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誓いのキス
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壁の向こうからテレビの音や笑い声が聞こえてくる。色々な音がするのだ、水道から水が流れ出る音も聞こえるし皿を洗っているような音や、荒々しく戸を閉める音、どすどすといった足音などもしっかりと響いてくる。これが集合住宅なんだなと思った。人が近い。
これが耳に入ってくる毎日を崢は送っているわけだがもう慣れきっているのだ、どうということもないさまでただ窓から入り込む風を浴びていた。風には潮の香が含まれていた。海が近いのだ。がさつと描写できる住民達の生活音にかき消されて波の打ち寄せる音などは聞こえない、しかしながら静寂に包まれればきっと聞こえてくるであろう。海はすぐそこにあった。
「髪伸びたな」
不意に言われた。手当ては終わっていた。その切れ長の目が水槽のライトに照らされながら篤史を真っすぐに見ていた。それは静かに笑っていた、そして言葉はこれまでも交流のあった者に対するものであった。野球部を引退してから確かに髪が伸びたがそれは崢も同じで、篤史が感じていたことと同じことを崢も感じていたのだなと思った。
確かにグラウンド上では関わりがあったのだ、その存在は痛いものであった。目の上のたんこぶだな、と監督に言われた。ライバルだったわけだ。篤史はひたすらに直球の精度を上げることに重点を置き、その間に崢は変化球の数を増やして磨きをかけ、タイプの全く異なるエースとして試合で幾度もぶつかってきた。
「なんで兄ちゃんはさ、変化球を」
すんなりと目的語が出ずに口を閉ざす結果となった。なぜ兄は崢に変化球をいくつも仕込んだのかと聞きたかったわけだが崢を何と呼べばいいか思いあぐねた。名を呼んだことがなかったのだ。野球部の仲間内では桐原と呼び捨てしていたがいきなりそうも呼べず、桐原くんとか崢くんとも呼べなかった。
「立派になったよな、変化球の魔王だ」
頬などを掻きながら篤史は言った。
「俺には異名がない。大したもんだよ」
「嫌味なあだ名だ。嬉しくもない」
目の前で魔王は救急箱の中の整理を始めた。ベッドの上で片足を立て、退屈そうに。窓の外から何やら妙な歌声が聞こえてくれば、なんであんなに音痴なんだ、そうぼやいた。
手当ては済んだ。帰らなければならないのだろう。だがベッドの上から足は動かなかった。まだ聞きたいことがあった。
「なんで危険球を投げてきた。続けて三球もさ」
崢の目が篤史の目を見る。
あえて危険球と描写した。崢の反応を見たかった。初めて対峙した時のあの球を崢自身がどう思っているのか、どんな思いを抱いて投げたのか、自分はずっと聞いてみたかったのだとこの時気づいた。
「プロの選手だったらキレて乱闘になってたかもしれない。選手生命が脅かされるってさ」
篤史の言葉に崢の目が笑う。唇も笑った。綺麗に並んだ白い歯が覗いた。
「ありゃ危険球じゃねえな。ただのカーブだ」
唐突な質問であったし端的過ぎる言葉であったが通じたようだ、崢はさらりと答えた。自身の投げたあの魔球すら何でもないものであるかのように、実にさらりと。
「ただの挨拶だよ、先生の大事な弟を怪我させたりはしない」
篤史の兄を先生と呼び、崢は笑う。凄まじく曲がったあの魔球をただのカーブ、ただの挨拶だと言った。
その右腕が目の前にあるのである。篤史をたじろがせた魔球、それを作り出すもととなった右腕が、ここに。
やはり思うのである。兄はなぜ崢にだけあんな球を教え込んだのか。教えられた通りに投げることのできた崢をこそ褒めるべきなのかもしれない、しかし自分だって教えてもらえばその通りに投げることができるはずだ。そうして異名を手にする。誇り高き異名、あのとんでもない魔球。しかしながら崢本人は異名を嫌がり、篤史の欲してやまない魔球をさえもただのカーブだと言って実に飄々としているのである。
ああ、これだ、と篤史は思った。崢との初めての十八・四四メートル、三球三振に終わったあの打席で覚えた煮えたぎるほどの苛立ち、その正体、それは崢のこの涼し過ぎるさまによるものだったのだ、そう思った。
兄は感情を丸出しにするのを好まない。常に冷静沈着でいろ、喜ぶなら胸の内で喜べ。きっとその教えを吸収したのだ、だから崢は感情をあらわにすることがないのだ。崢は兄の作品であった。傑作だった。兄としても満足しているのが計り知れた。試合に勝った後、崢の姿を眺めながら微笑んでいるのがその証拠であった。
いつだったか兄に聞いたことがある。自分の率いるチームが勝つのと、敵チームの弟が勝つの、どちらが嬉しいか。自分のチームが負けるのと、敵チームの弟が負けるの、どちらが悲しいか。
兄はしばし沈黙していた。それから、妙なことを聞くんだなと言って苦そうに笑った。その笑みに苛立ったのを覚えている。兄を見据えて篤史はたたみかけた。単刀直入に聞く、そう言った。あいつと俺、どっちが優秀なピッチャーだと思う?
名前を出さずともすぐに通じた。あいつ、で通じた。しかしながらまたも兄は答えなかった。穏やかに笑って、おまえは特別だよ、と言った。
実に曖昧な返答であったがその次に兄の口から出てきた言葉達に篤史は満足する結果となった。おまえは野球に選ばれたんだ、と兄は言った。覚えてるか、おまえは妙な子供だったんだよ。ボールから声がするって言っていた。家族で出かけた時なんかはボールを手に持ったまま急に泣きだしてな、練習しないとボールに怒られる、って言ってな。ボールが怒ってる、って。友達を作りもせずに毎日、取りつかれたように練習してな。変わった子だった。だから兄ちゃんは思ったんだよ。もしかしたらこいつは俺よりすごい奴になるかもしれない。本物かもしれない。本気で育てないといけない。俺にはその使命があると。兄ちゃんはそう思ったんだ。
一文字一句、きっと忘れることはない。兄から受けた柔らかな抱擁も、しかしながら確かな腕力も硬い胸筋の感触も。兄ちゃんの前じゃデレッとした顔して、いい加減にブラコンを直しなさい、と母親は眉間に皺を寄せて篤史に言い、弟は文句を垂れた。おお兄ちゃんさあ、ちい兄ちゃんと俺に対する態度が全然違うよな、俺のほうが小さいんだけど? 普通、逆じゃねえの? と。兄との抱擁を母親や弟に見られたわけだ、非常に恥ずかしかったわけだが同時に篤史はボールから声がする事実を彼らに打ち明けることもなかった。
これが耳に入ってくる毎日を崢は送っているわけだがもう慣れきっているのだ、どうということもないさまでただ窓から入り込む風を浴びていた。風には潮の香が含まれていた。海が近いのだ。がさつと描写できる住民達の生活音にかき消されて波の打ち寄せる音などは聞こえない、しかしながら静寂に包まれればきっと聞こえてくるであろう。海はすぐそこにあった。
「髪伸びたな」
不意に言われた。手当ては終わっていた。その切れ長の目が水槽のライトに照らされながら篤史を真っすぐに見ていた。それは静かに笑っていた、そして言葉はこれまでも交流のあった者に対するものであった。野球部を引退してから確かに髪が伸びたがそれは崢も同じで、篤史が感じていたことと同じことを崢も感じていたのだなと思った。
確かにグラウンド上では関わりがあったのだ、その存在は痛いものであった。目の上のたんこぶだな、と監督に言われた。ライバルだったわけだ。篤史はひたすらに直球の精度を上げることに重点を置き、その間に崢は変化球の数を増やして磨きをかけ、タイプの全く異なるエースとして試合で幾度もぶつかってきた。
「なんで兄ちゃんはさ、変化球を」
すんなりと目的語が出ずに口を閉ざす結果となった。なぜ兄は崢に変化球をいくつも仕込んだのかと聞きたかったわけだが崢を何と呼べばいいか思いあぐねた。名を呼んだことがなかったのだ。野球部の仲間内では桐原と呼び捨てしていたがいきなりそうも呼べず、桐原くんとか崢くんとも呼べなかった。
「立派になったよな、変化球の魔王だ」
頬などを掻きながら篤史は言った。
「俺には異名がない。大したもんだよ」
「嫌味なあだ名だ。嬉しくもない」
目の前で魔王は救急箱の中の整理を始めた。ベッドの上で片足を立て、退屈そうに。窓の外から何やら妙な歌声が聞こえてくれば、なんであんなに音痴なんだ、そうぼやいた。
手当ては済んだ。帰らなければならないのだろう。だがベッドの上から足は動かなかった。まだ聞きたいことがあった。
「なんで危険球を投げてきた。続けて三球もさ」
崢の目が篤史の目を見る。
あえて危険球と描写した。崢の反応を見たかった。初めて対峙した時のあの球を崢自身がどう思っているのか、どんな思いを抱いて投げたのか、自分はずっと聞いてみたかったのだとこの時気づいた。
「プロの選手だったらキレて乱闘になってたかもしれない。選手生命が脅かされるってさ」
篤史の言葉に崢の目が笑う。唇も笑った。綺麗に並んだ白い歯が覗いた。
「ありゃ危険球じゃねえな。ただのカーブだ」
唐突な質問であったし端的過ぎる言葉であったが通じたようだ、崢はさらりと答えた。自身の投げたあの魔球すら何でもないものであるかのように、実にさらりと。
「ただの挨拶だよ、先生の大事な弟を怪我させたりはしない」
篤史の兄を先生と呼び、崢は笑う。凄まじく曲がったあの魔球をただのカーブ、ただの挨拶だと言った。
その右腕が目の前にあるのである。篤史をたじろがせた魔球、それを作り出すもととなった右腕が、ここに。
やはり思うのである。兄はなぜ崢にだけあんな球を教え込んだのか。教えられた通りに投げることのできた崢をこそ褒めるべきなのかもしれない、しかし自分だって教えてもらえばその通りに投げることができるはずだ。そうして異名を手にする。誇り高き異名、あのとんでもない魔球。しかしながら崢本人は異名を嫌がり、篤史の欲してやまない魔球をさえもただのカーブだと言って実に飄々としているのである。
ああ、これだ、と篤史は思った。崢との初めての十八・四四メートル、三球三振に終わったあの打席で覚えた煮えたぎるほどの苛立ち、その正体、それは崢のこの涼し過ぎるさまによるものだったのだ、そう思った。
兄は感情を丸出しにするのを好まない。常に冷静沈着でいろ、喜ぶなら胸の内で喜べ。きっとその教えを吸収したのだ、だから崢は感情をあらわにすることがないのだ。崢は兄の作品であった。傑作だった。兄としても満足しているのが計り知れた。試合に勝った後、崢の姿を眺めながら微笑んでいるのがその証拠であった。
いつだったか兄に聞いたことがある。自分の率いるチームが勝つのと、敵チームの弟が勝つの、どちらが嬉しいか。自分のチームが負けるのと、敵チームの弟が負けるの、どちらが悲しいか。
兄はしばし沈黙していた。それから、妙なことを聞くんだなと言って苦そうに笑った。その笑みに苛立ったのを覚えている。兄を見据えて篤史はたたみかけた。単刀直入に聞く、そう言った。あいつと俺、どっちが優秀なピッチャーだと思う?
名前を出さずともすぐに通じた。あいつ、で通じた。しかしながらまたも兄は答えなかった。穏やかに笑って、おまえは特別だよ、と言った。
実に曖昧な返答であったがその次に兄の口から出てきた言葉達に篤史は満足する結果となった。おまえは野球に選ばれたんだ、と兄は言った。覚えてるか、おまえは妙な子供だったんだよ。ボールから声がするって言っていた。家族で出かけた時なんかはボールを手に持ったまま急に泣きだしてな、練習しないとボールに怒られる、って言ってな。ボールが怒ってる、って。友達を作りもせずに毎日、取りつかれたように練習してな。変わった子だった。だから兄ちゃんは思ったんだよ。もしかしたらこいつは俺よりすごい奴になるかもしれない。本物かもしれない。本気で育てないといけない。俺にはその使命があると。兄ちゃんはそう思ったんだ。
一文字一句、きっと忘れることはない。兄から受けた柔らかな抱擁も、しかしながら確かな腕力も硬い胸筋の感触も。兄ちゃんの前じゃデレッとした顔して、いい加減にブラコンを直しなさい、と母親は眉間に皺を寄せて篤史に言い、弟は文句を垂れた。おお兄ちゃんさあ、ちい兄ちゃんと俺に対する態度が全然違うよな、俺のほうが小さいんだけど? 普通、逆じゃねえの? と。兄との抱擁を母親や弟に見られたわけだ、非常に恥ずかしかったわけだが同時に篤史はボールから声がする事実を彼らに打ち明けることもなかった。
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