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28 二人の夜1

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「恩田、大丈夫?」

「……え? なにがですか?」

 三日ほどたち、私は千穂先輩と昼食をとっていた。また社員食堂だ。今日は少し遅かったから、席を確保するのが大変だった。
 千穂先輩は向かいの席で日替わりランチを食べながら、心配そうな顔をしている。

「なにがって、明らかに様子が変でしょ。顔色も悪いしさ……。ちゃんと食べてる? 今回のことであの人と何かあったの?」

「食べてますよ。お弁当も持ってきましたし……。家でも普段どおりに過ごしてます」

 私は苦笑しながら答えた。実をいうと、綾太さんに叱られた朝から食事を減らしている。彼は私と松本さんが再会した日からずっと帰りが遅く、朝食のときにはほとんど喋らない。私がびくびくしているのが原因だろうけど、必要最低限の会話だけだ。なにを食べても味が分からなくなり、食事が楽しいと思えなくなってしまった。
 あの日から綾太さんは社食にも来ていないし、本気で私を避けているのかもしれない。

(もう彼の家政婦を辞めたほうがいいのかな……。でもまだお金貯まってないし……)

 先月にとうとう母の治療費を払い終えたが、その結果口座の残高はわずか数百円という有様だった。二十五歳のOLで残高が三桁なんて私ぐらいのものだろう。ちゃんと治療費を払い終えたことについては自分でも誇らしく思うけど、今のままでは引越しなんかできそうにない。

(でも綾太さんは、私に出て行ってほしいと思ってるかもしれないから……)

 今までの家事代行でも、仕事振りを見た依頼者から二度と来るなといわれたことがある。その時は業務範囲を超えた依頼をされて断ったからで、上司からも気にするなといわれたが、今回のことは完全に私の落ち度だ。だから綾太さんが望むなら私は出て行くべきだろう。お金がないからと泣きつくのはもう終わりにしたい。お金はキャッシングでも利用して引っ越せば済む話だ。
 ただ、彼のマンションを去るのは最終手段にしたいと思っている。その前に試したい事があるから。

「あの、千穂先輩」

「ん?」

「お……おし……」

「おし?」

「おしぼりを持ってきますね!」

 千穂先輩は水の入った紙コップを片手に不思議そうな顔で頷いた。ああ、本当に言いたかったのはおしぼりじゃなかったのに。薄い布を水で絞りながらため息をつく。
 千穂先輩は既婚者だから、旦那さんと恋愛したすえに結ばれたはずだ。当然ふたりの間には山もあり、谷もあったことだろう。その経験をもとに私の相談にのってほしいけど、あの夜に関しては誰にも話せない事情があるから。

 退社時にスマホをチェックすると、やっぱり綾太さんからのメッセージが入っていた。今夜も遅くなる、先に寝ているように。もう何度目だろう。このまま私たちは雇い主とただの家政婦に戻ってしまうんだろうか。いや、むしろ出会いの時よりも後退しているかもしれない。あの頃はもっと気安い雰囲気があったはずだ。

(せめて最初の頃に戻りたい。このまま綾太さんとの思い出がなくなるなんて嫌だ)

 お風呂に入ったあと、自分のベッドの上でスマホを手に取った。昨日からずっと同じ検索ばかりしている。『男性 押し倒す心理』だの、『押し倒された』だのばかりだ。そして心理に関する説明や質問サイトの返答などを読んでは一喜一憂している。自分でもアホだと思う。私は綾太さんに嫌われたのではないかと恐れているのだ。もう遅いかもしれないのに。

(今さら綾太さんへの恋心を自覚するなんて、遅すぎだよね……。押し倒したときには私に好意があったと思いたいけど)

 綾太さんと出会ってから一ヶ月以上たち、私はようやく彼への恋心を自覚していた。本当は母のことを話したときから好意を抱いていたと思う。でも立場的に好きになってはいけない人だから、自分の気持ちに蓋をして気が付かない振りをしていたのだ。松本さんとの事を誤解されたくないと焦ったのも、綾太さんに恋をしていたからだった。

 あの夜に拒否しなければ、綾太さんは私を抱いたのだろうか? 彼は冗談で女性を押し倒すような人ではないから、少なくともあの時点では私に対して嫌悪はなかったと思う。

 でも男らしくなった自分を見せたいような素振りだったから、綾太さんだけ服を脱いで裸体を見せたら終わりだったのかもしれないし……。いろいろ考えていたら、自信がなくなってきた。

 スマホをいじくっていたらいつの間にか深夜になり、リビングの方から物音がする。綾太さんが帰ってきたらしい。私はまんじりともせず、息を潜めて音を立てないようにした。一時間ほどして向かい側のドアが開閉し、急に静かになる。綾太さんがお風呂を済ませて自室に戻ったのだろう。

 私はスマホをサイドチェストの上に置いて立ち上がった。今夜がんばってみて、それでも彼から拒否されたら諦めよう。潔く荷物をまとめて出て行こう。この夜が私の最後になるかもしれない。

 そっとドアを開け、数歩移動するともう綾太さんの部屋の前だ。心臓が破裂しそうなぐらいドキドキしている。手が滑稽なぐらい震えて、緊張のせいか指先は冷たい。なんども握った拳を上げ下げしたが、やっとの思いで綾太さんの部屋のドアをノックした。

「り……綾太さん。もう寝ました?」

 返答がない。もう寝たのだろうか? もう一度ノックする。

「綾太さん……」

 薄暗い廊下にぽつんと一人で立っていると、自分がなにをやってるのか分からなくなってきた。誰もが眠る丑三つ時に、髪の長い女がドアをノックしているわけだ。しかも男性の寝室のドアを。

(いまの私って幽霊みたいに不気味だろうな。しかも相当ふしだらな事してるし……)

 つい先日、綾太さんに危機感がないと叱られたというのに同じ事をしている。自分から男性を誘うような真似をしている。でも私は相手が綾太さんだからこんな事をしているのであって、誰にでもする訳じゃない。

 しばらく待ってみたけど、ドアは開かなかった。やっぱり駄目だった。アヤちゃんとの友情も、綾太さんとの信頼も、失われたあとだったのだ。とても残念だけど、もう部屋に戻ろう。

 泣きそうになってドアから離れた瞬間、綾太さんのドアがそっと開いた。三十センチぐらい開いたドアのすき間から、ネイビー色の部屋着をきた彼が見える。室内の明かりは落ちているから、綾太さんも休もうとしていたようだ。

「どうしたんだ? こんな時間に……」

 綾太さんの声は明らかに困惑していて、表情は硬かった。決心が鈍りそうになる。でもここまできたらもう引けない。
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