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3話・兄の出奔 ─リオン視点─

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 仕事を終えて帰宅すると邸内が騒がしかった。

 召使いたちが廊下の隅に固まり、ひそひそと何やら話している。俺が通り掛かった時だけ姿勢を正して恭しく頭を下げるが、通り過ぎた後は再び内緒話に戻るのだ。

 良からぬことが起きたのだとすぐに察した。領内で災害が起きたか。それとも親族が病に倒れたか。

 自室に戻ろうとしていた足を止め、踵を返して父の元へと向かう。

 真面目な父は食事と睡眠以外の時間は主に仕事に精を出している。おそらく今も執務室にいるはずだ。
 案の定、執務室の前には父の従者や側近たちがいた。召使いたちと同様、彼らも不安げな表情で声をひそめて何やら話をしている。

「父上」
「おお、リオンか」

 部屋に入ると、父はこめかみを押さえ、だらりと椅子の背もたれに身体を預けていた。いつになく疲れた顔をしている。

「実はアルドが家を出てしまってな」

 父が差し出した一枚の便箋を受け取り、内容を確認する。そこには見慣れた兄の筆跡でこう書かれていた。

『運命の女性に出逢ったので追い掛けます。僕のことはいないものとしてお考えください。じゃあね!』

 間違いなく兄が書いた文章だ。
 今日の昼間、兄の私室に掃除に入った召使いが見つけて大騒ぎになった。クローゼットからは数着の服と鞄が消えており、便箋と共に我が家の紋章付きの指輪が置かれていたという。

 紋章付きの装身具は貴族の証。
 つまり、兄は貴族の身分を捨てたのだ。

「召使いから話を聞いた側近が慌てて私に報告に来たんだが、運悪く来客中でな。一部始終を聞かれてしまったのだ」

 本来ならば、事実確認をして方針を決めるまでは外部の人間に情報を漏らすべきではない。
 しかし、兄アルドの出奔はネレイデット侯爵家存続の危機。みな気が動転して配慮を欠いてしまったのだ。咎めることはできない。来客に口止めしたらしいが、人の口に戸は立てられないものだ。おそらく噂は十日と掛からず広まるだろう。

「おまえはあまり驚かんのだな」
「兄上ならやりかねないと思いまして」
「ああ、まあ、そうだな」

 兄は昔から自由な人だった。
 なんでもソツなくこなせるほど優秀で社交的で人当たりも良く、誰からも好かれている。気負わず気取らず、気楽に街をぶらりと歩くのを好んでいた。知り合ったばかりの者たちと飲み歩くことも珍しくはなかった。

「もしアルドが戻らねば、おまえが我がネレイデット侯爵家を継ぐのだ」
「お断りします」
「いやいやいや、そうはならんだろ」

 俺の返答にすぐさまツッコむ父。

「そこは『お任せください父上(キリッ』って返してくれるとこだろうが!」

 父が錯乱しておられる。
 仕事に根を詰めすぎて疲れているところに兄の出奔。気が触れてしまうのも無理もない。少々気の毒になってきた。

「一ヶ月以内に見つからなかった場合、アルドを廃嫡し、おまえを後継として正式に発表する。分かったな!」

 了承するまで解放してもらえなさそうだったので適当に頷き、父の執務室を後にした。
 自分の私室に行き、机の引き出しの鍵を開ける。今朝見た時と変わらぬ中身の配置に安堵し、その中の書類を手に取った。

「……一ヶ月以内に必ず『あの女』の尻尾を掴んでやる」

 それは、とある貴族令嬢の素行調査の報告書だった。

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