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第14話

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 東京競馬場、日本で最も大きな競馬場である。ジャパンカップに出走する海外招待馬の最終調整はここで行われる。
 仁菜はソレイユ・ノアールの最終追い切りを行っていた。

「ニーナ、ソレイユ・ノアールの感触はどうだ?」
「絶好調ですよ。懸念材料は日本の芝への対応力ですが、当日の天候が味方してくれると思います」
「そうか……」

 調教後、ゲイリーにソレイユ・ノアールの調子を問われ、仁菜は笑顔で答える。そこへサクル・サハールの最終追い切りに向かうヴァネッサと出くわす。

「チャオ! 調子を上げてるみたいね」
「ええ、凱旋門賞の借りはきっちり返すわよ」
「ふふ、それは楽しみ。でも、最後に笑うのは私たちかもよ」

 不敵な笑みを浮かべるヴァネッサに仁菜は肩をすくめる。

「それにしても派手な入国だったわね」
「サイードが自分たちに注目が集まれば、ニーナへの注目度も下がるだろうって……」
 

 ヴァネッサがため息交じりに答える。サイードも凱旋門賞での一幕を目にしている。鷲尾兵馬のことをアレクセイ以上に嫌悪していたようだ。派手に来日することで鷲尾兵馬の面目を潰そうとしたのだろう。

「あ、そうそう」
「?」
「ユキコから、午後スクーリングに誘われたんだけどニーナもいく?」

 仁菜は二つ返事でその誘いを受けた。



「この辺りがスタート地点になります」

 仁菜はヴァネッサと共に芝コースに出た。2400mで行われるジャパンカップのスタートはメインスタンド前。仁菜はそれを見上げ、この場所を埋め尽くす10万人の観衆を想像する。
 幼い頃、タガノテンジンが天皇賞・秋に出走したときのことを思い出す。父に連れられガラス張りの馬主席から見下ろした。スタンドはヒートアップした人々で埋め尽くされており、出走前のファンファーレに合わせた手拍子。次々とゲートインするサラブレッドたち。それを固唾をのみ見守る関係者。

「仁菜さん?」
「あ……」

 雪子の呼び声に仁菜は現実へと引き戻される。

「そろそろ行きましょうか」
「そうね」

 仁菜とヴァネッサは雪子に案内され、芝コースをゆっくりと歩き始める。

「1~2コーナーにかけてゆっくり降ってるのね」
「はい。その後、向こう正面で登っていきます」

 三人で芝の感触を確かめるように歩いて回る。

「へぇ、内馬場にはファミリー向けのスペースもあるのね」
「小さなお子さんには結構人気なんですよ」
「それにスタンドとは違う景色も楽しいわ」
「仁菜さんは来たことあるんですか?」

 仁菜は懐かしむように笑みを浮かべる。

「うちは生産者だったから……」

 天野牧場の一人娘であった仁菜はよく競馬場に連れてこられた。父・彰仁あきひとが後を継いでくれることを望んでいたためだ。そのために自分が生涯をかけて育て上げたサラブレッドたちがどれほど素晴らしいかを見せたのだ。その最高傑作がタガノテンジンだった。白い馬体が先頭を切ってゴールする姿に興奮したのを今でも覚えている。
 過去へと思いを馳せているとヴァネッサにきつく抱きしめられる。

「ヴァネッサ?!」
「ニーナにとって幸せだった頃の象徴なのね」
「そ、そこまでは行かないけど……」

 ぐりぐりと頬ずりしてくるヴァネッサに仁菜は苦笑するしかない。そんな二人の様子に雪子も困った顔をしている。

「えっと、時間が押しちゃうんでそろそろ行きましょう」
「そうね。この先の3コーナーからまた降っていくのよね?」
「はい。その後はゆっくり上り坂になります」
「あの、大ケヤキ辺りからだっけ?」
「そうです」

 3~4コーナーの中間点に位置する辺りに1本のケヤキの木がある。東京名物の一つでもあるそれはクライマックスを告げる目印とも言える。

「4コーナーを曲がったところで東京競馬場名物、高低差2mの【だんだら坂】です」

 雪子の先導で仁菜とヴァネッサはそれを見上げる。その高低差はサラブレッドの心肺能力を試されるのでないかと思えるほど急坂である。

「これを超えた先には……」

 三人が坂を登り切るとそこに待っていたのは500mを越える直線だ。

「改修後、ゴール板が1コーナー手前に変更になったので最後の直線が500m以上になったんです」
「騎手の裁量とサラブレッドのポテンシャルが試されるわね」

 いつになく真剣な表情のヴァネッサに仁菜も気を引き締める。その直線を半分くらいまで来たところでヴァネッサが振り返る。

「ニーナ、ここからは競争よ!」
「は?」
「負けた方がフルーツパフェを奢るのよ!!」
「ちょっ!」

 ヴァネッサは言い終わらないうちにかけ出していた。仁菜は舌打ちしつつもかけ出した。彼女のことだからとんでもなく高いフルーツパフェを奢らせるに決まっているから……。

「そんな調子じゃ、私の勝ちね」

 そう言って高笑いをするヴァネッサの姿が仁菜の心に火を付けた。

「毎日、アキレウスの世話をしてきたのは誰だか忘れたの?!」

 仁菜はニヤリと笑みを浮かべると、ギアを一段上げ加速する。あっという間にヴァネッサに追いつくと抜き去り、大差を付けてゴール板を駆け抜けた。

「私の勝ちね。約束通り、パフェを奢りなさいよ」
「じゃ、東京で一番美味しいお店を教えなさい」

 二人は1コーナー付近で仰向けに倒れ込んで息を整えながら空を見上げる。秋晴れのそれはどこまでも青く高かった。

「ふ、二人とも物凄く、速い、んですね……」

 ようやく追いついてきた雪子がぜぇぜぇと息を切らせながら二人の元にやってきた。仁菜とヴァネッサは起き上がりながら笑い声を上げた。



 その日の夜は都内某所でジャパンカップのレセプションが行われた。注目を集めたのはやはりサイードとヴァネッサだ。成田空港ではハリウッドスター並みに報道陣が集まり、騒然となったのは記憶に新しい。おかげで、仁菜が注目を集めることはなくホッとした。

「鷲尾社長、よっぽどあの件が腹に据えかねたみたいだな」
「ああ、そうでなきゃ三頭出しなんてしないだろう」

 そんな囁き声が聞こえてくる。仁菜は敢えてそれを無視した。そんな彼女に声をかけたのはアレクセイだ。

「言わせたいヤツには言わせておきなさい。君の答えはターフにある。そうだろう?」
「ムッシュ・ルブラン、その通りです。必ず勝ってみせます」
「期待しているよ」

 会場にどよめきが広がった。鷲尾兵馬が壇上に上がっている。一緒に並んでいるのは津島直哉とその弟・毅、そして雪子だ。直哉と雪子はかなり複雑な表情でその場に立っている。

「遠くアイルランドからこの儂に戦いを挑んできた小娘がいたのでひねり潰してやることにしたんですよ」

 その言葉に仁菜は怒りがこみ上げるのを感じた。どうやら、司会者から毅が主戦を務めるシュバルツアードラを出走させることにしたのかを尋ねられたようだ。シュバルツアードラは今年の三冠馬。大半は次は有馬記念だろうと予想されていた。だが、ヴァイザァブリッツの凱旋門賞惜敗後、進路変更を宣言したのだ。

「それに、古馬最強馬と三冠馬の対決の方が盛り上がるでしょう!」

 下卑た笑いがマイク越しに響き渡る。だが、それを遙かに上回る笑い声を上げる者がいた。ヴァネッサだ。彼女はその赤毛をなびかせ壇上に近づくと、宣言してみせた。

「馬にも乗れない豚がわめくんじゃないわよ!」

 ヴァネッサはイタリア語でしゃべっているため、彼女の言葉を理解しているのはごく僅かだ。仁菜は嫌な予感がした。そして、それは見事に的中する。

「本物の競馬がなんたるか。私のサクル・サハールと……」

 そこで一旦言葉を切り、仁菜に微笑みかけてから続けた。

「ニーナのソレイユ・ノアールが教えてあげるわ!」

 その力強い宣言に海外の関係者のどよめきが広がった。イタリア語の分からない兵馬と毅だけがぽかんと口を開けている。ヴァネッサはくるりと向きを変え、会場を後にしたのだった。

「なぁ、ゆっきー。あの美人さん。なんて言ってたんだ?」
「えっとね、オーナーのこと豚っていったの」
「マジかぁ」
「自分の乗るサクル・サハールと仁菜さんが乗るソレイユ・ノアールで本当の競馬を教える、って……」
「あー、それで海外プレスが色めきたった訳ね」

 毅は納得したようだった。そんな中、兵馬の秘書らしき男が耳打ちをする。どうやらヴァネッサが何を言ったか伝えたのだろう。みるみる顔が真っ赤になっていった。

「二人ともここから離れるぞ」
「それが無難だな」
「それが良いと思います」

 直哉に促されて毅と雪子も兵馬につかまる前に会場を抜け出した。



「私を巻き込まないで欲しいんだけど」
「あなたがあの豚に喧嘩を売ったのに何も言わないからでしょ」
「喧嘩売った訳じゃないんだけど」
「向こうじゃ、そう捕らえてるわよ。ニーナ・マグワイアは礼儀を知らない豚に決闘を申し込んだって」

 仁菜は頭を抱える。どうやら、自分が思っていた以上に鷲尾兵馬は嫌われていたらしい。そのため、彼に正面切って喧嘩を売った自分は英雄視されてしまったようだ。

「まぁ、これでレースは盛り上がるんだから」
「そ、そうね」

 最早、仁菜からは乾いた笑いしか出ない。そんな彼女を励ますように肩を叩くヴァネッサは楽しそうに手を振ってサイードの用意したリムジンに乗り込んだ。

「賽は投げられたってことね」

 仁菜は独りごち気を引き締めたのだった。


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