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<side-SHINO>
朝、会社のエントランスに入り、「おはよう」と受付に軽く挨拶をして階段に向かおうとした時、受付嬢の水城さんから「あの! どちら様ですか?!」と声をかけられた。
最初俺はその声が自分にかけられた言葉だと思わず、そのまま歩いて行こうとすると、再度「あの、お客様!!」と慌てふためいたような声をかけられる。
いくら社員でごった返すエントランスでも、エレベーターホールでなく階段に向かう社員は俺だけで、声は明らかに俺の方に向けられた声だと分かった。
俺はびっくりして振り返る。
え? 俺? と俺が自分を指差すと、水城さんがウンウンと頷いた。
「あの・・・、篠田ですけど」
俺はビジネスバッグから社員証を取り出すと、近づいてきた水城さんの目の前にそれを翳した。
「え?・・・あ、篠田さん?!」
社の看板娘と呼び声の高いあの水城さんが、可愛さをかなぐり捨てるほどの驚き顔で、社員証と俺を何度も見比べる。
「ホントだぁ、篠田さんだ・・・」
水城さんは口元に手をやり、心底感心したように俺の顔を眺めた。
「何、その反応」
俺がそう返すと、水城さんは「だってあんまり変わってるから、わからなくて・・・」と言いながら、受付カウンターに残る同僚の斉藤さんを振り返って、同意を求めるような視線を送った。斉藤さんも、うんうんと頷いている。
「どうしたんですかぁ? 篠田さん」
「どうしたもこうしたも・・・。髪型を変えたんだ」
「それは見れば分かりますよぉ・・・」
彼女はそう言いながら、なぜか俺の手元をジロジロと見る。
「何? 手がどうかした?」
「いやぁ・・・、別にぃ・・・」
水城さんは、そのまま意味不明な事を呟きながら、受付カウンターに戻って行った。
俺は首を傾げながら、営業部のある三階フロアに上がる。
自分の席に着いても、受付と同じような反応を返された。
俺より少し後に出社してきた課長が、俺の席を一旦通り過ぎた後、またわざわざ引き返してくる。
課長は、まるで知らない人を見るかのような目つきで俺を頭から足先まで眺めてきた。
俺は居心地が悪くなって課長を見上げると、課長は「あ! シノか! ああ、ビックリした・・・」と胸を撫で下ろしている。
「何ですか?」
俺が眉間に皺を寄せると、課長はハッハッハと笑いながら「全然知らないヤツがシノの席に座ってると思ったからさ。ちょっと驚いたんだよ」と言う。
それを合図に、課内の皆もワラワラと寄って来た。
「お前どうしたんだよ。随分変わっちゃって。何だ、とうとう部長に言われてた見合いするのか」
課長が俺の背中を叩く。
「見合いなんてしませんよ」
「こいつ、女できたんですよ、女」
川島が課長に耳打ちをする。
え~! と課の連中が一斉に声を上げた。
「ちっ、違いますよ!!」
俺がいくら言っても信じてもらえない。「そっかぁ、なるほどなぁ」と皆がニマニマした顔つきで俺を見ながら、皆自分の席に返って行く。
── なんだよ。なんだんだよ、その反応。
そんなに俺、変わったのかな。ってか、そんなに俺、前は酷かったの? 何だか、皆にニヤニヤ見られて、居心地悪い!
気付けば、日本酒課ブースの入口付近に黒山の人だかりができていた。
俺がそっちの方に目を向けると、オ~と地鳴りのような声が起こる。
俺は客寄せパンダか?
ひょっとして、千春が日頃感じている視線って、こういうものなのかな・・・とか思いつつ。
俺はカバンにノートパソコンを突っ込むと、「柿谷に行ってきます!」と大きく声を上げつつ、入口の人ごみをかき分け、フロアを後にした。
柿谷酒造に着くと、蔵の方から怒鳴り合いの声が聞こえてきた。
どうしたんだろう。
あの声は、柿谷の親父さんと息子の征夫さんだ。
征夫さんは俺より5つ年上の37歳で、柿谷の跡取り息子だ。
上には姉の百合枝さんがいて、そのご主人・和人さんと一緒に柿谷酒造に勤めているが、跡取りは征夫さんと決まっている。
俺は、走って酒蔵に向かった。
入口から中を覗き込むと、大きな金属製の樽が並ぶ蔵の中で、やはり二人が言い合っていた。
「こーたなもの、本気で売れるど思ってんのが?」
「んなん、やってみねぇとわがんねぇだろ。それにその話は、この前の話し合いで、終わってる。いづまでもそーたごど言ってんのは、オメだけだべぇ」
「親父はなんにもわがっていねぇだ。主力の吟醸酒の樽をあけてまで、そんなチャラチャラしたもんこしゃえて。もし売れながったら、借金が逆に膨らむかもしれねぇんだぞ。それをそのまま俺に押し付げようったって、こっちは困る」
「金を返すために、新しいごどに挑戦するんだっぺや。オメにはそーた苦労はさせられねぇど思うがら、先祖さんから伝わるごどを曲げでまで、皆がやろうとしてんだべ。それがわがらねぇが」
「親父は、和人にぃの肩を持ち過ぎだ。俺が話し合いで一度は賛同したのは、吟醸酒の樽をあげでまで薫風をやるどは思ってながったがらだ。親父はいっつも和人にぃの味方ばがしして、俺の言うごどはひとっつもきかねぇ」
「何をバカなごど言ってんだ!」
柿谷の親父さんが俺に気がついた。
俺は、ペコリと頭を下げる。
親父さんは俺を見て一体誰か分からないような顔つきをした。会社での反応と一緒だ。
俺は声を出さずに「加寿宮です」と言いながら、再度頭を下げた。
どうやら親父さんは、無事に俺だと気付いてくれたらしい。
親父さんは俺を見ながら「薫風は、俊介も頑張って売るど言ってぐれてる。皆、オメのごどを思ってやってるんだっぺや」と言う。
征夫さんも親父さんの視線に気付き、俺の方を振り返った。
征夫さんは、俺を見て一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐにバツが悪そうな顔をした。
俺はもう一度、今度は深く頭を下げた。
「お、俊介、入ってごい」
親父さんが手招きをした。
俺は「はい」と返事をして、蔵の中に入る。
蔵の中は、発酵菌が発する独特の甘い匂いが漂っていた。
「今日は、何の用件だっぺ」
「薫風の販売戦略を具体的に練ってきました」
「おお、そうか。聞くべ」
「はい」
俺は、ビジネスバッグから新しい企画書を取り出すと、親父さんと征夫さんに渡した。
ぺらぺらと企画書を捲っていた征夫さんの表情が曇る。
「 ── なんだ、この試飲用のミニボトルって」
「今回の薫風は若い女性をターゲットにしてるので、187mlのミニボトルを試飲用に準備します。ボジョレー解禁の11月中頃からワイン商戦と合わせて、試飲ボトルを大手百貨店や小売店で店頭配布し、まずは味を知ってもらいます。その後はクリスマスはもちろん、年末年始のパーティーにスパークリングワインの代わりに飲んでもらえるよう、広告宣伝を打ちます」
「試飲どいうごどは、ただで配るづもりが?」
征夫さんが、俺を厳しい目で見る。
俺はその視線に怯まず、頷いた。
課の中で、熟慮に熟慮を重ねて練った戦略だ。
「『無料』という価格は、破壊的な求心力を持っています。200円や300円などと中途半端な値段をつけて売ってしまっては、試飲ボトル自体が売れません。お金を取るのであればそれなりの価格をつけた方が、ものは動きます。だがそれでは、興味のある人しか手には取らない。薫風がターゲットとしなければならないのは、これまで日本酒に興味のなかった女の人です。そのために、『無料』が絶対条件になるんです。── ボトルはワイン試飲用の既製品があるので、それをワイン課の方から安価に手に入れるよう手配します」
征夫さんは、天を仰いだ。
「これじゃ借金が嵩むだけだっぺ」
「その代わり、薫風の販売価格を想定より少し高めに設定します。試飲ボトル代は、そこで回収します」
「回収にはどれぐれぇかかる」
親父さんが訊いてくる。
「だいたい一年を想定しています」
「一年!」
征夫さんは乾いた笑い声を上げると、企画書を俺の胸に押し付け、酒蔵を出て行った。
── タイミング、悪かったかなぁ・・・。
俺はシュンとして俯くと、その肩を柿谷さんに叩かれた。
「これで行ぐべ」
「・・・いいんですか? 征夫さんは・・・」
「あれには俺が言い聞がせる」
「でも・・・」
「これでも親子だ。いらん心配、しなぐでいい」
俺は、胸が熱くなった。
実に柿谷の親父さんらしい言葉だった。
柿谷さんを見ていると、俺の親父を思い出す。
「それで、ボトルの手配はいづでぎるんだ? 20日以内には大丈夫べか?」
「はい。試飲ボトルのラベルデザインも、KAJIMIYAから提案させてください。これ、ボトルの見本です」
俺は、バッグからボトルサンプルを取り出した。親父さんがそれを手に取る。
「ふん・・・。お上品な瓶だっぺなぁ」
「日本酒ではあまり使わないサイズの瓶ですから。これで充填機にかかるかどうか、テストをお願いします」
「わがった。まぁ、ここじゃなんだ。奥で茶でも飲むべぇ」
親父さんに肩を叩かれ、俺は「はい」と頷いた。
奥の部屋に上がると、親父さんは事務所に向かって、「おーい、茶を淹れでぐれ」と大声で言った。
すぐに「は~い」と奥さんの返事が聞こえてきて、パタパタと足音が近づいてくる。ガラリとガラスの引き戸が開くと、奥さんが座敷に座る俺を見て、「あら!」と素っ頓狂な声を上げた。
「まぁまぁ! 誰がと思ったら、俊ちゃん?」
俺は何だか照れくさくなって、ペコリと頭を下げる。
「やぁ~、随分カッコよく変身しちゃったがら、おばさん、一瞬誰かわがんなかったわ」
奥さんはそう言って、豪快に笑う。
「おい、早ぐ茶ぁ淹れねえか」
「はいはい」
親父さんの気難しい声もなんのそので、朗らかな笑顔のまま、奥さんはテキパキとお茶の準備を始める。
柿谷さん家は完全な亭主関白型だが、その実、奥さんの発言力は大きい。
結局、俺が柿谷さんと信頼関係を結ぶことができたのも、奥さんの存在が大きいんだ。
「おいしいお煎餅あるがら。まぁ、これでも先に摘んでて」
ポットから急須にお湯を落とし、茶葉を蒸らしている間に奥さんは茶箪笥から煎餅の入った木の器を取り出してきた。
俺は街育ちだけど、こういうの凄くいいって思う。
何より、落ち着くんだよな。
俺には、おじいちゃんもおばぁちゃんもいないけど、もしあるとしたら田舎ってこんな感じなのかなって思う。
「食え」
俺が遠慮していると、親父さんが器を突き出してきた。俺は香ばしい香りのする煎餅を手に取る。
「いただきます」
「おう」
俺は、親父さんと一緒に煎餅を齧った。固い。かなり。
「うんまいだろ」
親父さんが訊いてくる。俺はうんと頷いた。
俺がバリバリと煎餅を齧っていると、親父さんは少し顔を綻ばせた。俺は頭の上に?マークを散らせながら親父さんを見ると、親父さんはこらえきれなくなったのか、フフフと笑う。
「外身は変わっても、その食べ方は変わんねぇ」
「食べ方、ですか?」
「何もしゃべんねぇで、ただ黙々と食べる、愛想のねぇとごろだ」
それを聞いて、俺は頬が熱くなるのを感じた。
「す、すみません、愛想、なくて」
俺が慌てて謝ると、お茶を蒸らし終えた奥さんが同じように笑いながら、親父さんの隣に座る。
「褒めでるのよ。征夫は食べでる最中もあれやこれやど、うるせえべ。いっづも喧嘩になってんの、俊ちゃんも見とるでしょうが」
「はぁ・・・」
確かに、そういう場面には幾度か遭遇している。でも、ああして喧嘩できるのも親子だからだよな。
俺は、さっき親父さんが言っていた「これでも親子だ。いらん心配、しなぐでいい」という言葉を思い出していた。
少し胸の奥が寂しくなる。
俺にはもう、そう言ってくれる人はいないからさ。
「それにしても、随分オシャレになったわねぇ。もしここに百合枝や貴美チャンがおったら、もうキャーキャー言われっぺねぇ。おばさんでも、ちょっとトキメクもん」
「オメ、いい年して、何を言ってんだ」
親父さんが派手に顔を顰める。酒蔵で働く誰もがビビるその親父さんの表情にも、奥さんは全く怯まない。
「女は、トキメクのに年は関係ねぇのよ。どうしたの、俊ちゃん。さでは、彼女がでぎだ?」
奥さんの発言に、親父さんが渋い顔つきのまま俺を見る。「何事だ?!」といった雰囲気。
「なんだ俊介。早ぐ言えって」
「この人、俊ちゃんが結婚する時には、とっておきの古酒を開けるって意気込んでたがら」
「おい、魚雅になんか美味え刺身ねぇが、訊いでごい」
ちょっ! 彼女ができたどころか、これじゃ結婚が決まったとかって思われてる?! 俺!!
「いやいやいや!! 違いますから! 彼女できてないですから!!」
俺は思わず絶叫した。
「・・・なんだべ、違うのが」
目の前の二人が明らかに落胆した表情を浮かべる。だから俺は、「すみません」と謝った。
「これから彼女作るのに、いろいろ友達にアドバイスをもらって・・・」
俺がそう言うと、やっと事情を理解したらしい。
またも二人で、「ああ」と同時に声を上げた。
「俊ちゃん、大丈夫よ。そんだけカッコよくなったんだがら、すぐにできるべぇ」
「はぁ・・・。だといいですけど」
俺が頭を掻くと、親父さんがお茶を飲みながら言った。
「俊介。外身が変わっても、中身が変わったらダメだべ」
俺は、ハッとして親父さんを見た。
「オメの中の大切なもんは変えたらダメだ。チャラチャラしてるだげじゃ、ダメだ」
そういう親父さんの腕を、奥さんがオーバーに叩く。
「もう、折角俊ちゃんがやる気になってるのに、アンタはいづもすぐにそうやって水を差す。応援してあげんべ」
奥さんにそう言われ、親父さんがぶすっと口を尖らせた。
でも、親父さんにそう言われ、嬉しかった。
俺が千春に「俺の知っている千春に戻って」と思わず言ってしまったように、親父さんも素の俺を好きでいてくれてるんだと思うと、胸が熱くなる。
心の奥底で感じていた寂しさとも相まって、何だか凄く、千春に会いたくなってしまった。
昨日会ったばっかりで変だけど、千春に会いたい。
俺は、親父さんと奥さんの掛け合い漫才のようなやりとりを微笑ましく眺めながら、そう思っていた。
<side-CHIHARU>
今日、晩飯、どうしよう・・・。
シノさんと夕食を食べない日は、そんなことを考える事が多くなった。
シノさんと食べると分かっている日は、なぜか夕食の献立もすぐに浮かんで、さっさと食材を買いに行ったりするのだが、一人となると外に食べに行くのがいいのか、家の中で済ますのがいいのか、それすらも判断がつかなくなる。
きっと僕はもう、『シノさん依存症』になっているんだ。
「はぁ・・・」
ダイニングテーブルで、葵さんにもらったジンジャーティーを飲みながら、頬杖をついて、暗くなっていく窓の外を眺めた。
葵さんには「成澤くん、やっと本気で人のこと、好きになったんだ」とかって言われたけど。
僕には、葵さんが何でそんなことを言うのか、分からなかった。
なぜなら葵さんは、僕が十代の頃に経験した恋愛をオンタイムで知っている。
僕が他人にあんなにも執着したことは、あの時期を共に過ごしてきた人なら知っていることだ。
事実、渡海さんだって、いまだにそれをネタに絡んでくるわけだし。
そんな僕を捕まえて、今更「やっと本気で」だなんて・・・。葵さん、昔の事を忘れてるんじゃないかな。
僕は、図らずも昔の事を思い出す羽目になって、眉間に寄った皺を親指でグリグリとなぞった。
渡海さんに指摘されたように、あの時の恋愛は、僕のトラウマになってしまっている。
こうして思い出すだけでも、どこか胃がキリキリとしてくる感覚に襲われる。
僕は17の時、ある大人の男の人に恋をした。
祖母が亡くなって以降、夜に悪い仲間とフラフラ飲み歩いていた僕を、唯一本気で叱ってくれた大人だった。
当時僕は、飲み歩くといっても下世話な飲み屋とかではなく、すでに六本木や銀座の高級バーやクラブに出入りをしていた。
そこに至る前に僕は、14の時に既に、ゲイの大人が集うバーに出入りしていた。
自分の性的興味が男性に向いている事を悟ったのは、小学生の頃だったし、14になる頃には欲求も大きくなって、早く性的な体験がしたかったのだ。
そんなクソガキなんて、本当なら悪い大人に都合良くカモられるところだが、最初に飛び込んだバーのマスターがいい人で、「つき合う相手をよく選びなさいよ」と教えてくれた。むろん、僕が未成年だってこともバレバレだったし、酒は一切出してくれるような人じゃなかったけど、彼自身若い頃に苦労してきたせいか、僕が早く男と初体験をしてみたいと切望していることには同情的だった。
そんなマスターに紹介されたのが、最初のパトロンだった池上さんだった。
彼は当時40代だったと思うが、既に大企業の役員で、セックスのことはもちろん、いろんなことを僕に教えてくれた。
彼が遊び場所は巷の居酒屋なんかではなく、知識人や文化人が多く出入りするバーやクラブで、そのせいで自然と、遊び方は粋だけどどこか退廃的な匂いのする人達が僕の遊び相手となった。
池上さんと別れてからは、池上さんのような大人が代わる代わる僕の恋人として手を挙げた。
そんな中で僕は酒の飲み方を教わり、大人との会話の仕方を教わり、そんな高尚な雰囲気の中での羽目の外し方を教わり、恋の駆け引きの仕方を教わった。
男を誘う時の視線、仕草。思わせぶりな態度、冷めた会話。
僕が我が儘に振る舞えば振る舞うほど、それを眺めている大人達は喜んだ。
はっきりいって大人を手玉に取るのは簡単だった。── 誰も僕が本当に何を考えているかなんて、そんなの気になんてしていないことを理解すれば。
僕は、求められている役をただ演じれば、それでよかったのだ。
そうこうしているうちに祖母が死に、一人前に落ち込んだり荒れたりして、益々僕は、夜の世界にのめり込んで行った。
今考えれば、よくぞあの時期にいろんな病気をもらわなかったな、と思う。
それほど僕はいろんな人とセックスをしていたし、合法ドラッグにも手を出したりしていたから。
そんな中で出逢ったのが、吹越さんだった。
大学の准教授で、プラズマ研究をしている人だった。
唯一、夜遊びしている僕の事を本気で叱ってくれた人。
ルックスは僕がそれまでつき合ってきたどんな人よりもあか抜けなかったけれど、銀縁眼鏡の奥の瞳は、本当に美しく澄んでいた。
彼は、当時二十歳だと偽って飲み歩いていた僕を、初見でまだ未成年だと見抜いた。
そして僕の心の奥底にある寂しさを鋭く突いてきた。
最初は、そんな吹越さんにことごとく反発してた僕だったが、次第に吹越さんによって、本当の優しさとはどんなものなのかを知らされた。
それは酒代を奢ってくれることでもない。ホテルで優しく頭を撫でてくれることでもない。
吹越さんの優しさはとてもぶっきらぼうだったけれど、僕の事を精神的に成長させてくれた。
吹越さんとつき合っている間は夜遊びもぴたりと止まり、出席日数が危なかった高校も、吹越さんに怒られながら通った。
僕は、日々の大半を吹越さんの部屋で過ごした。
周囲には、祖母から料理の仕方を教わったと言っているが、本当のことを言うと僕は、その時期に料理をすることを覚えた。
むろん、祖母から教わった事もたくさんあったけれど、それはあくまで見ていただけで、実際にキッチンに立とうと思ったのは、吹越さんの存在があったからだ。実際、吹越さんも驚くほど料理の上手な人で、本当に大学の先生かと疑ってしまうほどだった。
遅れていた勉強も、吹越さんが仕事の合間に見てくれた。
おかげで理数系の教科は、ろくに学校に行っていなかったはずなのに、学年でトップになった。
周囲の誰もが僕の変化に驚き、大学進学も可能になった。
── 吹越さんが勤める大学に入りたい。
その一心で、僕はかなり遅めの受験勉強をスタートさせた。
吹越さんが傍にいてくれるなら、絶対に大丈夫だと思った。
たくさん勉強を教わって、たくさん幸せなセックスもした。
受験勉強は、始めた時期が時期だっただけに大変だったけれど、それでも充実していた。
このままこの幸せが続いていくものと、信じていたのに。
大学の合格発表があった日、合格した知らせを持って吹越さんの研究室を尋ねた時、僕は吹越さんが先輩教授の娘と結婚してシンガポールの一流大学へ移ることを知った。
人生で祖母以外に唯一心の底から信じた大人に、僕は裏切られた。
元々がノンケだった人だ。
よくよく考えれば、そんな人と一生共に生きていけると考えた方が幼稚だったんだ。
酷く混乱した僕は、吹越さんにろくすっぽ恨み言も言えず、彼を手放してしまった。
吹越さんが旅立つ飛行機を、彼らの友人達から身を隠しながら、一人見送った。
不思議と、涙は出なかった。
僕は最初から最後まで、吹越さんとつき合っている間泣かなかったから、泣き方を忘れていたのかもしれない。
まぁ、今までの人生でも泣いたのは赤ん坊の頃ぐらいだから、しょうがないと言えばしょうがないかな。
僕はいまだに泣くことに関しては酷く不器用だ。
それから僕は、最初に受かった大学とは別の大学に通った。
本当なら、もう大学に行く事などどうでもよかったのだが、親から「子どもが高卒なんて格好がつかないので、何としても大学だけは出てくれ」と懇願されて、仕方なく行く事になった。
そして夜遊びが再燃した。
そんな中、僕が当時書いていた散文的な小説が老舗のバーで知り合った著名な作家先生の目に止まり、その話が出版社まで届いた。
それがきっかけで僕は、『華々しく』大学生で文壇デビューを果たしたのだ。
僕の容姿とその肩書きによって、周囲のチヤホヤは頂点に達した。
僕も、そんなぬるま湯が心の傷を癒してくれたから、進んでそれを楽しんだ。
で、今に至る、だ。
吹越さんに捨てられてから立ち直るのに、4年・・・いや5年はかかっている。渡海さんに至っては、「まだ引きずってるんだな」なんて言う。
だからこそ、ノンケはダメなんだ。
ストレートの男は、いずれ自分の元から去っていく。
例え気持ちが僕にあったとしても、社会的にそれが許されないこともあるのだ。
それはシノさんだって同じ。
もし僕がシノさんとつき合う事ができたとしても、それが一生続く保証は、限りなくゼロに近いのだ・・・。
そんなことを考えていたら、無性に悲しくなってきた。
悲しくなったって、無駄なのに。
こんな気持ちになったところで僕は、涙のひとつも流せやしないのだから。
「・・・紅茶、冷めちゃったな・・・」
冷たくなって味が落ちた紅茶を口に含み、僕が顔を少し顰めた時、玄関のチャイムが鳴った。
── なんだろう。こんな時間にセールスか?
セールスだったら居留守を決め込もうと思いながら覗き窓を覗くと、そこに立っていたのはシノさんだった。
── え?! なんで?
今日は、奥塩原の酒蔵に行ってるはずなのに。
僕は、慌ててドアを開けた。
「どうしたんですか?!」
大きな声でそう言いながらドアを開けたので、シノさんはちょっとビックリしたみたいだった。
黒目がちな奥二重の瞳を、大きくきょとんと見開いた。
「今日、栃木に出張じゃなかったんですか?」
僕がそう訊くと、シノさんはテレ臭そうに頭を掻いた。
「そうなんだけど。今日は帰ってきたくて、早く切り上げてきたんだ」
シノさんは僕の前に少し黄色がかった白い粉の入ったボトルを差し出した。
「お土産」
「何ですか、これ・・・」
「温泉の元。正真正銘、塩の湯の元だから、それ。一緒に泊まりに行くのが無理なら、家で温泉、入ろ」
僕は、一瞬言葉を失った。
ホント、なんて言っていいかわからない・・・。
「何か、言ってくれよ」
僕が無言でいると、さすがに不安になったのか、シノさんがそう言ってくる。
僕は鼻の先を指で摘んで擦った後、口をへの字に曲げて言った。
「バカじゃないですか? うちで温泉なんて。狭過ぎて気分でないじゃないですか」
「出たよ。ドS発言」
シノさんがイッシッシと笑う。
僕もおかしくなって、同じように笑った。
<side-SHINO>
もう遅い時間だったので、家の近所にある俺行きつけの居酒屋で晩飯を食べることにした。
千春はあまり居酒屋とかに来たことがないらしく、物珍しそうに店内を眺めていた。
店の若い女性店員とかは、俺が久々に現れたと思ったら、いきなり相当の男前を従えていたので、かなりテンションが上がっていた。
千春は店の中で完全に浮いていたが(千春って、どこか高級感のある雰囲気は消せないんだよな、どこへ行っても)、相変わらずここでもいろんな人にモテていた。
店の大将にもすっかり気に入られて、美味い出汁のひき方とかを教えられてた。
やっぱ千春って、凄く魅力的なんだよな。どんな人にとってもさ。
そんな千春を連れてる俺も、何だか優越感。
いや、ただの友達なんだけどさ。
その後、千春ン家に帰って風呂に入った。もちろん、温泉の元入れて。
ただしやっぱ家の風呂は狭いから、本物の温泉みたく一緒には入れずに交代になっちゃったけど。
千春には「先に入ってください」って言ってくれたけど、一応お土産だしさ。それは悪いんで、千春に先に入ってもらった。
その間に俺は一旦家に帰ってスーツを部屋着に着替えて、新しい下着を持って千春の家に取って返した。
千春が入っている間に、ビジネスバッグの中のパソコンを取り出して、今日の打ち合わせの内容を簡単にデータにまとめる。
そうこうしているうちに、千春が風呂から上がってきた。
「お待たせしました」
濡れた髪をタオルで拭いながら和室に入ってくる千春。
う~ん、水も滴るどころか、湯気が立ち上るいい男ですな。
妙に色っぽい。
何でだろ? ジムでシャワーから上がった時とは、何か違う。
「やはり本物の温泉の元ともあって、かなり身体の芯から温まりますね、これ。いつもはもっと入っていられるんですけど、さすがにすぐ出てしまった」
ああ、そうか。
「いつもよりホッペタとかが桜色だからなのか」
思わずそう俺が口に出して言うと、千春が「どういう意味ですか?」と訊いてくる。
俺はハッとして口を左手で覆った。
「何かまた、よからぬことを考えていましたね?」
── はい。その通りです。
別に下心がある訳じゃなかったけど。
いつも愛用のAVに出てる女優さんより色っぽいなぁと思っちゃったんだ。
いや、そもそもそんな女優さんと比べるのが凄く失礼だって分かってるんだけどさ。
「俺も風呂、入ってくる」
俺は、タオルを引っ掴んで風呂場にダッシュした。
「シノさ~ん、風呂、長過ぎる!」と千春からせかされながら風呂から出てくると、千春がキュウリの浅漬けと炭酸水を出してくれた。
風呂の熱さに茹でられて千春より赤くなった俺には、非常にありがたい心づくしだ。
「何か、懐かしい味がする」
俺がキュウリを齧りながらそう言うと、「僕の祖母から教わった作り方だから」と千春は言った。
ミョウガが決め手らしい。
俺にはちっとも分からんが。でも味が美味いのは、はっきりと分かる。
「千春は本当に料理上手だよなぁ。さっきの居酒屋でも、大将と料理の話をしてたし。その話聞いて、周りの女の子達の目がハートマークになってたよ。年配のおばさんまでだぜ?」
千春は苦笑いする。
「僕にしてみれば、女の人からモテても仕方がないんですけどね」
「まぁ、そうだけどさ・・・。でも、料理できるってインパクトあるんだなぁ。お運びの女の子も、『料理できる男って最高』って叫んでたじゃん。やっぱポイント、高いよなぁ」
俺が一頻りそんなこと言ってたら。
「じゃ、習いますか? 料理」と千春が訊いてきた。
「へ? 料理? 千春が教えてくれるの?」
俺がそう訊き返すと、千春は首を横に振った。
「僕のは見よう見真似なんでね。正しい料理法じゃないかもしれないから。男でも行ける料理教室を知り合いに訊いて、調べておきます」
俺は何だか急に不安になった。
千春が教えてくれるのならともかく、いきなり料理教室だなんて、大丈夫かな???
そんなことを思っていたら、まんまと千春に見透かされた。
「ひょっとして、ビビッってます?」
「え?!」
「ビビッてますね」
千春の大きな瞳が、いやぁな感じで細められる。
これって、ブラック・チハル降臨の前兆ってやつ?
「いや! その! ほら、俺って、人見知り激しいから! 何つーか・・・」
── ガンッ!!!
拳を固めた千春が、側の壁を物凄い勢いで殴った。俺の身体が、その音に驚いてビクリと飛び上がる。
ヒィィィイ!! こっ、怖い!!!
「僕の前で、ネガティブ発言は許しませんよ」
「はっ、はい! 先生」
俺は反射的にそう答えてた。
「よろしい」
千春は鋭い目つきのまま、恐怖に怯える俺を流し目で見つめつつ、炭酸水を口に含んだ。
うわぁ~、なんだろう。6つも年下なのに、この迫力(大汗)。
恐怖以外の何ものでもないよ・・・。ブラック・チハル・・・。
朝、会社のエントランスに入り、「おはよう」と受付に軽く挨拶をして階段に向かおうとした時、受付嬢の水城さんから「あの! どちら様ですか?!」と声をかけられた。
最初俺はその声が自分にかけられた言葉だと思わず、そのまま歩いて行こうとすると、再度「あの、お客様!!」と慌てふためいたような声をかけられる。
いくら社員でごった返すエントランスでも、エレベーターホールでなく階段に向かう社員は俺だけで、声は明らかに俺の方に向けられた声だと分かった。
俺はびっくりして振り返る。
え? 俺? と俺が自分を指差すと、水城さんがウンウンと頷いた。
「あの・・・、篠田ですけど」
俺はビジネスバッグから社員証を取り出すと、近づいてきた水城さんの目の前にそれを翳した。
「え?・・・あ、篠田さん?!」
社の看板娘と呼び声の高いあの水城さんが、可愛さをかなぐり捨てるほどの驚き顔で、社員証と俺を何度も見比べる。
「ホントだぁ、篠田さんだ・・・」
水城さんは口元に手をやり、心底感心したように俺の顔を眺めた。
「何、その反応」
俺がそう返すと、水城さんは「だってあんまり変わってるから、わからなくて・・・」と言いながら、受付カウンターに残る同僚の斉藤さんを振り返って、同意を求めるような視線を送った。斉藤さんも、うんうんと頷いている。
「どうしたんですかぁ? 篠田さん」
「どうしたもこうしたも・・・。髪型を変えたんだ」
「それは見れば分かりますよぉ・・・」
彼女はそう言いながら、なぜか俺の手元をジロジロと見る。
「何? 手がどうかした?」
「いやぁ・・・、別にぃ・・・」
水城さんは、そのまま意味不明な事を呟きながら、受付カウンターに戻って行った。
俺は首を傾げながら、営業部のある三階フロアに上がる。
自分の席に着いても、受付と同じような反応を返された。
俺より少し後に出社してきた課長が、俺の席を一旦通り過ぎた後、またわざわざ引き返してくる。
課長は、まるで知らない人を見るかのような目つきで俺を頭から足先まで眺めてきた。
俺は居心地が悪くなって課長を見上げると、課長は「あ! シノか! ああ、ビックリした・・・」と胸を撫で下ろしている。
「何ですか?」
俺が眉間に皺を寄せると、課長はハッハッハと笑いながら「全然知らないヤツがシノの席に座ってると思ったからさ。ちょっと驚いたんだよ」と言う。
それを合図に、課内の皆もワラワラと寄って来た。
「お前どうしたんだよ。随分変わっちゃって。何だ、とうとう部長に言われてた見合いするのか」
課長が俺の背中を叩く。
「見合いなんてしませんよ」
「こいつ、女できたんですよ、女」
川島が課長に耳打ちをする。
え~! と課の連中が一斉に声を上げた。
「ちっ、違いますよ!!」
俺がいくら言っても信じてもらえない。「そっかぁ、なるほどなぁ」と皆がニマニマした顔つきで俺を見ながら、皆自分の席に返って行く。
── なんだよ。なんだんだよ、その反応。
そんなに俺、変わったのかな。ってか、そんなに俺、前は酷かったの? 何だか、皆にニヤニヤ見られて、居心地悪い!
気付けば、日本酒課ブースの入口付近に黒山の人だかりができていた。
俺がそっちの方に目を向けると、オ~と地鳴りのような声が起こる。
俺は客寄せパンダか?
ひょっとして、千春が日頃感じている視線って、こういうものなのかな・・・とか思いつつ。
俺はカバンにノートパソコンを突っ込むと、「柿谷に行ってきます!」と大きく声を上げつつ、入口の人ごみをかき分け、フロアを後にした。
柿谷酒造に着くと、蔵の方から怒鳴り合いの声が聞こえてきた。
どうしたんだろう。
あの声は、柿谷の親父さんと息子の征夫さんだ。
征夫さんは俺より5つ年上の37歳で、柿谷の跡取り息子だ。
上には姉の百合枝さんがいて、そのご主人・和人さんと一緒に柿谷酒造に勤めているが、跡取りは征夫さんと決まっている。
俺は、走って酒蔵に向かった。
入口から中を覗き込むと、大きな金属製の樽が並ぶ蔵の中で、やはり二人が言い合っていた。
「こーたなもの、本気で売れるど思ってんのが?」
「んなん、やってみねぇとわがんねぇだろ。それにその話は、この前の話し合いで、終わってる。いづまでもそーたごど言ってんのは、オメだけだべぇ」
「親父はなんにもわがっていねぇだ。主力の吟醸酒の樽をあけてまで、そんなチャラチャラしたもんこしゃえて。もし売れながったら、借金が逆に膨らむかもしれねぇんだぞ。それをそのまま俺に押し付げようったって、こっちは困る」
「金を返すために、新しいごどに挑戦するんだっぺや。オメにはそーた苦労はさせられねぇど思うがら、先祖さんから伝わるごどを曲げでまで、皆がやろうとしてんだべ。それがわがらねぇが」
「親父は、和人にぃの肩を持ち過ぎだ。俺が話し合いで一度は賛同したのは、吟醸酒の樽をあげでまで薫風をやるどは思ってながったがらだ。親父はいっつも和人にぃの味方ばがしして、俺の言うごどはひとっつもきかねぇ」
「何をバカなごど言ってんだ!」
柿谷の親父さんが俺に気がついた。
俺は、ペコリと頭を下げる。
親父さんは俺を見て一体誰か分からないような顔つきをした。会社での反応と一緒だ。
俺は声を出さずに「加寿宮です」と言いながら、再度頭を下げた。
どうやら親父さんは、無事に俺だと気付いてくれたらしい。
親父さんは俺を見ながら「薫風は、俊介も頑張って売るど言ってぐれてる。皆、オメのごどを思ってやってるんだっぺや」と言う。
征夫さんも親父さんの視線に気付き、俺の方を振り返った。
征夫さんは、俺を見て一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐにバツが悪そうな顔をした。
俺はもう一度、今度は深く頭を下げた。
「お、俊介、入ってごい」
親父さんが手招きをした。
俺は「はい」と返事をして、蔵の中に入る。
蔵の中は、発酵菌が発する独特の甘い匂いが漂っていた。
「今日は、何の用件だっぺ」
「薫風の販売戦略を具体的に練ってきました」
「おお、そうか。聞くべ」
「はい」
俺は、ビジネスバッグから新しい企画書を取り出すと、親父さんと征夫さんに渡した。
ぺらぺらと企画書を捲っていた征夫さんの表情が曇る。
「 ── なんだ、この試飲用のミニボトルって」
「今回の薫風は若い女性をターゲットにしてるので、187mlのミニボトルを試飲用に準備します。ボジョレー解禁の11月中頃からワイン商戦と合わせて、試飲ボトルを大手百貨店や小売店で店頭配布し、まずは味を知ってもらいます。その後はクリスマスはもちろん、年末年始のパーティーにスパークリングワインの代わりに飲んでもらえるよう、広告宣伝を打ちます」
「試飲どいうごどは、ただで配るづもりが?」
征夫さんが、俺を厳しい目で見る。
俺はその視線に怯まず、頷いた。
課の中で、熟慮に熟慮を重ねて練った戦略だ。
「『無料』という価格は、破壊的な求心力を持っています。200円や300円などと中途半端な値段をつけて売ってしまっては、試飲ボトル自体が売れません。お金を取るのであればそれなりの価格をつけた方が、ものは動きます。だがそれでは、興味のある人しか手には取らない。薫風がターゲットとしなければならないのは、これまで日本酒に興味のなかった女の人です。そのために、『無料』が絶対条件になるんです。── ボトルはワイン試飲用の既製品があるので、それをワイン課の方から安価に手に入れるよう手配します」
征夫さんは、天を仰いだ。
「これじゃ借金が嵩むだけだっぺ」
「その代わり、薫風の販売価格を想定より少し高めに設定します。試飲ボトル代は、そこで回収します」
「回収にはどれぐれぇかかる」
親父さんが訊いてくる。
「だいたい一年を想定しています」
「一年!」
征夫さんは乾いた笑い声を上げると、企画書を俺の胸に押し付け、酒蔵を出て行った。
── タイミング、悪かったかなぁ・・・。
俺はシュンとして俯くと、その肩を柿谷さんに叩かれた。
「これで行ぐべ」
「・・・いいんですか? 征夫さんは・・・」
「あれには俺が言い聞がせる」
「でも・・・」
「これでも親子だ。いらん心配、しなぐでいい」
俺は、胸が熱くなった。
実に柿谷の親父さんらしい言葉だった。
柿谷さんを見ていると、俺の親父を思い出す。
「それで、ボトルの手配はいづでぎるんだ? 20日以内には大丈夫べか?」
「はい。試飲ボトルのラベルデザインも、KAJIMIYAから提案させてください。これ、ボトルの見本です」
俺は、バッグからボトルサンプルを取り出した。親父さんがそれを手に取る。
「ふん・・・。お上品な瓶だっぺなぁ」
「日本酒ではあまり使わないサイズの瓶ですから。これで充填機にかかるかどうか、テストをお願いします」
「わがった。まぁ、ここじゃなんだ。奥で茶でも飲むべぇ」
親父さんに肩を叩かれ、俺は「はい」と頷いた。
奥の部屋に上がると、親父さんは事務所に向かって、「おーい、茶を淹れでぐれ」と大声で言った。
すぐに「は~い」と奥さんの返事が聞こえてきて、パタパタと足音が近づいてくる。ガラリとガラスの引き戸が開くと、奥さんが座敷に座る俺を見て、「あら!」と素っ頓狂な声を上げた。
「まぁまぁ! 誰がと思ったら、俊ちゃん?」
俺は何だか照れくさくなって、ペコリと頭を下げる。
「やぁ~、随分カッコよく変身しちゃったがら、おばさん、一瞬誰かわがんなかったわ」
奥さんはそう言って、豪快に笑う。
「おい、早ぐ茶ぁ淹れねえか」
「はいはい」
親父さんの気難しい声もなんのそので、朗らかな笑顔のまま、奥さんはテキパキとお茶の準備を始める。
柿谷さん家は完全な亭主関白型だが、その実、奥さんの発言力は大きい。
結局、俺が柿谷さんと信頼関係を結ぶことができたのも、奥さんの存在が大きいんだ。
「おいしいお煎餅あるがら。まぁ、これでも先に摘んでて」
ポットから急須にお湯を落とし、茶葉を蒸らしている間に奥さんは茶箪笥から煎餅の入った木の器を取り出してきた。
俺は街育ちだけど、こういうの凄くいいって思う。
何より、落ち着くんだよな。
俺には、おじいちゃんもおばぁちゃんもいないけど、もしあるとしたら田舎ってこんな感じなのかなって思う。
「食え」
俺が遠慮していると、親父さんが器を突き出してきた。俺は香ばしい香りのする煎餅を手に取る。
「いただきます」
「おう」
俺は、親父さんと一緒に煎餅を齧った。固い。かなり。
「うんまいだろ」
親父さんが訊いてくる。俺はうんと頷いた。
俺がバリバリと煎餅を齧っていると、親父さんは少し顔を綻ばせた。俺は頭の上に?マークを散らせながら親父さんを見ると、親父さんはこらえきれなくなったのか、フフフと笑う。
「外身は変わっても、その食べ方は変わんねぇ」
「食べ方、ですか?」
「何もしゃべんねぇで、ただ黙々と食べる、愛想のねぇとごろだ」
それを聞いて、俺は頬が熱くなるのを感じた。
「す、すみません、愛想、なくて」
俺が慌てて謝ると、お茶を蒸らし終えた奥さんが同じように笑いながら、親父さんの隣に座る。
「褒めでるのよ。征夫は食べでる最中もあれやこれやど、うるせえべ。いっづも喧嘩になってんの、俊ちゃんも見とるでしょうが」
「はぁ・・・」
確かに、そういう場面には幾度か遭遇している。でも、ああして喧嘩できるのも親子だからだよな。
俺は、さっき親父さんが言っていた「これでも親子だ。いらん心配、しなぐでいい」という言葉を思い出していた。
少し胸の奥が寂しくなる。
俺にはもう、そう言ってくれる人はいないからさ。
「それにしても、随分オシャレになったわねぇ。もしここに百合枝や貴美チャンがおったら、もうキャーキャー言われっぺねぇ。おばさんでも、ちょっとトキメクもん」
「オメ、いい年して、何を言ってんだ」
親父さんが派手に顔を顰める。酒蔵で働く誰もがビビるその親父さんの表情にも、奥さんは全く怯まない。
「女は、トキメクのに年は関係ねぇのよ。どうしたの、俊ちゃん。さでは、彼女がでぎだ?」
奥さんの発言に、親父さんが渋い顔つきのまま俺を見る。「何事だ?!」といった雰囲気。
「なんだ俊介。早ぐ言えって」
「この人、俊ちゃんが結婚する時には、とっておきの古酒を開けるって意気込んでたがら」
「おい、魚雅になんか美味え刺身ねぇが、訊いでごい」
ちょっ! 彼女ができたどころか、これじゃ結婚が決まったとかって思われてる?! 俺!!
「いやいやいや!! 違いますから! 彼女できてないですから!!」
俺は思わず絶叫した。
「・・・なんだべ、違うのが」
目の前の二人が明らかに落胆した表情を浮かべる。だから俺は、「すみません」と謝った。
「これから彼女作るのに、いろいろ友達にアドバイスをもらって・・・」
俺がそう言うと、やっと事情を理解したらしい。
またも二人で、「ああ」と同時に声を上げた。
「俊ちゃん、大丈夫よ。そんだけカッコよくなったんだがら、すぐにできるべぇ」
「はぁ・・・。だといいですけど」
俺が頭を掻くと、親父さんがお茶を飲みながら言った。
「俊介。外身が変わっても、中身が変わったらダメだべ」
俺は、ハッとして親父さんを見た。
「オメの中の大切なもんは変えたらダメだ。チャラチャラしてるだげじゃ、ダメだ」
そういう親父さんの腕を、奥さんがオーバーに叩く。
「もう、折角俊ちゃんがやる気になってるのに、アンタはいづもすぐにそうやって水を差す。応援してあげんべ」
奥さんにそう言われ、親父さんがぶすっと口を尖らせた。
でも、親父さんにそう言われ、嬉しかった。
俺が千春に「俺の知っている千春に戻って」と思わず言ってしまったように、親父さんも素の俺を好きでいてくれてるんだと思うと、胸が熱くなる。
心の奥底で感じていた寂しさとも相まって、何だか凄く、千春に会いたくなってしまった。
昨日会ったばっかりで変だけど、千春に会いたい。
俺は、親父さんと奥さんの掛け合い漫才のようなやりとりを微笑ましく眺めながら、そう思っていた。
<side-CHIHARU>
今日、晩飯、どうしよう・・・。
シノさんと夕食を食べない日は、そんなことを考える事が多くなった。
シノさんと食べると分かっている日は、なぜか夕食の献立もすぐに浮かんで、さっさと食材を買いに行ったりするのだが、一人となると外に食べに行くのがいいのか、家の中で済ますのがいいのか、それすらも判断がつかなくなる。
きっと僕はもう、『シノさん依存症』になっているんだ。
「はぁ・・・」
ダイニングテーブルで、葵さんにもらったジンジャーティーを飲みながら、頬杖をついて、暗くなっていく窓の外を眺めた。
葵さんには「成澤くん、やっと本気で人のこと、好きになったんだ」とかって言われたけど。
僕には、葵さんが何でそんなことを言うのか、分からなかった。
なぜなら葵さんは、僕が十代の頃に経験した恋愛をオンタイムで知っている。
僕が他人にあんなにも執着したことは、あの時期を共に過ごしてきた人なら知っていることだ。
事実、渡海さんだって、いまだにそれをネタに絡んでくるわけだし。
そんな僕を捕まえて、今更「やっと本気で」だなんて・・・。葵さん、昔の事を忘れてるんじゃないかな。
僕は、図らずも昔の事を思い出す羽目になって、眉間に寄った皺を親指でグリグリとなぞった。
渡海さんに指摘されたように、あの時の恋愛は、僕のトラウマになってしまっている。
こうして思い出すだけでも、どこか胃がキリキリとしてくる感覚に襲われる。
僕は17の時、ある大人の男の人に恋をした。
祖母が亡くなって以降、夜に悪い仲間とフラフラ飲み歩いていた僕を、唯一本気で叱ってくれた大人だった。
当時僕は、飲み歩くといっても下世話な飲み屋とかではなく、すでに六本木や銀座の高級バーやクラブに出入りをしていた。
そこに至る前に僕は、14の時に既に、ゲイの大人が集うバーに出入りしていた。
自分の性的興味が男性に向いている事を悟ったのは、小学生の頃だったし、14になる頃には欲求も大きくなって、早く性的な体験がしたかったのだ。
そんなクソガキなんて、本当なら悪い大人に都合良くカモられるところだが、最初に飛び込んだバーのマスターがいい人で、「つき合う相手をよく選びなさいよ」と教えてくれた。むろん、僕が未成年だってこともバレバレだったし、酒は一切出してくれるような人じゃなかったけど、彼自身若い頃に苦労してきたせいか、僕が早く男と初体験をしてみたいと切望していることには同情的だった。
そんなマスターに紹介されたのが、最初のパトロンだった池上さんだった。
彼は当時40代だったと思うが、既に大企業の役員で、セックスのことはもちろん、いろんなことを僕に教えてくれた。
彼が遊び場所は巷の居酒屋なんかではなく、知識人や文化人が多く出入りするバーやクラブで、そのせいで自然と、遊び方は粋だけどどこか退廃的な匂いのする人達が僕の遊び相手となった。
池上さんと別れてからは、池上さんのような大人が代わる代わる僕の恋人として手を挙げた。
そんな中で僕は酒の飲み方を教わり、大人との会話の仕方を教わり、そんな高尚な雰囲気の中での羽目の外し方を教わり、恋の駆け引きの仕方を教わった。
男を誘う時の視線、仕草。思わせぶりな態度、冷めた会話。
僕が我が儘に振る舞えば振る舞うほど、それを眺めている大人達は喜んだ。
はっきりいって大人を手玉に取るのは簡単だった。── 誰も僕が本当に何を考えているかなんて、そんなの気になんてしていないことを理解すれば。
僕は、求められている役をただ演じれば、それでよかったのだ。
そうこうしているうちに祖母が死に、一人前に落ち込んだり荒れたりして、益々僕は、夜の世界にのめり込んで行った。
今考えれば、よくぞあの時期にいろんな病気をもらわなかったな、と思う。
それほど僕はいろんな人とセックスをしていたし、合法ドラッグにも手を出したりしていたから。
そんな中で出逢ったのが、吹越さんだった。
大学の准教授で、プラズマ研究をしている人だった。
唯一、夜遊びしている僕の事を本気で叱ってくれた人。
ルックスは僕がそれまでつき合ってきたどんな人よりもあか抜けなかったけれど、銀縁眼鏡の奥の瞳は、本当に美しく澄んでいた。
彼は、当時二十歳だと偽って飲み歩いていた僕を、初見でまだ未成年だと見抜いた。
そして僕の心の奥底にある寂しさを鋭く突いてきた。
最初は、そんな吹越さんにことごとく反発してた僕だったが、次第に吹越さんによって、本当の優しさとはどんなものなのかを知らされた。
それは酒代を奢ってくれることでもない。ホテルで優しく頭を撫でてくれることでもない。
吹越さんの優しさはとてもぶっきらぼうだったけれど、僕の事を精神的に成長させてくれた。
吹越さんとつき合っている間は夜遊びもぴたりと止まり、出席日数が危なかった高校も、吹越さんに怒られながら通った。
僕は、日々の大半を吹越さんの部屋で過ごした。
周囲には、祖母から料理の仕方を教わったと言っているが、本当のことを言うと僕は、その時期に料理をすることを覚えた。
むろん、祖母から教わった事もたくさんあったけれど、それはあくまで見ていただけで、実際にキッチンに立とうと思ったのは、吹越さんの存在があったからだ。実際、吹越さんも驚くほど料理の上手な人で、本当に大学の先生かと疑ってしまうほどだった。
遅れていた勉強も、吹越さんが仕事の合間に見てくれた。
おかげで理数系の教科は、ろくに学校に行っていなかったはずなのに、学年でトップになった。
周囲の誰もが僕の変化に驚き、大学進学も可能になった。
── 吹越さんが勤める大学に入りたい。
その一心で、僕はかなり遅めの受験勉強をスタートさせた。
吹越さんが傍にいてくれるなら、絶対に大丈夫だと思った。
たくさん勉強を教わって、たくさん幸せなセックスもした。
受験勉強は、始めた時期が時期だっただけに大変だったけれど、それでも充実していた。
このままこの幸せが続いていくものと、信じていたのに。
大学の合格発表があった日、合格した知らせを持って吹越さんの研究室を尋ねた時、僕は吹越さんが先輩教授の娘と結婚してシンガポールの一流大学へ移ることを知った。
人生で祖母以外に唯一心の底から信じた大人に、僕は裏切られた。
元々がノンケだった人だ。
よくよく考えれば、そんな人と一生共に生きていけると考えた方が幼稚だったんだ。
酷く混乱した僕は、吹越さんにろくすっぽ恨み言も言えず、彼を手放してしまった。
吹越さんが旅立つ飛行機を、彼らの友人達から身を隠しながら、一人見送った。
不思議と、涙は出なかった。
僕は最初から最後まで、吹越さんとつき合っている間泣かなかったから、泣き方を忘れていたのかもしれない。
まぁ、今までの人生でも泣いたのは赤ん坊の頃ぐらいだから、しょうがないと言えばしょうがないかな。
僕はいまだに泣くことに関しては酷く不器用だ。
それから僕は、最初に受かった大学とは別の大学に通った。
本当なら、もう大学に行く事などどうでもよかったのだが、親から「子どもが高卒なんて格好がつかないので、何としても大学だけは出てくれ」と懇願されて、仕方なく行く事になった。
そして夜遊びが再燃した。
そんな中、僕が当時書いていた散文的な小説が老舗のバーで知り合った著名な作家先生の目に止まり、その話が出版社まで届いた。
それがきっかけで僕は、『華々しく』大学生で文壇デビューを果たしたのだ。
僕の容姿とその肩書きによって、周囲のチヤホヤは頂点に達した。
僕も、そんなぬるま湯が心の傷を癒してくれたから、進んでそれを楽しんだ。
で、今に至る、だ。
吹越さんに捨てられてから立ち直るのに、4年・・・いや5年はかかっている。渡海さんに至っては、「まだ引きずってるんだな」なんて言う。
だからこそ、ノンケはダメなんだ。
ストレートの男は、いずれ自分の元から去っていく。
例え気持ちが僕にあったとしても、社会的にそれが許されないこともあるのだ。
それはシノさんだって同じ。
もし僕がシノさんとつき合う事ができたとしても、それが一生続く保証は、限りなくゼロに近いのだ・・・。
そんなことを考えていたら、無性に悲しくなってきた。
悲しくなったって、無駄なのに。
こんな気持ちになったところで僕は、涙のひとつも流せやしないのだから。
「・・・紅茶、冷めちゃったな・・・」
冷たくなって味が落ちた紅茶を口に含み、僕が顔を少し顰めた時、玄関のチャイムが鳴った。
── なんだろう。こんな時間にセールスか?
セールスだったら居留守を決め込もうと思いながら覗き窓を覗くと、そこに立っていたのはシノさんだった。
── え?! なんで?
今日は、奥塩原の酒蔵に行ってるはずなのに。
僕は、慌ててドアを開けた。
「どうしたんですか?!」
大きな声でそう言いながらドアを開けたので、シノさんはちょっとビックリしたみたいだった。
黒目がちな奥二重の瞳を、大きくきょとんと見開いた。
「今日、栃木に出張じゃなかったんですか?」
僕がそう訊くと、シノさんはテレ臭そうに頭を掻いた。
「そうなんだけど。今日は帰ってきたくて、早く切り上げてきたんだ」
シノさんは僕の前に少し黄色がかった白い粉の入ったボトルを差し出した。
「お土産」
「何ですか、これ・・・」
「温泉の元。正真正銘、塩の湯の元だから、それ。一緒に泊まりに行くのが無理なら、家で温泉、入ろ」
僕は、一瞬言葉を失った。
ホント、なんて言っていいかわからない・・・。
「何か、言ってくれよ」
僕が無言でいると、さすがに不安になったのか、シノさんがそう言ってくる。
僕は鼻の先を指で摘んで擦った後、口をへの字に曲げて言った。
「バカじゃないですか? うちで温泉なんて。狭過ぎて気分でないじゃないですか」
「出たよ。ドS発言」
シノさんがイッシッシと笑う。
僕もおかしくなって、同じように笑った。
<side-SHINO>
もう遅い時間だったので、家の近所にある俺行きつけの居酒屋で晩飯を食べることにした。
千春はあまり居酒屋とかに来たことがないらしく、物珍しそうに店内を眺めていた。
店の若い女性店員とかは、俺が久々に現れたと思ったら、いきなり相当の男前を従えていたので、かなりテンションが上がっていた。
千春は店の中で完全に浮いていたが(千春って、どこか高級感のある雰囲気は消せないんだよな、どこへ行っても)、相変わらずここでもいろんな人にモテていた。
店の大将にもすっかり気に入られて、美味い出汁のひき方とかを教えられてた。
やっぱ千春って、凄く魅力的なんだよな。どんな人にとってもさ。
そんな千春を連れてる俺も、何だか優越感。
いや、ただの友達なんだけどさ。
その後、千春ン家に帰って風呂に入った。もちろん、温泉の元入れて。
ただしやっぱ家の風呂は狭いから、本物の温泉みたく一緒には入れずに交代になっちゃったけど。
千春には「先に入ってください」って言ってくれたけど、一応お土産だしさ。それは悪いんで、千春に先に入ってもらった。
その間に俺は一旦家に帰ってスーツを部屋着に着替えて、新しい下着を持って千春の家に取って返した。
千春が入っている間に、ビジネスバッグの中のパソコンを取り出して、今日の打ち合わせの内容を簡単にデータにまとめる。
そうこうしているうちに、千春が風呂から上がってきた。
「お待たせしました」
濡れた髪をタオルで拭いながら和室に入ってくる千春。
う~ん、水も滴るどころか、湯気が立ち上るいい男ですな。
妙に色っぽい。
何でだろ? ジムでシャワーから上がった時とは、何か違う。
「やはり本物の温泉の元ともあって、かなり身体の芯から温まりますね、これ。いつもはもっと入っていられるんですけど、さすがにすぐ出てしまった」
ああ、そうか。
「いつもよりホッペタとかが桜色だからなのか」
思わずそう俺が口に出して言うと、千春が「どういう意味ですか?」と訊いてくる。
俺はハッとして口を左手で覆った。
「何かまた、よからぬことを考えていましたね?」
── はい。その通りです。
別に下心がある訳じゃなかったけど。
いつも愛用のAVに出てる女優さんより色っぽいなぁと思っちゃったんだ。
いや、そもそもそんな女優さんと比べるのが凄く失礼だって分かってるんだけどさ。
「俺も風呂、入ってくる」
俺は、タオルを引っ掴んで風呂場にダッシュした。
「シノさ~ん、風呂、長過ぎる!」と千春からせかされながら風呂から出てくると、千春がキュウリの浅漬けと炭酸水を出してくれた。
風呂の熱さに茹でられて千春より赤くなった俺には、非常にありがたい心づくしだ。
「何か、懐かしい味がする」
俺がキュウリを齧りながらそう言うと、「僕の祖母から教わった作り方だから」と千春は言った。
ミョウガが決め手らしい。
俺にはちっとも分からんが。でも味が美味いのは、はっきりと分かる。
「千春は本当に料理上手だよなぁ。さっきの居酒屋でも、大将と料理の話をしてたし。その話聞いて、周りの女の子達の目がハートマークになってたよ。年配のおばさんまでだぜ?」
千春は苦笑いする。
「僕にしてみれば、女の人からモテても仕方がないんですけどね」
「まぁ、そうだけどさ・・・。でも、料理できるってインパクトあるんだなぁ。お運びの女の子も、『料理できる男って最高』って叫んでたじゃん。やっぱポイント、高いよなぁ」
俺が一頻りそんなこと言ってたら。
「じゃ、習いますか? 料理」と千春が訊いてきた。
「へ? 料理? 千春が教えてくれるの?」
俺がそう訊き返すと、千春は首を横に振った。
「僕のは見よう見真似なんでね。正しい料理法じゃないかもしれないから。男でも行ける料理教室を知り合いに訊いて、調べておきます」
俺は何だか急に不安になった。
千春が教えてくれるのならともかく、いきなり料理教室だなんて、大丈夫かな???
そんなことを思っていたら、まんまと千春に見透かされた。
「ひょっとして、ビビッってます?」
「え?!」
「ビビッてますね」
千春の大きな瞳が、いやぁな感じで細められる。
これって、ブラック・チハル降臨の前兆ってやつ?
「いや! その! ほら、俺って、人見知り激しいから! 何つーか・・・」
── ガンッ!!!
拳を固めた千春が、側の壁を物凄い勢いで殴った。俺の身体が、その音に驚いてビクリと飛び上がる。
ヒィィィイ!! こっ、怖い!!!
「僕の前で、ネガティブ発言は許しませんよ」
「はっ、はい! 先生」
俺は反射的にそう答えてた。
「よろしい」
千春は鋭い目つきのまま、恐怖に怯える俺を流し目で見つめつつ、炭酸水を口に含んだ。
うわぁ~、なんだろう。6つも年下なのに、この迫力(大汗)。
恐怖以外の何ものでもないよ・・・。ブラック・チハル・・・。
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クララは動揺しつつも、婚約者であるラインハルト王太子殿下に、国王陛下が決めた事を覆すのは貴族として間違っていると諭そうとするが、ラインハルト王太子殿下の逆鱗に触れたことで貴族院から追放されてしまうのであった。
王太子様に婚約破棄されましたので、辺境の地でモフモフな動物達と幸せなスローライフをいたします。
なつめ猫
ファンタジー
公爵令嬢のエリーゼは、婚約者であるレオン王太子に婚約破棄を言い渡されてしまう。
二人は、一年後に、国を挙げての結婚を控えていたが、それが全て無駄に終わってしまう。
失意の内にエリーゼは、公爵家が管理している辺境の地へ引き篭もるようにして王都を去ってしまうのであった。
――そう、引き篭もるようにして……。
表向きは失意の内に辺境の地へ篭ったエリーゼは、多くの貴族から同情されていたが……。
じつは公爵令嬢のエリーゼは、本当は、貴族には向かない性格だった。
ギスギスしている貴族の社交の場が苦手だったエリーゼは、辺境の地で、モフモフな動物とスローライフを楽しむことにしたのだった。
ただ一つ、エリーゼには稀有な才能があり、それは王国で随一の回復魔法の使い手であり、唯一精霊に愛される存在であった。
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