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第一章

境界線と気付き

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 この世界の季節は夏だろうか。
 珈琲店を後にすると先ほどよりも太陽が傾いていた。世界は違えど、時間という概念はあるようで、飲み込まれそうな蒼穹を前に俺は大きく深呼吸をする。

「それで、これからどうするつもりなんだ?」
「んー、どうしよっか」
「余裕そうに見えて、ノープランだったのか」

 あてにしていた反面、つい心の声が漏れる。すると茅乃はいじらしく、くすりと笑ってから口を開いた。

「こういうのをなんて言うんだっけ、セントウ多難?」
「前途多難だな、風呂屋になにか恨みがあるのか?」
「おっ、ナイスツッコミ、記憶喪失なのに案外イケる口だね」

 茅乃は桜色のぷっくらとした唇に指を当てながら、たおやかに口角をあげた。

「歳のわりに表現が親父くさいな」
「ひどっ!!」

 ともあれ、茅乃の方はまだ取り繕っている感じはあるが、二人の仲は珈琲店の前後でかなり縮まったように思える。

「まぁでも、とりあえず、街の散策でもしようよ? もしかしたら、私たち以外にも誰かいるかもだし、なにか発見もあるかもね」
「人か、たしかにな。それもそうだ」

 まずは、この世界についての情報を知らなければ何も始められない。それに現時点で俺らができることとしてそれ以外に思い浮かばなかった。

「誰かをあてにするわけじゃないが、二人だけがこの世界にいるっていうのも考えにくいからな」

 この場所で、二人が遭遇している事実がそれを確証付けている。
 告げるや否や茅乃は勢いのままに頷くと、呑気に歩き始めた。
 今度は、置いてかれないように小走りで茅乃の後ろ姿を追いかける。ただ一瞬だけ——彼女の横顔が見えた刹那、その表情が曇ったような気がしたが、それも頭上の信号機から発せられるカッコウの鳴き声にかき消されてしまった。
 目的地のない、旅。靴音のしない、街。
 二人の世界。それと、ニヒル。
 そこには、俺らの話し声とさーっと流れる車の喧騒音、路面電車の滑走音だけが響いていた。こんな状況でありながら、どこか高揚が湧き上がるのだから笑ってしまう。
 欲しがっていたオモチャをこれから開封する子供のような、どこか上擦った感情が胸の内側を充満していた。

   ꕤ

 一時間ほどが経過した、何だかあっという間だったように感じる。
 俺たちは秋葉原駅の電気街南口の辺りまで戻っていた。
 結論として、俺たち以外の人を見つけることはできなかった。それでも、幾つか気づきも得ることができた。

 一つ目に、ニヒルが人間と比較しても遜色のない動きをするということだ。
 自動販売機で商品を購入するニヒル、靴紐を直すようにしゃがみ込むニヒル、公園を目一杯駆け回る小さなニヒル。模倣や真似るなんて言葉を使っていたが、見れば見るほどに『人間らしさ』が感じられた。
 茅乃がニヒルのことを生物として捉えているのも納得してしまうほどに、ニヒルは人に近しい存在だった。
 しかし、あれは俺たちとは異なる無機物・・・であることに変わりはない。その事実だけはどこか忘れてはいけないような気がした。

 そして、もう一つ。この世界には『透明な壁』があるということ。
 最初にその壁を見つけたのは、秋葉原駅から南にある裏路地だ。
 世界を取り囲むように張り巡らされていて、押し込むと弾力のある何かに押し返されるような感覚があった。
 茅乃もその存在には気付いていたようで、どうやら駅構内から道路まで様々なところに不規則で張り巡らされているらしい。
 無造作に張り巡らされた世界を断絶するような不可視の境界線。それは俺たちをこの世界に閉じ込める檻のようにも感じられた。

「茅乃、まだ歩ける?」

 俺は前進していた歩みを止め、顔色を窺うために振り向く。

「ん、私? 大丈夫だよ。私、体力には自信があるからね」

 力こぶを見せつけるように腕の辺りを強調する茅乃。しかし、その声色からは歩き始める前よりも倦怠感が感じられる。
 平気なフリをしているが、歩行や水分補給のペースからも疲労は着々と見え始めていた。

「まぁ、そろそろ休憩でもするか」
「アヤセくん、私ならまだ歩けるよ?」

 茅乃なりの気遣いだということは、すぐに分かった。確かに今の流れでは俺が茅乃を休ませるために休憩を提案したようにもみえる。

「そうじゃなくて、俺が疲れたんだ。茅乃も疲れた人を歩かせたくはないだろ」
「うぅ——なら仕方ないね」
「休めるときに休まないと、身体を壊すからな」

 実際に俺はかなり体力を消耗していた。ワイシャツの第二ボタンまでを使って、体温調整をしているがこの暑さだ。ブレザーやネクタイ、コートを持ち歩いていたせいもあり余計に疲労が溜まっている。

 茅乃も少し腑に落ちない顔をしながらも、納得して「んーっ」と大きく背伸びをした。すると、はっと何かに気づき、それを指差して瞳孔を輝かせる。

「それなら、ちょっとだけ。あそこ寄ろうよ」

 茅乃の指が向く方向、そこは電気街と呼ばれる秋葉原の一角でも存在感を放つ、SEGAのゲームセンターだ。その看板には『四号館』と表示がある。

「ゲームセンターか?」
「うん、冷房が効いてると思うから涼しいと思うし」

 胸を踊らせながら、茅乃は小さく顔を傾けた。
 茅乃に提案され、一瞬脳裏に駆け巡る小さな葛藤。
 この世界のことを知らないまま呑気に遊んでもいいのだろうか、というもの。なにせ奇妙な世界だ。何が起こってもおかしくはない。
 常に一定の緊張を保つことが大事というのは、非常時の鉄則だ。
 だが、俺は考えた末、葛藤を解消すると茅乃に答える。

「よし、入るか」
「そうこないとねっ」

 茅乃はそう微笑むと、間髪入れずに歩き出した。

 そういえば茅乃の話では、俺が来る以前から、この世界で数日間を自力で過ごしているらしい。状況は多少違えど、生命の危機はなかったようではあるし、休憩で立ち寄るくらいの余裕はある。

 それにあまり気を張り詰めすぎても判断の誤りに繋がりかねないだろう。

「はやくはやくっ!」
「おう」

 茅乃は子犬の尻尾のようにゲームセンターへと吸い寄せられていたが、足を止めて、真っ黒な髪を靡かせながら振り向いた。

「それにしても、ゲーセンか」

 茅乃の方へと寄りながら、頭を押さえて記憶を呼び覚ます。
 クレーンゲーム、メダルゲーム、音楽ゲーム、プリクラ。
 ゲームセンターという単語から連想された様々なピースが脳裏に浮かんできて妙な既視感に陥る。
 ただ、それらの遊びをいつ知って、どこで、誰としたのか。
 記憶の断片すら掴めそうになく、思い出すことはできそうにない。
 頭の中にあるのは、エピソードの伴わない裸の知識。他人の記憶を覗き見ているような奇妙な感覚に浸っていた。

「んー、これにしよっかなぁ」

 茅乃は手始めにクレーンゲームに挑戦するようだ。バイオリンを模した小さなキーホルダーを、獲物を定めた鷹のように凝視していた。
 適切なタイミングでクレーンをボタンで操作、人形へと近づける。
 茅乃の手捌きは巧妙で、手応えはあった。だが、持ち上げたところで、アームの力が足りずにキーホルダーだけが元の位置へと落ちてしまう。

「あぅ、この台のアーム弱すぎだよ」

 しゅんと肩を落とす、茅乃。
 そんな様子をちょっとばかし眺めていたが、やはりゲーム機にお金を投入する仕草は見られなかった。どうやら本当に、貨幣という概念がないらしい。

「やっぱ、ここでも金はいらないんだな」
「まぁ、お金なんて持ってないから、助かるっちゃ助かるんだよね」
「そうだな」

 さっきはこの世界について考える余裕もなく、茅乃の話を受け入れてみたが、よくよく考えるとおかしな話だ。
 貨幣や通貨がないとなれば、経済は機能しない。
 ならば、どうやって採算を——と、そこまでは考えが浮かんだが、己の思考の馬鹿馬鹿しさに思考を投げ出した。

 ハナからこんなふざけた世界に常識や価値観を引っ張ってくること自体が無駄なことなのだ。
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