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ん? と俺は聞き返す。少年は笑っていた。笑いながら言った。
「おまえは毎朝、花壇の花に水をやっていた。みんなで大事に育てましょうとか何とか言いながら誰も世話をしなかったのにな、おまえだけはせっせと世話を焼いていた。それから、」
少年は続ける。夕焼け色に染まりながら。静かな目を静かに笑わせながら。
「あほな俺に算数を教えてくれた。あ、コッペパンを半分分けてくれたこともあったな」
花だの算数だのコッペパンだの、どうやら小学校の話のようであるが何のことか分からぬまま少年の話は進み、
「最後にもうひとつ」
と彼は言った。
「おまえに助けてもらったことがある」
ひっひっと少年は変なふうに笑っている。
「俺をボコった連中をな、おまえは撃退したんだよ。輪ゴムでな、輪ゴム。あれはまさしくピストルだったな」
窓の外から入り込む風が少年の髪を揺らす。
「その後、怪我した所に消毒液を塗ってくれた。俺は覚えている」
なんとなくその瞳は灰色に見えた。ごちゃごちゃと物に埋め尽くされた床、蜘蛛の巣の垂れ下がった天井、夕暮れ時になろうかというのに親の気配のない部屋。そこに存在する一人の痩せた少年。灰色の瞳の、得体の知れぬ――
「名前を聞けば思い出すよ」
なおも名を聞きたがる俺に、
「頑張って思い出すことだな」
少年は答えなかった。
突如として電子音が鳴り響く。俺のポケットの中でスマートフォンが鳴いていた。GPSの仕込まれたスマートフォンだ、やがてここへ父親が現れるであろう。俺は立ち上がっていた。父親に見られてはならぬと本能的に思ったのであろう、このお化け屋敷のようなアパートにいるところを、ゴミ溜めのような部屋にいるところを、この少年と共に過ごしているところを。
またな、と少年は言った。床にあぐらをかいたままそう言った。言われて俺はふと思う、そういやこいつは俺から金をむしらない。
少年は少し笑っていた。しかしながらその目は遠くにあるかに見えた。
またな、と俺も言った。ありきたりの言葉だった――またな。
ここに来ればまた会えるわけだ、その訳の分からぬ花やら算数やらコッペパンやら輪ゴムピストルやら消毒液やらの謎も紐解けるであろう。
だから言ったわけだ、またな、と。しかしながらそれ以降、俺は彼に会うことはなかった。
めちゃくちゃアバウトだな、と友は言う。確かにアバウト過ぎるのだ、しかしながら俺の記憶の中に残るあいつはあまりにも強烈だった。
知らねえよ、そんなやばそうな奴。笑いながら友は言う。おまえの幻覚じゃねえのか、と。
幻覚であるわけがないのだ、だから俺はむきになって言った。あいつとは同級生だったらしい。細っこくて、一重瞼の、薄ぼんやりとした奴で、のんびり喋る。頭が悪くてボコられてた奴だ。卒アル見ても、どいつも違う。だからおい、思い出せよ、おまえ覚えてるだろと。
知らねえよ。友は笑う。もはや呆れて、もはや幼稚園児の相手をするかのごとく。
友は小学、中学と、俺と時を共にしてきたが俺と同じく何も覚えていなかった。
あれからテストや試合が続き、少年のアパートに行くこともなく時が経過していた。急に思い立ってアパートに行ったあくる日、少年が行方をくらましたことを知った。少年のいた部屋には別の人が住んでいた。アパートの住民達や不動産にまで問い合わせたが彼らが少年の行方など知るはずもなかった。
おまえはさ。友は言う。何ゆえそこまで躍起になってそいつを追いかけてるんだよ、と。
何ゆえ? 分からない。助けてもらったこと、傷の手当てをしてもらったことの礼を言っていなかったからか、それとも過去に知り合った者の中のどいつであるのか突き止めたいとの思いでもあるのか。いや――凪のように笑ったあの目にもう一度会いたいとでも思っているわけか。
雑踏の中に、あいつを見る。あの日と同じ夕焼け色だ――どっぷりと染まったオレンジの空に溶け込んで輪郭はぼやけてあやふやだった、しかしながら俺は駆け出した。
人と人の間を縫い、俺はあいつを追いかける。今こそ、絶対、捕まえる。
完
「おまえは毎朝、花壇の花に水をやっていた。みんなで大事に育てましょうとか何とか言いながら誰も世話をしなかったのにな、おまえだけはせっせと世話を焼いていた。それから、」
少年は続ける。夕焼け色に染まりながら。静かな目を静かに笑わせながら。
「あほな俺に算数を教えてくれた。あ、コッペパンを半分分けてくれたこともあったな」
花だの算数だのコッペパンだの、どうやら小学校の話のようであるが何のことか分からぬまま少年の話は進み、
「最後にもうひとつ」
と彼は言った。
「おまえに助けてもらったことがある」
ひっひっと少年は変なふうに笑っている。
「俺をボコった連中をな、おまえは撃退したんだよ。輪ゴムでな、輪ゴム。あれはまさしくピストルだったな」
窓の外から入り込む風が少年の髪を揺らす。
「その後、怪我した所に消毒液を塗ってくれた。俺は覚えている」
なんとなくその瞳は灰色に見えた。ごちゃごちゃと物に埋め尽くされた床、蜘蛛の巣の垂れ下がった天井、夕暮れ時になろうかというのに親の気配のない部屋。そこに存在する一人の痩せた少年。灰色の瞳の、得体の知れぬ――
「名前を聞けば思い出すよ」
なおも名を聞きたがる俺に、
「頑張って思い出すことだな」
少年は答えなかった。
突如として電子音が鳴り響く。俺のポケットの中でスマートフォンが鳴いていた。GPSの仕込まれたスマートフォンだ、やがてここへ父親が現れるであろう。俺は立ち上がっていた。父親に見られてはならぬと本能的に思ったのであろう、このお化け屋敷のようなアパートにいるところを、ゴミ溜めのような部屋にいるところを、この少年と共に過ごしているところを。
またな、と少年は言った。床にあぐらをかいたままそう言った。言われて俺はふと思う、そういやこいつは俺から金をむしらない。
少年は少し笑っていた。しかしながらその目は遠くにあるかに見えた。
またな、と俺も言った。ありきたりの言葉だった――またな。
ここに来ればまた会えるわけだ、その訳の分からぬ花やら算数やらコッペパンやら輪ゴムピストルやら消毒液やらの謎も紐解けるであろう。
だから言ったわけだ、またな、と。しかしながらそれ以降、俺は彼に会うことはなかった。
めちゃくちゃアバウトだな、と友は言う。確かにアバウト過ぎるのだ、しかしながら俺の記憶の中に残るあいつはあまりにも強烈だった。
知らねえよ、そんなやばそうな奴。笑いながら友は言う。おまえの幻覚じゃねえのか、と。
幻覚であるわけがないのだ、だから俺はむきになって言った。あいつとは同級生だったらしい。細っこくて、一重瞼の、薄ぼんやりとした奴で、のんびり喋る。頭が悪くてボコられてた奴だ。卒アル見ても、どいつも違う。だからおい、思い出せよ、おまえ覚えてるだろと。
知らねえよ。友は笑う。もはや呆れて、もはや幼稚園児の相手をするかのごとく。
友は小学、中学と、俺と時を共にしてきたが俺と同じく何も覚えていなかった。
あれからテストや試合が続き、少年のアパートに行くこともなく時が経過していた。急に思い立ってアパートに行ったあくる日、少年が行方をくらましたことを知った。少年のいた部屋には別の人が住んでいた。アパートの住民達や不動産にまで問い合わせたが彼らが少年の行方など知るはずもなかった。
おまえはさ。友は言う。何ゆえそこまで躍起になってそいつを追いかけてるんだよ、と。
何ゆえ? 分からない。助けてもらったこと、傷の手当てをしてもらったことの礼を言っていなかったからか、それとも過去に知り合った者の中のどいつであるのか突き止めたいとの思いでもあるのか。いや――凪のように笑ったあの目にもう一度会いたいとでも思っているわけか。
雑踏の中に、あいつを見る。あの日と同じ夕焼け色だ――どっぷりと染まったオレンジの空に溶け込んで輪郭はぼやけてあやふやだった、しかしながら俺は駆け出した。
人と人の間を縫い、俺はあいつを追いかける。今こそ、絶対、捕まえる。
完
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