌ぐ日々を送っていた。そして今日もまた日払いのティッシュ配りのバイトを朝から夜まで立ちっぱなしでやることになっていた。この炎天下の中立ちっぱなしは少しきついなと思ったけれど、それでも食べていくためには仕方がないことだと我慢するほかなかった。体を売れといわれないだけまだマシだと思った。

 男と離れてからいろいろと男のことを考えた。そういえば名前も聞いていなかったということに気づいたのは、男と別れてからだいぶ経ってからのことだった。それまで男と暮らした日々を思い返すことで手一杯でそのことにまで頭が回っていなかったのだ。なんという名前だったのだろうか。男もまた俺の名を知らない。お互い何かの偶然で出会っても名を呼び、呼び止めることもかなわない。何だかそれは少し悲しいかもしれないと思った。でもそう思っても俺にはどうしようもないことだった。
 男に会いたいとずっとずっと思っていた。男に会えるならタダでビラを何千枚配ってもいいとさえ思った。ティシュだって配る。男の優しい腕が死ぬほど恋しかった。もう一度抱きしめて欲しいと思った。男の声をもう一度聞きたいと思った。

 男のことが好きなのだと、俺には男が必要なのだと、死ぬほど実感した。
 ――でもそんなこといくら思ったところで所詮無駄なだけだった。

 まるで絵の具で塗ったみたいに青い青い空だった。雲は綿で作ったみたいに真っ白だった。四方をビルに囲まれた大きな通りでティッシュをいやになるくらい配った。しかし配っても配っても箱の中身は一向に減る気配を見せなかった。支給された帽子が唯一の助けだった。帽子を目深にかぶればかんかん照りの日光を少しは避けることが出来た。おかげで日射病で倒れるなんて醜態をさらすことはなかった。



 静かに夜の帳が降り始めていた。
 空が藍色に染まり、気温が少し下がった。風が温くなり、辺りのネオンが灯り始めた。
 何故かぞろぞろと人が俺のティッシュ配りをする通りに集まり始めていた。何かイベントでも行われるのだろうかと思って辺りを見回したが、周りにそれらしき設営は見当たらなかった。集まってきた人々は皆一様に空を見上げていた。こんな汚れた街では星なんか見えはしない。一体そんなに首を傾けて何を見ているのだろうかと思った。立ち止まる人間が増えたおかげでティッシュは思った以上に早く無くなっていった。

 7時前になった。通りはすごい人だかりになっていた。本当に一体此処で何があるんだと思った。こんなに人が集まると身動きが取れない。少し息苦しいと思った。


 7時きっかりに通りに面して設置されていた巨大スクリーンが全て消え、その周りの電飾も皆同じように明かりを消した。立ち止まっていた人々がざわめいた。

 そしてその後直ぐに辺りは音の洪水に巻き込まれた。

 通りにあるスクリーン全部が同じ映像を写していた。聞こえてくる音もどうやら一つだけのようだった。
 聞こえてくる音も、浮かんでいる映像も、どちらも酷く懐かしく、見覚えのあるものだった。浮かんでは消え浮かんでは消えしている絵は俺の描いたあのへたくそな絵で、聞こえてくる声は間違えようのないあの男のものだった。

 なぜ、と思った。
 なぜこんなことになっているのだろうか。
 男の唄う歌は俺が好きだといったあの子守唄の一つだった。男の声は、最後に聞いた行ってきますの声とそっくりそのまま同じだった。浮かぶ絵は俺が男の家で描いた空の絵ばかりだった。青空、飛行機雲、夕焼け。全部俺の描いた絵だった。

 何故か涙が溢れてとまらなかった。

 もう二度と聞けないと思っていた男の声。それがこんなところで聞けるなんて、何て偶然だろうかと思った。これで暫くの間はやる気を絶やさず生きていける。現金なことに体に力がみなぎってくるように感じられた。

 男の名前を死ぬほど呼びたいと思った。でも俺は男の名前を知らなかった。だから声にならない名前を咽で押し殺してぼろぼろ泣き続けた。この男が好きなのだと、どうしようもないくらい心のそこから実感した。この感情をほかの人は何と呼ぶのだろうか。こんなに胸が痛くて、切なくて、苦しくて。もう息が出来ない。こんな思いを人は何と呼ぶのだろうか。
 こんな痛み、今まで感じたことない。

 今日がティッシュ配りのバイトでよかったと心底思った。おかげでティッシュは余るほどある。早速一袋封を切ってぐちゃぐちゃの顔を拭う。俯いてごしごし顔を拭いている俺の耳にまた新しいざわめきが聞こえた。ざわり。そしてそのざわめきは直ぐにおかしな沈黙に変わった。

 鼻水の詰まった鼻にも充分に香る濃厚な花の匂いが直ぐ傍から漂った。

 ガサリと近くで紙か何かが擦れるような音がした。恐る恐る顔を上げてみると、上げたその視界を真っ赤な何かが埋め尽くす。何だ、これ。涙で濡れた視界が序所にはっきりしてくるにつれその赤い何かの正体もおぼろげにだが明らかになる。
 バラ、だ。それも赤い赤いバラ。それが何故俺の目の前にこんなにもたくさんあるのだろうか。気づけば俺の周りからは人がすっかり居なくなっていて、その居なくなった人たちは少しはなれたところでまるでかごめかごめをするような感じで俺を囲んでこっちを凝視している。
 バラが視界から消えた。そしてその消えたバラの向こう側に立っていたのは、俺と同じように帽子を目深に被った一人の背の高い男だった。

 まさか、と思った。
 何故この男がこんなところに居るのだ。

 「どの花が好きか分からなかったから、プロポーズに一番人気の花をあるだけ貰ってきたんだけど」
 久しぶりに聞く男の話声。歌声とは違い、少し甘く掠れる男の声は、忘れたくても忘れられなかったあの日の声と何一つ変わっていない。
 「気に入らなかった?」
 男はゆっくりとした動作で帽子を脱ぎ、俺ににっこりと笑いかけた。

 「何で、」
 体が恐ろしいくらい小刻みに震えた。
 「何で、こんなとこに、あんた、有名人なんだろ、こんなとこに、なんで、なんでこんなこと、何で、何で、」

 「もう二度と会えないと思ったのに、何で」


 男の手がバラの花束を握ったまま俺を自分の方へ引き寄せた。

 「うん。ごめんね。さびしかった?ごめんね、これからはずっと一緒に居るから」

 バラの匂いより強く嗅ぎなれた男の淡いコロンの匂いが俺を包む。

 「さびしくなんか・・・」

 無いに決まってる。そう云おうとして咽が嗚咽で詰まって言葉が途中で掻き消えた。俺の指がすがり付くみたいに男の服を固く握る。

 「もう絶対に一人になんかしない。だから僕と一緒に逃げてくれないかい?」

 男がとびきりの悪戯を話すみたいに弾んだ声で、俺の耳元にそう囁く。

 「逃げるって、どういう」

 通りは水を打ったみたいに静まり返っていた。まるで男と俺しか存在しないみたいに、誰も何も話さない。

 「そのままの意味だよ。僕はもうこの世界に居たくないんだ」

 君と一緒がいい。一緒に居たいんだ。
 男はそう云ってあの優しい腕できつくきつく俺を抱く。

 『一人にしないでくれ。一緒に居て。君が居ない夜はもう耐えられないよ』

 スクリーンから聞こえる男の声がそう唄い上げ、

 「君とならどこでだって生きていける」

 君さえ居れば他にはなにもいらないんだ。
 目の前に居る男がそう云って笑う。


 「嫌だと云っても攫っていくつもりだから」

 バラの匂いと男の強い腕のせいで息が出来ない。

 「あの日からずっとずっと探してた」

 「もう二度と一人になりたくないんだ。君が居ないと息も出来ない」

 「君が必要なんだ」



 『だから傍に居てくれないか』



 これは本当に現実なのだろうか、と思った。俺はまた夢を見ているのではないのかと。
 男に触れる指も、抱きしめられる体も、香る匂いも、全て夢のようで。
 ただひたすら聞こえる男の声だけが、胸に痛い。

 この痛みは果たして現実の痛みなのだろうか。

 もうどっちでもいい、と思った。
 これが夢であれ、現実であれ、男さえ居ればどちらでもかまわないと。
 だから目の前に立つ男に思い切り強く強く抱きついた。骨の一本くらい持っていってやるくらいの勢いで、だ。


 「俺だってあんたさえ居れば他はいらない」

 何だか妙に声がかすれているなと思った。気づけば俺はまるで子供のように涙を流し顔をくしゃくしゃにしてまた泣いていた。

 「あんたが居れば、他には何もいらないんだ」

 震える俺の指がもう二度と逃がさないというみたいに男の服の下にある肌に食い込んだ。

 男さえ居れば何もいらないと、そう本気で思った。

 男の名前を呼びたいと、思った。



 誰が見ていようと、この先にどんなことが待ち受けていようと、男さえいれば怖くないと思った。


 夜なんかもう怖くない。


 男さえいれば、もう、何も。


 何も怖くなどない。


この夜を漕いで君の元へ。





 誰かが唄った歌詞じゃないけど、でもあの男は確かに100万人のために歌を唄う男だった。100万人以上のファンが、男の作る歌と、男の書く歌詞を待ち望んでいた。男はまさに皆から切望される存在だった。そしてそんな男と比べて俺はというと、ゴミ捨て場生まれの、施設育ちで、定職にもついていない人間のクズのお手本のような人間だった。なぜ生まれてきたのかが分からなければ、こんな俺を誰が生んだのかさえ、果たしてその親は今生きているのか、それとももうこの世にはいないのかさえ知らなかった。
 俺は男と出会うまで本当の独りきりだった。そしてそれは、俺にとって当たり前のことだった。

 16になった年に施設を出てから一年半余り、碌なものを食べてなかった俺。浮いたあばらとこけた頬は見るも無残で、まるで生きながら死んでいるみたいだった。
 道端で力尽きへたり込んでいた俺。そんな俺を男はまるで捨て猫を拾う子供みたいな手つきで抱え上げ、そしてそのまま何故か自分の家へと連れ帰り、食事を与え、フロに入れ、髪を乾かし、自分と同じ布団で眠らせた。
 男に俺は何故こんなことをすると聞いた。その俺の問いに男は、気まぐれでだよ、とだけ答えた。しかし気まぐれに拾ったにしては、男の俺を世話する手つきは余りに柔らかすぎた。直ぐに放り出されると思っていた男の家に未だにとどまっている俺。しばらく経ってからまた同じ問いを重ねた俺に、男は今度は少し真剣な表情で、それでもしかしまた、気まぐれだよ、と前と同じ答えを返した。
 そしてそれから暫くして俺は唐突に男が俺を拾った理由を知るのだ。



 同じにおいがするような気がしていた。
 本当の孤独を知っているような、同じ穴の狢のようなにおいが。
 男もまた俺と同じような境遇の人間だった。だがしかし、一人も身内が居ない俺と違い、身内は居るが自らその繋がりを切った男は、本当の意味で言えば同じではなかった。でもそれでも男からは俺と同じ孤独のにおいがした。

 俺を拾った男は決して此処に居ろとは言わなかった。けれども、出て行けとも決して口にしなかった。ぼんやりと男の家で過ごすうち、俺は朝食がいつも二人分用意されていて、歯ブラシも箸もマグカップも、男の家にあるほとんどの食器が二人分になったことに気がついた。初めちぐはぐだった俺の茶碗と男の茶碗が二つ揃いで食卓に並べられているのを見たとき。洗面所の歯ブラシ立てに男の歯ブラシと俺のそれが並んで置かれているのを見たとき。俺は決まって目頭が熱くなる自分を感じずにはいられなかった。
 男は決して此処に居ろとは言わなかった。
 でも時折俺が折れそうなくらい強く抱きしめるその腕は、確かに言葉より雄弁に俺にここに居ろと言っていた。男の腕は言葉少ない男の意思を伝えるための一つの有効な手段だった。



 男が歌手だと、それも飛び切り売れているトップーアーティストの一人なのだと知ったのは、俺が男の家で過ごすようになって一ヶ月ほど経ったある日の夕刻だった。一人の男が男の家を訪ねてきたのだ。
 初めて見た男はひどく冷たい目をしてただ一言「まだですか」とだけ男に向かって言った。同じ部屋に居た俺には、目もくれなかった。
 まだ唄えない、と男は言った。その声に初めてやってきた冷たい目をした男はまた一言、声が出るようになったのはいつですか、と少し苛立った声を零す。いつですか。いつから声が。冷たい目の男はじりっと男の方へ詰め寄った。メールではそんな素振り一言も。冷たい男のそれは、今度は何故か燃えるようにぎらついていた。
 言う必要がないと思ったから言わなかっただけだ。声が出ても歌は唄えない。俺はまだ商品としては使えない。だから、だ。燃える熱と厚い壁一枚隔てた向こう側に居るみたいな熱の伝わらない冷めた表情で男は淡々とそう言った。
 「いつ」
 聞いた男の目からはもう完全に熱は去っていた。
 用は済んだだろう。もう帰ってくれないか。男は客である男の腕を引っ張り無理矢理立たせるとそのまま引きずって廊下へ連れて行く。
 「一ヶ月前だ」
 男の声が聞こえた。
 「声が戻ったのは、一ヶ月前だ」
 男の声には熱の欠片一つ見つからなかった。

 男の声が戻ったのだという一ヶ月間。その月日の長さは、男と俺が共に居る時の長さと偶然にも重なっていた。



 夜には決まって悪夢を見た。
 夢の中で俺はいつも鎖に繋がれ広い舞台に置き去りにされている。そしてその舞台の周りには無数の目が光っていて、その目は何が可笑しいのかは分からないが、それでもいつも愉悦を刻むみたいに少しゆがんだ形をしている。
 逃げたくても逃げられない舞台の上。飛び降りるには鎖が足りない。俺は立ちすくみ泣き喚く。周りを囲む目がまた愉悦と、今度は侮蔑まで混ぜて歪む。
 そこで俺はいつも飛び起きるのだ。体にじっとりかいた不快な汗と、頬を伝う温い涙に顔を濡らして。
 ――俺を囲んでいた目は道で倒れていた俺を見るともなく見ていたあの周りの目にとてもよく似ていた。

 息が少し苦しくて、動悸がする。そして少しの吐き気と、酷い倦怠感を感じる。でもこれはいつものことだ。施設を出てからずっと消えない悪夢。きつく自分の腕で抱く自分の体が小刻みに震える。まだ此処が軟らかいベッドの上だからマシだ。冬の凍りかけた道路脇なんかとは比べ物にならない。
 ごそり。起き上がらせた体を倒し、布団にもぐりこむ。すると急に背後からぐるりと腕が俺の体に巻きつき、その腕にぐいと体を後ろに引っ張られる。まず腕が暖かい体温に触れ、その後体全体がその温もりに包まれる。

 「また眠れないの?」
 また怖い夢みた?首の直ぐ後ろで話しているのか、男が声を発するたび息が首元にかかってくすぐったい。
 「ごめん、起こして」
 小さな声で謝った俺を、男は腕に力をこめてきつく抱きしめることで黙らせる。
 初めてこの家にきてからずっと俺と男は同じベッドで眠っている。一人暮らしをしているらしい男の家にベッドが二つあるわけでもなく、俺は男と同じベッドで夜を過ごす。ソファで寝ると言い張った俺を、初めの夜も同じベッドで寝たのだから、今更だろう、と男が無理矢理自分のベッドに引きずり込んだからだ。
 「いいよ。また見たの?」
 まるでキリストの母のように、俺のやったこと全てを赦す男は、その言葉の後いつものようにさりげない口調で、
 「じゃぁ怖い夢見ないように子守唄唄ってあげるよ。」
 そう云って、その後唐突にまた新しい、俺の知らない歌を唄い始める。
 ゴミ捨て場生まれの、施設育ちの俺が知っている曲は両手両足で十分足りるくらい少ししかない。その俺の知っているどの曲よりも男の唄う歌は綺麗で優しくて心地よかった。男の唄っていた歌は全て男が作ったオリジナルの歌だった。
 男の家に連れてこられ、同じベッドで初めて眠った夜から続く男の子守唄。突然体を震わせ飛び起きた俺に男は理由を聞こうとはしなかった。そして勿論俺も言おうとしなかった。突然沈黙が支配する夜の闇に、男の掠れた声が響いた。声は俺の知らない歌を唄っていた。曲の名を聞くことも、何故男が急に唄い出したのかを聞くことも、ありがとうと云うこともなく、ただ俺は男の伸ばす腕に埋もれて目を閉じた。そうして男の唄う歌は俺から悪夢を綺麗さっぱり取り払っていった。男の優しい歌声と暖かい体温に抱かれて俺はまた眠りの森へ舟を漕ぐ。男のおかげでそのときも、その後も、そして今日も二度目の眠りに悪夢はやってこなかった。



 またあの男がやってきた。
 岸谷(キシタニ)というらしい男は、今日もまたあの冷たい眼をして男と、そして今度は何故か俺までまるで睨み付けるみたいな目で見回した。
 「歌は思い出しましたか」
 岸谷という男の声は、目と同じくらい冷ややかな空気を孕んでいた。まるでこの間のあの熱が嘘みたいに冷たい冷たい声だった。

 「相変わらず」

 男は一言だけそう返す。その言葉に岸谷という男は嘆息し、俺は目を見開いた。
 「そうですか。まだ歌えないままですか」
 そろそろマスコミが気づき始めています。もう時間があまり残されてません。岸谷という男がそうつらつら話すのを、男は何の表情も浮かんでいない顔で見ていた。
 そんな男を俺はどうしようもなく可哀想だと思った。

 「相変わらず」
 そう返した男はまるで酷い痛みを必死で堪えているような表情をしていた。きっと岸谷という男は、男の零した言葉の後に続くはずだった言葉を取り違えている。
 相変わらずそのことばかりなんですね。
 男はきっとこう云いたかったのだろう。
 男が噛み殺した言葉をおもって俺は俯き唇を噛んだ。

 男が俺を拾った理由が唐突に分かった気がした。

 男はきっと自分を見てくれる人間が欲しかったのだろう。男の持つ才能――最も俺はその才が何なのか知らないが――ではなく、男自身を見てくれる人間が欲しかったのだろう。何て可哀想で愚かな人間なのだろうと思った。
 噛み締める男の唇がかすかに震えている。それが怒りからくるものなのか、はたまた別の感情からくるものなのかは、俺には判断がつかなかった。
 ただ男が欲した人間が自分自身を見てくれる人間なら別に俺でなくても良かったということが何故か少し辛かった。――そしてその理由から俺はあえて目を逸らした。気づかないふりをしたのだ。自分自身がこれ以上傷つかないために。自分以外の誰も傷つけないために。



 それからまた少し経った。俺と男の付き合いは早や三ヶ月もの期間に達していた。男が歌を思い出したことは、ついにこの間あの岸谷という男に知られてしまった。キッチンでふんふん唄っていた男の歌声を岸谷という男に聞かれてしまったのだ。
 それからというもの、男は岸谷という男に連れられ毎朝決まって同じ時間にどこかへ外出するようになった。毎日決まって朝九時半過ぎから夕方五時過ぎまで男は家を空けた。男が出かけた後俺は男の住む家に一人ぽつんと取り残された。何かすることがあるわけでもなく、かといってどこかへ行くあてもない俺は、ただただ流れる雲、色の変わる空、男の部屋の隅に置かれた観葉植物、水滴のついたグラス、少し錆びた灰皿、そういった男の部屋にあるもの、男の部屋から見えるもの、俺の目に付く全てのものを男からもらった一冊のスケッチブックに描いていった。
 人を描くことは得意ではなかった。物を、花を、木を描くのが好きだった。男から貰った12色の色鉛筆と2Bの鉛筆を使って俺はただひたすらに絵を描き続ける。そうすれば空腹も忘れることができた。男の居ない家では食事を取る気にもならなかった。冷蔵庫にあるものを好きに食べていいと云われていたが、俺がその食材に手をつけることは一度もなかった。触れてはならない気がしたのだ。冷蔵庫なんてもの、俺には似つかわしくなく感じられた。
 ふと店の裏に置かれている残飯の詰め込まれたゴミ箱を思い出した。あれが俺にはお似合いなのかもしれない。そう思って、直ぐにその思いをかき消そうと手に握った色鉛筆を画用紙に滑らせた。思った以上に空の色は濃くその紙の上に刻まれ溶けた。



 スケッチブックが二冊目になったある日のことだった。突然男の家の玄関が開き、今まで一度も朝に男を迎えに来る以外顔を見せることのなかった岸谷という男がやってきた。男は相変わらず部屋のベランダで空を描いていた俺を睥睨すると、そのままつかつかと俺に歩み寄り、そしてグイと俺の腕を無言で引っ張るとそのまま何も云わず俺を男が今しがた通ってきた玄関へと連れて行く。手に持っていた色鉛筆が床に音を立てて落ちた。
 岸谷という男が云った。こんな得体の知れない子供をいつまでも家に置いておくなんて。岸谷という男は俺の手からスケッチブックと鉛筆をもぎ取ると、その換わりみたいに数枚の紙幣を空いたそこに突っ込んで俺の背中をドンと押した。気づけば玄関の外に放り出されていた。
 「あなたもそろそろ自分の居るべきところへ戻りなさい」
 岸谷という男が俺にかけた最後の言葉はそれだった。そうして俺はまるで手切れ金みたいな金を掴まされ、靴も履かされぬまま男の家から追いやられたのだった。

 オートロックの鍵が音を立てて閉じた。一度出たらもう二度と入れない男の家。その家のポストに無意識のうちに今しがた握らされた紙幣を突っ込んだ。そしてそのまま踵を返し、俺は男のマンションを後にした。外に出て初めて見上げた男のマンションは酷く高かった。今さっきまであの窓のどこかから下を見ていたなんて思えないほど、そのマンションは俺を完全に拒絶していた。知らない建物だった。このマンションのどこかに男の部屋があるなんて思えないほど、その建物はよそよそしかった。

 裸足の足が痛い。こんなことならあの金を少し貰ってくるんだったと思ったが、しかし手元に置いておいたところでどうせそこらのゴミ箱に捨ててしまうだろうことは何故だか容易に想像できた。あんな金使おうとも思わない。仕方なしに裸足のまま暫く歩く。3時間くらい歩きに歩いてようやく見慣れた街に出た。そのまま街に入って懐かしいゴミ捨て場から履けそうな靴を引っ張り出す。そしてその靴を履いて俺は街の裏地へ溶けていく。
 男のマンションなんかより、こっちのほうがよっぽど俺には似合っていると思った。だがしかし、何故かその考えに胸が少し痛んだ。そうして唐突に夜が怖いと思った。

 これは以外に堪えるかもしれないと思った。それは手元に何もないからではない。勿論裸足だからでもない。男が傍に居ないからだ。こんなことでは夜もろくに眠れない。少し前までは、男に出会う前までは少なくとも俺はこんなに弱くはなかった。
 男に出会う前も、男に出会った後も、俺は相変わらず悪夢を見た。しかし男に出会った後は俺はその悪夢を毎夜引き連れてくる夜に怯えることはなかった。夜が覚めれば、夢が明ければ、男が傍らに居てくれることを知ったからだ。だから夜も怖くはなかった。
 だがしかし今日からはまた男の居ない夜に逆戻りする。果たして俺は今日から無事に夜を越えることができるのだろうか。男の温もりを知ってしまった今、俺は一人でこの冷たい路地の上で眠ることができるのだろうか。出来ないかもしれないと思う。でも出来なくても無理して眠るほか方法はない。もう男は居ない。男なしで眠れなければならないのだ。
 まるで夢を見ていたみたいだ。それもとびきり上等の酷い悪夢を。男の存在も、男と過ごした日々も全部が夢みたいだった。そして今はその夢が覚めただけ。現実の世界に戻っただけなのだ。だから何ともない。
 夢というものはいつかは覚めるものなのだ。たとえそれがどんなにいい夢でも、どんなにその夢の中に居たいと願っても、朝が来れば自然と覚めるものなのだ。
 たとえ俺がそれを必死で食い止めようとどれだけ無駄に足掻いても、それは無駄なことなのだ。

 明けない夜がないのと同じように、覚めぬ夢もまた存在しない。



 男と最後に言葉を交わしてからだいぶ経った。その間に俺の体は男と出会って少しは付いた肉を完全に削ぎ落とし、以前と全く同じ体つきに戻っていた。あばらは完全に浮き上がり、少し力を入れられれば直ぐにでも折れそうだった。
 日払いのバイトをいくつか掛け持ちして何とか糊口を凌ぐ日々を送っていた。そして今日もまた日払いのティッシュ配りのバイトを朝から夜まで立ちっぱなしでやることになっていた。この炎天下の中立ちっぱなしは少しきついなと思ったけれど、それでも食べていくためには仕方がないことだと我慢するほかなかった。体を売れといわれないだけまだマシだと思った。

 男と離れてからいろいろと男のことを考えた。そういえば名前も聞いていなかったということに気づいたのは、男と別れてからだいぶ経ってからのことだった。それまで男と暮らした日々を思い返すことで手一杯でそのことにまで頭が回っていなかったのだ。なんという名前だったのだろうか。男もまた俺の名を知らない。お互い何かの偶然で出会っても名を呼び、呼び止めることもかなわない。何だかそれは少し悲しいかもしれないと思った。でもそう思っても俺にはどうしようもないことだった。
 男に会いたいとずっとずっと思っていた。男に会えるならタダでビラを何千枚配ってもいいとさえ思った。ティシュだって配る。男の優しい腕が死ぬほど恋しかった。もう一度抱きしめて欲しいと思った。男の声をもう一度聞きたいと思った。

 男のことが好きなのだと、俺には男が必要なのだと、死ぬほど実感した。
 ――でもそんなこといくら思ったところで所詮無駄なだけだった。

 まるで絵の具で塗ったみたいに青い青い空だった。雲は綿で作ったみたいに真っ白だった。四方をビルに囲まれた大きな通りでティッシュをいやになるくらい配った。しかし配っても配っても箱の中身は一向に減る気配を見せなかった。支給された帽子が唯一の助けだった。帽子を目深にかぶればかんかん照りの日光を少しは避けることが出来た。おかげで日射病で倒れるなんて醜態をさらすことはなかった。



 静かに夜の帳が降り始めていた。
 空が藍色に染まり、気温が少し下がった。風が温くなり、辺りのネオンが灯り始めた。
 何故かぞろぞろと人が俺のティッシュ配りをする通りに集まり始めていた。何かイベントでも行われるのだろうかと思って辺りを見回したが、周りにそれらしき設営は見当たらなかった。集まってきた人々は皆一様に空を見上げていた。こんな汚れた街では星なんか見えはしない。一体そんなに首を傾けて何を見ているのだろうかと思った。立ち止まる人間が増えたおかげでティッシュは思った以上に早く無くなっていった。

 7時前になった。通りはすごい人だかりになっていた。本当に一体此処で何があるんだと思った。こんなに人が集まると身動きが取れない。少し息苦しいと思った。


 7時きっかりに通りに面して設置されていた巨大スクリーンが全て消え、その周りの電飾も皆同じように明かりを消した。立ち止まっていた人々がざわめいた。

 そしてその後直ぐに辺りは音の洪水に巻き込まれた。

 通りにあるスクリーン全部が同じ映像を写していた。聞こえてくる音もどうやら一つだけのようだった。
 聞こえてくる音も、浮かんでいる映像も、どちらも酷く懐かしく、見覚えのあるものだった。浮かんでは消え浮かんでは消えしている絵は俺の描いたあのへたくそな絵で、聞こえてくる声は間違えようのないあの男のものだった。

 なぜ、と思った。
 なぜこんなことになっているのだろうか。
 男の唄う歌は俺が好きだといったあの子守唄の一つだった。男の声は、最後に聞いた行ってきますの声とそっくりそのまま同じだった。浮かぶ絵は俺が男の家で描いた空の絵ばかりだった。青空、飛行機雲、夕焼け。全部俺の描いた絵だった。

 何故か涙が溢れてとまらなかった。

 もう二度と聞けないと思っていた男の声。それがこんなところで聞けるなんて、何て偶然だろうかと思った。これで暫くの間はやる気を絶やさず生きていける。現金なことに体に力がみなぎってくるように感じられた。

 男の名前を死ぬほど呼びたいと思った。でも俺は男の名前を知らなかった。だから声にならない名前を咽で押し殺してぼろぼろ泣き続けた。この男が好きなのだと、どうしようもないくらい心のそこから実感した。この感情をほかの人は何と呼ぶのだろうか。こんなに胸が痛くて、切なくて、苦しくて。もう息が出来ない。こんな思いを人は何と呼ぶのだろうか。
 こんな痛み、今まで感じたことない。

 今日がティッシュ配りのバイトでよかったと心底思った。おかげでティッシュは余るほどある。早速一袋封を切ってぐちゃぐちゃの顔を拭う。俯いてごしごし顔を拭いている俺の耳にまた新しいざわめきが聞こえた。ざわり。そしてそのざわめきは直ぐにおかしな沈黙に変わった。

 鼻水の詰まった鼻にも充分に香る濃厚な花の匂いが直ぐ傍から漂った。

 ガサリと近くで紙か何かが擦れるような音がした。恐る恐る顔を上げてみると、上げたその視界を真っ赤な何かが埋め尽くす。何だ、これ。涙で濡れた視界が序所にはっきりしてくるにつれその赤い何かの正体もおぼろげにだが明らかになる。
 バラ、だ。それも赤い赤いバラ。それが何故俺の目の前にこんなにもたくさんあるのだろうか。気づけば俺の周りからは人がすっかり居なくなっていて、その居なくなった人たちは少しはなれたところでまるでかごめかごめをするような感じで俺を囲んでこっちを凝視している。
 バラが視界から消えた。そしてその消えたバラの向こう側に立っていたのは、俺と同じように帽子を目深に被った一人の背の高い男だった。

 まさか、と思った。
 何故この男がこんなところに居るのだ。

 「どの花が好きか分からなかったから、プロポーズに一番人気の花をあるだけ貰ってきたんだけど」
 久しぶりに聞く男の話声。歌声とは違い、少し甘く掠れる男の声は、忘れたくても忘れられなかったあの日の声と何一つ変わっていない。
 「気に入らなかった?」
 男はゆっくりとした動作で帽子を脱ぎ、俺ににっこりと笑いかけた。

 「何で、」
 体が恐ろしいくらい小刻みに震えた。
 「何で、こんなとこに、あんた、有名人なんだろ、こんなとこに、なんで、なんでこんなこと、何で、何で、」

 「もう二度と会えないと思ったのに、何で」


 男の手がバラの花束を握ったまま俺を自分の方へ引き寄せた。

 「うん。ごめんね。さびしかった?ごめんね、これからはずっと一緒に居るから」

 バラの匂いより強く嗅ぎなれた男の淡いコロンの匂いが俺を包む。

 「さびしくなんか・・・」

 無いに決まってる。そう云おうとして咽が嗚咽で詰まって言葉が途中で掻き消えた。俺の指がすがり付くみたいに男の服を固く握る。

 「もう絶対に一人になんかしない。だから僕と一緒に逃げてくれないかい?」

 男がとびきりの悪戯を話すみたいに弾んだ声で、俺の耳元にそう囁く。

 「逃げるって、どういう」

 通りは水を打ったみたいに静まり返っていた。まるで男と俺しか存在しないみたいに、誰も何も話さない。

 「そのままの意味だよ。僕はもうこの世界に居たくないんだ」

 君と一緒がいい。一緒に居たいんだ。
 男はそう云ってあの優しい腕できつくきつく俺を抱く。

 『一人にしないでくれ。一緒に居て。君が居ない夜はもう耐えられないよ』

 スクリーンから聞こえる男の声がそう唄い上げ、

 「君とならどこでだって生きていける」

 君さえ居れば他にはなにもいらないんだ。
 目の前に居る男がそう云って笑う。


 「嫌だと云っても攫っていくつもりだから」

 バラの匂いと男の強い腕のせいで息が出来ない。

 「あの日からずっとずっと探してた」

 「もう二度と一人になりたくないんだ。君が居ないと息も出来ない」

 「君が必要なんだ」



 『だから傍に居てくれないか』



 これは本当に現実なのだろうか、と思った。俺はまた夢を見ているのではないのかと。
 男に触れる指も、抱きしめられる体も、香る匂いも、全て夢のようで。
 ただひたすら聞こえる男の声だけが、胸に痛い。

 この痛みは果たして現実の痛みなのだろうか。

 もうどっちでもいい、と思った。
 これが夢であれ、現実であれ、男さえ居ればどちらでもかまわないと。
 だから目の前に立つ男に思い切り強く強く抱きついた。骨の一本くらい持っていってやるくらいの勢いで、だ。


 「俺だってあんたさえ居れば他はいらない」

 何だか妙に声がかすれているなと思った。気づけば俺はまるで子供のように涙を流し顔をくしゃくしゃにしてまた泣いていた。

 「あんたが居れば、他には何もいらないんだ」

 震える俺の指がもう二度と逃がさないというみたいに男の服の下にある肌に食い込んだ。

 男さえ居れば何もいらないと、そう本気で思った。

 男の名前を呼びたいと、思った。



 誰が見ていようと、この先にどんなことが待ち受けていようと、男さえいれば怖くないと思った。


 夜なんかもう怖くない。


 男さえいれば、もう、何も。


 何も怖くなどない。


しおりを挟む

この作品は感想を受け付けておりません。

あなたにおすすめの小説

高校生の僕は、大学生のお兄さんに捕まって責められる

天災
BL
 高校生の僕は、大学生のお兄さんに捕まって責められる。

寝不足貴族は、翡翠の奴隷に癒される。

うさぎ
BL
市場の片隅で奴隷として売られるゾイは、やつれた貴族風の男に買われる。その日から、ゾイは貴族の使用人として広大な館で働くことに。平凡で何の特技もない自分を買った貴族を訝しむゾイだったが、彼には何か事情があるようで……。 スパダリ訳あり貴族×平凡奴隷の純愛です。作中に暴力の描写があります!該当話数には*をつけてますので、ご確認ください。 R15は保険です…。エロが書けないんだァ…。練習したいです。 書いてる間中、ん?これ面白いんか?と自分で分からなくなってしまいましたが、書き終えたので出します!書き終えることに意味がある!!!!

大好きな幼馴染は僕の親友が欲しい

月夜の晩に
BL
平凡なオメガ、飛鳥。 ずっと片想いしてきたアルファの幼馴染・慶太は、飛鳥の親友・咲也が好きで・・。 それぞれの片想いの行方は? ◆メルマガ https://tsukiyo-novel.com/2022/02/26/magazine/

バイト先のお客さんに電車で痴漢され続けてたDDの話

ルシーアンナ
BL
イケメンなのに痴漢常習な攻めと、戸惑いながらも無抵抗な受け。 大学生×大学生

親友だと思ってた完璧幼馴染に執着されて監禁される平凡男子俺

toki
BL
エリート執着美形×平凡リーマン(幼馴染) ※監禁、無理矢理の要素があります。また、軽度ですが性的描写があります。 pixivでも同タイトルで投稿しています。 https://www.pixiv.net/users/3179376 もしよろしければ感想などいただけましたら大変励みになります✿ 感想(匿名)➡ https://odaibako.net/u/toki_doki_ Twitter➡ https://twitter.com/toki_doki109 素敵な表紙お借りしました! https://www.pixiv.net/artworks/98346398

美形な幼馴染のヤンデレ過ぎる執着愛

月夜の晩に
BL
愛が過ぎてヤンデレになった攻めくんの話。 ※ホラーです

全寮制男子校でモテモテ。親衛隊がいる俺の話

みき
BL
全寮制男子校でモテモテな男の子の話。 BL 総受け 高校生 親衛隊 王道 学園 ヤンデレ 溺愛 完全自己満小説です。 数年前に書いた作品で、めちゃくちゃ中途半端なところ(第4話)で終わります。実験的公開作品

【R18】平凡な男子が女好きのモテ男に告白したら…

ぽぽ
BL
"気持ち悪いから近づかないでください" 好きな相手からそんなことを言われた あんなに嫌われていたはずなのに… 平凡大学生の千秋先輩が非凡なイケメン大学生臣と恋する話 美形×平凡の2人の日常です。 ※R18場面がある場合は※つけます

処理中です...