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陰の章

信玄暗殺計画

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永禄八年(1565年)、この頃の武田は北条の要請に従い、上野に侵攻していた。越後の上杉輝虎てるとら(永禄四年末に将軍・義輝から偏諱へんきを受け【政虎】から改名)の関東侵攻を阻むためである。

「先の関白、近衛前久公と手を組んでおるようですな」
「朝廷の権威復活と幕府による大名の掌握、か……」
「今更ですな」
「公方様の旗色も悪い」
「では、いよいよ……」

信玄は頷いた。この頃には信之に任せた鉄砲隊も確実に腕を上げ、戦場での成果が期待出来るほどに仕上がっていた。それだけではない。コナーとユアンによる重騎兵の育成も行われ、武田の軍事力はかなり上がってきていた。

「しかし、馬の代わりに牛を用いるとは……」
「その昔、木曽義仲は牛の角に松明をくくりつけ、倶利伽羅くりからとうげで平家を打ち破ったとあります」
「そうだな。そういう意味では理に適っておる」
「あとは、それを乗りこなす者を如何に育てるかでございましょう」

その場に居合わせた一同は皆頷いた。
今、海野と諏訪では牛に鉄の鎧を着せた軍団の編成と訓練を行っていた。それはコナーたちの八幡原での奮戦ぶりに感銘を受けたからである。だが、この地で彼らが連れている馬を繁殖・飼育させるには時間がかかる。そこで、農耕用に飼育されている牛に目を付け、重騎兵として用いられるように訓練しているのだ。

「槍も矢も通さぬ一団なれば、勝敗はあっという間に決しましょう」
「その通りだ。信親、頼貞。引き続き重騎兵の育成を頼む」
「「ハッ」」



五月に入り、京で事件が発生する。後に【永禄の変】と呼ばれるそれは、三好三人衆と松永久秀による将軍・足利義輝の殺害事件であった。

「公方様が殺された!?」
「はい。松永らが清水寺参詣を名目に集めた一万の軍勢で二条御所に攻め寄り、公方様も応戦されました。ですが、多勢に無勢。最後は呆気なく討ち取られたとのことです」

信玄は勘助率いる素波すっぱの一人からそう報告を受け、黙りこくった。その場にいた義信たちも言葉を無くしている。

「まずいな」
「父上?」
「我らは未だ上洛に向けての準備が出来ておらぬ」
「確かに……」
「松永たちを逆賊として討ち果たすとげきを飛ばすことも出来るが、如何せんこの甲斐からでは遠すぎる」

その言葉に義信だけではなく、飯富虎昌・昌景兄弟、工藤昌秀、馬場信房らも言葉無く俯いた。

「何か手を考えなくては……」
「恐れながら申し上げます」

そう言って進み出たのは穴山信君だった。信玄の娘婿でもある信君のぶただの穴山家は駿河に近い領地を持つため今川との連絡役でもある。

「これを機に駿河へ進出してはどうでしょうか?」
「駿河へか……」

それは信玄も考えていたことである。だが、今川は先代・義元の代からの同盟がある。現当主の氏真は実の甥であり、嫡男・義信にとって義兄だ。更に家臣の中にも信今川派は多い。おいそれと決断出来ることではなかった。

「おいそれと同盟を反故ほごにする訳にもいかぬ」
「ですが、放っておけば松平にかすめ取られます」
「信君! それでは武田は信義にもとるとそしられる」

信君の言葉に真っ先に食ってかかったのは義信だった。元来の一本気な性格から受け入れられないと思ったのだろう。眉をつり上げ、怒りを露わにしている。

「義信、落ち着け」
「ですが!!」
「信君は一つの策を提示したに過ぎぬ」
「……」
「今日はここまでとしよう」

信玄が評定を解散させた。それでも義信は納得がいかない様子で座り続けたのだった。

「兵部、義信のこと頼む」
「お任せ下さい」

信玄は後のことを虎昌に託し、奥へと引き上げた。



その夜、信玄は直見の元を訪れる。彼女の父・禰津元直の【組】が何か掴んでいないかを確かめるためだ。

「今宵は絵里殿の番でございましょう」
「儂がここに来た理由など分かっておろう」
「まぁ、そうですね」

直見は肩をすくめてみせる。

「それで、何か掴んでいるのか?」
「今川は内部から崩壊しかかっております」
「なに?」

禰津組が掴んでいたのは今川の現状であった。
現在の当主・氏真は父・義元の急死により全権を引き受けることになった。家督そのものはそれ以前に継いでいたが、全権を掌握した訳ではなかった。
そこを突いて独立したのが三河の松平元康だ。彼は三河一国を既に纏め上げ、今は遠江を獲らんとしていた。

「遠江は義元様家督継承を反対していた者が多く、そのため粛清の嵐となっておるとか……」
「そのような惨いことを誰が?」

信玄はハッとした。そのような非道なやり口を平然と行う者が今川に一人いることを思い出したのだ。直見は言わずとも分かっているように頷く。

「以前、父上から忠告されたことがある」
「信虎様からでございますか?」
「うむ。父上は【寿桂尼には気をつけよ】と知らせてきたのだ」
「まぁ」
「だが、その頃の儂は信濃進攻を第一と考えておった。それ故、すっかり忘れておったわ」
「このまま粛清の嵐が続けば、駿河からも離反する者が現れましょう。穴山殿が献策されたのはそれを踏まえた上でのことかもしれませぬ」
「で、あろうな」

直見の言葉に信玄も同意する。
信玄はその場に胡座を掻き、思案する。その時、不意にあることを思いだした。それは甲相駿三国同盟がなったあの善徳寺の会盟の後の出来事だ。

(氏康殿とのあの密約。仕掛けるのは今かもしれん)

信玄はニヤリと唇の端を上げた。それを見て直見がそっと近づき、頬に口づける。

「何か悪いことを考えておいでですね?」
「ハハハ、儂は悪党ゆえに」
「まぁ」

信玄は直見を抱き寄せ、唇を重ねる。
今宵は絵里と閨を共にしたかったが、月の物が始まったというので諦めた。だが、直見が代わりに共にしてくれるというのであれば、それも良いだろうと思い直した。信玄は彼女の裾をはだけ、露わになた太股を撫でる。

「折角じゃ。楽しませてくれ」
「御館様……」

直見もそれに答えるように信玄の股間に手を伸ばした。
と、その時。
開かぬはずの戸が開け放たれた。それも、とてつもなく大きな音を立てて……。

「随分とお楽しみのようですね?」

そこに立っていたのは怒りに全身を震わせている三条と申し訳なさそうに目を伏せる絵里の姿だった。

「今宵は絵里殿の番のはず。何故、直見殿の元におられるのですか?」
「あ、いや、それは……」

鬼気迫る三条に信玄はたじろいだ。視線を絵里に向ければ、その唇は【申し訳ございません】と動いていた。そうやら、絵里の元にも乗り込んできたようだ。

「貴方様はどうして……」
「三条?」
「どうしてそうなのですか!?」

三条の堪忍袋が切れた瞬間だった。信玄に飛びかかり、その顔を思いっきり引っ掻いた。そればかりか、信玄の胸を拳で何度も叩く。

「さ、三条、止めぬか!」
「お方様!!」
「お気を鎮めて下さいませ」

女相手に手を挙げることなのど出来ない信玄は防戦一方。驚いた絵里と直見で止めに入るしかない。やがて、怒りが収まったのか三条は肩をふるわせ大きく息をする。
その後、糸が切れた操り人形のようにその場に座り込むと声を上げて泣き始めたのだった。



「落ち着いたか?」

絵里に引っ掻き傷を手当てして貰いつつ、信玄は三条に声をかけた。泣き止んだばかりで、鼻をすすっている。それを直見が背中をさすって宥めていた。

「も、申し訳ありませぬ」
「いや、儂も悪かった」

信玄はばつの悪そうに頬を搔く。絵里と直見が避難するような視線を向けているだけに神妙にならざるを得ない。

「それでお方様。何かあったのですか?」

背中を撫でながら直見が問いただす。三条は思い出したように顔を上げ、袖で目尻に堪った涙を拭うと話し始めた。

「多重のことです」
「多重? そなたの侍女の?」
「はい……」

三条はポツリポツリと話し始めた。
それは今日行われた評定で義信が信玄に異を唱える発言をしたことが発端であった。実際には単に異を唱えただけであったものに尾ひれが付き、三条たちの北方には一触即発の殴り合いになりかけたと伝わったという。

「なんだそれは!?」
「御館様、女子とは噂好きな者です」
「だが……」

信玄は憤慨していた。今川を責めてはどうかという意見が出されただけで信玄は決断した訳ではない。むしろ、どうすべきか迷い、悩んでいただけだ。義信はそれを信義にもとるとして反対しただけなのだ。

「それで、多重殿は何かされたのですか?」

信玄に代わって絵里が尋ねる。
三条は膝の上にのせた手を握りしめ、小さな声で呟いた。

「恐らく、飯富殿に何か吹き込んだのではないかと……」
「飯富? 虎昌にか?」

三条は頷いた。
以前から多重は虎昌に接触していたようだ。義信の傅役と言うこともあり接しやすかったのであろう。何より、多重は三条の侍女である。言葉巧みに【三条の名代】としてありもし無いことを吹き込んでいるらしい。

「いよいよもって黙ってはおれぬな」
「はい。私も決断せねばならないと思うております。本来なら香殿と四郞殿が高遠へ移られる時に判断すべきでした。それを先延ばしにしたばかりに……」
「お方様……」

絵里は三条の手を握る。その顔には苦しみとも悲しみとも取れる困惑した表情が浮かんでいる。

「それで、多重は虎昌に何を申したというのだ?」
「恐らくは義信を廃嫡して信親・信之を差し置き、高遠の……」
「四郞を、勝頼を跡継ぎにしようとしておると!?」
「はい……」

さすがの信玄も呆れて言葉が出ない。

「多重は御館様が私との間で誓詞を交わしたことを知らないのです」
「でも、だからといって何故四郞に家督を譲るなどと思われたのかしら?」
「それは……」

三条が言いかけたのを制して、直見が続けた。

「それは御館様が織田と同盟を模索しており、勝頼様との縁組を申し出ているからです」
「そんなことが!」
「秋山虎繁に交渉を任せておるが、未だ良い返事は戻ってきておらぬ」

多重はその交渉事も聞きつけたのであろう。それはいよいよ義信廃嫡が現実味を帯びてきたと思ってもおかしくはなかった。

「やれやれ……」
「ですが、楽観してもあられませぬ」
「分かった。何か手を打とう」
「御館様……」

信玄が微笑みかけたので三条の顔が明るくなった。だが、すぐに信玄の表情が険しくなり、ゴクリと唾を飲み込んだ。

「そなたに苦しみを与えることになるかもしれぬが、それでも儂を信じてくれるか?」
「誓詞の通り、子らを大事にして下さるのでしたら耐えまする」
「うむ。その言葉しかと聞き届けた」

信玄は力強く頷いた。



一方、その頃多重は飯富虎昌と密会をしていた。

「多重殿、これは一体……」

多重は言葉巧みに飯富を翻弄し、信玄が義信廃嫡を考えている証拠として信玄の書状を見せていた。

「お方様にとって頼りになるは飯富殿だけです」
「しかし……」
「このまま義信様が廃嫡されても良いのですか?」

虎昌は拳を握りしめた。

(御館様はここに来て今川を責めるおつもりのようだ。そのために若殿が邪魔というのであれば迷わず切り捨てられるかもしれぬ)

虎昌の意は決した。

「多重殿、ご案じめあるな。この飯富兵部虎昌。必ずや義信様を武田の当主にしてみせまする」

そう宣言した虎昌に多重は羨望の眼差しを向ける。そして、不気味なほど妖艶な笑みを浮かべるのだった。

それから間もなく、虎昌は親今川派の家臣団をとりまとめる。そして、信玄暗殺計画を実行に移すべく水面下で動き始めるのであった。



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