60 / 69
陰の章
信玄暗殺計画
しおりを挟む
永禄八年(1565年)、この頃の武田は北条の要請に従い、上野に侵攻していた。越後の上杉輝虎(永禄四年末に将軍・義輝から偏諱を受け【政虎】から改名)の関東侵攻を阻むためである。
「先の関白、近衛前久公と手を組んでおるようですな」
「朝廷の権威復活と幕府による大名の掌握、か……」
「今更ですな」
「公方様の旗色も悪い」
「では、いよいよ……」
信玄は頷いた。この頃には信之に任せた鉄砲隊も確実に腕を上げ、戦場での成果が期待出来るほどに仕上がっていた。それだけではない。コナーとユアンによる重騎兵の育成も行われ、武田の軍事力はかなり上がってきていた。
「しかし、馬の代わりに牛を用いるとは……」
「その昔、木曽義仲は牛の角に松明をくくりつけ、倶利伽羅峠で平家を打ち破ったとあります」
「そうだな。そういう意味では理に適っておる」
「あとは、それを乗りこなす者を如何に育てるかでございましょう」
その場に居合わせた一同は皆頷いた。
今、海野と諏訪では牛に鉄の鎧を着せた軍団の編成と訓練を行っていた。それはコナーたちの八幡原での奮戦ぶりに感銘を受けたからである。だが、この地で彼らが連れている馬を繁殖・飼育させるには時間がかかる。そこで、農耕用に飼育されている牛に目を付け、重騎兵として用いられるように訓練しているのだ。
「槍も矢も通さぬ一団なれば、勝敗はあっという間に決しましょう」
「その通りだ。信親、頼貞。引き続き重騎兵の育成を頼む」
「「ハッ」」
五月に入り、京で事件が発生する。後に【永禄の変】と呼ばれるそれは、三好三人衆と松永久秀による将軍・足利義輝の殺害事件であった。
「公方様が殺された!?」
「はい。松永らが清水寺参詣を名目に集めた一万の軍勢で二条御所に攻め寄り、公方様も応戦されました。ですが、多勢に無勢。最後は呆気なく討ち取られたとのことです」
信玄は勘助率いる素波の一人からそう報告を受け、黙りこくった。その場にいた義信たちも言葉を無くしている。
「まずいな」
「父上?」
「我らは未だ上洛に向けての準備が出来ておらぬ」
「確かに……」
「松永たちを逆賊として討ち果たすと檄を飛ばすことも出来るが、如何せんこの甲斐からでは遠すぎる」
その言葉に義信だけではなく、飯富虎昌・昌景兄弟、工藤昌秀、馬場信房らも言葉無く俯いた。
「何か手を考えなくては……」
「恐れながら申し上げます」
そう言って進み出たのは穴山信君だった。信玄の娘婿でもある信君の穴山家は駿河に近い領地を持つため今川との連絡役でもある。
「これを機に駿河へ進出してはどうでしょうか?」
「駿河へか……」
それは信玄も考えていたことである。だが、今川は先代・義元の代からの同盟がある。現当主の氏真は実の甥であり、嫡男・義信にとって義兄だ。更に家臣の中にも信今川派は多い。おいそれと決断出来ることではなかった。
「おいそれと同盟を反故にする訳にもいかぬ」
「ですが、放っておけば松平にかすめ取られます」
「信君! それでは武田は信義にもとると誹られる」
信君の言葉に真っ先に食ってかかったのは義信だった。元来の一本気な性格から受け入れられないと思ったのだろう。眉をつり上げ、怒りを露わにしている。
「義信、落ち着け」
「ですが!!」
「信君は一つの策を提示したに過ぎぬ」
「……」
「今日はここまでとしよう」
信玄が評定を解散させた。それでも義信は納得がいかない様子で座り続けたのだった。
「兵部、義信のこと頼む」
「お任せ下さい」
信玄は後のことを虎昌に託し、奥へと引き上げた。
その夜、信玄は直見の元を訪れる。彼女の父・禰津元直の【組】が何か掴んでいないかを確かめるためだ。
「今宵は絵里殿の番でございましょう」
「儂がここに来た理由など分かっておろう」
「まぁ、そうですね」
直見は肩をすくめてみせる。
「それで、何か掴んでいるのか?」
「今川は内部から崩壊しかかっております」
「なに?」
禰津組が掴んでいたのは今川の現状であった。
現在の当主・氏真は父・義元の急死により全権を引き受けることになった。家督そのものはそれ以前に継いでいたが、全権を掌握した訳ではなかった。
そこを突いて独立したのが三河の松平元康だ。彼は三河一国を既に纏め上げ、今は遠江を獲らんとしていた。
「遠江は義元様家督継承を反対していた者が多く、そのため粛清の嵐となっておるとか……」
「そのような惨いことを誰が?」
信玄はハッとした。そのような非道なやり口を平然と行う者が今川に一人いることを思い出したのだ。直見は言わずとも分かっているように頷く。
「以前、父上から忠告されたことがある」
「信虎様からでございますか?」
「うむ。父上は【寿桂尼には気をつけよ】と知らせてきたのだ」
「まぁ」
「だが、その頃の儂は信濃進攻を第一と考えておった。それ故、すっかり忘れておったわ」
「このまま粛清の嵐が続けば、駿河からも離反する者が現れましょう。穴山殿が献策されたのはそれを踏まえた上でのことかもしれませぬ」
「で、あろうな」
直見の言葉に信玄も同意する。
信玄はその場に胡座を掻き、思案する。その時、不意にあることを思いだした。それは甲相駿三国同盟がなったあの善徳寺の会盟の後の出来事だ。
(氏康殿とのあの密約。仕掛けるのは今かもしれん)
信玄はニヤリと唇の端を上げた。それを見て直見がそっと近づき、頬に口づける。
「何か悪いことを考えておいでですね?」
「ハハハ、儂は悪党ゆえに」
「まぁ」
信玄は直見を抱き寄せ、唇を重ねる。
今宵は絵里と閨を共にしたかったが、月の物が始まったというので諦めた。だが、直見が代わりに共にしてくれるというのであれば、それも良いだろうと思い直した。信玄は彼女の裾をはだけ、露わになた太股を撫でる。
「折角じゃ。楽しませてくれ」
「御館様……」
直見もそれに答えるように信玄の股間に手を伸ばした。
と、その時。
開かぬはずの戸が開け放たれた。それも、とてつもなく大きな音を立てて……。
「随分とお楽しみのようですね?」
そこに立っていたのは怒りに全身を震わせている三条と申し訳なさそうに目を伏せる絵里の姿だった。
「今宵は絵里殿の番のはず。何故、直見殿の元におられるのですか?」
「あ、いや、それは……」
鬼気迫る三条に信玄はたじろいだ。視線を絵里に向ければ、その唇は【申し訳ございません】と動いていた。そうやら、絵里の元にも乗り込んできたようだ。
「貴方様はどうして……」
「三条?」
「どうしてそうなのですか!?」
三条の堪忍袋が切れた瞬間だった。信玄に飛びかかり、その顔を思いっきり引っ掻いた。そればかりか、信玄の胸を拳で何度も叩く。
「さ、三条、止めぬか!」
「お方様!!」
「お気を鎮めて下さいませ」
女相手に手を挙げることなのど出来ない信玄は防戦一方。驚いた絵里と直見で止めに入るしかない。やがて、怒りが収まったのか三条は肩をふるわせ大きく息をする。
その後、糸が切れた操り人形のようにその場に座り込むと声を上げて泣き始めたのだった。
「落ち着いたか?」
絵里に引っ掻き傷を手当てして貰いつつ、信玄は三条に声をかけた。泣き止んだばかりで、鼻をすすっている。それを直見が背中をさすって宥めていた。
「も、申し訳ありませぬ」
「いや、儂も悪かった」
信玄はばつの悪そうに頬を搔く。絵里と直見が避難するような視線を向けているだけに神妙にならざるを得ない。
「それでお方様。何かあったのですか?」
背中を撫でながら直見が問いただす。三条は思い出したように顔を上げ、袖で目尻に堪った涙を拭うと話し始めた。
「多重のことです」
「多重? そなたの侍女の?」
「はい……」
三条はポツリポツリと話し始めた。
それは今日行われた評定で義信が信玄に異を唱える発言をしたことが発端であった。実際には単に異を唱えただけであったものに尾ひれが付き、三条たちの北方には一触即発の殴り合いになりかけたと伝わったという。
「なんだそれは!?」
「御館様、女子とは噂好きな者です」
「だが……」
信玄は憤慨していた。今川を責めてはどうかという意見が出されただけで信玄は決断した訳ではない。むしろ、どうすべきか迷い、悩んでいただけだ。義信はそれを信義にもとるとして反対しただけなのだ。
「それで、多重殿は何かされたのですか?」
信玄に代わって絵里が尋ねる。
三条は膝の上にのせた手を握りしめ、小さな声で呟いた。
「恐らく、飯富殿に何か吹き込んだのではないかと……」
「飯富? 虎昌にか?」
三条は頷いた。
以前から多重は虎昌に接触していたようだ。義信の傅役と言うこともあり接しやすかったのであろう。何より、多重は三条の侍女である。言葉巧みに【三条の名代】としてありもし無いことを吹き込んでいるらしい。
「いよいよもって黙ってはおれぬな」
「はい。私も決断せねばならないと思うております。本来なら香殿と四郞殿が高遠へ移られる時に判断すべきでした。それを先延ばしにしたばかりに……」
「お方様……」
絵里は三条の手を握る。その顔には苦しみとも悲しみとも取れる困惑した表情が浮かんでいる。
「それで、多重は虎昌に何を申したというのだ?」
「恐らくは義信を廃嫡して信親・信之を差し置き、高遠の……」
「四郞を、勝頼を跡継ぎにしようとしておると!?」
「はい……」
さすがの信玄も呆れて言葉が出ない。
「多重は御館様が私との間で誓詞を交わしたことを知らないのです」
「でも、だからといって何故四郞に家督を譲るなどと思われたのかしら?」
「それは……」
三条が言いかけたのを制して、直見が続けた。
「それは御館様が織田と同盟を模索しており、勝頼様との縁組を申し出ているからです」
「そんなことが!」
「秋山虎繁に交渉を任せておるが、未だ良い返事は戻ってきておらぬ」
多重はその交渉事も聞きつけたのであろう。それはいよいよ義信廃嫡が現実味を帯びてきたと思ってもおかしくはなかった。
「やれやれ……」
「ですが、楽観してもあられませぬ」
「分かった。何か手を打とう」
「御館様……」
信玄が微笑みかけたので三条の顔が明るくなった。だが、すぐに信玄の表情が険しくなり、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「そなたに苦しみを与えることになるかもしれぬが、それでも儂を信じてくれるか?」
「誓詞の通り、子らを大事にして下さるのでしたら耐えまする」
「うむ。その言葉しかと聞き届けた」
信玄は力強く頷いた。
一方、その頃多重は飯富虎昌と密会をしていた。
「多重殿、これは一体……」
多重は言葉巧みに飯富を翻弄し、信玄が義信廃嫡を考えている証拠として信玄の書状を見せていた。
「お方様にとって頼りになるは飯富殿だけです」
「しかし……」
「このまま義信様が廃嫡されても良いのですか?」
虎昌は拳を握りしめた。
(御館様はここに来て今川を責めるおつもりのようだ。そのために若殿が邪魔というのであれば迷わず切り捨てられるかもしれぬ)
虎昌の意は決した。
「多重殿、ご案じめあるな。この飯富兵部虎昌。必ずや義信様を武田の当主にしてみせまする」
そう宣言した虎昌に多重は羨望の眼差しを向ける。そして、不気味なほど妖艶な笑みを浮かべるのだった。
それから間もなく、虎昌は親今川派の家臣団をとりまとめる。そして、信玄暗殺計画を実行に移すべく水面下で動き始めるのであった。
「先の関白、近衛前久公と手を組んでおるようですな」
「朝廷の権威復活と幕府による大名の掌握、か……」
「今更ですな」
「公方様の旗色も悪い」
「では、いよいよ……」
信玄は頷いた。この頃には信之に任せた鉄砲隊も確実に腕を上げ、戦場での成果が期待出来るほどに仕上がっていた。それだけではない。コナーとユアンによる重騎兵の育成も行われ、武田の軍事力はかなり上がってきていた。
「しかし、馬の代わりに牛を用いるとは……」
「その昔、木曽義仲は牛の角に松明をくくりつけ、倶利伽羅峠で平家を打ち破ったとあります」
「そうだな。そういう意味では理に適っておる」
「あとは、それを乗りこなす者を如何に育てるかでございましょう」
その場に居合わせた一同は皆頷いた。
今、海野と諏訪では牛に鉄の鎧を着せた軍団の編成と訓練を行っていた。それはコナーたちの八幡原での奮戦ぶりに感銘を受けたからである。だが、この地で彼らが連れている馬を繁殖・飼育させるには時間がかかる。そこで、農耕用に飼育されている牛に目を付け、重騎兵として用いられるように訓練しているのだ。
「槍も矢も通さぬ一団なれば、勝敗はあっという間に決しましょう」
「その通りだ。信親、頼貞。引き続き重騎兵の育成を頼む」
「「ハッ」」
五月に入り、京で事件が発生する。後に【永禄の変】と呼ばれるそれは、三好三人衆と松永久秀による将軍・足利義輝の殺害事件であった。
「公方様が殺された!?」
「はい。松永らが清水寺参詣を名目に集めた一万の軍勢で二条御所に攻め寄り、公方様も応戦されました。ですが、多勢に無勢。最後は呆気なく討ち取られたとのことです」
信玄は勘助率いる素波の一人からそう報告を受け、黙りこくった。その場にいた義信たちも言葉を無くしている。
「まずいな」
「父上?」
「我らは未だ上洛に向けての準備が出来ておらぬ」
「確かに……」
「松永たちを逆賊として討ち果たすと檄を飛ばすことも出来るが、如何せんこの甲斐からでは遠すぎる」
その言葉に義信だけではなく、飯富虎昌・昌景兄弟、工藤昌秀、馬場信房らも言葉無く俯いた。
「何か手を考えなくては……」
「恐れながら申し上げます」
そう言って進み出たのは穴山信君だった。信玄の娘婿でもある信君の穴山家は駿河に近い領地を持つため今川との連絡役でもある。
「これを機に駿河へ進出してはどうでしょうか?」
「駿河へか……」
それは信玄も考えていたことである。だが、今川は先代・義元の代からの同盟がある。現当主の氏真は実の甥であり、嫡男・義信にとって義兄だ。更に家臣の中にも信今川派は多い。おいそれと決断出来ることではなかった。
「おいそれと同盟を反故にする訳にもいかぬ」
「ですが、放っておけば松平にかすめ取られます」
「信君! それでは武田は信義にもとると誹られる」
信君の言葉に真っ先に食ってかかったのは義信だった。元来の一本気な性格から受け入れられないと思ったのだろう。眉をつり上げ、怒りを露わにしている。
「義信、落ち着け」
「ですが!!」
「信君は一つの策を提示したに過ぎぬ」
「……」
「今日はここまでとしよう」
信玄が評定を解散させた。それでも義信は納得がいかない様子で座り続けたのだった。
「兵部、義信のこと頼む」
「お任せ下さい」
信玄は後のことを虎昌に託し、奥へと引き上げた。
その夜、信玄は直見の元を訪れる。彼女の父・禰津元直の【組】が何か掴んでいないかを確かめるためだ。
「今宵は絵里殿の番でございましょう」
「儂がここに来た理由など分かっておろう」
「まぁ、そうですね」
直見は肩をすくめてみせる。
「それで、何か掴んでいるのか?」
「今川は内部から崩壊しかかっております」
「なに?」
禰津組が掴んでいたのは今川の現状であった。
現在の当主・氏真は父・義元の急死により全権を引き受けることになった。家督そのものはそれ以前に継いでいたが、全権を掌握した訳ではなかった。
そこを突いて独立したのが三河の松平元康だ。彼は三河一国を既に纏め上げ、今は遠江を獲らんとしていた。
「遠江は義元様家督継承を反対していた者が多く、そのため粛清の嵐となっておるとか……」
「そのような惨いことを誰が?」
信玄はハッとした。そのような非道なやり口を平然と行う者が今川に一人いることを思い出したのだ。直見は言わずとも分かっているように頷く。
「以前、父上から忠告されたことがある」
「信虎様からでございますか?」
「うむ。父上は【寿桂尼には気をつけよ】と知らせてきたのだ」
「まぁ」
「だが、その頃の儂は信濃進攻を第一と考えておった。それ故、すっかり忘れておったわ」
「このまま粛清の嵐が続けば、駿河からも離反する者が現れましょう。穴山殿が献策されたのはそれを踏まえた上でのことかもしれませぬ」
「で、あろうな」
直見の言葉に信玄も同意する。
信玄はその場に胡座を掻き、思案する。その時、不意にあることを思いだした。それは甲相駿三国同盟がなったあの善徳寺の会盟の後の出来事だ。
(氏康殿とのあの密約。仕掛けるのは今かもしれん)
信玄はニヤリと唇の端を上げた。それを見て直見がそっと近づき、頬に口づける。
「何か悪いことを考えておいでですね?」
「ハハハ、儂は悪党ゆえに」
「まぁ」
信玄は直見を抱き寄せ、唇を重ねる。
今宵は絵里と閨を共にしたかったが、月の物が始まったというので諦めた。だが、直見が代わりに共にしてくれるというのであれば、それも良いだろうと思い直した。信玄は彼女の裾をはだけ、露わになた太股を撫でる。
「折角じゃ。楽しませてくれ」
「御館様……」
直見もそれに答えるように信玄の股間に手を伸ばした。
と、その時。
開かぬはずの戸が開け放たれた。それも、とてつもなく大きな音を立てて……。
「随分とお楽しみのようですね?」
そこに立っていたのは怒りに全身を震わせている三条と申し訳なさそうに目を伏せる絵里の姿だった。
「今宵は絵里殿の番のはず。何故、直見殿の元におられるのですか?」
「あ、いや、それは……」
鬼気迫る三条に信玄はたじろいだ。視線を絵里に向ければ、その唇は【申し訳ございません】と動いていた。そうやら、絵里の元にも乗り込んできたようだ。
「貴方様はどうして……」
「三条?」
「どうしてそうなのですか!?」
三条の堪忍袋が切れた瞬間だった。信玄に飛びかかり、その顔を思いっきり引っ掻いた。そればかりか、信玄の胸を拳で何度も叩く。
「さ、三条、止めぬか!」
「お方様!!」
「お気を鎮めて下さいませ」
女相手に手を挙げることなのど出来ない信玄は防戦一方。驚いた絵里と直見で止めに入るしかない。やがて、怒りが収まったのか三条は肩をふるわせ大きく息をする。
その後、糸が切れた操り人形のようにその場に座り込むと声を上げて泣き始めたのだった。
「落ち着いたか?」
絵里に引っ掻き傷を手当てして貰いつつ、信玄は三条に声をかけた。泣き止んだばかりで、鼻をすすっている。それを直見が背中をさすって宥めていた。
「も、申し訳ありませぬ」
「いや、儂も悪かった」
信玄はばつの悪そうに頬を搔く。絵里と直見が避難するような視線を向けているだけに神妙にならざるを得ない。
「それでお方様。何かあったのですか?」
背中を撫でながら直見が問いただす。三条は思い出したように顔を上げ、袖で目尻に堪った涙を拭うと話し始めた。
「多重のことです」
「多重? そなたの侍女の?」
「はい……」
三条はポツリポツリと話し始めた。
それは今日行われた評定で義信が信玄に異を唱える発言をしたことが発端であった。実際には単に異を唱えただけであったものに尾ひれが付き、三条たちの北方には一触即発の殴り合いになりかけたと伝わったという。
「なんだそれは!?」
「御館様、女子とは噂好きな者です」
「だが……」
信玄は憤慨していた。今川を責めてはどうかという意見が出されただけで信玄は決断した訳ではない。むしろ、どうすべきか迷い、悩んでいただけだ。義信はそれを信義にもとるとして反対しただけなのだ。
「それで、多重殿は何かされたのですか?」
信玄に代わって絵里が尋ねる。
三条は膝の上にのせた手を握りしめ、小さな声で呟いた。
「恐らく、飯富殿に何か吹き込んだのではないかと……」
「飯富? 虎昌にか?」
三条は頷いた。
以前から多重は虎昌に接触していたようだ。義信の傅役と言うこともあり接しやすかったのであろう。何より、多重は三条の侍女である。言葉巧みに【三条の名代】としてありもし無いことを吹き込んでいるらしい。
「いよいよもって黙ってはおれぬな」
「はい。私も決断せねばならないと思うております。本来なら香殿と四郞殿が高遠へ移られる時に判断すべきでした。それを先延ばしにしたばかりに……」
「お方様……」
絵里は三条の手を握る。その顔には苦しみとも悲しみとも取れる困惑した表情が浮かんでいる。
「それで、多重は虎昌に何を申したというのだ?」
「恐らくは義信を廃嫡して信親・信之を差し置き、高遠の……」
「四郞を、勝頼を跡継ぎにしようとしておると!?」
「はい……」
さすがの信玄も呆れて言葉が出ない。
「多重は御館様が私との間で誓詞を交わしたことを知らないのです」
「でも、だからといって何故四郞に家督を譲るなどと思われたのかしら?」
「それは……」
三条が言いかけたのを制して、直見が続けた。
「それは御館様が織田と同盟を模索しており、勝頼様との縁組を申し出ているからです」
「そんなことが!」
「秋山虎繁に交渉を任せておるが、未だ良い返事は戻ってきておらぬ」
多重はその交渉事も聞きつけたのであろう。それはいよいよ義信廃嫡が現実味を帯びてきたと思ってもおかしくはなかった。
「やれやれ……」
「ですが、楽観してもあられませぬ」
「分かった。何か手を打とう」
「御館様……」
信玄が微笑みかけたので三条の顔が明るくなった。だが、すぐに信玄の表情が険しくなり、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「そなたに苦しみを与えることになるかもしれぬが、それでも儂を信じてくれるか?」
「誓詞の通り、子らを大事にして下さるのでしたら耐えまする」
「うむ。その言葉しかと聞き届けた」
信玄は力強く頷いた。
一方、その頃多重は飯富虎昌と密会をしていた。
「多重殿、これは一体……」
多重は言葉巧みに飯富を翻弄し、信玄が義信廃嫡を考えている証拠として信玄の書状を見せていた。
「お方様にとって頼りになるは飯富殿だけです」
「しかし……」
「このまま義信様が廃嫡されても良いのですか?」
虎昌は拳を握りしめた。
(御館様はここに来て今川を責めるおつもりのようだ。そのために若殿が邪魔というのであれば迷わず切り捨てられるかもしれぬ)
虎昌の意は決した。
「多重殿、ご案じめあるな。この飯富兵部虎昌。必ずや義信様を武田の当主にしてみせまする」
そう宣言した虎昌に多重は羨望の眼差しを向ける。そして、不気味なほど妖艶な笑みを浮かべるのだった。
それから間もなく、虎昌は親今川派の家臣団をとりまとめる。そして、信玄暗殺計画を実行に移すべく水面下で動き始めるのであった。
0
お気に入りに追加
444
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲
俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。
今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。
「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」
その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。
当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
共に
第8回歴史時代小説参加しました!
令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました
フルーツパフェ
大衆娯楽
とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。
曰く、全校生徒はパンツを履くこと。
生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?
史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。
大日本帝国領ハワイから始まる太平洋戦争〜真珠湾攻撃?そんなの知りません!〜
雨宮 徹
歴史・時代
1898年アメリカはスペインと戦争に敗れる。本来、アメリカが支配下に置くはずだったハワイを、大日本帝国は手中に収めることに成功する。
そして、時は1941年。太平洋戦争が始まると、大日本帝国はハワイを起点に太平洋全域への攻撃を開始する。
これは、史実とは異なる太平洋戦争の物語。
主要登場人物……山本五十六、南雲忠一、井上成美
※歴史考証は皆無です。中には現実性のない作戦もあります。ぶっ飛んだ物語をお楽しみください。
※根本から史実と異なるため、艦隊の動き、編成などは史実と大きく異なります。
※歴史初心者にも分かりやすいように、言葉などを現代風にしています。
ヴィクトリアンメイドは夕陽に素肌を晒す
矢木羽研
歴史・時代
カメラが普及し始めたヴィクトリア朝のイギリスにて。
はじめて写真のモデルになるメイドが、主人の言葉で次第に脱がされていき……
メイドと主の織りなす官能の世界です。
大和型戦艦4番艦 帝国から棄てられた船~古(いにしえ)の愛へ~
花田 一劫
歴史・時代
東北大地震が発生した1週間後、小笠原清秀と言う青年と長岡与一郎と言う老人が道路巡回車で仕事のために東北自動車道を走っていた。
この1週間、長岡は震災による津波で行方不明となっている妻(玉)のことを捜していた。この日も疲労困憊の中、老人の身体に異変が生じてきた。徐々に動かなくなる神経機能の中で、老人はあることを思い出していた。
長岡が青年だった頃に出会った九鬼大佐と大和型戦艦4番艦桔梗丸のことを。
~1941年~大和型戦艦4番艦111号(仮称:紀伊)は呉海軍工廠のドックで船を組み立てている作業の途中に、軍本部より工事中止及び船の廃棄の命令がなされたが、青木、長瀬と言う青年将校と岩瀬少佐の働きにより、大和型戦艦4番艦は廃棄を免れ、戦艦ではなく輸送船として生まれる(竣工する)ことになった。
船の名前は桔梗丸(船頭の名前は九鬼大佐)と決まった。
輸送船でありながらその当時最新鋭の武器を持ち、癖があるが最高の技量を持った船員達が集まり桔梗丸は戦地を切り抜け輸送業務をこなしてきた。
その桔梗丸が修理のため横須賀軍港に入港し、その時、長岡与一郎と言う新人が桔梗丸の船員に入ったが、九鬼船頭は遠い遥か遠い昔に長岡に会ったような気がしてならなかった。もしかして前世で会ったのか…。
それから桔梗丸は、兄弟艦の武蔵、信濃、大和の哀しくも壮絶な最後を看取るようになってしまった。
~1945年8月~日本国の降伏後にも関わらずソビエト連邦が非道極まりなく、満洲、朝鮮、北海道へ攻め込んできた。桔梗丸は北海道へ向かい疎開船に乗っている民間人達を助けに行ったが、小笠原丸及び第二号新興丸は既にソ連の潜水艦の攻撃の餌食になり撃沈され、泰東丸も沈没しつつあった。桔梗丸はソ連の潜水艦2隻に対し最新鋭の怒りの主砲を発砲し、見事に撃沈した。
この行為が米国及びソ連国から(ソ連国は日本の民間船3隻を沈没させ民間人1.708名を殺戮した行為は棚に上げて)日本国が非難され国際問題となろうとしていた。桔梗丸は日本国から投降するように強硬な厳命があったが拒否した。しかし、桔梗丸は日本国には弓を引けず無抵抗のまま(一部、ソ連機への反撃あり)、日本国の戦闘機の爆撃を受け、最後は無念の自爆を遂げることになった。
桔梗丸の船員のうち、意識のないまま小島(宮城県江島)に一人生き残された長岡は、「何故、私一人だけが。」と思い悩み、残された理由について、探しの旅に出る。その理由は何なのか…。前世で何があったのか。与一郎と玉の古の愛の行方は…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる