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第四章
たとえ記憶が戻っても
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響谷アヤセ。
記憶を失ったが、その人格は響谷文世とは完全に別人ではなく、むしろ延長線上にあると言っても良かった。
人称や口調、趣向や好きな女性の好みまでそのままで、だからこそ記憶の無かった頃のアヤセが他人だとはどうしても思えなかった。
元の文世と今のアヤセ。
二つの人格が重なりゆく様は、水と油のように反発するものではなく、すぐに溶け合っていくようで、今のアヤセがなぜアヤセなのかという疑問に明瞭な回答と理由がついた感覚だった。
敢えて表現をするなら、夢に近いのかもしれない。夢の中ではある程度、ものを考えることができるし、好みや恐怖の対象も現実世界とさほど変わらない。
ちょっとばかし深い眠りから目が覚めたような脳が冴え渡る感じがあった。
俺は全てを思い出した。
自分のことや家族のこと、親友の名前や大切な人たちとの思い出。
何もかもを思い出して、響谷文世として、初めて抱いた感情。
それは、安堵だった。
『もしアヤセくんの記憶が元に戻ったら、今のアヤセくんはどうなっちゃうとかって、考えたことある?』
教室の床に倒れ込んだとき、茅乃の言っていたことが脳裏に蘇っていた。
『あるよ。けど、吹っ切れてるっていうか。記憶が戻って、今の俺が消えたらって考えると胸が苦しくなるけど、それで元の自分が戻ってくるなら、本望っていうのかな』
昨日の夏祭りに行った日。茅乃の憂いに俺はそう言葉を返した気がする。
『あとは託したぞ、的な。まぁ、でも今はやらなきゃいけないこともあるし。だけど、それさえできれば、まぁいいかなっていうか』
やるべきこと、それは茅乃を元の世界に送り届けること。
『なんかそれ、やだ』
茅乃はそんな俺に自分を大切にして欲しいと言ってくれた。
変わってない。使命感も、茅乃へ抱くこの感情も、記憶が戻っても胸中に残っている。だからこその安堵。
『アヤセくんがいなくなるのはもちろん嫌だけど、そうじゃなくて。アヤセくんが今のアヤセくんのことを軽視してるのって、すごくいけないことな気がする』
茅乃の言ってくれたことに応える術はもうないけれど、一つだけ確かなことが分かった。この胸に灯っていた使命感の正体と俺がこの世界にいる理由。
すべてを思い出して、すべてを知って、俺はまた安堵した。
ꕤ
我に返ると、教室にいたニヒルはそそくさと教室から姿を消そうとしていた。
「おい、待て。お前もしかして、ショウか?」
ニヒルの背中に尋ねてみても返事はなく、中庭に戻る頃にはすっかりと陽が沈み、校舎内から漏れた明かりだけが薄らと照らしていた。
茅乃はさっきとほとんど変わらない姿勢で、ぽつんとベンチにひとり腰を掛けて、健気に待っていてくれたようだ。
どう声をかけようか。茅乃と話すことは慣れているはずなのに新鮮な感じがして、むず痒さが込み上がってきた。
躊躇しながら徐々に近寄ると茅乃の方が俺に気づいた。
「悪い、かや——」
「もぅ、おそい。アヤセくん。何やってたの?」
食い気味に接近をする茅乃に一歩後退りをした。いつも以上に身体を寄せて上目遣いで顔を覗き込んでくるため、口元に力を込めながら、顔を逸らして表情を隠す。夜の暗さもあり緩くなった頬は悟られずにすんだ。
「ごめんトイレに」
「うそでしょ」
茅乃のことを置いて、ニヒルのもとへ向かったことに不貞腐れているのだろうか。茅乃は怒ったようにぷいと腕を組みながら「それくらいは分かるって」と若干、力の込もった口調で言い切る。
「どうして」
「気になるなら、自分の胸にでも聞いてみればどう?」
茅乃は、はぐらかすようにいい加減なことを言う。いや、初めにトイレに行っていたなどといい加減なことを言ったのは俺の方か。
「悪い、ちょっといろいろあってさ」
「ふーん」
機嫌を損ねてしまったようで、尻目に怪訝な圧を送ってくる。
記憶喪失のことを茅乃に話すべきか、ここに来る途中で考えていた。しかし、茅乃も心配してくれているわけで、話すのが筋だろう。
「実はさ、記憶を取り戻したんだ」
俺は拳を握って、茅乃に向けて口を開いた。
「あ、そっか。記憶、戻ったんだ」
予想外。斜め上のあっさりとした返事に戸惑いが隠せなかった。
「あ、あんまり、驚かないんだな」
「んー、何となくね。そんな気がしたから」
「そうなのか?」
「うん。自分の胸に聞いてみれば、分かると思うよ?」
「いやそれ、さっきも聞いたっての」
すべてお見通しだと言わんとする茅乃は含蓄のある笑顔で笑う。
茅乃と話しながら、俺は心のどこかでほっとしていた。
響谷文世として記憶を取り戻したが、茅乃はいつもと変わらずに接してくれる。だからこそ、俺もいつもと変わらずに接することができる。
どうやら杞憂だったようだ。
「でも良かった」
独り言のように茅乃はボソリと呟いた。
「ああ、きっかけはともかく、記憶を取り戻せたわけだし」
「うんん、そっちじゃなくって」
「他にかあるか?」
記憶を取り戻せたこと以外に茅乃にとって良かったこととは何だろうか。思いつく理由を探していると、どこか困ったように答える。
「アヤセくんはやっぱり、アヤセくんのままだったからって意味だよ」
「——っ」
茅乃は優しく微笑みながら「じゃあ、帰ろっか」と歩き始めた。
なんだよ、それ。ずるいな。
茅乃は何も変わらずに俺を受け入れてくれた。茅乃のそんなたった一言のせいで、自分がどれほど紡希茅乃のことを好きなのか自覚させられる。
やはり、ずるい。胸中に湧き上がったそんな不満を茅乃に今すぐぶつけてやりたい気持ちを必死で我慢した。
記憶を失ったが、その人格は響谷文世とは完全に別人ではなく、むしろ延長線上にあると言っても良かった。
人称や口調、趣向や好きな女性の好みまでそのままで、だからこそ記憶の無かった頃のアヤセが他人だとはどうしても思えなかった。
元の文世と今のアヤセ。
二つの人格が重なりゆく様は、水と油のように反発するものではなく、すぐに溶け合っていくようで、今のアヤセがなぜアヤセなのかという疑問に明瞭な回答と理由がついた感覚だった。
敢えて表現をするなら、夢に近いのかもしれない。夢の中ではある程度、ものを考えることができるし、好みや恐怖の対象も現実世界とさほど変わらない。
ちょっとばかし深い眠りから目が覚めたような脳が冴え渡る感じがあった。
俺は全てを思い出した。
自分のことや家族のこと、親友の名前や大切な人たちとの思い出。
何もかもを思い出して、響谷文世として、初めて抱いた感情。
それは、安堵だった。
『もしアヤセくんの記憶が元に戻ったら、今のアヤセくんはどうなっちゃうとかって、考えたことある?』
教室の床に倒れ込んだとき、茅乃の言っていたことが脳裏に蘇っていた。
『あるよ。けど、吹っ切れてるっていうか。記憶が戻って、今の俺が消えたらって考えると胸が苦しくなるけど、それで元の自分が戻ってくるなら、本望っていうのかな』
昨日の夏祭りに行った日。茅乃の憂いに俺はそう言葉を返した気がする。
『あとは託したぞ、的な。まぁ、でも今はやらなきゃいけないこともあるし。だけど、それさえできれば、まぁいいかなっていうか』
やるべきこと、それは茅乃を元の世界に送り届けること。
『なんかそれ、やだ』
茅乃はそんな俺に自分を大切にして欲しいと言ってくれた。
変わってない。使命感も、茅乃へ抱くこの感情も、記憶が戻っても胸中に残っている。だからこその安堵。
『アヤセくんがいなくなるのはもちろん嫌だけど、そうじゃなくて。アヤセくんが今のアヤセくんのことを軽視してるのって、すごくいけないことな気がする』
茅乃の言ってくれたことに応える術はもうないけれど、一つだけ確かなことが分かった。この胸に灯っていた使命感の正体と俺がこの世界にいる理由。
すべてを思い出して、すべてを知って、俺はまた安堵した。
ꕤ
我に返ると、教室にいたニヒルはそそくさと教室から姿を消そうとしていた。
「おい、待て。お前もしかして、ショウか?」
ニヒルの背中に尋ねてみても返事はなく、中庭に戻る頃にはすっかりと陽が沈み、校舎内から漏れた明かりだけが薄らと照らしていた。
茅乃はさっきとほとんど変わらない姿勢で、ぽつんとベンチにひとり腰を掛けて、健気に待っていてくれたようだ。
どう声をかけようか。茅乃と話すことは慣れているはずなのに新鮮な感じがして、むず痒さが込み上がってきた。
躊躇しながら徐々に近寄ると茅乃の方が俺に気づいた。
「悪い、かや——」
「もぅ、おそい。アヤセくん。何やってたの?」
食い気味に接近をする茅乃に一歩後退りをした。いつも以上に身体を寄せて上目遣いで顔を覗き込んでくるため、口元に力を込めながら、顔を逸らして表情を隠す。夜の暗さもあり緩くなった頬は悟られずにすんだ。
「ごめんトイレに」
「うそでしょ」
茅乃のことを置いて、ニヒルのもとへ向かったことに不貞腐れているのだろうか。茅乃は怒ったようにぷいと腕を組みながら「それくらいは分かるって」と若干、力の込もった口調で言い切る。
「どうして」
「気になるなら、自分の胸にでも聞いてみればどう?」
茅乃は、はぐらかすようにいい加減なことを言う。いや、初めにトイレに行っていたなどといい加減なことを言ったのは俺の方か。
「悪い、ちょっといろいろあってさ」
「ふーん」
機嫌を損ねてしまったようで、尻目に怪訝な圧を送ってくる。
記憶喪失のことを茅乃に話すべきか、ここに来る途中で考えていた。しかし、茅乃も心配してくれているわけで、話すのが筋だろう。
「実はさ、記憶を取り戻したんだ」
俺は拳を握って、茅乃に向けて口を開いた。
「あ、そっか。記憶、戻ったんだ」
予想外。斜め上のあっさりとした返事に戸惑いが隠せなかった。
「あ、あんまり、驚かないんだな」
「んー、何となくね。そんな気がしたから」
「そうなのか?」
「うん。自分の胸に聞いてみれば、分かると思うよ?」
「いやそれ、さっきも聞いたっての」
すべてお見通しだと言わんとする茅乃は含蓄のある笑顔で笑う。
茅乃と話しながら、俺は心のどこかでほっとしていた。
響谷文世として記憶を取り戻したが、茅乃はいつもと変わらずに接してくれる。だからこそ、俺もいつもと変わらずに接することができる。
どうやら杞憂だったようだ。
「でも良かった」
独り言のように茅乃はボソリと呟いた。
「ああ、きっかけはともかく、記憶を取り戻せたわけだし」
「うんん、そっちじゃなくって」
「他にかあるか?」
記憶を取り戻せたこと以外に茅乃にとって良かったこととは何だろうか。思いつく理由を探していると、どこか困ったように答える。
「アヤセくんはやっぱり、アヤセくんのままだったからって意味だよ」
「——っ」
茅乃は優しく微笑みながら「じゃあ、帰ろっか」と歩き始めた。
なんだよ、それ。ずるいな。
茅乃は何も変わらずに俺を受け入れてくれた。茅乃のそんなたった一言のせいで、自分がどれほど紡希茅乃のことを好きなのか自覚させられる。
やはり、ずるい。胸中に湧き上がったそんな不満を茅乃に今すぐぶつけてやりたい気持ちを必死で我慢した。
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