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6話・恩寵と呪い
しおりを挟む安藤と嵐が出て行った後、凛は制服に着替え始めた。脱いだ服をハンガーに掛け、伊達眼鏡と共にロッカーにしまい込む。普段使いの黒縁眼鏡をかけ、顔を隠すように前髪を下ろした。
学生カバンを肩に掛け、戸締りとガスの元栓を確認してから室内の照明を消す。太陽は完全に沈んでおり、カーテンのない窓からは街灯や近隣のビルの照明が射し込んでいる。
「事故物件かぁ」
安藤と話をするまで、この事務所がそういう場所だということをすっかり忘れていた。事故物件というものは本来恐れ避けるべき場所のはずなのに、凛は自宅より狭くて汚い事務所を居心地よく感じてしまう。霊感がある嵐が平然と出入りしているから安心できるのかもしれない。悪い霊がいるのなら彼がなんとかしてくれるはずなのだから。
雑居ビルから出て駅前通りを歩く。車のライトや店先の明かりが照らす歩道にはたくさんの人々が行き交っている。凛は伊達眼鏡の位置を調整し、視線を下げて誰の顔も見ない様に足を動かす。下ろした前髪が視界の半分ほどを塞いでいるが、慣れたものだ。
凛の自宅は駅からバスで十分ほどの距離にある。他人との接触をできる限り避けるため、バスは使わず徒歩で移動していた。夜とはいえ大きな道路沿いは街灯が多く、車の行き来もあるので暗くはない。
しばらく歩き続けるうちに自宅に到着した。ぼんやり辺りを照らす玄関灯を見て、凛は溜め息をもらした。憂鬱な時間の始まりだ。
「ただいま」
消え入りそうな声で帰宅を告げると、廊下の奥にあるリビングのほうからガタッと物音がした。慌てたようにバタバタ動き回る音がする。
「おかえり、凛ちゃん!」
リビングから顔を出して出迎えたのは母親だった。父親はまだ仕事から帰っていないのだろう。母親は続きの間にあるダイニングテーブルで夕食の皿を並べ始めた。凛が帰ってくるまで待っていたらしく、母親のぶんも用意されている。
「遅かったのね、どこに行ってたの」
「図書館で宿題してた」
「明るいうちに帰ってこなきゃダメよ。危ないわ、女の子なんだから」
声色は穏やかだが、有無を言わさぬ迫力があった。反論したり逆らったりしたら面倒なことになると凛は経験から知っている。
「ごめんなさい。次から気を付ける」
素直に謝れば、母親はパッと表情を明るくした。
脱いだ上着を椅子の背もたれにかけてから食卓につき、凛は小さく「いただきます」と手を合わせた。まずは湯気が立ち昇るお吸い物をひと口飲み、煮魚に箸をつける。鯖の味噌煮は凛の好物だ。特に腹身の脂が乗った部分が好きで、凛の皿にはその部位が乗っている。母親が好みを把握しているからだ。
「美味しい?」
「うん」
母親は向かいの席に座り、自分も食べながら食事をする凛の姿を眺め、時おり話しかけてくる。昼間に誰々さんが訪ねてきたとか、面白いテレビをやっていたとか、近所でこんなことがあったとか。延々と話しかけられて妙に緊張してしまう。せめてどこか視界の外に、例えばリビングのソファーに移動してくれればいいのに、頑として離れようとしない。それどころか、ぐいぐい視界に入ってこようとする。
「ごはんの時くらい前髪を退けたらどう?」
一人にしてくれたらすぐにでも前髪をピンで留めるのに、と思いつつ凛は無言で返すと、向かいに座る母親が手を伸ばしてくる。頭に触れる直前、凛はガタッと椅子を引いて距離を取った。バクバクと鳴る心臓を手で抑え込み、無理やり息を吸い込んで声を絞り出す。
「こ、このままでいい」
「そう。でも、目が悪くなっちゃうわ」
「大丈夫だから」
あからさまな拒絶の態度に気を悪くすることもなく、母親はにこりと笑みを浮かべて手を引っ込めた。鯖の味噌煮は美味しいはずなのに、妙に気を張っているせいで味がよく分からなくなった。
家族はみな凛の能力を知っている。父親と弟は凛と顔を合わさぬ様に避けているが、母親だけは積極的に関わろうとしてくる。母の愛は偉大と言うべきなのだろうが、実際は違う。確かに我が子への愛情はある。しかし、それ以上に自己愛のほうが強い。『障害を持つ娘を分け隔てなく愛する自分』が好きなのだ。
真っ当な日常生活を送れない凛の能力は、母親からすれば只の精神疾患や障害と等しい。可哀想な娘に対して変わらぬ態度で接する行為こそが正しいと心から信じており、娘を避ける夫と息子を情けないとすら思っている。彼らは凛に要らぬ負担を掛けぬように正しい対応をしているだけなのだが、母親には理解できない。どんな障害を背負っていようと普通の生活を送らせてやるのが親の勤めだと心から思っている。
だから『家族の団らん』を演じたがっている。
「ごちそうさま。美味しかった」
ジロジロと見られる中でなんとか食べ終え、空いた食器を流し台に運ぼうとする凛を母親が制した。
「片付けはお母さんがやるわ。凛ちゃんはお風呂に入ってきなさい」
「あ、ありがとう、お母さん」
椅子の背もたれに掛けてあった上着を取り、リビングから出る。階段下に置いていた学生カバンを持って二階へと上がり、自室に入った。
「また勝手に……」
朝見た時と物の配置が微妙に変わっている。
昼間、掃除のために母親が入ったようだ。だが、本棚や机の中までは関係ないはずなのに、時折いじられている形跡があった。本の並びが変わっている本棚を見て憂鬱な気持ちになる。
同級生からいじめられていないか、意地悪されていないかチェックしているのだろう。凛が同級生から仲間外れにされ、酷い扱いを受けていたのはもう何年も前の話なのに、母親の中ではまだ終わっていない。
「母の愛、かぁ」
凛に何かあれば、母親は心から嘆き悲しむ。
今日の依頼人の智代子と同じように。
「あたしにはよくわかんない」
読めば読むほど他人の心の内は理解できなくなる。
凛には自分の能力が『恩寵』などではなく『呪い』のように思えていた。
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