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第10章 一日の終わり

一日の終わり

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「お姉さんさあ……」 

 いつもはこんなシャムの姿を見て立ち去るはずの信一郎が珍しくシャムにものを尋ねようとしている。その事実に不思議に思いながらシャムは口に当てていたコップをテーブルに置いた。

「司法局実働部隊の隊長……嵯峨惟基って人。遼南皇帝ムジャンタ・ラスコーなんだよね?」 

「どこで調べたの?」 

 意外だった。ただの受験生が知るには同盟の一機関の指揮官の名前はマイナーすぎる。そしてその名前と現在静養中と遼南が表向きは発表している皇帝の名前がつながるとはさすがのシャムも驚きを隠せなかった。

「ネットで調べればある程度のことは分かるよ。まあ一般的な検索サイトでは出てこないつながりだけど」 

「アングラ?そんなの手を出さない方がいいよ」 

 シャムの頬につい笑みが浮かんでしまう。その筋では化け物扱いされている吉田と先ほどまで同じ車に乗っていた事実がどうしても頭を離れない。

「そんなことどうでもいいじゃないか……どうなの?」 

 信一郎の言葉に曖昧な笑みを浮かべるとシャムは残っていた牛乳を飲み干した。

「知ってどうなるものでもないよ。……むしろ知らない方がいいことの方が多いんだ」 

「ずいぶん大人みたいな口を聞くね」 

 嫌みを言ったつもりか見下すような信一郎の視線をシャムは見返した。その目を見た信一郎の表情が変わる。まるで見たことのない動物を見かけてどう対処していいか分からないような目。シャムは自分が戦場の目をしていることにそれを見て気がついた。

「だって大人だから」 

 そう言い残してシャムは立ち去る。信一郎はただ黙ってシャムを見送った。背中に刺さる視線がいつものシャムに向けるそれとは明らかに違っているのが分かる。だがそれも明日の朝にはいつもの目に戻っている。シャムはそう確信していた。

 台所を出て隣はバスルーム。シャムはとりあえず顔を洗うことにした。

 冬。隊でシャワーを浴びただけだが汗はまるでかいていない。風呂場のお湯はこの時間は落ちている。深夜のシャワーは気を遣うのでシャムは嫌いだった。

「明日にしよ」 

 洗面所の蛇口をひねる。台所と同じ冷たい水が当然のように流れる光景にシャムは先ほどの信一郎の問いで毛羽だった自分の神経が静まっていくのを感じていた。

 静かに水を両手で受けて顔に浴びせる。

「冷たい!」 

 アルコールで火照った顔の皮膚を真冬の水道水が洗い清める。シャムはその快感に何度も浸ろうと手に水を受けては顔に浴びせてみた。

 ひんやりとした肌の感覚。シャムは次第に酔いが醒めていくのを感じていた。

「まあいいか」

 そのままシャムは振り返ると台所に出た。信一郎の姿はすでにそこにはなかった。安心してシャムはそのまま階段を昇る。

 年代物の木造住宅らしいきしみ。家人が起きるのではないかといつもひやひやしながら一歩一歩昇っていく。深夜ラジオの音量が漏れる信一郎の部屋を背にそのままシャムは自分の借りている一室にたどり着いた。

 いつものことながら安心できる。電気を付けたシャムはいつもそうしているように部屋の中央にちょこんと座った。

「みゃあ」

「ただいま」

 部屋の中央の先客、猫にシャムは手を伸ばす。

「晩御飯はおいしかった?」

「みゃあ」

 猫はシャムの言葉にこたえるようにそう鳴くとそのまま部屋を出て行った。

 ふと近くの家具屋で目にした古めかしい本棚。その無駄に頑丈そうな木の枠の中にはお気に入りの漫画。その隣にはクローゼット。量販店で見つけた安物なので好きにアニメキャラのシールを貼って遊んでいる。

 それを見るとシャムは自然と着ていたジャンバーを脱ぎ始めた。

 立ち上がり、扉を開き、ハンガーにそれを掛ける。夜中の暖房のない部屋は正直寒いがそのくらいの方がシャムには気分が良く感じられた。

 そのままシャツとスカートを脱ぎ、クローゼットの下の引き出しの中のパジャマを手に取る。

「やっぱかっこいいな」 

 アニメショップで買った戦隊もののジャージの上下がシャムのお気に入りのパジャマだった。そのまま寒さに急かされるようにしてそれを着込むと今度は反対側の押し入れの前に立った。

 こちらには劇場版アニメのポスターが貼り付けられている。シャムがお気に入りの繊細な少年パイロットの顔を一瞥した後、おもむろに引き戸を開いた。

 布団。寒さの中で見るととても素敵なオアシスに見える。にやつく笑みを押し殺すとシャムはそのまま布団を引きずり出した。

「重い」 

 思わずつぶやく。思えば今週は一度も干していなかった。明後日が休みだが野球サークルの試合が控えている。

「どうしようかな……」 

 迷いつつシャムは敷き布団を選び出して畳に広げる。先月買い換えたばかりなので真新しいがどうにもその重さが気になっていた。そのまま手早く敷き布団を押し広げ、シーツをかぶせる。ふかふかのシーツはどうも苦手なのでシーツはいつも薄い生地のものを選ぶのがシャム流だった。

 部屋の隅に押し込まれていた毛布と掛け布団をその上に載せ、巨大怪獣をディフォルメした抱き枕を抱えてシャムはそのまま布団の上に座った。

「今日も一日……疲れたなあ」 

 本来ならここでビールだ。などと考えているうちに目が時計に向く。ちょうど深夜12時を指していた。

「ちょうどいい時間だな」 

 シャムはそう言うと部屋を見渡す。いつもの見慣れた光景もこうしてみると味わいがあるように見えた。

 好きなもので満たされた部屋。それは夢のように見えた。彼女はそれなりの給料はもらっている。世知辛いところはようやく学んだばかりの運行部の人造人間の女性士官達はシャムの奇妙に質素な生活を不思議だという。

 それでもシャムは満足していた。安心して眠れる場所がある。それだけで十分な上に好きなアニメのグッズはそれなりに持てるし、漫画を描く画材も買い放題。それ以上のことをシャムは望んではいない。

「世はすべてこともなし」 

 どこかで聞き覚えた言葉を口にすると自然と笑みが浮かんできた。

 この下宿にも満足している。家族を知らないシャムには奇妙で滑稽で楽しい佐藤家の人々。気むずかしい信一郎もいるが彼も要するにまだ若いだけだった。

 シャムは安心の中で部屋の電気を消した。

 暗闇。急に訪れる孤独。でもそれがかりそめの者に過ぎないことが分かる今。シャムはただ笑みを浮かべて布団の中に潜り込んだ。

 目をつぶる。

「明日……朝ご飯はなにかな?」 

 自然に想像が食べ物に向かう。いつもの自分の発想に思わず苦笑いを浮かべながら目を閉じた。

 つらいことが思い出されるかもしれない。深夜、眠りにつく度にシャムはそんなことを考えていた。飢えと寒さの遼南の森。そこで出会った人々との様々な出会いと別れ。

 多くは血塗られた遼南の歴史にふさわしい悲劇で幕を閉じたその別れを夢に見る度に涙に濡れて目が覚める恐怖が頭をよぎる。

「起きようかな……」 

 思わずつぶやいてみる。でもそれでも次第に睡魔がシャムをゆっくりと取り込んでいく。

 今は仲間がいる。かつてのぎりぎりの死を意識していた悲壮な顔の仲間達とは毛色の違う安心できる仲間達。

「私がしっかりしないといけないんだよね」 

 自分に言い聞かせるようにそう言ってみた。沈黙する闇の中に自分の言葉が響く。

 自然とまぶたが閉じ、意識が薄れる。

「明日は何があるかな……」 

 そんな自問自答の中。シャムは自然体で眠りの中に落ちていった。



                                       了
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