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113.愛する家族のために*

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 残酷な描写があります、ご注意下さい。







「マズラー」

 振り返った私を見て、猫背のひょろりとした男はさも楽しそうに顔を歪めて笑った。歯茎の後退した黄色い歯は、頽廃した生活を物語っている。

「おお怖、可憐な顔が台無しだな」

「どうしてこんなことを……」

 私は、怒りと恐怖で麻痺した口をどうにか動かして理由を問う。

「どうしてだと?総督夫人はこのウスノロと俺の昔話を知らないのかい?こいつはな、子供の頃から俺の邪魔ばかりしてきたのさ!こいつさえいなければ、俺はすんなり第一騎士団に入れたはずだ。産まれた歳が一緒だからって、いつも俺は比べられ、蔑まれた。俺は少しだけ運が悪いだけなんだ。それなのに……こいつは少しも辛い思いも、苦しい思いもせずに全部美味しいところを奪って行くんだ。総督の椅子だってそうだ。今頃は美女を侍らした俺が座っていた筈なんだ。こいつは三十で死ぬはずだったのに、戻って来やがった。しかも俺を辺境の砦に追いやり、美女も美味い酒も思うままで、金だって使いたい放題じゃないか!」

 支離滅裂な恨み言は、全くの逆恨みといってもいいだろう。自分の努力の足りなさを不運と決めつけて、成功したロワさんをただ……ただ怨んでいるのだ。

 愚かしい考えを否定するのは簡単だ。しかし、今の状況でそれは逆効果だろう。ここはなるべく冷静に交渉する必要がある。真冬の湖のように冷えた心を叱咤して、マズラーに向き直った。

「あなたの言い分はわかりました。ご苦労されたのですね。しかし総督が死んでしまっては、あなたをお救いすることができません。毒を使うということは、解毒薬を持っているのでしょう?すぐに出してくださいませんか」

「おやおや、レンは己の立場を忘れていらっしゃるようだな。人にお願いする時はどうすればいいか教わらなかったのか?」

 ニヤニヤと私を見下ろすマズラーに唾棄したい思いだが、彼の言う通り私は今はロワさんとユミールを救わなくてはならない。マズラーにレンと名前を呼ばれるだけで、嫌悪感で身体が震える。

「……お願いです、解毒薬をください」

 地面に頭をつけてそう願うと、ゴッと後頭部を硬い靴底で踏まれた。地面にめり込んだ額がジンジンと痛む。

「マズラー様をつけろ」

「……マズラー様、解毒薬をください。どうかお願いします。お金が欲しいのであれば、用意します」

 私の自尊心なんてどうなったっていい。こんな最低な輩でもどうにか願いを聞き届けてはくれないかと、一心に願うと、後頭部に置かれた靴底がグリっと擦られた後離れていった。

「ひははは、いいよ、いいよ、レン!その調子だ。俺は今とても気分がいい。仇敵を地べたに転がして、救済の聖女を踏みつけられるなんてな!だが、金は欲しいが、こいつの命の方がもっと欲しいんだよ」

「ほれ、まだ息をしてやがる。早いところこのウスノロの首を切り落とさないと安心はできない。騎獣でさえ一滴で倒せる死の接吻バスを一瓶入れたのに、まだ命があるとは、本当の化け物だぜ、こいつはよ」

 マズラーはロワさんにとどめを刺す気だ!

「やめなさい!」

 私は使えるだけの真力を込めてマズラーを睨んだ。しかし、マズラーはニタニタと笑うばかりで全く効果は見られない。

「おや、不思議そうな顔じゃないか。噂の聖紋とやらが使えなくて驚いているようだな。まぁ、驚くのも無理はない。俺は純粋なノーグマタではないからな。今回に関しては、母親の股の緩さに感謝すらしたいね」

 自重気味に笑ったマズラーが、ぬらりと抜身の剣を下げてロワさんに近づいて行こうとする。私はユミールを離すと、思わずマズラーの足にしがみついた。

「お待ち下さい!どうか!どうか!」

「ええい、お前は後で殺してやるから黙ってろ!」

 背中をドムっと蹴られて地面にもんどりうつ。あまりの衝撃に息が詰まって涙が溢れた。お腹はどうにか庇ったものの、このままでは皆殺しだ。マズラーは地面に転がって呻く私に近づくと、取り出した縄で両手を背中で一括りに縛り、突き出た岩に括り付けた。

「はぁーうぇにさわるな!」

 その時、これまで唇を噛み締めて堪えていたユミールがマズラーに突進した。マズラーは、小さなユミールを片手で捕まえると、胴体ごと紐で縛り上げた。

「赤ん坊の扱いはわからないからな、ちょっと力を入れてごづいただけで潰れて血反吐を吐いちまう。お前さんは後で売られるんだ。俺の支援者は小さな少年が大層好きでな……」

「わるいやつ、ちぃーうえにまけるんだ!」

 ユミールはそう叫ぶと、不用意に伸ばされたマズラーの指に噛み付いた。

「ってーーな!」

 ブンッと放られたユミールは祖先の木にぶつかって止まった。気絶してしまったのか、ピクリとも動かない。

「ユミール!!」

 殺す

 殺してやる!

 私は怒りで目の前が真っ赤になった。尺取虫のように地面を這いずってユミールの元へ向かおうとするが、岩に括り付けられているため動けない。頬が擦り切れ、涙が滲みるがかまってなどいられない。

「このくそ餓鬼、人が優しくしてやればつけ上がりやがって。手土産がわりと思っていたがまぁいい、餓鬼にもここで死んでもらおう。母親の目の前でな!」

 ロワさんからユミールに目標を変えたマズラーが、倒れているユミールに近づいて行く。

「やめてー!」

 私が絶叫した時、今まで暴れていたライオスの綱がブチリと切れ、ライオスが泡を吹きながら駆け出して行った。

「ちっ、」

 マズラーは舌打ちをすると、自らの騎獣に飛び乗ってライオスを追って飛び出て行く。ライオスを野放しにすると、毒で恐慌状態とはいえ、城に戻ってしまう恐れがあるのだろう。私達を殺した後逃げおおせるためには、ライオスを留めおくか、殺すしかない。

 ライオスの安否が気にかかるが、この隙に逃げるしかない。しかし、意識のないロワさんとユミールを連れて逃げられるわけはない。それならば、私のする事は一つだ。

 ユミールを隠して、マズラーを殺す

 あんな外道にユミールやロワさんを殺されてたまるものか!

 そのためには、まずこの拘束から抜け出なければならない。後ろ手に縛られた左手の親指をしっかりと立てて伸ばす。他の指は強く握り込んだ。

 早く

 早くしないと

 焦る心に急かされ、心臓がバクバクと音をたてる。岩を背にして座った私は、体を出来るだけ岩から離すと、勢いをつけて岩に向かって倒れ込んだ。

 左手の親指を岩に突き立てるように……

 グギッと鈍い音がして、激痛が脳天を突き抜ける。ぎゃっと叫びそうになるのを、唇を噛み締めて堪えた。

 私は左手の親指を折ろうとしている。できれば中手関節が外れるか、中手骨が折れるのが理想的だ。そうすれば、きつく縛られた手を抜くことができる。右手さえ使えれば、バスケットに入っている小さなナイフを扱えるだろう。

 ズグンズグンと痛む左手を動かしてみると、激痛が走るが親指が動く。まだ折れてはいなそうだ。

 何をしているの!

 こんなことをしているうちにマズラーが帰ってきてしまうじゃない!

 早くユミールのところに行かないと!!

 しっかりしなさい!

 痛みに怯みそうになる自分を叱咤して体勢を整えると、今度は反動をつけて岩にぶつかった。

 ゴキッ

 何かが折れる音がした。

 今度こそ折れただろう。想像を絶する痛みに涙や鼻水やらが垂れ流しになる。

 こんな痛みがなんだ!

 私は子供を出産した母親だ!

 お腹の子を守る強い母親だ!

 ググっと奥歯を噛み締めて、勢いよく左手を縄から抜き取る。目の前に爆弾を落とされたような衝撃だったが、なんとか左手は抜くことができた。そして間髪入れず右手と身体の拘束を解く。

 ユミール!

 バスケットからナイフを握ると、倒れている息子に走り寄った。ユミールは意識は無いものの、呼吸は安定しており最悪の事態は免れた。ぐったりしたユミールを抱えると、背丈のある草原に分けて入り、ある場所にそっと寝かせた。

 これならば、空中から捜索しない限り、見つかるまでにある程度時間が稼げるだろう。私は乱れた草を元に戻しながらロワさんの元へ急いだ。ロワさんは相変わらず紫色の顔色で、ゴウゴウと荒い息を吐いていた。

「ユミールは隠しました。ロワさん……これから私がすることを、どうか許して……」

 そう言いながら、ロワさんの腰に挿してある短剣を引き抜く。短剣と言っても刃渡り六十センチはあるだろう。私では到底持ち上げられない重さだ。

 だが、これでいい

「お別れはすんだか?聖女さまよ」

 背後から聞こえたぬめついた声に、一瞬我を忘れて飛びかかりたくなるが、全身全霊を込めて耐え切った。

「よく縄を抜けられたな。それに……おい、餓鬼はどうした。……今度はダンマリか?まぁいい、そのうち殺してやるよ」

 私の背後まで近づいてきたマズラーは、私が握るロワさんの短剣に気がついた。

「おいおい、やめとけよ。その細腕で振り回せる剣じゃねえぞ」

「やってみないとわかりません!」

 私は遠心力を利用して、振り向きざまに短剣を力一杯マズラーに投げつけた。短剣はかなりのスピードでマズラーに迫ったが……

 ガキッ

 マズラーの剣に簡単に打ち払われてしまった。私の手にはもう攻撃できるものは無く、無力さに全身を震わせた。

「ははっ、こんなもんだよ聖女様、ただの女と戦士の力の差なんてな!こんなに震えて、可哀想になぁ」

 マズラーは震える私を手の甲で張り倒すと、脚に馬乗りになってきた。

「さぁさぁ、レェン、お前は死ぬ前に俺に犯されろ。綺麗な顔をグチャグチャにしながら泣き叫べ。ウスノロのデカ魔羅に慣れたあんたにはもの足りないだろうが、前も後にも突っ込んでやるからよ。腹の中の赤ん坊が驚くくらいにな!」

「やめて!」

 これでいい

 これでいいのだ

 ロワさんにとどめを刺すことから気を晒して、私を暴行させようと仕向けたのは私だ。ある程度泣き叫ぶのも計画のうちだ。下手に自尊心を見せてお腹の子を殴られては堪らない。

 どんな戦士も、性行為中は無防備になりやすい。そこを、この隠した小さなナイフで切り裂くのだ。狙いは頸動脈だ、医療者の私は場所を確実に把握している。

 絶対に外さない!

「なまっちろい肌だなぁ、殺すにはほんと惜しいぜ」

 ビリビリと私のドレスを裂きながら、さも楽しそうに笑うマズラーを、私は想像の中で十回は殺した。

 計画とはいえ、こんなに悔しくて苦しいことなんてない。

「それじゃ聖女様のアソコをいただくとするか。旦那の魔羅を咥え込んでいるんだ、濡らさなくたって入るだろ?」

 マズラーは私の脚を開き、汚い逸物を扱き上げながら下卑た笑いを浮かべた。薄汚い手に掴まれた自分の白い脚が、人形のように思える。

 こんな奴に汚されるなんて死んだ方がましだが、私はロワさんの妻であり、二人の子の母親だ。

 チャンスが来るまで心を飛ばせ、切り離せ!と頭の何処かで警鐘が鳴る。こんなことは、大したことじゃない、大丈夫だ!と叫ぶ声もする。

 でも、

 でも……

 本当は耐えられない

 助けて……

 助けて……ロワさん……




 ぬるっと首筋を舐められながら、これから来る痛みに備えて内腿に力が入ったその時

 私にのしかかっていたマズラーが一瞬でいなくなった。

 その後からドゴッとという衝撃音が響く。

 私はいったい何が起こったのか分からず、隠し持っていたナイフを手に素早く起き上がった。そこで見たものは、凄まじき惨状だった。

 倒れていた筈のロワさんは、いつの間にかマズラーを片手で吊り上げて立っていた。私からはその背中しか見えないが、ロワさんの全身から血煙のような湯気があがり、尋常ではない様子が窺えた。

「ぐっ、貴様ぁ、――」

 吊り上げられたマズラーの雑言は途中で聞こえなくなった。どうやら喉を潰されたらしい。呼吸もし辛いのか、手足をバタつかせてもがいている。

 ロワさん……と声をかけようとした時、ロワさんが天を向いて咆哮した。

 オオォォォォォオ!

 鼓膜を越えて脳髄を揺さぶる衝撃波のような咆哮に、私は地面にへたり込み、気が遠のいていく。

 意識が無くなる最後の瞬間、ロワさんがぼろ切れを引き裂くかのように、何かを引きちぎったのを見たような気がした……



「レン、レン!」

 何処か切羽詰まった声で名前を呼ばれている。しかし、なんだか怠くて目覚めたくない。

 ピチャンと頬に水滴を感じて私は目を開けた。そこには、大粒の涙を流す優しいアイスブルーの瞳が待っていた。そういえばユミールはどこだろう。

「ロワさん、ユミールは……?」

「無事だ、お前のお陰だ……」

 ロワさんにしては珍しく、言葉を詰まらせながら涙を拭っている。

「そうですか、よかった……私なんだか疲れてしまって……ちょっとだけ……ねむ――」

 自然と下がる目蓋を支えきれなくて、私はロワさんの腕の中で、暖かい泥に沈むように眠りに落ちて行く。

「ああ、ゆっくり休め」

 サワサワという風が葉を揺らす音に紛れて、ロワさんの優しい声が聞こえた気がした……



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