知り難きこと陰の如く、動くこと雷霆の如し~武田家異聞~

氷室龍

文字の大きさ
60 / 69
陰の章

信玄暗殺計画

しおりを挟む
永禄八年(1565年)、この頃の武田は北条の要請に従い、上野に侵攻していた。越後の上杉輝虎てるとら(永禄四年末に将軍・義輝から偏諱へんきを受け【政虎】から改名)の関東侵攻を阻むためである。

「先の関白、近衛前久公と手を組んでおるようですな」
「朝廷の権威復活と幕府による大名の掌握、か……」
「今更ですな」
「公方様の旗色も悪い」
「では、いよいよ……」

信玄は頷いた。この頃には信之に任せた鉄砲隊も確実に腕を上げ、戦場での成果が期待出来るほどに仕上がっていた。それだけではない。コナーとユアンによる重騎兵の育成も行われ、武田の軍事力はかなり上がってきていた。

「しかし、馬の代わりに牛を用いるとは……」
「その昔、木曽義仲は牛の角に松明をくくりつけ、倶利伽羅くりからとうげで平家を打ち破ったとあります」
「そうだな。そういう意味では理に適っておる」
「あとは、それを乗りこなす者を如何に育てるかでございましょう」

その場に居合わせた一同は皆頷いた。
今、海野と諏訪では牛に鉄の鎧を着せた軍団の編成と訓練を行っていた。それはコナーたちの八幡原での奮戦ぶりに感銘を受けたからである。だが、この地で彼らが連れている馬を繁殖・飼育させるには時間がかかる。そこで、農耕用に飼育されている牛に目を付け、重騎兵として用いられるように訓練しているのだ。

「槍も矢も通さぬ一団なれば、勝敗はあっという間に決しましょう」
「その通りだ。信親、頼貞。引き続き重騎兵の育成を頼む」
「「ハッ」」



五月に入り、京で事件が発生する。後に【永禄の変】と呼ばれるそれは、三好三人衆と松永久秀による将軍・足利義輝の殺害事件であった。

「公方様が殺された!?」
「はい。松永らが清水寺参詣を名目に集めた一万の軍勢で二条御所に攻め寄り、公方様も応戦されました。ですが、多勢に無勢。最後は呆気なく討ち取られたとのことです」

信玄は勘助率いる素波すっぱの一人からそう報告を受け、黙りこくった。その場にいた義信たちも言葉を無くしている。

「まずいな」
「父上?」
「我らは未だ上洛に向けての準備が出来ておらぬ」
「確かに……」
「松永たちを逆賊として討ち果たすとげきを飛ばすことも出来るが、如何せんこの甲斐からでは遠すぎる」

その言葉に義信だけではなく、飯富虎昌・昌景兄弟、工藤昌秀、馬場信房らも言葉無く俯いた。

「何か手を考えなくては……」
「恐れながら申し上げます」

そう言って進み出たのは穴山信君だった。信玄の娘婿でもある信君のぶただの穴山家は駿河に近い領地を持つため今川との連絡役でもある。

「これを機に駿河へ進出してはどうでしょうか?」
「駿河へか……」

それは信玄も考えていたことである。だが、今川は先代・義元の代からの同盟がある。現当主の氏真は実の甥であり、嫡男・義信にとって義兄だ。更に家臣の中にも信今川派は多い。おいそれと決断出来ることではなかった。

「おいそれと同盟を反故ほごにする訳にもいかぬ」
「ですが、放っておけば松平にかすめ取られます」
「信君! それでは武田は信義にもとるとそしられる」

信君の言葉に真っ先に食ってかかったのは義信だった。元来の一本気な性格から受け入れられないと思ったのだろう。眉をつり上げ、怒りを露わにしている。

「義信、落ち着け」
「ですが!!」
「信君は一つの策を提示したに過ぎぬ」
「……」
「今日はここまでとしよう」

信玄が評定を解散させた。それでも義信は納得がいかない様子で座り続けたのだった。

「兵部、義信のこと頼む」
「お任せ下さい」

信玄は後のことを虎昌に託し、奥へと引き上げた。



その夜、信玄は直見の元を訪れる。彼女の父・禰津元直の【組】が何か掴んでいないかを確かめるためだ。

「今宵は絵里殿の番でございましょう」
「儂がここに来た理由など分かっておろう」
「まぁ、そうですね」

直見は肩をすくめてみせる。

「それで、何か掴んでいるのか?」
「今川は内部から崩壊しかかっております」
「なに?」

禰津組が掴んでいたのは今川の現状であった。
現在の当主・氏真は父・義元の急死により全権を引き受けることになった。家督そのものはそれ以前に継いでいたが、全権を掌握した訳ではなかった。
そこを突いて独立したのが三河の松平元康だ。彼は三河一国を既に纏め上げ、今は遠江を獲らんとしていた。

「遠江は義元様家督継承を反対していた者が多く、そのため粛清の嵐となっておるとか……」
「そのような惨いことを誰が?」

信玄はハッとした。そのような非道なやり口を平然と行う者が今川に一人いることを思い出したのだ。直見は言わずとも分かっているように頷く。

「以前、父上から忠告されたことがある」
「信虎様からでございますか?」
「うむ。父上は【寿桂尼には気をつけよ】と知らせてきたのだ」
「まぁ」
「だが、その頃の儂は信濃進攻を第一と考えておった。それ故、すっかり忘れておったわ」
「このまま粛清の嵐が続けば、駿河からも離反する者が現れましょう。穴山殿が献策されたのはそれを踏まえた上でのことかもしれませぬ」
「で、あろうな」

直見の言葉に信玄も同意する。
信玄はその場に胡座を掻き、思案する。その時、不意にあることを思いだした。それは甲相駿三国同盟がなったあの善徳寺の会盟の後の出来事だ。

(氏康殿とのあの密約。仕掛けるのは今かもしれん)

信玄はニヤリと唇の端を上げた。それを見て直見がそっと近づき、頬に口づける。

「何か悪いことを考えておいでですね?」
「ハハハ、儂は悪党ゆえに」
「まぁ」

信玄は直見を抱き寄せ、唇を重ねる。
今宵は絵里と閨を共にしたかったが、月の物が始まったというので諦めた。だが、直見が代わりに共にしてくれるというのであれば、それも良いだろうと思い直した。信玄は彼女の裾をはだけ、露わになた太股を撫でる。

「折角じゃ。楽しませてくれ」
「御館様……」

直見もそれに答えるように信玄の股間に手を伸ばした。
と、その時。
開かぬはずの戸が開け放たれた。それも、とてつもなく大きな音を立てて……。

「随分とお楽しみのようですね?」

そこに立っていたのは怒りに全身を震わせている三条と申し訳なさそうに目を伏せる絵里の姿だった。

「今宵は絵里殿の番のはず。何故、直見殿の元におられるのですか?」
「あ、いや、それは……」

鬼気迫る三条に信玄はたじろいだ。視線を絵里に向ければ、その唇は【申し訳ございません】と動いていた。そうやら、絵里の元にも乗り込んできたようだ。

「貴方様はどうして……」
「三条?」
「どうしてそうなのですか!?」

三条の堪忍袋が切れた瞬間だった。信玄に飛びかかり、その顔を思いっきり引っ掻いた。そればかりか、信玄の胸を拳で何度も叩く。

「さ、三条、止めぬか!」
「お方様!!」
「お気を鎮めて下さいませ」

女相手に手を挙げることなのど出来ない信玄は防戦一方。驚いた絵里と直見で止めに入るしかない。やがて、怒りが収まったのか三条は肩をふるわせ大きく息をする。
その後、糸が切れた操り人形のようにその場に座り込むと声を上げて泣き始めたのだった。



「落ち着いたか?」

絵里に引っ掻き傷を手当てして貰いつつ、信玄は三条に声をかけた。泣き止んだばかりで、鼻をすすっている。それを直見が背中をさすって宥めていた。

「も、申し訳ありませぬ」
「いや、儂も悪かった」

信玄はばつの悪そうに頬を搔く。絵里と直見が避難するような視線を向けているだけに神妙にならざるを得ない。

「それでお方様。何かあったのですか?」

背中を撫でながら直見が問いただす。三条は思い出したように顔を上げ、袖で目尻に堪った涙を拭うと話し始めた。

「多重のことです」
「多重? そなたの侍女の?」
「はい……」

三条はポツリポツリと話し始めた。
それは今日行われた評定で義信が信玄に異を唱える発言をしたことが発端であった。実際には単に異を唱えただけであったものに尾ひれが付き、三条たちの北方には一触即発の殴り合いになりかけたと伝わったという。

「なんだそれは!?」
「御館様、女子とは噂好きな者です」
「だが……」

信玄は憤慨していた。今川を責めてはどうかという意見が出されただけで信玄は決断した訳ではない。むしろ、どうすべきか迷い、悩んでいただけだ。義信はそれを信義にもとるとして反対しただけなのだ。

「それで、多重殿は何かされたのですか?」

信玄に代わって絵里が尋ねる。
三条は膝の上にのせた手を握りしめ、小さな声で呟いた。

「恐らく、飯富殿に何か吹き込んだのではないかと……」
「飯富? 虎昌にか?」

三条は頷いた。
以前から多重は虎昌に接触していたようだ。義信の傅役と言うこともあり接しやすかったのであろう。何より、多重は三条の侍女である。言葉巧みに【三条の名代】としてありもし無いことを吹き込んでいるらしい。

「いよいよもって黙ってはおれぬな」
「はい。私も決断せねばならないと思うております。本来なら香殿と四郞殿が高遠へ移られる時に判断すべきでした。それを先延ばしにしたばかりに……」
「お方様……」

絵里は三条の手を握る。その顔には苦しみとも悲しみとも取れる困惑した表情が浮かんでいる。

「それで、多重は虎昌に何を申したというのだ?」
「恐らくは義信を廃嫡して信親・信之を差し置き、高遠の……」
「四郞を、勝頼を跡継ぎにしようとしておると!?」
「はい……」

さすがの信玄も呆れて言葉が出ない。

「多重は御館様が私との間で誓詞を交わしたことを知らないのです」
「でも、だからといって何故四郞に家督を譲るなどと思われたのかしら?」
「それは……」

三条が言いかけたのを制して、直見が続けた。

「それは御館様が織田と同盟を模索しており、勝頼様との縁組を申し出ているからです」
「そんなことが!」
「秋山虎繁に交渉を任せておるが、未だ良い返事は戻ってきておらぬ」

多重はその交渉事も聞きつけたのであろう。それはいよいよ義信廃嫡が現実味を帯びてきたと思ってもおかしくはなかった。

「やれやれ……」
「ですが、楽観してもあられませぬ」
「分かった。何か手を打とう」
「御館様……」

信玄が微笑みかけたので三条の顔が明るくなった。だが、すぐに信玄の表情が険しくなり、ゴクリと唾を飲み込んだ。

「そなたに苦しみを与えることになるかもしれぬが、それでも儂を信じてくれるか?」
「誓詞の通り、子らを大事にして下さるのでしたら耐えまする」
「うむ。その言葉しかと聞き届けた」

信玄は力強く頷いた。



一方、その頃多重は飯富虎昌と密会をしていた。

「多重殿、これは一体……」

多重は言葉巧みに飯富を翻弄し、信玄が義信廃嫡を考えている証拠として信玄の書状を見せていた。

「お方様にとって頼りになるは飯富殿だけです」
「しかし……」
「このまま義信様が廃嫡されても良いのですか?」

虎昌は拳を握りしめた。

(御館様はここに来て今川を責めるおつもりのようだ。そのために若殿が邪魔というのであれば迷わず切り捨てられるかもしれぬ)

虎昌の意は決した。

「多重殿、ご案じめあるな。この飯富兵部虎昌。必ずや義信様を武田の当主にしてみせまする」

そう宣言した虎昌に多重は羨望の眼差しを向ける。そして、不気味なほど妖艶な笑みを浮かべるのだった。

それから間もなく、虎昌は親今川派の家臣団をとりまとめる。そして、信玄暗殺計画を実行に移すべく水面下で動き始めるのであった。



しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

電子の帝国

Flight_kj
歴史・時代
少しだけ電子技術が早く技術が進歩した帝国はどのように戦うか 明治期の工業化が少し早く進展したおかげで、日本の電子技術や精密機械工業は順調に進歩した。世界規模の戦争に巻き込まれた日本は、そんな技術をもとにしてどんな戦いを繰り広げるのか? わずかに早くレーダーやコンピューターなどの電子機器が登場することにより、戦場の様相は大きく変わってゆく。

BL 男達の性事情

蔵屋
BL
 漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。 漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。  漁師の仕事は多岐にわたる。 例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。  陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、 多彩だ。  漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。  漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。  養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。  陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。  漁業の種類と言われる仕事がある。 漁師の仕事だ。  仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。  沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。  日本の漁師の多くがこの形態なのだ。  沖合(近海)漁業という仕事もある。 沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。  遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。  内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。  漁師の働き方は、さまざま。 漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。  出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。  休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。  個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。  漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。  専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。  資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。  漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。  食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。  地域との連携も必要である。 沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。  この物語の主人公は極楽翔太。18歳。 翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。  もう一人の主人公は木下英二。28歳。 地元で料理旅館を経営するオーナー。  翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。 この物語の始まりである。  この物語はフィクションです。 この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...