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第16章 隠者との出会い

逃亡者達

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「今更どこに行くんだーい!」
 
「何を叫んでいるんですか?」 

 オンドラが舳先に立って叫ぶ姿を後ろからネネが見つめる。2ヶ月にわたる氷結からようやく開放された北東和の海。その領海すれすれを貨物船が列を連ねるように外海へと向かう。多くは遼北からの脱出者を満載していることは容易に想像が付いた。

 遼北、西モスレム両政府は民間のネットのクラッキングが復旧したと同時に国民に平静を求めたが、核による破滅を求める過激派のもたらした恐怖と混沌はとどまることを知らなかった。オンドラもネネも、遼北の非凍結港に遼北脱出を願うそれなりに金を持った人民の群れの噂は耳にしていた。

「そうまでして生きていて価値のある世の中かねえ……」 

「死とは理解できない価値観を受け入れること。それだけの覚悟がある人は数えるほどしかいない……この現象は極めて健康な出来事だと思いますよ」 

 ネネは淡々とオンドラの愚痴に答える。背後で二人が乗っている漁船の船長がわざとらしい咳を立てる。昔から彼等東和の漁民達は遼北の人々を見下して生きてきた。それは目の前の海を彷徨う遼北の一部の成金が生きようとすることへの当てつけ以外の何者でもない。ネネは静かに目線を近くの島へと向けた。

「しかし……島には船は近づかないんですね」 

「あの外道が俺達の領土に近づいてみろ……きっと国防軍が皆殺しにしてくれるよ」 

 船長は満足げにうなづく。予想通りの回答にただあいまいな笑みを浮かべながらネネはオンドラを見上げた。オンドラは相変わらず不機嫌だった。船長に支払った報酬は警察に垂れ込まれれば即逮捕のオンドラを乗せることを足してみても明らかに法外だった。最近は遼北の漁業巡視艇も厳しく東和の漁船の密漁の取り締まりを行っていることは二人とも知っていた。東和北部地域の漁獲量のほぼ三割は遼北の排他的経済海域での密漁に支えられていた。ネネもオンドラもそんな事実を知りながらの船長の根拠の無い遼北の民への見下すような視線と金銭への見るに堪えない卑屈な姿勢はただ不快感だけを残していた。

「6時間……で帰ってきてくれるんだね」 

 今度は金銭に土下座しかねない嫌らしい笑みが船長に浮かぶ。ネネは答えるのも面倒だというようにうなづく。

「いいんだよ!うるせえな!」 

 オンドラは思わずジャケットの下に手を伸ばしていた。そこには拳銃があることくらい危ない橋を金目当てに渡ってきた経験の多い船長にはすぐに理解できて、船長は苦笑いを浮かべながらそのままキャビンに消える。

「全く反吐が出る。先進国って看板を掲げた土地に生まれただけで果てしなく無能な連中は……いっそのこと人間の資格をすぐにでも剥奪した方がいいんじゃねえか?」 

「その意見には同感だけど……金は力よ。彼等も落ちるところまで落ちれば自分の価値を認識できる。それまでは誰も彼等に彼等自身の価値を教えることは出来ない……ある意味それは彼等にとって不幸なことなんじゃないかしら?」 

 見た目はどう見ても小学生程度の姿のネネの言葉にオンドラは静かに相づちを打つ。オンドラが意味を理解しているかしていないか。そんなことはどうでも良いというようにネネは視界の中で拡大していく一つの殺風景な島をじっくりと眺めていた。

「本当に6時間で帰ってきてくれよ……」 

「分かったって言ってるだろ!」 

 心配そうな表情の船長を怒鳴りつけながらオンドラは背後からゴムボートを引っ張り上げる。軍用の軽量かつ搭載量の多いゴムボートの存在はこの船がまともな漁をする船ではない事実をオンドラ達に思い知らせる。一人で軽々とそれを持ち上げるオンドラにネネは不器用に手を貸そうとする。

「一応、あんたは雇い主なんだから……」 

 珍しく裏のない笑みを浮かべたオンドラはそのまま目の前の荒れる海にボートを投げた。浮かぶボートに足下の大きめのバッグを投げ、そのまま舳先に縛られたロープをたどって上手い具合に乗船するオンドラ。

「手を……貸してください」 

「預言者もさすがにこんな船に乗るのは初めてかねえ」 

 皮肉を込めながらオンドラはネネの手を取る。ネネは小さな体でひょこりとボートに飛び移る。軽い船体が小さなネネを受け止めただけでも大げさに水しぶきを上げた。

「6時間過ぎたら超過料金……」 

「くどいってんだよ!」 

 船長を怒鳴りつけたオンドラはそのまま船体の後ろにあった小型の推進器で船を陸地へ向けた。

「全く……金がいくらあっても足りねえや……経費の精算の時に苦労するな」 

「まあオンドラさんは東和では指名手配中ですから通常のルートは使えないですからね。私だけで良ければ航空料金と宿泊費だけで済むんですが……」 

 ネネの重い口調で自分がお尋ね者だったことを思い出してオンドラは黙り込むとそのまま船を遠くに見える黒い砂に覆われている浜辺へと向けた。

「吉田俊平……そのオリジナル。こんな僻地に住んでいるとはねえ……国家元首の暗殺なんてことを何度となくやるような凄腕だぜ……なにを好きこのんでこんな寂しい場所に住んでるのやら」 

「それは本人に聞いてみないと分からないことですよね。それに……これから会う初めての生きた吉田俊平が本物の吉田俊平とは限らない……」 

 浜辺を見つめたまま曖昧に笑いながらネネが呟く。オンドラは不可解そうな顔をしながらそれ以上話を続けずにただ船を進めた。

 海流の関係か、波の割に船は滞ることなく一直線に浜辺に進んでいく。オンドラが振り返るとすでに彼女達が後にした漁船はもう点にしか見えなかった。オンドラは大きくあかんべーをするとそのまま船を浜辺にぶつけるように進めた。

「ちょっと待ってな……」 

 ジーンズが濡れるのも躊躇せずにオンドラは浜辺の膝ほどの深さの水に飛び降りる。ネネが周りを見回すが、氷結が解けたばかりの海峡を見渡す丘には深い雪が残っているのが見える。生身の人間であればその冷たさから無事では済まないだろうと言う状況の中で、オンドラは文句も言わずにそのままネネが濡れずに上陸できる地点まで船を引きずってくれる。

「優しいんですね……」 

「なあに、金のためさ」 

 淡々とそれだけ言うとネネが船を下りたことを確認したオンドラはそのままゴムボートを引きずって浜辺の奥の岩陰へと歩いて行った。

 ネネは静かにムートン生地のコートの襟を手で寄せながら空を見上げた。この時期の東和北部の気象条件の典型的な例を示してみせるように薄い雲が太陽を隠し、もやのような空の曇りの中から光が静かに地面に注いでいるのが見える。

「本当に……人が住むには適していない場所なんですね」 

 静かにそれだけ言うとオンドラが消えていった岩陰に目をやった。すぐにそこからブーツを脱いで中に入った水を抜きながら素足で歩いてくるオンドラの姿が目に入った。

「本当に大丈夫なんですか?」 

「一応ミルスペックの義体だからねえ……とりあえず異常は感じないけど……もし問題があったら、西園寺のお嬢に追加料金を請求するからな」 

「まあそのお金は西園寺のお嬢さんに言えば出してくれるでしょ」 

 それだけ言うとネネは確かな足取りで砂浜から黒い岩肌の崖を登りはじめた。オンドラはその足取りがあまりに確かで確実なのでしばらくは呆然とその様子を見守っていたが、しばらくして自分が雇われ人である事実を思い出して慌ててネネの後ろについた。

「心配しなくても大丈夫ですよ……山登りは遼州にいた時には必須科目でしたから」 

「でもなあ……」 

「心配してくれているんですか?」

「まあ金の分は」 

 苦笑いを浮かべるオンドラに自然体の笑みで応えたネネはすぐに崖を登ることに集中した。決して緩やかな崖ではない、さらに所々に吹き付けられた強い風でめり込むように白く染まった雪の塊があって素人ならばすぐにでも滑り落ちてしまうような峻険な崖を順調そのものに登っていくネネ。オンドラはただ租界という閉鎖環境でその中立的な立ち位置と正確かつ的確な助言から『預言者』の二つ名で呼ばれる幼く見える情報屋の自分の知り得ない才能に驚きつつその後ろを続けて登った。

 正直オンドラはネネに付いていくのがやっとだった。確かに百キロを超える義体の重さはあるにしても馬力ではネネはオンドラの十分の一にも満たないはずだった。もし足を踏み外したり手を添える場所を間違えれば生身の人間の反応速度なら対応できずに転落して行くしかないような切り立った崖。そこを一つの間違いもなく的確に登り続けるネネ。

「あんた……山登りの趣味でもあるのかい?」 

「久しぶりですよ……本当に……たぶん東和に来てからは初めての経験です」 

 さすがに体力には自信が無いようで息を切らせながらもネネは的確な動作で崖を登り続け、ついには船から見た崖の最上部へとたどり着いていた。

「ああ、疲れました……日頃の運動ってものは大事なんですね……」 

 そのままひょこりと近くの岩に腰掛けてほほえみを浮かべるネネ。オンドラはようやく重い体を崖から引き上げるとこれまで登ってきた崖の高さを確かめるべく下をのぞき見た。百メートル以上はある。それでも目の前のネネは涼しい顔をしてこれから向かうべき洞窟があるという北の方角をじっと眺めている。

「本当に……あんたは凄い奴だな。登山家の才能があるよ」 

「あなたの親御さんが育った遼南にはこんな山道はありふれているんですよ……まあもう二度と戻ることの出来ない国だとあなたは言うかも知れませんが」 

 それだけ言うとネネは疲れも見せずに立ち上がり、崖の横に不自然に出来ている道をゆっくりと北へ歩き始めた。

「風がないのが幸いと言えば幸いかねえ……」 

 黙っていることが苦手というように苦笑いを浮かべながらオンドラは早足のネネの後に続いた。事実、続く道の中央の地面の岩が露出して見える事実はこの島が冬には北からの強い季節風に煽られる日々を重ねることを示していた。

「幸運は訪れるときは立て続けに訪れるものです。そして不幸もまた同じ……」 

「妙に悟った発言だねえ……ただそれはアタシも知っている話だ」 

 ネネはオンドラの仏頂面を確認するために振り返りにこりと笑うとそのまま道を進む。波の音だけが響いている文明社会から隔絶された北方の島。

「全く……吉田俊平……何者なのか興味が出る光景だよ」 

 オンドラの軽口が続く。ネネはただ静かにそれを聞き流しながらまるで来たことがある道とでも言うように迷うことなく真っ直ぐ続く海沿いの小道から笹藪に覆われた獣道に足を踏み入れる。
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