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21 眼鏡騒動1

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 何事もなく日々は過ぎていった。綾太さんと私の距離は近いともいえないが、遠くもない。私は充分満足している。

「最近の恩田、なんかいい感じだよね。雰囲気が柔らかくなったっていうかさ……。あの人とうまく行ってんだね」

「そうですね。信頼関係はかなり築けたと思います」

 社内の資料室で探し物をしていると、千穂先輩が若干ニヤニヤしながら話しかけてきた。まだ何かを期待しているような表情だ。でも先輩が思うほど私と綾太さんは甘い関係ではないので、誤解を与えないよう慎重に言葉を選ぶ。

「心配なのは恩田がかなり鈍いって事なんだよね。あの人も苦労するだろうなぁ……」

「苦労はかけないように頑張るつもりですよ。あ、過去の資料見つかりました」

 先輩から『そうじゃない』という生ぬるい視線を感じたが、私は資料を持って広報部に戻るように促した。あまり根掘り葉掘り訊かれたら、あの気まずい夜のことまで喋ってしまいそうで怖い。さっさと自分のデスクに戻ろう。

 分厚いファイルを両手に抱えているせいか、私の視野はかなり狭かった。慎重にかつゆっくり歩いていたものの、廊下が交わるところで別の方向から歩いてきた男性の肩にぶつかってしまう。いつもなら少しよろけるぐらいなのだが今回は運が悪かった。ファイルが顔にぶつかり、眼鏡が床に落ちてしまったのだ。

「あっごめん」

「いえ、こちらこそ……」

 眼鏡は薄いカーペットの上を転々とし、少し離れた場所に落ちている。私はファイルを廊下の端に置いてそれを拾おうとしたが、ぶつかった男性社員の方が早かった。彼は小走りで眼鏡に近づき、拾おうと手を伸ばす。しかしそのとき事件は起きた。

「あーっ!」

「あれ? 何か踏んだ?」

 別の方向から歩いてきた男性が、靴の底で思いっきり私の眼鏡を踏んだのだ。隣の人と喋っていたから床の上にある眼鏡に気づかなかったらしい。

 成人男性の体重を受けとめ切れず、私のダサい眼鏡はぱきりと音を立てて割れた。あっけない幕切れだった。私にぶつかった男性と眼鏡を踏んだ男性があたふたしている。

「うわ、どうしよう。俺のせいだよな」

「いや、そもそも俺がぶつかったから……。ごめんな。えぇと、おん……恩田さん?」

 二人の男性は私の社員証と顔を見比べていたが、顔に焦点があった瞬間ぴたりと止まった。目を見開いてまじまじと凝視している。

「恩田って……あの恩田さん? 広報の、めちゃくちゃ地味って噂の――あっごめん。失言だった」

「はい、広報の恩田です」

 私の地味は他の部署でも有名らしい。苦笑しながら答えると、二人の男性は口元に手をあてた。

「マジか……。こんな顔してる人だったのか」

「と、とにかく今は眼鏡だろ。俺が弁償する」

 眼鏡を踏んだ男性が言うと、私とぶつかった男性も慌てた様子で言う。

「俺がぶつかったせいなんだから、こっちで負担するよ。急ぎの方がいいよな。恩田さんの予定はどう? 今夜空いてる?」

「一緒に買いにいく気かよ。下心があるんじゃないだろうな? 危ないから俺も行く」

「あ、私の眼鏡はブルーライトカットの伊達眼鏡なので、急ぐ必要はないんです。あの……聞いてます?」

 二人の男性は廊下の端でああでもない、こうでもないと議論しはじめた。私の話なんか耳に入っていない様子で、どうすればいいのか分からない。私たちの様子を千穂先輩は楽しげに眺めていたが、やがて静かに言った。

「恩田がひとりで買いに行ったらいいと思いますよ。後で明細を渡して、それをお二人で折半すればいいでしょう。彼女は無駄遣いしない人だから、高い眼鏡を買ったりしないはずです」

 千穂先輩のツルの一声で争いが収まった。二人の男性は渋々という様子で分かったと頷き、私は二人が所属する部署を確認してからその場を離れた。ぶつかった男性は小森さん、眼鏡を踏んだ男性は山川さんというらしい。
 千穂先輩は相変わらず愉快そうだ。

「面白いことになっちゃったね。あの人は慌てるだろうなぁ……」

「私の眼鏡のことは話したから、少し心配を掛けるかもしれません。はぁ、もっと気をつけてれば良かった」

「まぁしょうがないよ。今日の帰りにでも買っておいで」

「そうします」

 眼鏡ひとつで騒ぎを起こしてしまい、私は落ち込んでいた。でもたかが眼鏡なんだから、これ以上の騒動は起きないはずだ。私と千穂先輩はファイルを腕に抱えて広報部に戻った。

「恩田、ちょっといいか?」

「はい」

 眼鏡騒動からおよそ二時間後。デスクで仕事をする私を青木課長が呼んだ。受話器を置いた彼は、私の顔をじっと見ている。

「眼鏡をどうした? 朝は掛けてたよな」

「ちょっとトラブルがありまして。社内の廊下で割れたんですが、すぐに買いにいく予定です」

「そうか、それでか。変な依頼だと思ったんだよな……。あのな、今ちょっとややこしいお客さんが来てるみたいで……資産家のお爺さんなんだが」

「はぁ」

 来客対応なら総務部がするはずだけど、どうして私に話をするのだろう。首を傾げる私に課長は言った。

「いつも来客対応してくれてる総務の木崎さんが今日は欠勤だそうで、代わりに彼女の後輩がお茶だししたみたいなんだ。でもそのお客さんが、いつもの人が良かったなと少しゴネたそうで」

「ああ、なるほど。お客さまはかなり面食いな方なんですね」

 総務部の木崎さんといえば、大学のミスキャンパスに選ばれるほどの美人だったはずだ。来客対応が多い総務部には美男美女が揃っているが、その中でもずば抜けた美しさと評判の人らしい。彼女の後輩だって綺麗な人のはずなのにゴネたという事は、そのお客さんは相当な面食いだと言える。

「まぁ最初は少しゴネただけで終わったんだけど、そのあとが問題でな。話が長引いてるからお茶のお代わりを出そうという事になったんだが、商談中に少しトラブルがあったようで……そのお客さんがご機嫌斜めになってしまったらしく」

「……はぁ」

 話が見えない。課長はなにを言おうとしているのだろう。

「そんな中にもう一度木崎さんの後輩がお茶を持っていったらまずい事になりそうだというわけで、うちに話が来た。悪いけど頼めるか?」

「ちょっ、ちょっと待ってください。その流れでどうして私なんですか? 木崎さんじゃないと駄目なお客様なんでしょう。私が行ったところでお役に立てるわけが……」

「大丈夫だ。今の恩田なら、必ずお客さんのお眼鏡にかなうと思う。俺が保証する。商談してる社員も困ってるだろうし、助けてやってくれ」

 青木課長は曇りなき瞳で真っすぐに私を見つめながら言った。正直な気持ちを吐露すれば、課長の保証が心強いとはほとんど思えなかった。でも商談中の社員たちが困っているというのは事実だろう。ここで私が断ってしまったらお代わりをお持ちするのが遅れるわけで、なおさら彼らを追い詰めることに繋がるかもしれない。
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