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九、
しおりを挟む微風が優しく吹き付ける三日月の晩。皆川綾乃は一人である場所へと歩を進めていた。
知らず知らずのうちに彼に興味を抱いていた。それが新聞記者としての職業柄からくるものなのかわからないが。
彼がやることに理解できない、というのもある。なぜ彼は飲食物、それから生活などに対し、節制し、辛いことにも耐え、見知らぬ者同士の拳の交換による闘いに、それら全てを背負って挑むのか。
だが彼からは、そんな泥臭いものに対するイメージが感じられない。自分の言いたいことを素直に、相手に伝える明るい印象、笑った時に見せる彼の白い歯、それから時折見せる繊細な表情。そんな彼と過酷な世界のボクシングとが符号しないのだ。
「中西さんの取材にきたのですが」
綾乃は十和ジムの扉を開くと同時に言った。
夜の七時。沢山の練習生がいた。汗の匂い、ワセリンの匂いに、グローブやサンドバックの革の匂い、それらが入り交じり、圧倒され、自分がちっぽけな存在に思えた。
綾乃は応接室の方へと通された。入り口に古い本棚があり、そこにはボクシングマガジンなどの情報誌がいくつも並び、本棚を埋め尽くしていた。
前方にある付けっ放しのテレビからは、先日のニュースが流れていた。足田町の下林山が映し出され、その後死亡した佐竹宣夫の顔写真、そして、中西工業の画像が放送されていた。警察によると、事件と事故の両面で捜査は進められているようで、目撃情報を募っていた。
一人でテレビを見ていると、会長であるスキンヘッドの松尾正一がやってきた。
「あいつはまだ来てないよ。もう少し待っていれば、来ると思うんだが」
「そうですか」
綾乃は訊いた。
「それでは、今のところ彼の調子はどうですか?」
松尾は腕組をし、顔を顰めた。顔は怖いが、人当たりはいい。
「うーん、悪いな。本来の調子には程遠いよ」
「それは減量苦からくるものですか?」
「ま、それも少なからず影響しているかもしれんが、なにやら他に悩みでも抱えているようなんだ」
「悩み? もしかしたら、それは家庭の事情か何かでしょうか」
「わしにはわからん。なにせ本人が何も言わんのだから」
「そうですか」
綾乃は立ち上がった。
「それはそうと、せっかくきたものですから、ジムの中を見学させてもらってもいいですか?」
「構わんよ」
綾乃は会釈をし、応接室を出た。
ジム内はまるでライブコンサートのように大きな音楽が流れていた。
その音楽の音の間を縫い、シュ、シュ、シュ、という気合のこもった息を発し、練習に励む若者たちの姿がある。
ほんと若いな、素直にそう思った。そんな彼らに圧倒されると、自分がえらく年を取ってしまったように思え、少しだけ肩を竦ませた。
最少は知らなかったが、取材を重ねた今ではわかる。彼らには大なり小なりの夢がある。
だからあんなにきつく、過酷な練習に、嫌な顔もせず、もくもくと打ち込むことが出来るのだ。
人が疲れた、と感じる時はなにも体力のある、なしだけでは図れないような気がする。
好きなことをしている時は、どんなにエネルギーを消費しようが、体が疲労を感じない。
最も年を取っていれば、それが後からくるのかもしれないが、彼らは若い。
ボクシングというのは夢や達成感のために、本能の赴くままに行う清々しいもの。だからここにいるだけで新鮮な気持ちになり、自分も一緒に頑張らなくては、と思うようになる。
自分でも気づかぬうちに、サンドバックの前に立っていた。隣に男がいるが、彼の叩いている様を眺めると、連帯感とでもいうのか、同じように叩いてみたくなるから不思議だ。
自分の世界に入り込み、我を忘れるほどに熱中できるもの。それがボクシングだ。
そっとサンドバックに手を添えてみた。堅くてザラザラとしていた。これに向かっていつも中西英二は殴っている。
彼は何を思い、殴っているのか。知りたいと思った。
そして、綾乃はボクサーのようにして構え、それからパンチを二、三発出してみた。パシンという微かな音しか出ず、隣の男のようにはいかない。
もう少し腹に力を入れて殴ってみる。ポン、ポン、パーンと、三発目に少しだけ重い音がした。
腹の奥底に響く音。その感触が何ともいえず、続け様にパンチを出していた。
いつも、彼氏はできたの、と聞いてくるしつこい笑みを浮かべる同僚の顔、事あるごとに小言をいう上司の勝田の顔をサンドバックに見立て、これでもかというほどにパンチを繰り出すと、気分がすーっとして、気持ちが良かった。
これだ、これなんだ。この開放感にも似た感情がきっと彼を突き動かすのかもしれない。
止められない。酒や煙草が辞められないように。いや、全ての欲求でも追いつかないほどの卓越した、違う世界がここには存在しているように思えた。
―そんな時。
「素手で殴るもんじゃないよ」
と隣の男が声を掛けてきた。
背が高く、体格のがっちりとした男だった。
ハァッハァッハァッ・・・・・・。自分が随分と息を荒げていることに気づき、驚く。
知らず知らずのうちにのめり込んでいたようだ。体の中に溜まっていたものが何なのかわからなかったが、全て出し切ったようで、スッキリとしたが、自分の拳を見ると赤く、ヒリヒリとしていた。
「痛いわ」
綾乃は、男の顔を見た。
「あなたはプロ? それとも・・・・・・」
「いや」
「じゃ、健康を考えて運動をするだとか、ストレス発散とか、何の目的があってボクシングをしているの?」
隣の男は手を止め、綾乃の顔を見てから、少し考える素振りを見せた。
「そんなこと、考えたこともないな」
なんとなく陰があり、威圧感を感じる。笑っているようでも、目だけは笑っていない。
こういう人間は苦手だ。何を考えているのかわからない。腹の中に何か隠しているものがあるような、そんな人間だ。
「そう」
綾乃はとりあえず笑みを浮かべておく。
「こうやってサンドバックを叩くと、気持ちがいいわね。ところで、あなたのお名前は? 訊いてもいいかしら」
「後藤、後藤義信」
「後藤?」
ゾクッときた。
背筋が冷やりとした。ナイフを当てられているような、そんな感覚がした。
「何か?」
彼は不審な目つきを返した。
「いえ、別に・・・・・・」
やはりそうだ。なぜかはわからなかったが、それは予期していたことのような必然、あるいは電信柱に頭をぶつけた時のような偶発的なものではあったが、結局のところ、起きるべくして起きたような気もする。
「あ、私は、新聞記者をしている者ですが、」
「新聞記者?」
「東海新聞です。あ、そうそう」
綾乃は、ポケットから名刺を一枚取り出し、そして言った。
「中西さんについて、知っていることがあれば、なんでもいいから教えて下さい」
義信はその名刺を、不思議そうに、しげしげと眺めた。
「何で、俺に訊くの?」
「いえ、あ、中西さんの現在の体調とか、今度の世界戦の展望だとか、ああ、身近な所なんかも知りたいので・・・・・・」
「俺は、よく知らない。彼の練習を見てるわけでもないからね。コーチにでも訊いた方が確かだし、身近な所も、他の人に訊いた方がいいよ」
「有難う。そうするわ」
綾乃は徐々にサンドバックから離れた。
「じゃ、何でもいいから、気が向いたら、電話でもかけてね」
「何で?」
義信は不機嫌そうに答えた。
微妙な空気が漂った。それで彼との間に厚い壁があるのを感じた。
その場には足を踏み入れてはならない、そんな壁でもあるかのように。
他の練習生を見ているフリをしながら、ずっと彼を見ていた。
左構えのサウスポー。中西英二と一緒だ。やはり、同じ血が流れているのだろうか。
彼の打つパンチはサンドバックを大きく揺らし、時折打つ思い切ったパンチは、そのバックを上下に揺らすほどに強いパンチ力を持っていた。
そして、彼の優雅なバランスの取れたフットワークからは、中西英二に劣らぬ才能を感じ、本気になればプロにでもなれたろうに、なぜそれを目指さないのか。
義信と目が合った。
冷たい氷のような目。
その冷たい目からは、何の表情も読み取れない。何を考えているのかわからない無表情の目だった。
「あなた、プロでもやっていけるんじゃない」
綾乃は思わず訊いていた。
「その気はないの?」
だが義信は、何も答えない。しばらく綾乃を眺めているだけだった。こっちを見ているはずが、こっちではない、そう、何処か遠くを見るような目だ。
しばらくしてから綾乃は応接室に向かった。中に入ると、会長が慣れない手つきでパソコンをいじっていた。綾乃は、それを見ながらソファに腰掛けた。
「まだいたのかい?」
松尾が気づき、視線を向けた。
「ええ」
綾乃は立ち上がって、松尾に近づいた。
「会長、あの後藤とかいう人のことについて、ちょっと訊きたいのですが・・・・・・」
会長に後藤のことについて二、三話しを訊いていると、ジム内がザワザワとし、活気ついていることに気づいた。
中西英二がジムに顔を見せたようだ。綾乃は部屋から出て、リングに視線を送った。
そこには誰とも違う、一際目立つ一人のボクサーがいた。英二は優雅に弾み、膝を折り曲げ、屈伸し、フットワークを使い、サークリングしながら体を解していく。まるで黒豹が獲物を獲る前の準備運動のように。
引き締まった体に、顔の表情。やはり他の誰よりも違った。オーラ―を纏っている。何といっても華があった。そのためか他の練習生たちも中西にリングを譲る。そして、多くの者が下から英二の動きに、羨望の眼差しを向けている。
無駄のない滑らかな動きに、スムーズな身体のシフト移動。そこから、鞭のようにキレのある強いパンチが出される。
空気を切り裂く音。そして、風車のような回転の速い、リズミカルな連打が繰り出されたところで、ラウンド終了のゴングが鳴った。
三ラウンドのシャドーだけで、汗が滴り落ち、サウナスーツに滲んでいた。英二は汗を拭くでもなく、リングから降り、サンドバックの方へと向かった。
義信は今まで叩いていたサンドバックから離れることなく、インターバル中でも、無心になって叩いていた。このサンドバックはウオーターバックで、拳に優しく、人気のバックである。
ボム、ボムと鈍い音を出しながら、バックを上下、左右に揺らせた。まるでその赤いウオーターバックが義信に嬲り殺されるかのようだった。そんな時だ。
「ごめん」
英二が、義信の背中に声を掛けた。
「ちょっとそのバックが打ちたいんだ」
「は?」
義信はバックを打つ手を止め、後ろを振り返った。そこには額に汗を浮かべた中西英二の姿があった。
お互いの強烈な視線。バチバチと電流が流れるような鋭い視線の交差は、他をも寄せ付けない凄みを感じた。
「早く打たないと、汗が冷いちゃうんだ」
「他のが、あるじゃないですか」
義信の言ったように、隣に二つのサンドバックがある。
「いや、ウオーターバックはそれしかないから・・・・・・」
英二が言った。
義信は思った。
こないだ空港で会ったはずだが、それを微塵も見せない。いや、気づいていないのか。恐らく、今の彼は、それ程集中しているのだろう。
「君、中西は試合を控えているんだ。悪いが譲ってくれないか」
応接室から会長が出て来て、義信に言った。
「砂のバックを叩いて、拳を痛めたら元も子もないだろ。減量中は手首も弱っていて、痛める可能性もあるんだから」
一瞬、微妙な空気が二人の間に流れた。
仕方なく義信はそのバックから離れた。そして、俯いたままタオルで汗を拭き、やや肩を怒らせながら、奥にある更衣室にずかずかと入っていった。
そして、バンテージを解き、着替えを始めた。物事で一番、自分が集中している時に止めらられることが、俺は一番気に食わない。
ここにも、もう来ることはないだろう。正直、未練はあるかもしれない・・・・・・。だが本当なら、警察が来たこの日に、こんな所になんか来るべきではなかったんだ。そうしていれば気分を害することもなかった。
進むしかない。俺には、戻る所がないのだから。そう、俺の居場所はもう、何処にもないんだ。
ジムの中は、ズンズンと腹に響く、大きな音楽が流れていた。激しい練習の音が響き、活気に満ちていた。吐き出す息使いに、サンドバックを打つ音、ロープを飛ぶ音に、コーチの怒鳴り声。
だが、この更衣室は、違う空間にいるかのように静かだった。もうこれらの音を聞くこともないだろう。
着替えを終えた義信が更衣室から出てくると、一瞬静まりかけた。
その時にまた彼と目が合った。自然と綾乃は二、三歩前に出ていた。
「待って」
そして、声を掛けていた。
「話しを訊かせてもらいたいことがあるの」
「断る」
「今日でなくてもいいから」
義信はいそいそと、玄関で自分の靴を履き、そして、扉を強い力で閉めて、外へ出た。バターンという音と共に練習生が一瞬、その扉に視線を送るが、すぐにいつもの音が戻って来て、何事もなかったように練習は続けられる。
綾乃は、しばらくその扉から目が離せなかった。
その扉を開けば、それはこの場には存在しないものであるかのように無が広がる世界。
あるいは冷たくて、身を凍えさす、そう、そこは永遠に続く氷の上が広がる道なのかもしれないのだから。どちらにしろ、その先の道には、いいことなど待ってはいない。
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