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山の章

上杉政虎の敗走

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八幡原はちまんばらを脱し、犀川さいかわの浅瀬で一休みすることにした政虎たち上杉勢。思わぬ敵の登場と別働隊との挟み撃ちでかなり疲弊ひへいしていた。

「状況は?」
「柿崎殿が奮戦し、敵将の幾人かを討ち果たしたと」
「他は?」
「山本勘助、武田信繁を追い詰め、傷を負わせたものの討ち損ねたそうにございます」
「そうか……」

政虎は息を吐いた。武田の裏を掻いたところまでは良かった。実際、信玄のいる本陣まであと一歩と迫った。だが、あの異国の戦士に足止めされたせいで信玄を討ち果たすことは出来なかった。その上、別働隊に合流されかなりの負傷者が出てしまった。

殿しんがり甘粕あまかすは何か言ってきたか?」
「あの混戦の中では……」

困惑気味に答えた家臣に政虎は落胆せずにいられない。だが、それを吹き飛ばすように声を上げたのは村上義清だった。

御実城様おみじょうさま、心配には及びませぬ。我らは武田の裏を掻き、打撃を与えたのです。さしもの信玄も静かになりましょう」
「その通り。その間に我らは公方様の望まれる通り、関東を制圧し、あるべき姿に戻せば良いのです」

義清の言葉を後押しするように高梨たかなし政頼まさよりが続ける。それでも政虎の心が晴れることはなかった。

「一息入れたら善光寺まで退く」
「ハッ」

政虎は心は重かった。この戦いで決着をつけ、信濃をあるべき姿に戻せると思っていた。だが、そうはならず逆に自分たちが追い出されてしまった。

(これでは公方様に申し訳が……)

物思いに耽る政虎を現実へと引き戻したのは後方で上がったときの声だった。

「何事か!?」
「敵の伏兵にございます!!」
「バカな!!」

動揺は隠しきれない。武田に無傷な兵がいたとは思いもよらなかったからだ。

「どこの隊か!?」
「赤一色の鎧に身を包んだ集団なれば、信玄の嫡男・義信の隊と思われます」

政虎は如何にやり過ごすか思案する。だが、それより先に動いたのは村上義清であった。

「武田の嫡男め。飛んで火に入る夏の虫とはあやつの事じゃ。返り討ちにしてくれるわ!」

政虎は止めようとしたが、義清は肩を怒らせ飛び出していった。これでは政虎も応戦せぬ訳にはいかない。



「皆の者! 一人でも多くの上杉兵を討ち果たし、功を上げるのだ!!」

義信の号令一下、赤備えの一団が襲いかかる。不意を突かれた上杉勢は蜘蛛の子を散らすように右往左往する。そこへ村上義清が現れた。

「武田の小倅こせがれわしが相手だ!!」
「村上義清、最早信濃は我ら武田のものだ。大人しく立ち去れ!」
「やかましい!! 貴様らが奪っていった者を取り返しに来ただけだ」
「闇雲に戦いを仕掛けて、民を疲弊させているのに気付かぬとは……」

義信の言葉など聞こえていないのか、義清は手にした槍を振り回す。だが、義信は難なくその槍をかわし、太刀を振るう。

「くっ」
「寄る年波には勝てぬか?」
「なにを!!」

槍を構え直し払う。だが、それは空を切る。そこに隙が生まれた。義信はすかさず太刀を返し、義清の左腕に傷を負わせた。

「義清、下がれ」
「御実城様……」

そこに現れたのは抜き身の太刀を手にした政虎だった。敵の総大将の登場にも義信は動じない。むしろ、不敵な笑みを浮かべている。

「ほう、随分と余裕だな」
「我らの勝ちは揺るぎない故」

その言葉に政虎は眉をひそめる。間合いを詰め、斬りかかろうとしたその時。一騎近づいてきた。

「若殿、敵の援軍が!」
「そうか……」

それは傅役もりやく飯富おぶ虎昌とらまさであった。敵の増援が現れてはこれ以上の戦闘は危険と判断し、義信は撤退を始める。

「逃げるか!!」

政虎が呼び止めるのが、義信は気にすることなく立ち去った。政虎は追いたかったが、軍の動揺が激しく諦めざるを得なかった。太刀を納め、退却の号令をかけるのだった。



「上手くいきましたな」
「ああ、あそこまで叩けば、しばらくは口を出してこぬであろう」

虎昌とともに海津城へ引き上げる義信。そんな彼らの前に騎馬が三騎現れる。

「何者か!?」

見たこともない装束を纏っている者たちに虎昌が警戒の声を上げる。すると、そのうちの一人が下馬して進み出て兜を脱いだ。

「驚かせて申し訳ない」
「信之?」

それは弟の信之だった。

「その格好は?」
「ああ、この二人から友情の証として貰った物にございます」

信之が振り返ると、後ろの二人も下馬する。一人は黒髪に焦げ茶の瞳。もう一人は金の髪に緑の瞳。どちらも一目で異国の者と分かる容貌であった。

「その者たちは南蛮人か?」
「いや、南蛮人とは少し違うのですが……」
「?」

信之が困ったように頭を掻いている。義信はその様子を不思議そうに見つめていた。

「ノブユキ、急ごう」
「ああ、そうだな」
「桔梗が合図を待っているはずだ」

その言葉に信之は義信に【これから最後の仕上げをする】と言い、今一度馬上の人となる。

「詳しいことは城に戻り次第、お話しします」
「分かった」

義信は三人を見送った。

「若殿、信之様は大丈夫でありましょうか?」
「心配はいらぬ。信之が来たということは雑賀の鉄砲を手に入れたということだ」
「なるほど」
「我らは海津城で吉報を待つことにしよう」

義信の確信に満ちた言葉に虎昌も納得したのであった。



一方、犀川の北東にある栗田城近くにでは善光寺に引き上げてくるであろう上杉勢を待ち構えている一団があった。

「頼貞様、上杉はここを通るんですよね?」
「ええ。旭山城から小荷駄こかだが出ておりますし、動きがあったのを確認しております」
「なら、あとは合図を待つだけね」

頼貞の言葉に頷いたのは桔梗だ。その後ろに控えるは桔梗が父・鈴木孫六を説き伏せて連れてきた雑賀衆さいかしゅうが誇る鉄砲隊である。

「三郎のためにも……」



「ノブユキ!」
「ユアン、どうした?」
「どうやら、先回り出来たみたいだ」

金髪の青年、ユアンがその緑の目を輝かせて指さす。そこには義信の隊に追い打ちをかけられ、満身創痍の上杉勢であった。

「で、この矢を射れば良いんだよな?」

それは鏑矢かぶらやであった。射れば音の鳴るそれはしばしば開戦の合図として用いられる。ユアンは弓を取り出し、鏑矢をつがえる。ギリギリまで引き絞り、空に向かって射きった。鏑矢はヒュンッと音を立てて空に吸い込まれていったのだった。

その音は桔梗たちの元に届いた。

「鏑矢の音だ!」
「みんな、準備は良い?」

後ろを振り返ると、雑賀衆の面々は待っていましたとばかりに笑みを浮かべている。雑賀衆は一斉に旗を掲げ、ときの声を上げる。

「な、なんだ?」
「御実城様! あれを!!」

宇佐美定満は何かを見つけたらしく、声のする方を指さす。そこに翻っているのは【八咫烏やたがらす】の旗。

「八咫烏の旗、だと?」

政虎は愕然とした。八咫烏は雑賀衆が用いる家紋だからだ。それが何を意味しているか瞬時に理解した政虎であったが、時既に遅し。先頭は雑賀衆の鉄砲の餌食となった。辺りには怒号と悲鳴が上がり、最早統制の取れない状況となっている。
その状況を確認した頼貞が桔梗に声をかける。

「桔梗殿、撃ち尽くしたなら長居は無用ですぞ」
「わかったわ」
「先導は我々にお任せ下さい」

頼貞に促され、桔梗は号令をかける。

「深追いは禁物。みんな引き上げるよ!!」

雑賀衆はその号令に従い、速やかにんじょうを後にした。土地勘のある頼貞に先導され、悠々と海津城へ帰還したのである。



雑賀の鉄砲隊の登場に混乱した上杉勢。政虎はどうにか纏め上げ善光寺まで引き上げた。

「御実城様……」

声をかけてきたのは宇佐美定満と直江実綱だった。一息つく政虎に二人はどう声をかけるべきか悩む。

「してやられたわ」

先に口を開いたのは政虎だった。その顔には悔しさがにじみ出ている。二人は拳を握りしめ、目を伏せるしかなかった。

「出直しだ」

政虎は笑みを浮かべた。主君の前向きな言葉に二人の表情も明るくなる。

「そうでございますな。勝敗は兵家の常。気に病むことはありませぬ」
「次にまみえるときは叩きのめしてやりましょう」

定満・実綱の励ましに政虎は頷いた。

「公方様の意に添えず不甲斐ないが、雑賀衆が武田に付いたのであれば仕方ない」
「ですな。信濃の仕置きは後回しにし、北条を成敗しますか」
「うむ。関東をあるべき姿に戻す。そのために春日山に帰還次第、立て直すぞ」

政虎は決意を新たにし、越後へと帰国したのだった。

四度目の戦いは表向き明確な勝敗がつかなかったと伝えられる。だが、その場を見たものならば勝敗は明らかである。上杉政虎の敗走。それは武田の勝利を意味した。
この結果は武田の命運を大きく変えることになるが、それはまだ先の話である。

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