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第二章
禁断の果実
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その日の帰り道のことだ。
太陽もすっかりと落ちて、街頭の明かりがわずかに照らしている夜道を歩いていると、茅乃は突然、方向転換をして真横のビルに吸い寄せられるように入ってしまった。
「おいおい、勝手に入っていいのか?」
明らかに不法侵入になりそうだったので、反射的に訊ねてしまった。
「いいのいいの、だってここは私たちの世界だけのなんだから」
「いや、まぁそうだけど」
途中で明らかに方角が家に向かっていないことは分かったが、その目的を茅乃にいくら問い質そうとしても「いいからいいから」とはぐらかされていたので、付いて行くほかない。
私たちだけの世界か。
言い得て妙だが、あまりに傲慢な台詞だけに実感が湧かない。
俺が考えごとをしている間にも、目的の場所に着いたようだ。
ビルの屋上、およそ三十階を超える建物の最上階だ。物理的な高さやいろいろな罪悪感があり、血の気が引くような感覚だ。風も地上に比べ、お気持ち程度に強くなっている。
「ここだよ」
茅乃に連れられるがまま、フェンスの辺りまで足を進めると、俺はそこに広がる夜景に息をのんだ。
まさに絶景。人々の雑然とした生活の灯りにわざとらしく存在感を放つ自動車のヘッドライトが流れては、新たな光が集まってくる。
電飾に彩られた街、東京。
その眩さは空の星さえも存在を隠してしまうほどに鮮やかで、ただひとつ、白い月だけが夜空でも依然として浮かんでいた。
「すげぇな。こんなに綺麗にこの街が見える場所があったのか」
「へへっ、私のとっておきの場所なんだ」
街を一望できるらしく、得意げに鼻を鳴らす茅乃だったが、こればかりは感心せざるを得ない。
街には、人——いや、ニヒルが虫のようにそこらを蠢く。
人なんていないのだ。何処まで先の方を眺めても、ビルの窓明かりでちらりと確認できる人影すらニヒルだと分かる。
茅乃の方を見遣ると、俺と同じように街中に溢れかえるニヒルを眺めてた。退屈そうなその瞳になにが映っているのだろうか。
「人類絶滅。なんて、あり得ないって思ってたけど、実際にこれを見せられたら、信じるしかないのかもな」
「そう、だね。アヤセくんはどうしてこの世界にいると思う? この世界は何で本当は何が起こったのか」
普段の茅乃の声音よりも若干、低く真剣さが感じられる問いかけだった。俺は茅乃に今までの考えを伝えることに決めた。
「まぁ、二通りあるんじゃないかとは思ってるかな。まず、俺たちが元いたと考えている世界こそがこの世界であり、何かしらの天変地異により今の状態になったという仮説が一つ目」
「つまり、元の世界の人の代わりにニヒルが現れた。そして、境界線というものも同時に出現したってことだね」
茅乃は風に靡く髪を耳にかけて、丁寧に補足までしてくれている。
「まぁ、最悪のパターンは人類がニヒルになったってことだろうが、この説自体はあまり高くないと思っている」
「へぇ、それでもう一つは?」
「これも、想像に難くないはずだ。この世界は元の世界から隔絶された別の世界であるという仮説」
「んー、別の世界か」
腑に落ちないのか、それとも別の思案をしているのかは分からないが、茅乃の表情は少しだけ硬かった。
「俺たち二人だけがどこか違う世界に連れてこられたのか、将又、夢を見ているのか、この世界こそが現実で今までの生活が夢だったのか。何れにせよ、この場合であれば、元の世界に帰ることが目標になるのかもな」
元の世界が別世界のように変化したのか。
それとも、別世界に連れてこられたのか、
なんとなく後者だと考えているが、腑に落ちないこともある。
「ただなんで、俺と君の二人だけなのかは分からねぇんだよな。何かに選ばれた、ってのは流石に自意識過剰だろうし」
「ん~、確かに。言われてみれば、どうして、私たちだけなんだろうね。もしかして、新時代のアダムとイブだったりして? 上位の存在が新人類として、私たち二人を選出して、この世界に住まわせてるとか」
「だとしたら、迷惑この上ないな」
現状ではその可能性も捨てきれないため、ため息をこぼして嘆くしかできない。茅乃の話が真実なら、上位の存在には俺をアダムに選んだ審査基準に関して永遠と詰問したい気分だ。
「えっと、たしかアダムとイブは楽園で、禁断の果実——りんごを食べたんだっけ? それで、二人にはその罪として、老いと死を与えられた」
「よく知ってるな」
ちなみに禁断の果実の正体はりんごではなく、イチジクだと主張する説もあるらしい。だが、そもそもここが楽園なんてことは万に一つもないだろうが。
「まぁね、こう見えて、博学ヤサイだからね」
「博学多才な。なんだそれ、食べると頭が良くなるドラえもんの秘密道具か?」
「いいね、アヤセくん。私もちゃんとツッコミがいるから、心置きなくボケられるよ」
「勘弁してくれ」
呆れてため息を吐くのを眺めて、茅乃は何処か楽しそうだ。些細な日常会話ですらこれほどまでに楽しめる茅乃だ。きっと見ている景色は同じでも俺とは違った世界の見方を持っているのかもしれない。
「あっ、でもりんごって野菜なんだっけ」
「いや、果物だったはず」
「そうなの?」
「たぶんな。果物と野菜を見分ける方法は木になる実か、畑で取れる草本類かの違いって言われてるから、木から取れるリンゴは果物で、草本類の植物であるいちごやスイカは野菜らしい」
「なるほどね、つまり果物も野菜も関係なく、美味しいものは美味しいってことか。なんかスイカ食べたくなってきたかも」
「茅乃って、言葉にできないけど、なんかすごいよな」
「そうかな、へへ」
茅乃は得意げに鼻の辺りをを擦って喜色を浮かべる。
ちなみに、イチジクは野菜でも果物でもなく、花に分類されるらしい。
「よし、スーパーでスイカを買って帰ろう。まん丸のやつ」
「食べきれないとかは考えないのか?」
「その時は、明日以降のご飯のおかずがスイカ単品になるだけだね」
「せめてデザートにしてくれ」
ボケとも本心とも知れない言い振りでくすっと笑う、茅乃。この景色を目に焼き付けるように見渡してから、一息ついた。
「そろそろ行こっか」
「だな」
俺が頷くと、茅乃は身体をくるりと半回転させてビルの屋上ハッチへ向かう。
その背中を眺めていたら、今日が終わるのだと感じた。胸中のどこかに物寂しさがあるのだろう。
この二日間は色々あった気がする。けれど、明日もあるのだと前向きになると、この世界での生活も悪くない。
むしろ、茅乃と一緒のこの日々が続いてほしいと思っていた。
いや、思ってしまっていた。
だから、だろう。
『助けないと、助けないと。助けないと』
————なんだッ、これ。
刹那、胸を締め付けるような痛みが駆け巡り、近くにあったフェンスを握りしめた。そのおかげで体勢を崩すことはなかったが、心臓を鷲掴みにされるような痛みは依然として残っていた。
『君を助けないと』
まるで、何かを忘れるなと伝えるように胸の痛みは激しさを増す。呼吸もまともにできない状況に背後から死神の足音を感じた。
「ハ——ァ」
幸いにも、茅乃が気付く前に痛みも引いてくれた。痛みが消えると、何事もなかったかのように時間が流れ始めた気がした。
実際は数秒ほどの時間だったが、それも随分と長く感じられて、背中には嫌な汗が分泌されていた。
「アヤセくん——? どうしたの、置いてっちゃうよ?」
怪訝に感じたのが、茅乃はこちらを不安そうに眺めている。
「————っ、ああ。茅乃。悪い、今行くよ」
俺は少しだけ安堵していた。
茅乃には気づかれなかったからだろうか。
月明かりの照らすビルの屋上。
俺は感じたこの痛みのどこか心当たりがあった。
きっとこれは、戒めだ。
やるべきことを忘れるな。
そう、自身の内側に眠る使命感を忘れそうな俺を咎めるような痛みのように思えてならなかった。
太陽もすっかりと落ちて、街頭の明かりがわずかに照らしている夜道を歩いていると、茅乃は突然、方向転換をして真横のビルに吸い寄せられるように入ってしまった。
「おいおい、勝手に入っていいのか?」
明らかに不法侵入になりそうだったので、反射的に訊ねてしまった。
「いいのいいの、だってここは私たちの世界だけのなんだから」
「いや、まぁそうだけど」
途中で明らかに方角が家に向かっていないことは分かったが、その目的を茅乃にいくら問い質そうとしても「いいからいいから」とはぐらかされていたので、付いて行くほかない。
私たちだけの世界か。
言い得て妙だが、あまりに傲慢な台詞だけに実感が湧かない。
俺が考えごとをしている間にも、目的の場所に着いたようだ。
ビルの屋上、およそ三十階を超える建物の最上階だ。物理的な高さやいろいろな罪悪感があり、血の気が引くような感覚だ。風も地上に比べ、お気持ち程度に強くなっている。
「ここだよ」
茅乃に連れられるがまま、フェンスの辺りまで足を進めると、俺はそこに広がる夜景に息をのんだ。
まさに絶景。人々の雑然とした生活の灯りにわざとらしく存在感を放つ自動車のヘッドライトが流れては、新たな光が集まってくる。
電飾に彩られた街、東京。
その眩さは空の星さえも存在を隠してしまうほどに鮮やかで、ただひとつ、白い月だけが夜空でも依然として浮かんでいた。
「すげぇな。こんなに綺麗にこの街が見える場所があったのか」
「へへっ、私のとっておきの場所なんだ」
街を一望できるらしく、得意げに鼻を鳴らす茅乃だったが、こればかりは感心せざるを得ない。
街には、人——いや、ニヒルが虫のようにそこらを蠢く。
人なんていないのだ。何処まで先の方を眺めても、ビルの窓明かりでちらりと確認できる人影すらニヒルだと分かる。
茅乃の方を見遣ると、俺と同じように街中に溢れかえるニヒルを眺めてた。退屈そうなその瞳になにが映っているのだろうか。
「人類絶滅。なんて、あり得ないって思ってたけど、実際にこれを見せられたら、信じるしかないのかもな」
「そう、だね。アヤセくんはどうしてこの世界にいると思う? この世界は何で本当は何が起こったのか」
普段の茅乃の声音よりも若干、低く真剣さが感じられる問いかけだった。俺は茅乃に今までの考えを伝えることに決めた。
「まぁ、二通りあるんじゃないかとは思ってるかな。まず、俺たちが元いたと考えている世界こそがこの世界であり、何かしらの天変地異により今の状態になったという仮説が一つ目」
「つまり、元の世界の人の代わりにニヒルが現れた。そして、境界線というものも同時に出現したってことだね」
茅乃は風に靡く髪を耳にかけて、丁寧に補足までしてくれている。
「まぁ、最悪のパターンは人類がニヒルになったってことだろうが、この説自体はあまり高くないと思っている」
「へぇ、それでもう一つは?」
「これも、想像に難くないはずだ。この世界は元の世界から隔絶された別の世界であるという仮説」
「んー、別の世界か」
腑に落ちないのか、それとも別の思案をしているのかは分からないが、茅乃の表情は少しだけ硬かった。
「俺たち二人だけがどこか違う世界に連れてこられたのか、将又、夢を見ているのか、この世界こそが現実で今までの生活が夢だったのか。何れにせよ、この場合であれば、元の世界に帰ることが目標になるのかもな」
元の世界が別世界のように変化したのか。
それとも、別世界に連れてこられたのか、
なんとなく後者だと考えているが、腑に落ちないこともある。
「ただなんで、俺と君の二人だけなのかは分からねぇんだよな。何かに選ばれた、ってのは流石に自意識過剰だろうし」
「ん~、確かに。言われてみれば、どうして、私たちだけなんだろうね。もしかして、新時代のアダムとイブだったりして? 上位の存在が新人類として、私たち二人を選出して、この世界に住まわせてるとか」
「だとしたら、迷惑この上ないな」
現状ではその可能性も捨てきれないため、ため息をこぼして嘆くしかできない。茅乃の話が真実なら、上位の存在には俺をアダムに選んだ審査基準に関して永遠と詰問したい気分だ。
「えっと、たしかアダムとイブは楽園で、禁断の果実——りんごを食べたんだっけ? それで、二人にはその罪として、老いと死を与えられた」
「よく知ってるな」
ちなみに禁断の果実の正体はりんごではなく、イチジクだと主張する説もあるらしい。だが、そもそもここが楽園なんてことは万に一つもないだろうが。
「まぁね、こう見えて、博学ヤサイだからね」
「博学多才な。なんだそれ、食べると頭が良くなるドラえもんの秘密道具か?」
「いいね、アヤセくん。私もちゃんとツッコミがいるから、心置きなくボケられるよ」
「勘弁してくれ」
呆れてため息を吐くのを眺めて、茅乃は何処か楽しそうだ。些細な日常会話ですらこれほどまでに楽しめる茅乃だ。きっと見ている景色は同じでも俺とは違った世界の見方を持っているのかもしれない。
「あっ、でもりんごって野菜なんだっけ」
「いや、果物だったはず」
「そうなの?」
「たぶんな。果物と野菜を見分ける方法は木になる実か、畑で取れる草本類かの違いって言われてるから、木から取れるリンゴは果物で、草本類の植物であるいちごやスイカは野菜らしい」
「なるほどね、つまり果物も野菜も関係なく、美味しいものは美味しいってことか。なんかスイカ食べたくなってきたかも」
「茅乃って、言葉にできないけど、なんかすごいよな」
「そうかな、へへ」
茅乃は得意げに鼻の辺りをを擦って喜色を浮かべる。
ちなみに、イチジクは野菜でも果物でもなく、花に分類されるらしい。
「よし、スーパーでスイカを買って帰ろう。まん丸のやつ」
「食べきれないとかは考えないのか?」
「その時は、明日以降のご飯のおかずがスイカ単品になるだけだね」
「せめてデザートにしてくれ」
ボケとも本心とも知れない言い振りでくすっと笑う、茅乃。この景色を目に焼き付けるように見渡してから、一息ついた。
「そろそろ行こっか」
「だな」
俺が頷くと、茅乃は身体をくるりと半回転させてビルの屋上ハッチへ向かう。
その背中を眺めていたら、今日が終わるのだと感じた。胸中のどこかに物寂しさがあるのだろう。
この二日間は色々あった気がする。けれど、明日もあるのだと前向きになると、この世界での生活も悪くない。
むしろ、茅乃と一緒のこの日々が続いてほしいと思っていた。
いや、思ってしまっていた。
だから、だろう。
『助けないと、助けないと。助けないと』
————なんだッ、これ。
刹那、胸を締め付けるような痛みが駆け巡り、近くにあったフェンスを握りしめた。そのおかげで体勢を崩すことはなかったが、心臓を鷲掴みにされるような痛みは依然として残っていた。
『君を助けないと』
まるで、何かを忘れるなと伝えるように胸の痛みは激しさを増す。呼吸もまともにできない状況に背後から死神の足音を感じた。
「ハ——ァ」
幸いにも、茅乃が気付く前に痛みも引いてくれた。痛みが消えると、何事もなかったかのように時間が流れ始めた気がした。
実際は数秒ほどの時間だったが、それも随分と長く感じられて、背中には嫌な汗が分泌されていた。
「アヤセくん——? どうしたの、置いてっちゃうよ?」
怪訝に感じたのが、茅乃はこちらを不安そうに眺めている。
「————っ、ああ。茅乃。悪い、今行くよ」
俺は少しだけ安堵していた。
茅乃には気づかれなかったからだろうか。
月明かりの照らすビルの屋上。
俺は感じたこの痛みのどこか心当たりがあった。
きっとこれは、戒めだ。
やるべきことを忘れるな。
そう、自身の内側に眠る使命感を忘れそうな俺を咎めるような痛みのように思えてならなかった。
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