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風の章

父の駿河追放

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天文十年(1541年)六月。信虎・晴信率いる武田の軍勢は甲府に帰陣する。その後、晴信や信方の勧めで信虎は娘のさだが嫁いだ駿府すんぷへと向かったのである。

「信方、そなたに頼みたいことがある」
「御館様?」

甲斐と駿河国境を前にして信虎は信方に声を掛けた。その様子に晴信の企てを見破られたかと内心動揺する。だが、それを悟られぬよう慎重に言葉を選んでいると、信虎がフッと自嘲的な笑みを浮かべた。

「帰国後、晴信に家督を譲ろうと思っておる」
「御館様……」
「先の戦で晴信の目に灯る野望の光を見た。それこそ、我ら武田に必要なものだ。【武家の棟梁】を目指すには、な」
「それで、それがしにどうしろと?」
「晴信は若い。若さ故の誤りもあろう。そなたは虎康や虎胤と共にそれを諫め、正しき道へと導いてやってくれ」

信虎は既に腹をくくっているようで一度躑躅ヶ崎つつじがさきやかたのある甲府の方角に視線をやる。その後は振り返ることなく駿河に入ったのであった。



信虎が駿河に入った頃、晴信は【信虎の名代】としながらも着々と家督相続に向けて手はずを整えていた。

「虎昌も昌景も若殿の家督相続に異論ないそうです」
「工藤や穴山はどうだ?」
「共に若殿に賛同すると」

虎康の報告から安堵のため息をつく晴信。膝に置いた拳を強く握り気を引き締める。今後の方針の確認をしていく。その最中、音もなく勘助が現れた。

「若殿……」
「どうした?」

勘助は懐から一通の文を取り出し、スッと晴信に差し出す。晴信が手に取ると勘助はこくりと頷き文を読むように促した。
文は今川義元からのもので、信虎を引き受ける旨が記されていた。晴信はほくそ笑み、自身の家督相続に確かな手応えを掴んだのだった。



それから程なくして、信虎が駿府を発ち帰路につく。晴信は迎えと称して国境まで馬を飛ばした。

「若殿、いよいよですな」
「ああ。皆の者、抜かりはないな?」

晴信は緊張の面持ちで家臣たちを振り返る。皆、戦に向かうが如く殺気立っていた。さもありなん。これから自分たちは現当主をだまし討ちにするが如く追い出し、弱冠二十一才のこの青年を当主に据えようというのだ。失敗すれば自分たちの首が飛ぶかもしれない。
それでも晴信の若さに賭けるべきだと信じて疑わなかった。

「若殿、見えて参りましたぞ」

虎康の言葉でこちらへ向かってくる一団が見えてきた。晴信は手綱を持つ手に力を入れる。

(ここまできたのだ。後に引くわけにはいかない。武田のためにもやるのだ)

そんな晴信の気負いを感じたのか、信方が轡を並べ、力強く頷いた。振り返れば自分についてくれた家臣たちも同じ気持ちでいてくれるようだ。

「若殿、参りましょう!」
「御館様にこれからの武田は若殿が背負って参ると堂々と申すのです」
「虎康、虎昌……」
「心配なさいますな。この工藤もついております」
「武勇なればこの昌景も負けてはおりませぬぞ!」

その気持ちが晴信を奮い立たせた。そこへ勘助が報告に現れた。

「御館様は板垣殿によってとどめ置かれておりまする」
「うむ、わかった」
「若殿……」
「皆の者、参るぞ!」
「「「おお!」」」

まるで鬨の声を上げるが如く、晴信たちは信虎の元へと馬を走らせる。自分たちこそが武田の未来を切り開くのだとの信念の元に……。



その頃、信虎は信方に迎えられたが、その場で足止めされていた。信虎は訝しんだが信方の【若殿が迎えに上がられますので】との言葉に【ならば】と留まったのだった。
だが、長年身近に使えていた宿将である信方の異変に気付かぬ信虎ではない。ほんの僅かな揺らぎを感じ取り、息子・晴信の決意を察した。

「信方、晴信は儂を駿府へ追い返すつもりか?」
「御館様……」

信方の一瞬の困惑を信虎は見逃さなかった。信方は太刀に手を伸ばした。信虎の気性なれば晴信を一刀両断に切り捨てることも出来る。そうなれば、晴信の目指す天下取りは消えてなくなる。信方は太刀のつかを握りしめる。だが、何故か信虎は大声を上げて笑い出した。主君の気が触れでもしたかと信方は柄から手を離し顔を上げる

「御館様?」
「とうとう、晴信は意を決したか!」

信虎のその笑顔は清々しくあった。信方はついぞ見たことのない主君の笑顔に驚き、戸惑う。信虎はそれすらも見抜いているようでカラカラと笑う。

「どうやら、儂の【下手な芝居】もこれで終いのようじゃ」

今度は少し寂しげに笑った信虎。そこへ晴信の一行がたどり着いた。

「晴信、ご苦労」
「父上……」
「だが、この迎えは不要である」
「え?」
「儂は駿府へ引き返すことにする」
「!!!」

晴信は驚愕のあまり言葉を失う。そして、自分を見据える信虎の視線から企みが既に露見していることを悟った。

「古傷が痛み出してのぉ。駿府の婿殿の元なら良い医者もおろう」
「さ、左様でございますな」
「それで、じゃ。この際、儂は隠居してそなたに家督を譲ろうと思う」
「父上?!」
「とはいえ、今までのことがある。儂のやり方に我慢ならぬ故追い出し、家督を奪い取ったとでもしておけ」

晴信に付き従ってきた家臣たちも呆然となっている。それを笑い飛ばす信虎は晴信の背をバンと叩いて気合いを入れる。

「晴信、そなたは親不孝者のそしりを受けてでも天下を狙うと決めたのであろう?」
「はい……」
「ならば、その決意を貫き通せ」

父の力強い言葉と優しい眼差しに晴信は熱いものがこみ上げてくる。それを必死に隠すように袖で顔を擦り、涙を隠す。

「これからはそなたが武田の当主ぞ」
「はい!」

信虎は晴信の肩に手を置き、強く励ます。それに応えるように決意を新たにする晴信。その瞳には力強さが煌めいている。

(子はいつの間にか親を飛び越えるものよ)

信虎は息子の成長を嬉しくも寂しく思う。だが、晴信の決意を曲げさせるつもりはない。信虎は踵を返し、愛馬に跨がる。

「さらばじゃ、晴信」
「父上も御達者おたっしゃで……」

信虎は従者に指示を出し、来た道を引き返して馬を走らせた。そして、振り返ることなく大声で晴信に呼びかけた。

「太郎!そなたはこの信虎自慢の息子である!!最後まで己を貫き通せ!!!」

信虎の豪快な笑いが辺りに響く。晴信たちはその姿が見えなくなるまで見送り続けた。それと同時に決意を新たにしたのは言うまでもない。

「信方、俺は何が何でも武田を【武家の棟梁】にする」
「若殿、いや御館様なれば必ずや出来ます」

それは同行した全員同じ思いであった。皆、力強く頷いている。それを見て晴信の決意は一層強いものになった。

「まだまだ至らぬところもあろうが、俺についてきてくれ」
「勿論にございます!」
「我らがお支え申しますので、御館様は大船に乗った気でおって下され!」

皆が晴信を支えることを誓ってくれる。それが晴信にはありがたかった。その思いに報いるためにももっと強くならねばと思う晴信であった。



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