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1 離宮の姫

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 ひとつの森がすっぽり入ってしまいそうなほど広い王宮の端に、小さな離宮がある。元は罪を犯した貴人を囲うための場所であったが、今はひとりの姫君の住まいとして使われていた。

 姫の名はアイリス。蜂蜜色のブロンドに、翡翠の瞳を持つ可憐な顔立ちの姫である。彼女は王妃の子ではなく、王の寵愛を受けた妾の子だった。

 苛烈な気性の王妃は己以外の妻を許せず、妾を毒殺した上に幼い姫まで手にかけようとした。後宮は王妃の支配下にあり、たとえ王といえども口出しは出来ない。そもそも、王は後宮に何の関心もなかった。
 そのため王の黙認のもと、シモンという老兵が姫を離宮へ逃がしたのだ。

 当時まだ五つだったアイリスは何も覚えていなかったが、使用人たちがする噂話によって自分の身の上を知ることとなる。
 自分は妾の子であること。そして王妃にひどく憎まれていて、王宮へ近づくことは出来ないこと。

 父親に会うことも許されず、城の端に幽閉されるように暮らす。ともするとひどく鬱屈した性格になりそうなものだが、使用人たちが明るかったためアイリスも真っすぐに育った。
 十五になってからは王族としての使命を与えられ、月に一回孤児院へ訪問している。ただアイリスに当てられた予算はかなり少なかったので、彼女は節約して費用をしぼり出し、孤児院に物資を送っていた。

 切り詰めた分は当然、アイリスの暮らしぶりに影響する。アイリスは何年も同じ服を着まわし、大き目の靴を買って履き続けていたから、その姿は王女というには余りにもみすぼらしかった。
 孤児院の訪問は王族にとって何の利もなく、政務への影響もない。王妃のあてつけによって割り当てられた使命であったが、アイリスは一度も休むことなく続けている。

 いい人だと思われるためではない。尊敬されたいのでもない。
 ただ、アイリス王女という人物が存在したという証を残したいのだ。

 ―――生涯をこの離宮で送っても構わない。でも誰の記憶にも残らずに死ぬなんていやだ。わたしという人間が確かにいたのだと、誰かに覚えていてほしい。

 十七になったアイリスが望むことは、ただそれだけだった。



 晩秋の早朝。アイリスは老兵シモンによってかなり早い時間に起こされた。

「姫さま、姫さま。起きてください!」

「んん……? なぁに、どうしたのシモン」

「ささ、お早く。着替えて離宮を出ますよ!」

「え?」

 なんで、と聞きたかったがその暇はなかった。シモンは彼女を無理やり起こし、メイドを呼んで着替えさせるように命じている。まだ日が昇ったばかりなのか、室内は薄暗かった。

 アイリスは寝ぼけたまま急かされるように着替え、自室をあとにした。廊下でシモンが待っていて、「お早く」と繰り返す。いつものんびりしている彼がこんなに慌てているのは珍しく、アイリスは何も聞かずにシモンのうしろをついて行った。

 離宮の外へ出ると、一頭の馬が木に繋がれている。予算の少ない離宮で飼うことのできる、ただ一頭の馬だった。
 シモンが馬に向かって走りだした時、彼の足元に何かが突き刺さる。ドス、という聞きなれない音は何なのかとアイリスが視線を巡らせると、シモンから少し離れた地面に矢が突き刺さっているのが見えた。

「遅かった……!」

 シモンが口惜しそうに言う。アイリスはただ呆然と刺さる矢を見ていた。“攻撃された”という事実に打ちのめされ、体が動かない。

 なぜ―――一体だれが矢を射掛けたの?

 わけも分からずシモンに走り寄ろうとしたが、その前にうしろから腕を掴まれた。ハッとして振り向いた先には鎧を着た騎士が立っている。後ろだけではなく、いつの間にかシモンとアイリスは騎士たちに囲まれていた。

 集団から一人の騎士がアイリスに向かって歩いてくる。彼の鎧には立派な紋章が刻まれ、威風堂々たるその姿は騎士たちをまとめる長なのだろうと思われた。

「ご無礼をお許しください。あるじの命により、アイリス王女殿下を王宮へお連れいたします」

 国王ではなく、主?
 騎士が仕えるのは国王ではないのか。この騎士たちは誰の命を受けたのだろう。

 騎士はまごつくアイリスの腕を引き、馬車に乗せようとする。両脇を騎士に拘束されたシモンが叫んだ。

「姫さま!」

「殿下が大人しくしてくだされば、彼にも手荒なことはしません」

 明らかな脅しだった。アイリスは震えながら、騎士とシモンと、そして地面に刺さる矢を見つめる。あの一本の矢でも、シモンは大怪我をしていたかもしれない。
 五つの頃からずっと傍にいてくれた人だ。アイリスがせがむ度に花の丘に連れて行ってくれた。彼に死んでほしくない。

「お、王宮に行くわ。だから、シモンにはひどいことをしないで……」

「分かりました。騎士の名誉にかけて、彼の無事を約束しましょう」

 アイリスには騎士の名誉なんてよく分からない。でも今は、この男性の言葉を信じるしかなかった。
 少しずつ日が昇り、照らされた木々の葉が光っている。朝もやの立ち込めるいつも通りの風景だった―――騎士さえいなければ。
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