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第十一章 鉄の棺が閉まる音
<side-SHINO>
いよいよボジョレーヌーボーの解禁日が来た。
俺は、殺気立っているワイン課の連中にくっついて、『薫風』のサンプルボトルを携え、デパ地下にのり込んだ。
ボトルのデザインは、柿谷酒造のこれまでのラベルとは全く正反対の、女性的で洗練されたデザインになっていた。
日本酒というよりは、オシャレなリキュールといった風情だった。
俺は川島と田中さんの三人で、薫風をお酒の販売コーナーに運んだ。
今日は、加寿宮の特設販売ブースが設けられている。
薫風は、その片隅でサンプルボトルの配布をさせてもらえることになっていた。
まずはお客様に少しだけ試飲をしてもらって、反応がよかった人に簡単なアンケートに答えてもらい、そのお礼にサンプルボトルを手渡すという段取りになっていた。
ボジョレーヌーボーは、女性客が買って行くことが多いのはこれまでのマーケティングの実績で分かっていたから、この作戦はある程度、的を絞って行えるはずだ。
その読みは、見事的中した。
ワインに興味を示してやってくるお客様のほとんどが、薫風にも興味を示した。
俺が試飲カップを差し出すと、どのお客様も快く手に取ってくれ、アンケートにも率先して答えてくれた。
アンケートは、薫風の味の感想やボトルのデザインについての感想、それからお酒を飲む時はどんな時といったような薫風に関する情報を得るためのもので、「もしよければ」という条件付きで住所を書いてくれるお客様には、後ほど加寿宮のオンラインサイトで使えるクーポンコードと薫風の正式発売告知のDMを送るようにしていた。不思議なことに、その顧客リストの用紙にも、どんどん名前が書き込まれていった。
俺達三人はまさに嬉しい悲鳴で、てんてこ舞いになりながらも、お客様を捌いていった。
お昼過ぎには、柿谷の親父さんと奥さんが遠いところからわざわざ来てくれた。
サンプルボトルがもう既になくなりかけてるのを見て、親父さんは目を丸くしていた。
「リストにも、こんなに住所を書いてくれて」
田中さんが顧客リストを見せると、奥さんもビックリしていた。
「まぁ、凄い!」
「大成功じゃねえが、俊介」
親父さんが俺の肩を叩く。
「でも、これが売り上げにつながらないと意味がありませんから・・・。まだまだ気は許せないですよ。本当の勝負は、まずクリスマス。そして年末です」
「んだな。クリスマスには、うぢも売り子を手伝いに出すから」
「ありがとうございます。そうしていただいたら、凄く助かります」
「なぁに言ってんだっぺや。うちの商品を売ってくれんのに、うちが何もしねぇのは、示しがつがね。征夫も勉強のためによこすっぺ」
親父さんがそう言った時、親父さんの背後に千春が立っているのが見えた。
黒ブチの伊達眼鏡にタートルネックのセーター。細身のジーンズ、長めの丈のグレイのジャケット。
地味でシンプルな格好だったけれど、相変わらず本当に格好よくて。
この間の日曜日以来、なんとなくギクシャクしてたから、千春が来てくれたのは本気で嬉しかった。
「ちょっと、すみません」
俺は親父さんに頭を下げて、間をすり抜けた。
「来てくれたのか」
「 ── ええ。流潮社に行ったついでに・・・」
ついでにしちゃ、全然方向が違うくせに。
相変わらずの『ツン』様ぶり発揮だよ、と思いつつ、「今日は車?」と訊くと「いえ、電車です」と答えた。
「電車?」
俺は驚いて千春を見た。千春は、苦笑いを浮かべる。
「たまにはね。そういう気分だったんですよ」
「じゃ、試飲できるな。田中さん! カップ持ってきて」
田中さんが、試飲カップを持ってきてくれる。
「はい、どうぞ・・・」
田中さんが千春にカップを手渡す。
「ああ、ありがとうございます。これ? シノさんが営業主任になって販売してるお酒」
「そう。『薫風』っていうんだ。発泡系の日本酒なんだけど」
「ふ~ん・・・。あ、ホントだ。口当たりがいいですね。飲みやすい」
「だろ?」
「女性向けってイメージのボトルですけど、これ、男でもこういうの好きな人多そうですよ。飲み口すっきりしてるから」
「あ、それ、アンケートに書いていってくれよ。そしたら、サンプルボトル渡せるし」
「ええ、いいですよ」
「田中さん、アンケート・・・って、田中さん?」
俺の横に立つ田中さんに目をやると、田中さんは千春を見上げたまま、なぜか硬直してた。
「田中さん、大丈夫?」
俺が肩を叩くと、田中さんはパチパチと大きく瞬きをした。
「え? あ! ご、ごめんなさい! ぼーとしちゃって・・・」
さては、千春があんまり男前なんで、見惚れてたな。
田中さんはバタバタと長机まで戻って、アンケートと顧客リスト票を持ってくると、千春にそれを渡した。
田中さんが、一連のことを説明する。
千春は頷いて、バインダーに挟まれたアンケート用紙に感想を書き込んでくれた。
「おい! 俊介! もう行ぐがら」
柿谷の親父さんが片手を上げる。俺は、千春に「ごめん、ちょっと待ってて」と声をかけて、親父さんのところまで走った。
「今日は本当にありがとうございました」
頭を下げると、「おう、またな」と言って、親父さんは歩いて行く。
奥さんもてっきりついて行くかと思いきや、俺の顔をじっと見た。
「なんですか?」
「俊ちゃんを変身させたの、あのお友達じゃない?」
「え?」
俺はマジマジと奥さんを見た。
奥さんはフフフと笑う。
「だって、今の俊ちゃんの雰囲気、あの人にそっくりだもん。似てっぺ。周囲に漂ってる匂いが一緒だもん。随分、仲がいいんだっぺや」
「よく分かりますね」
「女の勘を舐めだらいがんよ。でもおばちゃん、あの人どっかで見たように思うんだげどねぇ・・・。どこで会ったっけ・・・」
奥さんはそう言って首を傾げたが、「おい! 早くこねぇが!」と親父さんに怒鳴られて、行ってしまった。
さすがの奥さんも、千春が売れっ子作家だってことまでは気がつかなかったか。
「じゃ、シノさん、僕も行きますね」
千春が声をかけてくる。
「アンケート、書いた?」
「書きましたよ。ちゃんと顧客リストにも」
見ると、田中さんが顧客リストを挟んであるバインダーをしっかと胸に抱き締めている。
「じゃ、これ」
俺は千春にサンプルボトルを手渡した。
千春がニコッと笑う。
久しぶりに見るような気がするな、千春の笑顔。
「今夜はまた遅いんでしょ」
「ああ、そうなんだ。今日は、このイベントの後片付けと反省会があるから、かなり遅くなると思う」
「分かりました。じゃ、夕食は用意しません。頑張って。あまり無理しないように」
「ああ。ありがとう」
千春は小さく手を振って、人ごみの中に消えて行った。
俺は大きく伸びをする。
「さぁ、もうひと頑張りだ・・・!」
俺が長机まで戻ると、田中さんがひとりブツブツと呟いていた。
「 ── この住所、どっかで見たことがあるのよねぇ・・・」
<side-CHIHARU>
人が一生懸命に働く姿って、美しい。
デパ地下でシノさんが懸命にお客さんに声をかけているのを見て、心底そう思った。
少し様子を観察していたら、女性客のほとんどがシノさんの笑顔に心を掴まれてるようで、皆魔法にかけられたようにアンケートに記入していた。
そりゃ、そうだ。
今のシノさんが魅力的に見えない人間は、余程目が腐ってる。
僕は、シノさんが頑張って売ろうとしているお酒がどんなものか気になって、ついついデパ地下に来てしまった。
僕が行くと丁度酒蔵の人も来ていたようで、シノさんの事を「俊介」と呼んで、親しそうに話をしていた。
シノさん、きっと息子のように慕われてるんだよね。
シノさんは気付いていないけれど、シノさんのことを放っておけない人は、この世にたくさんいる。
酒蔵の人もそう、デフォルトの美住さんだってそう、葵さんだってそう。
シノさんを知った人は、すべからく彼の魅力の虜になってしまうんだ
聡子チャンや・・・この僕のようにね。
だからシノさん、シノさんは独りなんかじゃないんだよ。
全然、独りぼっちなんかじゃない。
シノさんが困れば、きっと誰かが必ず駆けつけてくれる。シノさんが寂しいと言えば、きっと誰かが慰めてくれる。
── 僕じゃ、なくてもね。
未練があるのは僕の方で、それを僕はなんとかしなくちゃと思っていた。
相変わらずシノさんは、聡子チャンと会っているようだし、早々に恋愛塾の修了をシノさんに告げるべきなのに、僕はまだそれができずにいる。
僕は、自分が意外にも執着心の強い人間だということを思い知った。
まったく、愚かとしか言えない・・・。
その後僕は、西森さんのレストランでひとり食事をし、昔よく通っていた南青山のバーに足を運んだ。
このバーは文化人が多く出入りする大人のバーで、吹越さんとよく来ていたことがある店だった。
バーテンの溝渕さんは、僕が未成年である事を見抜くと、一切酒類を出してくれなかった。
だから、今日は初めてあの店で静かに酒を飲みたいと思いついたんだ。
店のドアを開けると、溝渕さんは、なんと僕のことを覚えていた。
カウンターの席に座り、「よく覚えてましたね」と言うと、「忘れられるはずがないよ」と答えた。
「ここでずっとソフトドリンク飲んでいたのは、君だけだからね」
ハハハと僕は笑った。
「出してくれなかったのは、溝渕さんでしょ?」
「当然でしょう。でも今日は、お酒、飲めそうだね」
「ええ、もう26ですから」
「そうだねぇ。何を飲む?」
「グレンフィデック。ストレート」
溝渕さんが眉をくいっと上げる。
「大人になったなぁ」
溝渕さんはグレンフィデックが入ったグラスに、水の入ったグラスを添える。
── チェイサーにビールを頼むだなんて、大人だなぁ・・・
シノさんと前に交わした会話を思い出す。
本当の大人は、静かにお酒の味を楽しむことができる人のことを指すんだよ。
僕は、フフフと笑う。
シノさんは僕より6つも年上だけど、時には僕よりずっと年下のようにも思えるし、時には僕がとても追いつかないぐらい大きな包容力で人を包み込む大人の面も見せることもある。
ホント、あの人、年齢不詳。
「成澤くん、随分雰囲気が変わったね」
「え?」
溝渕さんにそう言われ、僕は顔を上げる。
「昔はなんかいろいろ尖っていたというか。今は随分優しくなった。穏やかな顔をしてるよ」
「穏やか? ・・・内心は誰かさんの所為で、全然穏やかではないんですがね・・・」
僕は右手で顔を擦りながら、苦笑いした。
だって僕は今、シノさんを手放すのに四苦八苦で、全然自分が整理できずにいるのに。だから穏やかなんて、とてもじゃないけど・・・。
「そうなのかい? じゃ、その誰かさんが君を変えたんだ。その誰かさんのことを考えている君は、とてもいい感じだよ。素敵な恋、できてるんだな。 ── よかった」
溝渕さんは、暗に吹越さんの時のことと比べて、そう言ってるんだろう。
きっと僕が吹越さんにどんなフラれ方をしたのか、風の噂で知っているに違いない。
僕は昔 ── というよりか今も、夜の文化界ではちょっとした問題児として有名で、あの小生意気なゲイのクソガキがズタボロにされて捨てられたという話は、十二分に面白いネタだったろうから。
僕は、ゆっくりとグレンフィデックを味わった。
ほろ苦くて、少し舌が痺れる。
僕が水を少し口に含んだ時、店のドアが開いた。
「いらっしゃいませ・・・」
溝渕さんの声が濁っていた。
僕は怪訝に思い、入口に目をやる。
「マスター、お久しぶり」
そこにいたのは、白髪が随分増えた吹越さん、その人だった。
<side-SHINO>
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俺は、殺気立っているワイン課の連中にくっついて、『薫風』のサンプルボトルを携え、デパ地下にのり込んだ。
ボトルのデザインは、柿谷酒造のこれまでのラベルとは全く正反対の、女性的で洗練されたデザインになっていた。
日本酒というよりは、オシャレなリキュールといった風情だった。
俺は川島と田中さんの三人で、薫風をお酒の販売コーナーに運んだ。
今日は、加寿宮の特設販売ブースが設けられている。
薫風は、その片隅でサンプルボトルの配布をさせてもらえることになっていた。
まずはお客様に少しだけ試飲をしてもらって、反応がよかった人に簡単なアンケートに答えてもらい、そのお礼にサンプルボトルを手渡すという段取りになっていた。
ボジョレーヌーボーは、女性客が買って行くことが多いのはこれまでのマーケティングの実績で分かっていたから、この作戦はある程度、的を絞って行えるはずだ。
その読みは、見事的中した。
ワインに興味を示してやってくるお客様のほとんどが、薫風にも興味を示した。
俺が試飲カップを差し出すと、どのお客様も快く手に取ってくれ、アンケートにも率先して答えてくれた。
アンケートは、薫風の味の感想やボトルのデザインについての感想、それからお酒を飲む時はどんな時といったような薫風に関する情報を得るためのもので、「もしよければ」という条件付きで住所を書いてくれるお客様には、後ほど加寿宮のオンラインサイトで使えるクーポンコードと薫風の正式発売告知のDMを送るようにしていた。不思議なことに、その顧客リストの用紙にも、どんどん名前が書き込まれていった。
俺達三人はまさに嬉しい悲鳴で、てんてこ舞いになりながらも、お客様を捌いていった。
お昼過ぎには、柿谷の親父さんと奥さんが遠いところからわざわざ来てくれた。
サンプルボトルがもう既になくなりかけてるのを見て、親父さんは目を丸くしていた。
「リストにも、こんなに住所を書いてくれて」
田中さんが顧客リストを見せると、奥さんもビックリしていた。
「まぁ、凄い!」
「大成功じゃねえが、俊介」
親父さんが俺の肩を叩く。
「でも、これが売り上げにつながらないと意味がありませんから・・・。まだまだ気は許せないですよ。本当の勝負は、まずクリスマス。そして年末です」
「んだな。クリスマスには、うぢも売り子を手伝いに出すから」
「ありがとうございます。そうしていただいたら、凄く助かります」
「なぁに言ってんだっぺや。うちの商品を売ってくれんのに、うちが何もしねぇのは、示しがつがね。征夫も勉強のためによこすっぺ」
親父さんがそう言った時、親父さんの背後に千春が立っているのが見えた。
黒ブチの伊達眼鏡にタートルネックのセーター。細身のジーンズ、長めの丈のグレイのジャケット。
地味でシンプルな格好だったけれど、相変わらず本当に格好よくて。
この間の日曜日以来、なんとなくギクシャクしてたから、千春が来てくれたのは本気で嬉しかった。
「ちょっと、すみません」
俺は親父さんに頭を下げて、間をすり抜けた。
「来てくれたのか」
「 ── ええ。流潮社に行ったついでに・・・」
ついでにしちゃ、全然方向が違うくせに。
相変わらずの『ツン』様ぶり発揮だよ、と思いつつ、「今日は車?」と訊くと「いえ、電車です」と答えた。
「電車?」
俺は驚いて千春を見た。千春は、苦笑いを浮かべる。
「たまにはね。そういう気分だったんですよ」
「じゃ、試飲できるな。田中さん! カップ持ってきて」
田中さんが、試飲カップを持ってきてくれる。
「はい、どうぞ・・・」
田中さんが千春にカップを手渡す。
「ああ、ありがとうございます。これ? シノさんが営業主任になって販売してるお酒」
「そう。『薫風』っていうんだ。発泡系の日本酒なんだけど」
「ふ~ん・・・。あ、ホントだ。口当たりがいいですね。飲みやすい」
「だろ?」
「女性向けってイメージのボトルですけど、これ、男でもこういうの好きな人多そうですよ。飲み口すっきりしてるから」
「あ、それ、アンケートに書いていってくれよ。そしたら、サンプルボトル渡せるし」
「ええ、いいですよ」
「田中さん、アンケート・・・って、田中さん?」
俺の横に立つ田中さんに目をやると、田中さんは千春を見上げたまま、なぜか硬直してた。
「田中さん、大丈夫?」
俺が肩を叩くと、田中さんはパチパチと大きく瞬きをした。
「え? あ! ご、ごめんなさい! ぼーとしちゃって・・・」
さては、千春があんまり男前なんで、見惚れてたな。
田中さんはバタバタと長机まで戻って、アンケートと顧客リスト票を持ってくると、千春にそれを渡した。
田中さんが、一連のことを説明する。
千春は頷いて、バインダーに挟まれたアンケート用紙に感想を書き込んでくれた。
「おい! 俊介! もう行ぐがら」
柿谷の親父さんが片手を上げる。俺は、千春に「ごめん、ちょっと待ってて」と声をかけて、親父さんのところまで走った。
「今日は本当にありがとうございました」
頭を下げると、「おう、またな」と言って、親父さんは歩いて行く。
奥さんもてっきりついて行くかと思いきや、俺の顔をじっと見た。
「なんですか?」
「俊ちゃんを変身させたの、あのお友達じゃない?」
「え?」
俺はマジマジと奥さんを見た。
奥さんはフフフと笑う。
「だって、今の俊ちゃんの雰囲気、あの人にそっくりだもん。似てっぺ。周囲に漂ってる匂いが一緒だもん。随分、仲がいいんだっぺや」
「よく分かりますね」
「女の勘を舐めだらいがんよ。でもおばちゃん、あの人どっかで見たように思うんだげどねぇ・・・。どこで会ったっけ・・・」
奥さんはそう言って首を傾げたが、「おい! 早くこねぇが!」と親父さんに怒鳴られて、行ってしまった。
さすがの奥さんも、千春が売れっ子作家だってことまでは気がつかなかったか。
「じゃ、シノさん、僕も行きますね」
千春が声をかけてくる。
「アンケート、書いた?」
「書きましたよ。ちゃんと顧客リストにも」
見ると、田中さんが顧客リストを挟んであるバインダーをしっかと胸に抱き締めている。
「じゃ、これ」
俺は千春にサンプルボトルを手渡した。
千春がニコッと笑う。
久しぶりに見るような気がするな、千春の笑顔。
「今夜はまた遅いんでしょ」
「ああ、そうなんだ。今日は、このイベントの後片付けと反省会があるから、かなり遅くなると思う」
「分かりました。じゃ、夕食は用意しません。頑張って。あまり無理しないように」
「ああ。ありがとう」
千春は小さく手を振って、人ごみの中に消えて行った。
俺は大きく伸びをする。
「さぁ、もうひと頑張りだ・・・!」
俺が長机まで戻ると、田中さんがひとりブツブツと呟いていた。
「 ── この住所、どっかで見たことがあるのよねぇ・・・」
<side-CHIHARU>
人が一生懸命に働く姿って、美しい。
デパ地下でシノさんが懸命にお客さんに声をかけているのを見て、心底そう思った。
少し様子を観察していたら、女性客のほとんどがシノさんの笑顔に心を掴まれてるようで、皆魔法にかけられたようにアンケートに記入していた。
そりゃ、そうだ。
今のシノさんが魅力的に見えない人間は、余程目が腐ってる。
僕は、シノさんが頑張って売ろうとしているお酒がどんなものか気になって、ついついデパ地下に来てしまった。
僕が行くと丁度酒蔵の人も来ていたようで、シノさんの事を「俊介」と呼んで、親しそうに話をしていた。
シノさん、きっと息子のように慕われてるんだよね。
シノさんは気付いていないけれど、シノさんのことを放っておけない人は、この世にたくさんいる。
酒蔵の人もそう、デフォルトの美住さんだってそう、葵さんだってそう。
シノさんを知った人は、すべからく彼の魅力の虜になってしまうんだ
聡子チャンや・・・この僕のようにね。
だからシノさん、シノさんは独りなんかじゃないんだよ。
全然、独りぼっちなんかじゃない。
シノさんが困れば、きっと誰かが必ず駆けつけてくれる。シノさんが寂しいと言えば、きっと誰かが慰めてくれる。
── 僕じゃ、なくてもね。
未練があるのは僕の方で、それを僕はなんとかしなくちゃと思っていた。
相変わらずシノさんは、聡子チャンと会っているようだし、早々に恋愛塾の修了をシノさんに告げるべきなのに、僕はまだそれができずにいる。
僕は、自分が意外にも執着心の強い人間だということを思い知った。
まったく、愚かとしか言えない・・・。
その後僕は、西森さんのレストランでひとり食事をし、昔よく通っていた南青山のバーに足を運んだ。
このバーは文化人が多く出入りする大人のバーで、吹越さんとよく来ていたことがある店だった。
バーテンの溝渕さんは、僕が未成年である事を見抜くと、一切酒類を出してくれなかった。
だから、今日は初めてあの店で静かに酒を飲みたいと思いついたんだ。
店のドアを開けると、溝渕さんは、なんと僕のことを覚えていた。
カウンターの席に座り、「よく覚えてましたね」と言うと、「忘れられるはずがないよ」と答えた。
「ここでずっとソフトドリンク飲んでいたのは、君だけだからね」
ハハハと僕は笑った。
「出してくれなかったのは、溝渕さんでしょ?」
「当然でしょう。でも今日は、お酒、飲めそうだね」
「ええ、もう26ですから」
「そうだねぇ。何を飲む?」
「グレンフィデック。ストレート」
溝渕さんが眉をくいっと上げる。
「大人になったなぁ」
溝渕さんはグレンフィデックが入ったグラスに、水の入ったグラスを添える。
── チェイサーにビールを頼むだなんて、大人だなぁ・・・
シノさんと前に交わした会話を思い出す。
本当の大人は、静かにお酒の味を楽しむことができる人のことを指すんだよ。
僕は、フフフと笑う。
シノさんは僕より6つも年上だけど、時には僕よりずっと年下のようにも思えるし、時には僕がとても追いつかないぐらい大きな包容力で人を包み込む大人の面も見せることもある。
ホント、あの人、年齢不詳。
「成澤くん、随分雰囲気が変わったね」
「え?」
溝渕さんにそう言われ、僕は顔を上げる。
「昔はなんかいろいろ尖っていたというか。今は随分優しくなった。穏やかな顔をしてるよ」
「穏やか? ・・・内心は誰かさんの所為で、全然穏やかではないんですがね・・・」
僕は右手で顔を擦りながら、苦笑いした。
だって僕は今、シノさんを手放すのに四苦八苦で、全然自分が整理できずにいるのに。だから穏やかなんて、とてもじゃないけど・・・。
「そうなのかい? じゃ、その誰かさんが君を変えたんだ。その誰かさんのことを考えている君は、とてもいい感じだよ。素敵な恋、できてるんだな。 ── よかった」
溝渕さんは、暗に吹越さんの時のことと比べて、そう言ってるんだろう。
きっと僕が吹越さんにどんなフラれ方をしたのか、風の噂で知っているに違いない。
僕は昔 ── というよりか今も、夜の文化界ではちょっとした問題児として有名で、あの小生意気なゲイのクソガキがズタボロにされて捨てられたという話は、十二分に面白いネタだったろうから。
僕は、ゆっくりとグレンフィデックを味わった。
ほろ苦くて、少し舌が痺れる。
僕が水を少し口に含んだ時、店のドアが開いた。
「いらっしゃいませ・・・」
溝渕さんの声が濁っていた。
僕は怪訝に思い、入口に目をやる。
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