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96.家族の絆*
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家の中に一歩踏み入れると、二階から布を引き裂くような悲鳴が聞こえて来た。屈強な護衛の騎士さん達も目を見張るような絶叫だ。
私は随行していたバクシュリーさんを振り返る。私と赤ちゃんの命を救ってくれた赤毛の女性は、今では侍女見習いとして働いてくれている。本人は「私のような娼婦をお側に置くなど」と最後まで断っていたが、ロワさんの「出自など気にするな。レンに対するお前の忠誠心こそ、私の求めるものだ」という鶴の一声で採用が決まった。以前侍女のルメアさんによる私の暗殺未遂等があったため、本当に信頼できる人が近くにいてくれると心強い。
それに、私達の命を救ったバクシュリーさんの献身的な活躍は、城の人間で知らぬ者はおらず、忠義や献身と言った言葉に弱い純朴なノーグマタの人々の心を強く掴んだようだ。そのため前職が娼婦だろうとも、バクシュリーさんは尊敬を集め、職場に暖かく迎えられていた。
「バクシュリーさん、このまま救護院に行って、産婆のエビラさんに来ていただけるようお伝えください。今日は救護院に来ているはずです。それが済んだら、城に帰り、乳母のアズルさんに私が帰るまでユミールの授乳をお願いしてください」
乳母のアズルさんを雇い入れたものの、今まで私の母乳だけでなんとかやりくりしていたが、この緊急時だ、数回の授乳を代わっていただくこととした。アズルさんはユズルバさんの従姉妹で、とても温厚で誠実な女性だ。
本当ならば、私の母乳だけで育てたい気持ちはある。しかし、総督夫人として今後も側を離れなければならないこともあるだろう。一番大切なことは、ユミールが安全な環境で健康に育つことだ。
「かしこまりました」
バクシュリーさんは、護衛の騎士さんに騎獣に引っ張り上げてもらうとあっという間に来た道を戻って行った。
「トリスさんはいつ頃から痛がり始めたのですか?」
私は一階の居間で、手早くエプロンをつけながら父親のマーガスさんに訪ねた。勇猛で鳴らした騎士であるマーガスさんも、娘の絶叫に青ざめている。
「今朝早く、トリスの友人……と言っても、最近は疎遠になっていた少女達二人が訪ねて来ました。勿論トリスは部屋から出るわけもなく、結局二人にはそのまま帰ってもらうことになったのですが、手紙を一通預かりました。仲直りしたいから渡してほしいと言われ、そのままトリスに渡したのですが、その後から苦しみ始めまして……慌ててその手紙を見ますと、トリスを騙していた男は総督府を去ったと書かれていました。捨てられて残念ね、とも――」
マーガスさんの顔は苦悶に満ちて、トリスさんをこんな目に合わせた男や残酷な少女達、そして自分自身に怒りと絶望を感じているようだった。
「マーガスさん、今はトリスさんと赤ちゃんの無事を祈りましょう。信頼のおける女性に手伝いをお願いできますか?」
「はっ、はい。近所に住む姉がもうすぐ到着がすると思います」
「お姉さんがいらっしゃったら、お湯を沸かして、綺麗な布を多めに用意してもらうように伝えてください。奥様のリンドラさんは、トリスさんの側にいてもらわなければなりませんから」
「わかりました。ライナ様、娘とその子どもをよろしく……お願いします」
深々と低頭したマーガスさんの肩を力づけるようにギュッと握ると、二階のトリスさんの元へ急いだ。
「いゃぁぁぁ!痛いよぉ」
トリスさんの部屋の中では、暴れるトリスさんをお母さんのリンドラさんが必死に宥めていた。トリスさんに引っ掻かれたのか、顔や手から血が滲んでいる。窓際には水溜りがあり、寝台に向かって点々と水滴が落ちていた。この嗅ぎ慣れた匂いは羊水だろう。
「痛いよぉ、痛いぃぃ、」
未知の恐怖に恐慌状態であるトリスさんの苦しみは勿論だが、大人の悪行によって苦しむ娘を見ていることしかできない母親のリンドラさんの心痛は、計り知れない。
あなたの浅慮で妊娠したのでしょう?母親になるのだからしっかりしなさい!とトリスさんを打つべきなのかもしれない。しかし、彼女はまだ子供、悪いのはあの獣だ。
ただ、このままの恐慌状態では産めるものも産めない。信じていたテラ教徒のガイナルに去られショックを受け、思わぬ腹圧のため破水したのだろう。以前から早産の原因である絨毛膜羊膜炎の既往があったのかも知れない。そして、妊娠すら拒否しているような現状では、胎児が危険だ。
仕方がない、これを使うか
私はトリスさんに意識を集中させて、“威圧”した。今まで、聖紋を意識して使用したことなどなかったが、気持ちを込めて集中すると発動することは知っている。
「ひっ、」
私に見つめられたトリスさんは、一瞬びくりと身を震わせると、瞳に正気を取り戻した。
今だ!
「トリス、あなたはこれから赤ちゃんを産むわ。どんな経緯であれ、赤ちゃんはここで生きているの。感じるでしょう?赤ちゃんの動き、重さを。これは命の重さなのよ。赤ちゃんを無事に世界に誕生させてあげるには、トリスの協力が必要なの。どうか、どうか小さな赤ちゃんのために頑張って」
私はトリスさんの腹部に触れながら、彼女の目を見て穏やかに話しかけた。
「でも、痛いの……こんなに痛いのならもう止めたい。もう赤ちゃんいらない……」
「お産の痛みは私もよく分かるわ。でも、女性は痛くてもどうにかなったりしない。赤ちゃんを押し出すために必要な痛みだから、怖がらなくていいのよ」
「やだ、やだ、もう止めたい、赤ちゃんいなくなって欲しい……」
私の説得では彼女の心を動かすことが出来ず、トリスさんはシクシクと泣き始めてしまった。覚悟が無くてはこの先到底陣痛には耐えられない。狂乱分娩となって胎児に危険が及ぶようなら、出産が終わるまで強制的に聖紋の影響下に置くしかない。
「いい加減におし!」
バチンっと弾ける音がして、トリスさんが寝台に倒れた。ぎょっとして見ると、涙を流しなら顔を真っ赤に染めたリンドラさんがいた。
「いつまで嫌だ嫌だと逃げているの!あなたのお腹には命がいるのよ!相手がどんな男か知らないけれど、私の愛する娘の子供には変わりないわ!しっかりしなさい、あなたは母親になるのだから!」
リンドラさんの瞳は爛々と光り、トリスさんを圧倒した。いつのまにかトリスさんの涙は引っ込み、頬に赤みがさしてきている。
「そんな、だって、母さん私……よくわからない男の人と……父さんだって私を恥じて……」
「お母さんとお父さんは、いつでも、どんな時だってあなたの味方よ。あなたのためなら死ぬのも怖くない。愛しているのよ、トリス……」
そう言ってリンドラさんがトリスさんを引き寄せると、二人は滂沱の涙を流して抱き合った。その光景に、私もいつしか涙を流していた。
「ふぅーっ、ふぅー、」
「上手よトリス」
額に汗をかくトリスさんをリンドラさんが横で励ましている。一時はどうなることかと思ったトリスさんだが、母親のリンドラさんの説得により冷静さを取り戻すことができた。すれ違っていた親子の絆が再び戻ったのだ。母の愛とは本当に偉大だ。私もユミールという愛する息子がいるからよくわかる。
実際トリスさんは十三歳という若さにしては、我慢強かった。一旦覚悟を決めた彼女は、母親譲りの気持ちの強さを見せ、二度と泣き言は言わなかった。
「ふぅーうん、ふぅーうん!」
「上手よ、もう赤ちゃんの頭が冠鶏の卵ぐらい見えているわ。触れてみる?」
コクリと頷くトリスさんの手を児頭に導く。
「髪の毛が生えているの感じる?もうすぐ赤ちゃん出るからね」
「ふさふさだ」
無邪気に笑うトリスさんに目頭が熱くなる。
「さぁ、痛みが来たわね、一番痛いところでいきんでみて」
「ん……っ、うっぅぅ!」
「そうそう上手よ」
怒責をかけるトリスさんと一緒に、手を握り締めたリンドラさんも目を瞑って祈っている。
赤ちゃん、安心して出ておいで
あなたは産まれる前から愛されてるのよ
「もうすぐ産まれるわ、このままいきんで!」
「うううっああ!」
トリスさんの渾身のいきみで児頭が恥骨を滑脱した。
「はい、もういきまないで!ハッハッハッと短く呼吸してみましょう」
「ハッ、ハッ、ハッ、」
素直なトリスさんのお陰で、児はくるりと回旋し、すんなり娩出した。体重二八◯◯グラムほどの可愛い女の子だ。
「ふぎゃ、ふぎゃ、ふぎゃ」
元気よく啼泣し始めた児は、トリスさんと同じ麦穂色の髪に、水色の目をしている。目を引くところに父親の痕跡がないのは幸運と言える。早産ではあるが、全身状態に異常は無さそうだ。
「頑張りましたね」
労いの言葉をかけながら、臍帯や胎盤を処理していく。通常であれば、ここで母子早期接触を行なってもらうところだが、今後の養育環境を考えると、無理強いはできない。場合によってはこのまま赤ちゃんは他所へ養子に出されるかもしれないからだ。下手に愛着形成を行うと、トリスさんが後で苦しむことになる。私が暫し逡巡していると、躊躇いがちに声がかけられた。
「あ、あの、赤ちゃん……抱っこしてもいいですか」
ハッと顔を上げると、出産後の疲労した、しかしどこか興奮した表情でトリスさんが私を見ている。
「勿論よ」
私はにっこり笑うと、赤ちゃんをトリスさんの胸に抱かせた。赤ちゃんを抱きたいという母の願いを断る理由などない。
そして、今まであえて言わなかった言葉を伝える。
「おめでとう」
その途端、トリスさんが大粒の涙を溢した。リンドラさんもくしゃくしゃになった手巾に顔を埋めている。
「ありがとうございます」
かすれたトリスさんの声は、私の胸に深く染み込んだ。
若年妊娠というハイリスクな出産であったが、トリスさんの健康にも問題は無く、可愛らしい女の子も健やかだ。どうにか出産は無事に終えたが、これからがトリスさんやそのご両親にとっては本当のスタートとなるだろう。
外はいつの間にか橙色に染まり、夕暮れを迎えていた。その温かな西陽は窓から射し込み、部屋に幸せを運び込んでいるようだ。
出産後、トリスさん達の状態が安定したのを確認して、父親のマーガスさんを呼び入れる。
男泣きするマーガスさんと固く抱き合うトリスさんに目頭を熱くして、私はそっと桃色の扉を閉めた。
私は随行していたバクシュリーさんを振り返る。私と赤ちゃんの命を救ってくれた赤毛の女性は、今では侍女見習いとして働いてくれている。本人は「私のような娼婦をお側に置くなど」と最後まで断っていたが、ロワさんの「出自など気にするな。レンに対するお前の忠誠心こそ、私の求めるものだ」という鶴の一声で採用が決まった。以前侍女のルメアさんによる私の暗殺未遂等があったため、本当に信頼できる人が近くにいてくれると心強い。
それに、私達の命を救ったバクシュリーさんの献身的な活躍は、城の人間で知らぬ者はおらず、忠義や献身と言った言葉に弱い純朴なノーグマタの人々の心を強く掴んだようだ。そのため前職が娼婦だろうとも、バクシュリーさんは尊敬を集め、職場に暖かく迎えられていた。
「バクシュリーさん、このまま救護院に行って、産婆のエビラさんに来ていただけるようお伝えください。今日は救護院に来ているはずです。それが済んだら、城に帰り、乳母のアズルさんに私が帰るまでユミールの授乳をお願いしてください」
乳母のアズルさんを雇い入れたものの、今まで私の母乳だけでなんとかやりくりしていたが、この緊急時だ、数回の授乳を代わっていただくこととした。アズルさんはユズルバさんの従姉妹で、とても温厚で誠実な女性だ。
本当ならば、私の母乳だけで育てたい気持ちはある。しかし、総督夫人として今後も側を離れなければならないこともあるだろう。一番大切なことは、ユミールが安全な環境で健康に育つことだ。
「かしこまりました」
バクシュリーさんは、護衛の騎士さんに騎獣に引っ張り上げてもらうとあっという間に来た道を戻って行った。
「トリスさんはいつ頃から痛がり始めたのですか?」
私は一階の居間で、手早くエプロンをつけながら父親のマーガスさんに訪ねた。勇猛で鳴らした騎士であるマーガスさんも、娘の絶叫に青ざめている。
「今朝早く、トリスの友人……と言っても、最近は疎遠になっていた少女達二人が訪ねて来ました。勿論トリスは部屋から出るわけもなく、結局二人にはそのまま帰ってもらうことになったのですが、手紙を一通預かりました。仲直りしたいから渡してほしいと言われ、そのままトリスに渡したのですが、その後から苦しみ始めまして……慌ててその手紙を見ますと、トリスを騙していた男は総督府を去ったと書かれていました。捨てられて残念ね、とも――」
マーガスさんの顔は苦悶に満ちて、トリスさんをこんな目に合わせた男や残酷な少女達、そして自分自身に怒りと絶望を感じているようだった。
「マーガスさん、今はトリスさんと赤ちゃんの無事を祈りましょう。信頼のおける女性に手伝いをお願いできますか?」
「はっ、はい。近所に住む姉がもうすぐ到着がすると思います」
「お姉さんがいらっしゃったら、お湯を沸かして、綺麗な布を多めに用意してもらうように伝えてください。奥様のリンドラさんは、トリスさんの側にいてもらわなければなりませんから」
「わかりました。ライナ様、娘とその子どもをよろしく……お願いします」
深々と低頭したマーガスさんの肩を力づけるようにギュッと握ると、二階のトリスさんの元へ急いだ。
「いゃぁぁぁ!痛いよぉ」
トリスさんの部屋の中では、暴れるトリスさんをお母さんのリンドラさんが必死に宥めていた。トリスさんに引っ掻かれたのか、顔や手から血が滲んでいる。窓際には水溜りがあり、寝台に向かって点々と水滴が落ちていた。この嗅ぎ慣れた匂いは羊水だろう。
「痛いよぉ、痛いぃぃ、」
未知の恐怖に恐慌状態であるトリスさんの苦しみは勿論だが、大人の悪行によって苦しむ娘を見ていることしかできない母親のリンドラさんの心痛は、計り知れない。
あなたの浅慮で妊娠したのでしょう?母親になるのだからしっかりしなさい!とトリスさんを打つべきなのかもしれない。しかし、彼女はまだ子供、悪いのはあの獣だ。
ただ、このままの恐慌状態では産めるものも産めない。信じていたテラ教徒のガイナルに去られショックを受け、思わぬ腹圧のため破水したのだろう。以前から早産の原因である絨毛膜羊膜炎の既往があったのかも知れない。そして、妊娠すら拒否しているような現状では、胎児が危険だ。
仕方がない、これを使うか
私はトリスさんに意識を集中させて、“威圧”した。今まで、聖紋を意識して使用したことなどなかったが、気持ちを込めて集中すると発動することは知っている。
「ひっ、」
私に見つめられたトリスさんは、一瞬びくりと身を震わせると、瞳に正気を取り戻した。
今だ!
「トリス、あなたはこれから赤ちゃんを産むわ。どんな経緯であれ、赤ちゃんはここで生きているの。感じるでしょう?赤ちゃんの動き、重さを。これは命の重さなのよ。赤ちゃんを無事に世界に誕生させてあげるには、トリスの協力が必要なの。どうか、どうか小さな赤ちゃんのために頑張って」
私はトリスさんの腹部に触れながら、彼女の目を見て穏やかに話しかけた。
「でも、痛いの……こんなに痛いのならもう止めたい。もう赤ちゃんいらない……」
「お産の痛みは私もよく分かるわ。でも、女性は痛くてもどうにかなったりしない。赤ちゃんを押し出すために必要な痛みだから、怖がらなくていいのよ」
「やだ、やだ、もう止めたい、赤ちゃんいなくなって欲しい……」
私の説得では彼女の心を動かすことが出来ず、トリスさんはシクシクと泣き始めてしまった。覚悟が無くてはこの先到底陣痛には耐えられない。狂乱分娩となって胎児に危険が及ぶようなら、出産が終わるまで強制的に聖紋の影響下に置くしかない。
「いい加減におし!」
バチンっと弾ける音がして、トリスさんが寝台に倒れた。ぎょっとして見ると、涙を流しなら顔を真っ赤に染めたリンドラさんがいた。
「いつまで嫌だ嫌だと逃げているの!あなたのお腹には命がいるのよ!相手がどんな男か知らないけれど、私の愛する娘の子供には変わりないわ!しっかりしなさい、あなたは母親になるのだから!」
リンドラさんの瞳は爛々と光り、トリスさんを圧倒した。いつのまにかトリスさんの涙は引っ込み、頬に赤みがさしてきている。
「そんな、だって、母さん私……よくわからない男の人と……父さんだって私を恥じて……」
「お母さんとお父さんは、いつでも、どんな時だってあなたの味方よ。あなたのためなら死ぬのも怖くない。愛しているのよ、トリス……」
そう言ってリンドラさんがトリスさんを引き寄せると、二人は滂沱の涙を流して抱き合った。その光景に、私もいつしか涙を流していた。
「ふぅーっ、ふぅー、」
「上手よトリス」
額に汗をかくトリスさんをリンドラさんが横で励ましている。一時はどうなることかと思ったトリスさんだが、母親のリンドラさんの説得により冷静さを取り戻すことができた。すれ違っていた親子の絆が再び戻ったのだ。母の愛とは本当に偉大だ。私もユミールという愛する息子がいるからよくわかる。
実際トリスさんは十三歳という若さにしては、我慢強かった。一旦覚悟を決めた彼女は、母親譲りの気持ちの強さを見せ、二度と泣き言は言わなかった。
「ふぅーうん、ふぅーうん!」
「上手よ、もう赤ちゃんの頭が冠鶏の卵ぐらい見えているわ。触れてみる?」
コクリと頷くトリスさんの手を児頭に導く。
「髪の毛が生えているの感じる?もうすぐ赤ちゃん出るからね」
「ふさふさだ」
無邪気に笑うトリスさんに目頭が熱くなる。
「さぁ、痛みが来たわね、一番痛いところでいきんでみて」
「ん……っ、うっぅぅ!」
「そうそう上手よ」
怒責をかけるトリスさんと一緒に、手を握り締めたリンドラさんも目を瞑って祈っている。
赤ちゃん、安心して出ておいで
あなたは産まれる前から愛されてるのよ
「もうすぐ産まれるわ、このままいきんで!」
「うううっああ!」
トリスさんの渾身のいきみで児頭が恥骨を滑脱した。
「はい、もういきまないで!ハッハッハッと短く呼吸してみましょう」
「ハッ、ハッ、ハッ、」
素直なトリスさんのお陰で、児はくるりと回旋し、すんなり娩出した。体重二八◯◯グラムほどの可愛い女の子だ。
「ふぎゃ、ふぎゃ、ふぎゃ」
元気よく啼泣し始めた児は、トリスさんと同じ麦穂色の髪に、水色の目をしている。目を引くところに父親の痕跡がないのは幸運と言える。早産ではあるが、全身状態に異常は無さそうだ。
「頑張りましたね」
労いの言葉をかけながら、臍帯や胎盤を処理していく。通常であれば、ここで母子早期接触を行なってもらうところだが、今後の養育環境を考えると、無理強いはできない。場合によってはこのまま赤ちゃんは他所へ養子に出されるかもしれないからだ。下手に愛着形成を行うと、トリスさんが後で苦しむことになる。私が暫し逡巡していると、躊躇いがちに声がかけられた。
「あ、あの、赤ちゃん……抱っこしてもいいですか」
ハッと顔を上げると、出産後の疲労した、しかしどこか興奮した表情でトリスさんが私を見ている。
「勿論よ」
私はにっこり笑うと、赤ちゃんをトリスさんの胸に抱かせた。赤ちゃんを抱きたいという母の願いを断る理由などない。
そして、今まであえて言わなかった言葉を伝える。
「おめでとう」
その途端、トリスさんが大粒の涙を溢した。リンドラさんもくしゃくしゃになった手巾に顔を埋めている。
「ありがとうございます」
かすれたトリスさんの声は、私の胸に深く染み込んだ。
若年妊娠というハイリスクな出産であったが、トリスさんの健康にも問題は無く、可愛らしい女の子も健やかだ。どうにか出産は無事に終えたが、これからがトリスさんやそのご両親にとっては本当のスタートとなるだろう。
外はいつの間にか橙色に染まり、夕暮れを迎えていた。その温かな西陽は窓から射し込み、部屋に幸せを運び込んでいるようだ。
出産後、トリスさん達の状態が安定したのを確認して、父親のマーガスさんを呼び入れる。
男泣きするマーガスさんと固く抱き合うトリスさんに目頭を熱くして、私はそっと桃色の扉を閉めた。
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