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プロローグ
妹が、結婚した。
バツイチ・子持ちという二重苦をものの見事にはねつけての、しかも新郎は中学時代の初恋の人・・・というミラクルな結婚だった。
披露宴で、5歳の甥っ子を間に挟んで友人達の作る幸せアーチを通り抜けていく妹夫婦の姿を目で追いながら、俺は内心複雑だった。
「おめでとう。本当によく頑張ったよな」と妹を誇らしく思う自分と同時に、別のことを思う自分がいることに、俺は酷く罪悪感を感じていた。
── 俺より9つも年下のお前は二度も結婚できたのに、三十路過ぎのお前の兄貴は、結婚どころかまともに恋愛すらできた試しがないなんて。まったく、神様は不平等だよな・・・なんて。
俺、篠田俊介、32歳。
取り立てて何の特徴もない、ごく普通の男。
ただいま彼女いない歴日数を、男らしい(?)勢いで記録更新中・・・。
第一章 所詮人類は、ウサギにはなれない。
<side-SHINO>
「おい、シノ。どうだった。妹さんの結婚式」
隣から部長にそう話しかけられ、俺は俄に緊張した。
おっと、おしっこの出がちょっと悪くなる。
何せ妹・美優の結婚話は、俺 ── 篠田俊介にとって些かセンチメンタルな話題で、できればごめんこうむりたかったところだが、男子トイレで小便器に向かっているこの無防備な状態では逃げようがない。
「あ、まぁ、よかったです。コブつきの結婚なんで、そんなに派手派手しくはなかったですが。すみません、忙しい時期に三日も休みを取ってしまって」
俺がそう返すと、部長は苦笑した。
「別に責めてる訳じゃない。いつもお前は仕事仕事ってばかりだからいい骨休みになったんじゃないか? それに妹さんの引っ越しも大変だったんだろ? 遠い県外にお嫁に行っちゃったんだって、川島から聞いたぞ」
「ええ、まぁ・・・」
「お前ももう30だし、苦労して面倒見てた妹さんが片付いたんだから、これで安心して嫁さんがもらえるだろ。上司からの見合いを断ってる場合じゃないぞ。ま、いい人がいるんなら別だがな。早く妹さんを見習って、結婚しろ」
もういい、ここで限界だ。
丁度おしっこもし終わったところだし、俺はさっさとモノを仕舞って、水洗ボタンを押した。
「部長、お先に失礼します」
俺が去り際、部長がぼそりと呟いた。── いいなぁ、若い奴はキレがよくて、と。
部長って、俺がまだ30歳だって思ってんだな・・・(汗)。
俺は、手の水滴を拭ったハンカチで、ついでに額の脂汗も拭う。
そうして、大開口のガラス窓に映る自分の姿に目をやった。
身長184センチ。体重74キロ。
顔つきは、嫁に行った我が妹が言うに『しゅっとしてる』。
卵形の輪郭に、奥二重の切れ長の目と真っ直ぐで濃い眉。周囲の人間から唯一褒められた事のあるパーツは、高くて形がいいと言われてきた鼻筋のみ。学生時代は、『サムライ』とか『黒柴犬』とかってからかわれてきた。今流行りの「草食男子」からはほど遠い容姿。
現在勤める酒の卸売メーカー『加寿宮』に就職した際も、ルックスだけで社長から「武士顔のお前に洋酒は似合わん。日本酒をやれ」と言われ、今に至る。
高校時代の友達からは、規模の小さな卸の会社で焼酎やワインに人気が押され気味の日本酒を扱う仕事に就くだなんて、「お前どれだけマゾだよ」だなんて言われているが、俺にとって加寿宮社長は生きていく上での大恩人だった。だから仕事は苦労が絶えないけれど、今の仕事に不満はない。
15年前── 俺が高校2年、妹・美優が8歳の時、両親が交通事故で突然他界した。
俺の両親は、大胆にも俗に言う『駆け落ち婚』だったらしく、頼る親類縁者が全くいないという中で、俺は高校を中退し働くことを決めた。
けれど世の中はそう甘くない。
就職難で、おまけに就活シーズンでない中途半端な時期に高校中退者が職を探しても、大概は門前払いだった。
東京という土地は皆生きるのに必死で、俺の特殊な事情などに気づくより先に高校中退という履歴書の文字で俺という人間を判断された。結局3桁の会社に就職を断わられ続け自暴自棄になりかけていた時、加寿宮社長と出会ったのだ。
当面の生活費を稼ぐため手っ取り早く決めた居酒屋チェーン店のバイト先で、店に営業に来ていた加寿宮社長が俺に声を掛けてくれた。
「君はいつ来てもいるね。学校はどうしているんだ?」
そう訊かれ事情を話すと、「明日から会社に来なさい」と言われた。信じられないくらいあっさりと就職が決まった瞬間だった。
しかもそれ以来社長は、住むところの世話から妹の学費まで助けてくれたのだから、いまだに頭が上がらない。社長は今でも「お前のガタイが酒のケースを運ぶのに適していたから、思わずスカウトしたんだ」と冗談交じりでそう言うが、俺は社長が義理に厚い人で、そんな人だからこそ小さいながらも大手メーカーに潰されることなく一代で会社を守れてきたんだと思っていて、俺はそんな社長に心底感謝している。
── ま、確かにガタイは、酒のケースを運ぶのに適しているのには間違いないが。
ちなみに学生時代・・・中学から高校を辞めるまで、俺はバレーボールに精を出していた。
血液型がA型のくせに性格は直情的な俺には、ボールを叩きまくって胸がスカッとするアタッカーというポジションはかなり適していたようで、中学まではかなりいい線までいっていた。だが、高校一年の段階で身長が伸びなくなり、例の事故があったこともあって、プロ選手になるという儚い夢は早々に諦めた。
ま、これが俺の簡単なプロフィールといったところだが、最後に俺にとって最大のタブーと化している重大な問題について語らねばならないだろう。それは・・・・
ハンカチで手を拭いつつ俺が席に戻ると、出先から戻ってきていた隣の席の川島が如何にも美優の結婚話をし出したいような顔をして俺を見つめてきたんで、俺はヤツの口の前に「その話、ストップ!」と言わんばかりの形相で、手の平を突き出してやった。
「お前だけは、その話をするな」
「 ── なんでぇ」
一方の川島は、派手に顔を顰めた。
俺は再びパソコンに向き合いながら、「今日は一日中ずっとその話題を皆に振られまくりだからだ」とぶっきらぼうに答える。
今日は企画書を仕上げなければならず、一日中内勤だったから、会社中のありとあらゆるところで美優の結婚話を訊かれたのだ。はっきりいって、もうお腹いっぱいで消化不良を起こしかけてる。
オマケに必ずと言っていいほど「次はシノさんの番ですね」なんて言いやがるものだから、益々気が滅入ってしょうがない。
── 心配しなくても、生まれてこの方一度も恋人ができたことがないこの俺が、どう頑張ったって君たちより早く結婚なんてすることないから。
心の中でそう悪態はつくも、こんなこと絶対に口には出せない。
そう。俺の中で完全にタブー化している重大な問題。
32歳にもなっても女性と付き合った経験がなく、素人的にも玄人的にもいまだ童貞だなんて。
男・篠田俊介、願わくば、死んでもこの秘密は墓場まで持って行く覚悟だ。
なんだかんだ言って、結局企画書は仕上がらなかった。
本当なら休みを取る前に仕上げたかった企画書だが、ぐずぐずといじり回すだけで先に進まず、おまけに今日は例の質問攻めでろくに集中できなかった。
再来月にはボジョレーヌーボー解禁の時期に入ってくるが、俺の所属する販売営業部日本酒課は年末から年始にかけてが勝負なので今年の営業戦略を早くまとめなくてはならない。
── あ~・・・、気が滅入る。
ジリジリと終業時間のベルを聞きつつ、俺は大きくノビをした。
何だか今日は、残業って気分にもならない。
こんな状態の気分のまま残業したって、いい企画書が仕上がるはずがないことは分かり切っていた。
「おい、川島。今日、飲みに行かねぇか」
いつもは川島から誘ってくることが多かったが、今日はこっちから誘ってみた。
飲むのが好きな川島のことだから、二つ返事が返ってくるものとばかり思いこんでいたのだが・・・
「── ごめん、シノ。俺、今日ちょっと・・・」
「え?」
俺は思わず、訊き返してしまった。
7年前に俺と同じタイミングで日本酒課に配属された川島は、同い年ということもあって社内でも一番仲がよく、俺が川島の誘いを断ることはあっても、川島が俺の誘いを断ることは今までなかったからだ。
「何だよ、珍しいな。仕事、終わんねぇのか」
俺がそう聞き返すと、なんと川島は顔をちょっと赤らめながら、さっさと机の上の片付けをしている。
「いやぁ、そうじゃなくてさ。俺もいよいよ春が来たっていうか・・・さ」
愕然とした。
── 何だよ、いつだよ。
── いつの間にそんなことになってるんだよ。
そんな攻撃的な言葉が頭の中をグルグル回ったが、口から出た言葉は、意外にも正反対のものだった。
「へぇ、よかったじゃん。お前、久々じゃねぇの」
多分この台詞は、俺にとってかなりのやせ我慢。
だけど、鈍感な川島がそんなことに気づくはずもなく。
川島は、テレながら頭を掻く。
「そうなんだ。一昨日、急に呼び出されてさ。そういうことになったんだ」
「相手は誰だよ」
「英会話スクールの美樹ちゃん」
「あぁ・・・。あの子・・・・」
英会話スクールの美樹ちゃんのことは、俺も知っていた。
一人で通う勇気がないという川島に付き合って入校した英会話スクールの講師助手の子で、俺たちのクラスをずっと担当してくれていた女の子だ。── まぁ、女の子といっても確か26歳ぐらいの子だが、愛想がよくてハキハキとしたいい娘だ。つい二週間前に、川島の家で飲み会を開くから来てくれと言われた席に、美樹ちゃんと友達の幾人かも来ていた。
なんだ、その頃からそんな話になってたのか。てことは、俺、ダシにされたのか?
いいやいいや、そんなことは思うまい。
川島があんないい娘と付き合えるようになったなんて、幸せじゃないか。いいことじゃないか。
「お前さ、さっさと結婚しちまえよ」
そそくさと去っていく川島の背に、俺は苦笑いしながらそう言っていた。
なんだか、川島に彼女ができたって知った後からの記憶があまりないのはどうしてだろう。
俺、きちんと「おめでとう」ってアイツに言ってやれただろうか。
一人ぽつねんと自分のデスクに向き直り、無機質なパソコンの画面を見ながら、俺はしばらく間を開けて、はぁと深いため息をついたのだった。
結局のところ。
同じ課の木下や鈴木、ワイン課の滝沢、蒸留酒課の寺田にも断られて、俺は仕方なく残業することに決めた。
なんだか今日はそそくさと家に帰りたくなかったし、一人飲みに行く気分でもなかった。
どうせマンションに帰ったって、出迎えてくれる甥っ子も甥っ子を騒がしく追い立てながら食事を用意してくれる妹も、もういない。
妹の美優は、俺が生活のために仕事漬けの生活を送っていた間に、唯一の肉親となった兄から構ってもらえない寂しさのせいだったのだろうか、気づくと18歳でシングルマザーになっていた。
一緒に暮らしていたのに、俺と言う人間は妹の身体の変化に気づいてやれることなく、鈍感な俺が気づいた時にはもう、お腹の赤ちゃんは随分大きくなっていた。
俺は随分ショックを受けたが、美優も不甲斐ない兄貴の影で一人、かなり悩んで苦しんでいたんだと思う。
美優は高校の同級生だった相手の男の「大学を卒業したら結婚する」という台詞を信じていたが、結局はそうならなかった。いや、正確には、一度は結婚したものの、相手の男には大学時代に別に結婚を約束した女ができていて、結婚直後から男の不倫が始まった。一年後には、妹がついに根負けしてあっという間のスピード離婚となった訳だ。
相手の男が心変わりした時は、流石の俺も頭が完全に吹っ飛んで相手の実家まで怒鳴り込みもしたのだが、結局いやに冷静だった美優に逆に諭されて、慰謝料50万と月3万円の養育費という条件で話がまとまった。
それ以来、三人でずっと頑張ってきたんだ。
妹と甥っ子を守っていくのは俺しかいないと、改めて俺は覚悟を決めた。
甥っ子の晴俊は親父にまぁったく似ず素直で本当に可愛くて、俺を実の父親のように慕ってくれた。
美優も高校時代みたいに俺に反発することなく、仕事で疲れて帰宅する俺の面倒を甲斐甲斐しくみてくれるようになった。
俺が部長から持ってこられた見合い話を断ったのも、このまま何となく家族三人で暮らしていけたらいっかなぁ・・・なんて思い始めていたからだ。
その美優が、一年前に「お兄ちゃん、紹介したい人がいるの」と連れてきた男は、悔しいほど性格も見た目もいい男で。
また妹を泣かす酷い男なら、髪の毛むしって家から叩き出してやると意気込んでいた俺の鼻っ柱を見事にへし折ってくれた。
おまけに彼は大の子ども好きで、しかも美優の中学時代の初恋の相手だったっていうんだから、もう反対なんてできっこないだろ?
だから今は、妹を確実に幸せにしてくれる男の元に無事に送り出した達成感と、もう家に帰っても誰も出迎えてくれないんだという寂しさがない交ぜになった、複雑な男心・・・といったところなんだ。
気づけば周辺はすっかり電気が落ちて、多分会社の中で残ってるのは、俺と階下のワイン部のヤツらだけだろう。
とはいっても、予想通り企画書はくだらない文章を書いちゃ消し、書いちゃ消しの繰り返しで、一向に進まない。
「ダメダこりゃ」
昭和の香りプンプンの“チョーさん”の物まねをしつつ机に突っ伏した時、携帯が鳴った。
ハッとして、飛びつくように携帯を懐から取り出す。
高校時代の部活の友人・滝野からのメール。
滝野は川島と同じぐらい仲のいい友人だった。
滝野は高校での、そして川島は会社に入ってからの友人だったが、今では俺を介して二人仲良くなり、三人で飲みに行くことも多く、遅くまで飲み明かした日には川島の部屋で泊まることも多い。
── ひょっとして、川島から例のことでも報告されたのだろうか。
一瞬俺はそう思ったが、この際メールといえども話し相手ができるのならば、熱烈歓迎だった。
会社の中ではあったが、今は就業時間外だからメールをしたって構わない。
「なに、なに?」
携帯を開けると、メールの件名にはこう書いてあった。
『ちょっと相談』
「相談? なんだろ」
表面的には訝しげに言った俺だが、こうして友達が自分を頼ってきてくれるのは正直嬉しい。
それに今日は、孤独感もつのってきていたところだから、余計嬉しく感じた。
メールを開く。
『相談っていうか、ホントは報告っぽいんだけど。お察しの通り、この前お前が心配してた岸田さんから告白されまして。まぁ、いろいろあった末にお断りしたんですが、友達でもいいから付き合ってくれって言われたんで、これから飲み会の時とかに彼女がくっついてくるかもしれません。ご迷惑をおかけしますが、よろしく』
「なんじゃこりゃ」
今度は松田優作が俺に乗り移った。
俺は顔がこわばったまま、携帯電話を机の上に放りだした。
確かに岸田さんっていうのは、近頃やたら滝野を食事に誘ってきていた女性だった。
元々はカイロプラクティックの診療所に勤めている滝野のお客さんで、まぁ怪しい訳でも怖い訳でもない、どちらかといえばいい人らしいのだが、先日滝野から「俺の家に料理を作りに来た」っていう話を聞いてから、「お前それ、確実に狙われてるよ」と俺が忠告しておいたのだ。なにせ岸田さんっていうのは俺らより15歳も年上だったから。滝野は「いや、さすがにそれはないだろう」と呑気に構えていたので、口酸っぱく言い聞かせておいたにも関わらず、コレだ。
思わず俺の背筋はゾッとした。
一体何にゾッとしたのかは分からないけど、とにかくゾッとした。
15も年上のオバサンが、俺の友達に告白してきたから?
それとも、友達が告白を断ったにもかかわらず、相手に押し切られて友人関係を始めようとしているからか?
── いや・・・、そうじゃない。
これまで俺の恋人なし人生に付き合ってくれていた友達二人が、人を愛したり愛されたりする俺の知らない世界に旅立ってしまったことに対する恐れのせいだ。
それを自覚した途端、益々怖さと孤独感が襲ってきた。
気づくと、どういう訳か少し身体がカタカタと震えている。
なんだ俺。どうしちゃったんだ。
うわ・・・俺、今日、寂しくて死ねるかもしれない。
またまた結局のところ。
人間、ウサギじゃないんだからさ。寂しさなんかでおっ死ねる訳もなく。
むしろウサギのように死ねたら楽だったろうにとも思ったが、所詮人間はウサギにはなれず。
俺は観念して、スゴスゴと帰宅することにした。
終電手前の電車はいつもよりずっと空いていて、バスの時間はなくなっていた。
まぁ歩けない距離ではないし、タクシー使うほどでもなかったので、俺はとぼとぼと家までの暗い道を歩いた。
女性ならこんな暗い夜道、変な男につけられてないか心配しながら歩かなきゃならないところだろうけど、幸い俺みたいなだぁれにも相手にされないような男なら、そんな心配は皆無だ。いや、いっそのこと、誰かに襲われてもいいかなとまで思ってしまう。
── いかん、今日の俺は完全に壊れてる。一生懸命仕事もしてみたけど公私混同も甚だしく全然仕事が手につかない不甲斐なさだったし、誘いは全部断られた。妹は結婚するし、甥っ子はもう家にいないし、仲の良い友達二人には彼女ができたし・・・って、一人はまだ違うけどさ。
暗い道も手伝ってか、俺の心の空虚さはどんどん膨らんで、なんだかこの世の中に独りぼっちで生きてるのは俺一人っていう感じが募ってきて、たまらない気分になった。
その途端鼻の奥がツンとして、涙がぽろりとこぼれ落ちた。
うわっ、なさけねぇって思ったけど、身体はちっとも言うこと聞いてくれなくて、三十路過ぎたいい年だってぇのに、自分の涙如きを止められなくなってしまった。
俺、別にそこまで恋人欲しいって思ってるわけじゃない。
人生生きていくのに、それほど恋愛って重要なのかとも思う。
恋愛以外の生活は取りあえずそれなりに充実してるし、人様に迷惑もかけず、きちんと生きているつもりだ。
友達も会社の同僚も、仲がいいヤツはたくさんいる。
妹が嫁いだ先だって、「いつでも遊びにきてくれていいですから」って旦那にも言われてる。
だから俺は、別に本気で一人きりなんかじゃないはずなのに・・・。
── なのに。
いや、やっぱり俺は独りなんだ。
人それぞれ、一番大切な人っているだろ。
例えば、妹には結婚相手か甥っ子。友達や会社の同僚だって、それぞれに一番大切な人が必ずいる。
だけど、俺には・・・。
俺にとって一番大切な人が誰かが酷く曖昧なように、俺を取り巻く人達にとって一番大切な人は、絶対に俺なんかじゃない。
これって、つきつめて考えるとやっぱ孤独だよ。
俺は一人ぼっちなんだ。
そう思い出すと益々落ち込んで、一見そうは見えなくても、実は確実な孤独というものに抵抗もできず、ただただ泣けてしょうがなかった。
このままだと絶対、明日の俺の顔、『亀』になる。
・・・とか思いつつ、それでも涙が溢れるのを止められないまま、気づけば自分のマンションまで辿り着いていた。
マンションとは言っても、アパートに毛が生えたようなものだ。ただ7階建てなんで外観はマンションのように見える。
俺の部屋は3階にある。2DKのどこにでもあるような部屋だ。
ただいまといってももう返事の返ってこない、俺が電気をつけないと真っ暗いまんまの部屋。
そんな部屋に今日いやでも帰らなくてはならないんだと思いつつ、家のすぐ手前まで来た時、マンション前の電灯の下で重なり合う人影が見えた。しかもその二人の傍らには黒塗りの高級車が停まっていて、エンジンかけっぱなし。しかも運転手までついていた。
── 何もこんな日に、熱々のキスシーンとご対面はねぇだろうが。
俺は頬を濡らす涙をスーツの袖でグイッと拭って、公衆の面前でいちゃつくバカップル(・・・いや、こんな言い方をするのは今日だけだ。今日の俺は何だか凶暴なんだ)を横目にマンションに入っていこうとした。
どうやらカップルの片割れ・・・女の方は酷く酔っぱらってて・・・・。
突如、俺はギョッとする。
女じゃない。
ありゃ、男だ。
男同士だ。
男同士が抱き締め合ってる。絡み合ってる。キスしてる・・・・!!!
── うわぁ。本物見ちまった。
今までダラダラ流れ出ていた涙も突然引っ込んで、俺はギョッとした顔つきのまま、バカみたいにそこに突っ立ってしまった。
男と目が合う。
酔っぱらっていない方の男と。
結構上背がある方の俺より更に長身そうだが、俺より絶対に体重が軽そうなスレンダーボディ。それに信じられないくらいの小顔が乗っかっていて、一体全体何頭身なんだってツッコミたくなるような身体バランス。そのスタイルのいい身体は、一目で質の良さを感じさせる細身のカジュアルスーツを着ていて、少し明るい色をした髪は、寸分の隙もなく格好良く整えられている。
なんだこれ。なんなんだ、これ。
いわゆる『イケメン』っていうのを絵に描いたような男が目の前にいる。
俺より明らかに年下で、でもって明らかに俺より遙かにモテそうな・・・女ばかりか男にも超絶モテてそうな、そんな男が、男の恋人に縋り付かれた状態で俺をじっと見ている。
俺はその状況に正直完全に固まっていたが、相手の酔っぱらってる男の顔を確認して、更に真っ青になった。
その男はエンタメ情報に疎い俺でも知っている、今売り出し中の若手俳優の顔だった。
ええと、なんて名前だっけ・・・確か花村とかなんとか言った・・・。
── いや、ヤバい。そんなこと、思い出してる場合じゃねぇ。この状況は、非常にまずい・・・
俺、動け!!
俺は金縛りがとけたかのように一つ大きく呼吸を整え、何とか辛うじて男に軽く会釈すると、そそくさとマンションロビーに入った。
カバンを身体の前に抱え、ドキドキ唸る心臓を抑えつつ、エレベーターのボタンをガシガシと何度も何度も♂。いやいやいや、押すだ。この場合、『押す』が正解。
背後から、車の走り去る音。そんでもって、自動ドアの開く音。
うわっ、何? なになに?
入ってきたの? 入ってきたんですか? このマンションに? マジか。マジでか。クソッ、逃げ場なんてねぇぞ・・・。
俺はすっかり生きた心地がしない。
何度もガツガツとエレベーターのボタンを押したが、深夜のエレベーターは各階で自動的に停まるようになっていて、信じられないくらい降りてくるのが遅い。なんでこんな時に限って、7階スタートなんだよ!!!
頭の隅っこでは冷静な俺がいるのだが、身体はすっかり動転してる。
何せ俺は、生まれてきてこれまで、幸いなことにというか何というか、こういう場面に遭遇したこともないし、自分がそんな目にあいそうになったこともない。俺は女にモテないばかりか、男にもモテた試しはない。
── って、いやいやいや、男にモテたって仕方ないだろうが、俺。
頭の中でノリツッコミしてるだなんて、俺ってば、完全にテンパッてる。
しっかり、しっかりするんだ、篠田俊介・・・。
はっきり言って、彼らみたいな嗜好の人達は、全く以て未知の存在体だ。俺にとっては宇宙人とイコールに等しい。
動揺した俺の指は、再びエレベーターのボタンを激しく連打する。
相手の気配が背後に近づく。
── ど、どうしよう。早く、早く来い、エレベーター。
「そんなに押したら、痛みますよ」
ヒッ。
今、話しかけられた? 俺。
たたた確かに、こんなに押したら、エレベーターのボタン、壊れるかも。
「この時刻だと、エレベーターは各階停まりになりますから」
知ってる。それは知ってるんだ。ここに住んでるから。
「早く帰りたいのは分かりますけど、待ってるしかないですね」
ここまで話しかけられたら、観念するしかない。
ゆっくり背後を振り返った俺は、おそらく別の意味で涙目だったに違いない。
不思議とそこには、イケメン兄さんしかいなかった。
ぐでんぐでんに酔っていた相手の彼女・・・いや彼氏はいなかった。
ちょっとホッとする。
いや、ホッとしている場合ではない。
そうこうしてたら、エレベーターの扉が開いた。
急いでエレベーターに乗り込む。
だが当然のようにイケメン兄さんも乗り込んできて、再び俺はヒッとなった。
あれ? 乗るの? お兄さんも、乗るの?
「僕もここに住んでるんです」
後ろの壁にビッタリとくっついて、お兄さんを凝視していたせいか、お兄さんは後ろ姿のままながら、俺の心の中の疑問に答えてくれた。
いかん、いかん。
例えホモセクシャルの人だとしても、人は人。
偏見の目で見てはならんのだ。
「ごほっ、ごほん」
うはっ、俺、わざとらしい咳しすぎ(青)。
「何階ですか?」
「えっ、あ、3階、お願いします」
意外にお兄さん、いい人なのか? 公共の面前でしかも男同士でイチャつくようなヤツでも、いい人なのか???
妙な沈黙が流れる。
はっきりいって俺は、息をしてない。いや、できてない。
住んでる階が3階でよかった。これが7階なら、俺は窒息死してる。
やっとこさ3階について、エレベーターを降りる。
ようやく肩で息していると、あのお兄さんが俺の横を通り過ぎた。
へっ! 何、同じ階?
流石に今度は俺の心の疑問は、お兄さんまで届かなかったようだ。
俺はカバンを胸に抱えたまま、お兄さんの後をつける恰好で自分の部屋まで歩いた。
305が俺の部屋。
ふと、お兄さんの足が止まる。
お兄さんが鍵を出してる。
お兄さんの部屋は・・・303。
イカしたホモセクシャル・超絶ハンサムさんは、なんと俺のお隣さんだった。
妹が、結婚した。
バツイチ・子持ちという二重苦をものの見事にはねつけての、しかも新郎は中学時代の初恋の人・・・というミラクルな結婚だった。
披露宴で、5歳の甥っ子を間に挟んで友人達の作る幸せアーチを通り抜けていく妹夫婦の姿を目で追いながら、俺は内心複雑だった。
「おめでとう。本当によく頑張ったよな」と妹を誇らしく思う自分と同時に、別のことを思う自分がいることに、俺は酷く罪悪感を感じていた。
── 俺より9つも年下のお前は二度も結婚できたのに、三十路過ぎのお前の兄貴は、結婚どころかまともに恋愛すらできた試しがないなんて。まったく、神様は不平等だよな・・・なんて。
俺、篠田俊介、32歳。
取り立てて何の特徴もない、ごく普通の男。
ただいま彼女いない歴日数を、男らしい(?)勢いで記録更新中・・・。
第一章 所詮人類は、ウサギにはなれない。
<side-SHINO>
「おい、シノ。どうだった。妹さんの結婚式」
隣から部長にそう話しかけられ、俺は俄に緊張した。
おっと、おしっこの出がちょっと悪くなる。
何せ妹・美優の結婚話は、俺 ── 篠田俊介にとって些かセンチメンタルな話題で、できればごめんこうむりたかったところだが、男子トイレで小便器に向かっているこの無防備な状態では逃げようがない。
「あ、まぁ、よかったです。コブつきの結婚なんで、そんなに派手派手しくはなかったですが。すみません、忙しい時期に三日も休みを取ってしまって」
俺がそう返すと、部長は苦笑した。
「別に責めてる訳じゃない。いつもお前は仕事仕事ってばかりだからいい骨休みになったんじゃないか? それに妹さんの引っ越しも大変だったんだろ? 遠い県外にお嫁に行っちゃったんだって、川島から聞いたぞ」
「ええ、まぁ・・・」
「お前ももう30だし、苦労して面倒見てた妹さんが片付いたんだから、これで安心して嫁さんがもらえるだろ。上司からの見合いを断ってる場合じゃないぞ。ま、いい人がいるんなら別だがな。早く妹さんを見習って、結婚しろ」
もういい、ここで限界だ。
丁度おしっこもし終わったところだし、俺はさっさとモノを仕舞って、水洗ボタンを押した。
「部長、お先に失礼します」
俺が去り際、部長がぼそりと呟いた。── いいなぁ、若い奴はキレがよくて、と。
部長って、俺がまだ30歳だって思ってんだな・・・(汗)。
俺は、手の水滴を拭ったハンカチで、ついでに額の脂汗も拭う。
そうして、大開口のガラス窓に映る自分の姿に目をやった。
身長184センチ。体重74キロ。
顔つきは、嫁に行った我が妹が言うに『しゅっとしてる』。
卵形の輪郭に、奥二重の切れ長の目と真っ直ぐで濃い眉。周囲の人間から唯一褒められた事のあるパーツは、高くて形がいいと言われてきた鼻筋のみ。学生時代は、『サムライ』とか『黒柴犬』とかってからかわれてきた。今流行りの「草食男子」からはほど遠い容姿。
現在勤める酒の卸売メーカー『加寿宮』に就職した際も、ルックスだけで社長から「武士顔のお前に洋酒は似合わん。日本酒をやれ」と言われ、今に至る。
高校時代の友達からは、規模の小さな卸の会社で焼酎やワインに人気が押され気味の日本酒を扱う仕事に就くだなんて、「お前どれだけマゾだよ」だなんて言われているが、俺にとって加寿宮社長は生きていく上での大恩人だった。だから仕事は苦労が絶えないけれど、今の仕事に不満はない。
15年前── 俺が高校2年、妹・美優が8歳の時、両親が交通事故で突然他界した。
俺の両親は、大胆にも俗に言う『駆け落ち婚』だったらしく、頼る親類縁者が全くいないという中で、俺は高校を中退し働くことを決めた。
けれど世の中はそう甘くない。
就職難で、おまけに就活シーズンでない中途半端な時期に高校中退者が職を探しても、大概は門前払いだった。
東京という土地は皆生きるのに必死で、俺の特殊な事情などに気づくより先に高校中退という履歴書の文字で俺という人間を判断された。結局3桁の会社に就職を断わられ続け自暴自棄になりかけていた時、加寿宮社長と出会ったのだ。
当面の生活費を稼ぐため手っ取り早く決めた居酒屋チェーン店のバイト先で、店に営業に来ていた加寿宮社長が俺に声を掛けてくれた。
「君はいつ来てもいるね。学校はどうしているんだ?」
そう訊かれ事情を話すと、「明日から会社に来なさい」と言われた。信じられないくらいあっさりと就職が決まった瞬間だった。
しかもそれ以来社長は、住むところの世話から妹の学費まで助けてくれたのだから、いまだに頭が上がらない。社長は今でも「お前のガタイが酒のケースを運ぶのに適していたから、思わずスカウトしたんだ」と冗談交じりでそう言うが、俺は社長が義理に厚い人で、そんな人だからこそ小さいながらも大手メーカーに潰されることなく一代で会社を守れてきたんだと思っていて、俺はそんな社長に心底感謝している。
── ま、確かにガタイは、酒のケースを運ぶのに適しているのには間違いないが。
ちなみに学生時代・・・中学から高校を辞めるまで、俺はバレーボールに精を出していた。
血液型がA型のくせに性格は直情的な俺には、ボールを叩きまくって胸がスカッとするアタッカーというポジションはかなり適していたようで、中学まではかなりいい線までいっていた。だが、高校一年の段階で身長が伸びなくなり、例の事故があったこともあって、プロ選手になるという儚い夢は早々に諦めた。
ま、これが俺の簡単なプロフィールといったところだが、最後に俺にとって最大のタブーと化している重大な問題について語らねばならないだろう。それは・・・・
ハンカチで手を拭いつつ俺が席に戻ると、出先から戻ってきていた隣の席の川島が如何にも美優の結婚話をし出したいような顔をして俺を見つめてきたんで、俺はヤツの口の前に「その話、ストップ!」と言わんばかりの形相で、手の平を突き出してやった。
「お前だけは、その話をするな」
「 ── なんでぇ」
一方の川島は、派手に顔を顰めた。
俺は再びパソコンに向き合いながら、「今日は一日中ずっとその話題を皆に振られまくりだからだ」とぶっきらぼうに答える。
今日は企画書を仕上げなければならず、一日中内勤だったから、会社中のありとあらゆるところで美優の結婚話を訊かれたのだ。はっきりいって、もうお腹いっぱいで消化不良を起こしかけてる。
オマケに必ずと言っていいほど「次はシノさんの番ですね」なんて言いやがるものだから、益々気が滅入ってしょうがない。
── 心配しなくても、生まれてこの方一度も恋人ができたことがないこの俺が、どう頑張ったって君たちより早く結婚なんてすることないから。
心の中でそう悪態はつくも、こんなこと絶対に口には出せない。
そう。俺の中で完全にタブー化している重大な問題。
32歳にもなっても女性と付き合った経験がなく、素人的にも玄人的にもいまだ童貞だなんて。
男・篠田俊介、願わくば、死んでもこの秘密は墓場まで持って行く覚悟だ。
なんだかんだ言って、結局企画書は仕上がらなかった。
本当なら休みを取る前に仕上げたかった企画書だが、ぐずぐずといじり回すだけで先に進まず、おまけに今日は例の質問攻めでろくに集中できなかった。
再来月にはボジョレーヌーボー解禁の時期に入ってくるが、俺の所属する販売営業部日本酒課は年末から年始にかけてが勝負なので今年の営業戦略を早くまとめなくてはならない。
── あ~・・・、気が滅入る。
ジリジリと終業時間のベルを聞きつつ、俺は大きくノビをした。
何だか今日は、残業って気分にもならない。
こんな状態の気分のまま残業したって、いい企画書が仕上がるはずがないことは分かり切っていた。
「おい、川島。今日、飲みに行かねぇか」
いつもは川島から誘ってくることが多かったが、今日はこっちから誘ってみた。
飲むのが好きな川島のことだから、二つ返事が返ってくるものとばかり思いこんでいたのだが・・・
「── ごめん、シノ。俺、今日ちょっと・・・」
「え?」
俺は思わず、訊き返してしまった。
7年前に俺と同じタイミングで日本酒課に配属された川島は、同い年ということもあって社内でも一番仲がよく、俺が川島の誘いを断ることはあっても、川島が俺の誘いを断ることは今までなかったからだ。
「何だよ、珍しいな。仕事、終わんねぇのか」
俺がそう聞き返すと、なんと川島は顔をちょっと赤らめながら、さっさと机の上の片付けをしている。
「いやぁ、そうじゃなくてさ。俺もいよいよ春が来たっていうか・・・さ」
愕然とした。
── 何だよ、いつだよ。
── いつの間にそんなことになってるんだよ。
そんな攻撃的な言葉が頭の中をグルグル回ったが、口から出た言葉は、意外にも正反対のものだった。
「へぇ、よかったじゃん。お前、久々じゃねぇの」
多分この台詞は、俺にとってかなりのやせ我慢。
だけど、鈍感な川島がそんなことに気づくはずもなく。
川島は、テレながら頭を掻く。
「そうなんだ。一昨日、急に呼び出されてさ。そういうことになったんだ」
「相手は誰だよ」
「英会話スクールの美樹ちゃん」
「あぁ・・・。あの子・・・・」
英会話スクールの美樹ちゃんのことは、俺も知っていた。
一人で通う勇気がないという川島に付き合って入校した英会話スクールの講師助手の子で、俺たちのクラスをずっと担当してくれていた女の子だ。── まぁ、女の子といっても確か26歳ぐらいの子だが、愛想がよくてハキハキとしたいい娘だ。つい二週間前に、川島の家で飲み会を開くから来てくれと言われた席に、美樹ちゃんと友達の幾人かも来ていた。
なんだ、その頃からそんな話になってたのか。てことは、俺、ダシにされたのか?
いいやいいや、そんなことは思うまい。
川島があんないい娘と付き合えるようになったなんて、幸せじゃないか。いいことじゃないか。
「お前さ、さっさと結婚しちまえよ」
そそくさと去っていく川島の背に、俺は苦笑いしながらそう言っていた。
なんだか、川島に彼女ができたって知った後からの記憶があまりないのはどうしてだろう。
俺、きちんと「おめでとう」ってアイツに言ってやれただろうか。
一人ぽつねんと自分のデスクに向き直り、無機質なパソコンの画面を見ながら、俺はしばらく間を開けて、はぁと深いため息をついたのだった。
結局のところ。
同じ課の木下や鈴木、ワイン課の滝沢、蒸留酒課の寺田にも断られて、俺は仕方なく残業することに決めた。
なんだか今日はそそくさと家に帰りたくなかったし、一人飲みに行く気分でもなかった。
どうせマンションに帰ったって、出迎えてくれる甥っ子も甥っ子を騒がしく追い立てながら食事を用意してくれる妹も、もういない。
妹の美優は、俺が生活のために仕事漬けの生活を送っていた間に、唯一の肉親となった兄から構ってもらえない寂しさのせいだったのだろうか、気づくと18歳でシングルマザーになっていた。
一緒に暮らしていたのに、俺と言う人間は妹の身体の変化に気づいてやれることなく、鈍感な俺が気づいた時にはもう、お腹の赤ちゃんは随分大きくなっていた。
俺は随分ショックを受けたが、美優も不甲斐ない兄貴の影で一人、かなり悩んで苦しんでいたんだと思う。
美優は高校の同級生だった相手の男の「大学を卒業したら結婚する」という台詞を信じていたが、結局はそうならなかった。いや、正確には、一度は結婚したものの、相手の男には大学時代に別に結婚を約束した女ができていて、結婚直後から男の不倫が始まった。一年後には、妹がついに根負けしてあっという間のスピード離婚となった訳だ。
相手の男が心変わりした時は、流石の俺も頭が完全に吹っ飛んで相手の実家まで怒鳴り込みもしたのだが、結局いやに冷静だった美優に逆に諭されて、慰謝料50万と月3万円の養育費という条件で話がまとまった。
それ以来、三人でずっと頑張ってきたんだ。
妹と甥っ子を守っていくのは俺しかいないと、改めて俺は覚悟を決めた。
甥っ子の晴俊は親父にまぁったく似ず素直で本当に可愛くて、俺を実の父親のように慕ってくれた。
美優も高校時代みたいに俺に反発することなく、仕事で疲れて帰宅する俺の面倒を甲斐甲斐しくみてくれるようになった。
俺が部長から持ってこられた見合い話を断ったのも、このまま何となく家族三人で暮らしていけたらいっかなぁ・・・なんて思い始めていたからだ。
その美優が、一年前に「お兄ちゃん、紹介したい人がいるの」と連れてきた男は、悔しいほど性格も見た目もいい男で。
また妹を泣かす酷い男なら、髪の毛むしって家から叩き出してやると意気込んでいた俺の鼻っ柱を見事にへし折ってくれた。
おまけに彼は大の子ども好きで、しかも美優の中学時代の初恋の相手だったっていうんだから、もう反対なんてできっこないだろ?
だから今は、妹を確実に幸せにしてくれる男の元に無事に送り出した達成感と、もう家に帰っても誰も出迎えてくれないんだという寂しさがない交ぜになった、複雑な男心・・・といったところなんだ。
気づけば周辺はすっかり電気が落ちて、多分会社の中で残ってるのは、俺と階下のワイン部のヤツらだけだろう。
とはいっても、予想通り企画書はくだらない文章を書いちゃ消し、書いちゃ消しの繰り返しで、一向に進まない。
「ダメダこりゃ」
昭和の香りプンプンの“チョーさん”の物まねをしつつ机に突っ伏した時、携帯が鳴った。
ハッとして、飛びつくように携帯を懐から取り出す。
高校時代の部活の友人・滝野からのメール。
滝野は川島と同じぐらい仲のいい友人だった。
滝野は高校での、そして川島は会社に入ってからの友人だったが、今では俺を介して二人仲良くなり、三人で飲みに行くことも多く、遅くまで飲み明かした日には川島の部屋で泊まることも多い。
── ひょっとして、川島から例のことでも報告されたのだろうか。
一瞬俺はそう思ったが、この際メールといえども話し相手ができるのならば、熱烈歓迎だった。
会社の中ではあったが、今は就業時間外だからメールをしたって構わない。
「なに、なに?」
携帯を開けると、メールの件名にはこう書いてあった。
『ちょっと相談』
「相談? なんだろ」
表面的には訝しげに言った俺だが、こうして友達が自分を頼ってきてくれるのは正直嬉しい。
それに今日は、孤独感もつのってきていたところだから、余計嬉しく感じた。
メールを開く。
『相談っていうか、ホントは報告っぽいんだけど。お察しの通り、この前お前が心配してた岸田さんから告白されまして。まぁ、いろいろあった末にお断りしたんですが、友達でもいいから付き合ってくれって言われたんで、これから飲み会の時とかに彼女がくっついてくるかもしれません。ご迷惑をおかけしますが、よろしく』
「なんじゃこりゃ」
今度は松田優作が俺に乗り移った。
俺は顔がこわばったまま、携帯電話を机の上に放りだした。
確かに岸田さんっていうのは、近頃やたら滝野を食事に誘ってきていた女性だった。
元々はカイロプラクティックの診療所に勤めている滝野のお客さんで、まぁ怪しい訳でも怖い訳でもない、どちらかといえばいい人らしいのだが、先日滝野から「俺の家に料理を作りに来た」っていう話を聞いてから、「お前それ、確実に狙われてるよ」と俺が忠告しておいたのだ。なにせ岸田さんっていうのは俺らより15歳も年上だったから。滝野は「いや、さすがにそれはないだろう」と呑気に構えていたので、口酸っぱく言い聞かせておいたにも関わらず、コレだ。
思わず俺の背筋はゾッとした。
一体何にゾッとしたのかは分からないけど、とにかくゾッとした。
15も年上のオバサンが、俺の友達に告白してきたから?
それとも、友達が告白を断ったにもかかわらず、相手に押し切られて友人関係を始めようとしているからか?
── いや・・・、そうじゃない。
これまで俺の恋人なし人生に付き合ってくれていた友達二人が、人を愛したり愛されたりする俺の知らない世界に旅立ってしまったことに対する恐れのせいだ。
それを自覚した途端、益々怖さと孤独感が襲ってきた。
気づくと、どういう訳か少し身体がカタカタと震えている。
なんだ俺。どうしちゃったんだ。
うわ・・・俺、今日、寂しくて死ねるかもしれない。
またまた結局のところ。
人間、ウサギじゃないんだからさ。寂しさなんかでおっ死ねる訳もなく。
むしろウサギのように死ねたら楽だったろうにとも思ったが、所詮人間はウサギにはなれず。
俺は観念して、スゴスゴと帰宅することにした。
終電手前の電車はいつもよりずっと空いていて、バスの時間はなくなっていた。
まぁ歩けない距離ではないし、タクシー使うほどでもなかったので、俺はとぼとぼと家までの暗い道を歩いた。
女性ならこんな暗い夜道、変な男につけられてないか心配しながら歩かなきゃならないところだろうけど、幸い俺みたいなだぁれにも相手にされないような男なら、そんな心配は皆無だ。いや、いっそのこと、誰かに襲われてもいいかなとまで思ってしまう。
── いかん、今日の俺は完全に壊れてる。一生懸命仕事もしてみたけど公私混同も甚だしく全然仕事が手につかない不甲斐なさだったし、誘いは全部断られた。妹は結婚するし、甥っ子はもう家にいないし、仲の良い友達二人には彼女ができたし・・・って、一人はまだ違うけどさ。
暗い道も手伝ってか、俺の心の空虚さはどんどん膨らんで、なんだかこの世の中に独りぼっちで生きてるのは俺一人っていう感じが募ってきて、たまらない気分になった。
その途端鼻の奥がツンとして、涙がぽろりとこぼれ落ちた。
うわっ、なさけねぇって思ったけど、身体はちっとも言うこと聞いてくれなくて、三十路過ぎたいい年だってぇのに、自分の涙如きを止められなくなってしまった。
俺、別にそこまで恋人欲しいって思ってるわけじゃない。
人生生きていくのに、それほど恋愛って重要なのかとも思う。
恋愛以外の生活は取りあえずそれなりに充実してるし、人様に迷惑もかけず、きちんと生きているつもりだ。
友達も会社の同僚も、仲がいいヤツはたくさんいる。
妹が嫁いだ先だって、「いつでも遊びにきてくれていいですから」って旦那にも言われてる。
だから俺は、別に本気で一人きりなんかじゃないはずなのに・・・。
── なのに。
いや、やっぱり俺は独りなんだ。
人それぞれ、一番大切な人っているだろ。
例えば、妹には結婚相手か甥っ子。友達や会社の同僚だって、それぞれに一番大切な人が必ずいる。
だけど、俺には・・・。
俺にとって一番大切な人が誰かが酷く曖昧なように、俺を取り巻く人達にとって一番大切な人は、絶対に俺なんかじゃない。
これって、つきつめて考えるとやっぱ孤独だよ。
俺は一人ぼっちなんだ。
そう思い出すと益々落ち込んで、一見そうは見えなくても、実は確実な孤独というものに抵抗もできず、ただただ泣けてしょうがなかった。
このままだと絶対、明日の俺の顔、『亀』になる。
・・・とか思いつつ、それでも涙が溢れるのを止められないまま、気づけば自分のマンションまで辿り着いていた。
マンションとは言っても、アパートに毛が生えたようなものだ。ただ7階建てなんで外観はマンションのように見える。
俺の部屋は3階にある。2DKのどこにでもあるような部屋だ。
ただいまといってももう返事の返ってこない、俺が電気をつけないと真っ暗いまんまの部屋。
そんな部屋に今日いやでも帰らなくてはならないんだと思いつつ、家のすぐ手前まで来た時、マンション前の電灯の下で重なり合う人影が見えた。しかもその二人の傍らには黒塗りの高級車が停まっていて、エンジンかけっぱなし。しかも運転手までついていた。
── 何もこんな日に、熱々のキスシーンとご対面はねぇだろうが。
俺は頬を濡らす涙をスーツの袖でグイッと拭って、公衆の面前でいちゃつくバカップル(・・・いや、こんな言い方をするのは今日だけだ。今日の俺は何だか凶暴なんだ)を横目にマンションに入っていこうとした。
どうやらカップルの片割れ・・・女の方は酷く酔っぱらってて・・・・。
突如、俺はギョッとする。
女じゃない。
ありゃ、男だ。
男同士だ。
男同士が抱き締め合ってる。絡み合ってる。キスしてる・・・・!!!
── うわぁ。本物見ちまった。
今までダラダラ流れ出ていた涙も突然引っ込んで、俺はギョッとした顔つきのまま、バカみたいにそこに突っ立ってしまった。
男と目が合う。
酔っぱらっていない方の男と。
結構上背がある方の俺より更に長身そうだが、俺より絶対に体重が軽そうなスレンダーボディ。それに信じられないくらいの小顔が乗っかっていて、一体全体何頭身なんだってツッコミたくなるような身体バランス。そのスタイルのいい身体は、一目で質の良さを感じさせる細身のカジュアルスーツを着ていて、少し明るい色をした髪は、寸分の隙もなく格好良く整えられている。
なんだこれ。なんなんだ、これ。
いわゆる『イケメン』っていうのを絵に描いたような男が目の前にいる。
俺より明らかに年下で、でもって明らかに俺より遙かにモテそうな・・・女ばかりか男にも超絶モテてそうな、そんな男が、男の恋人に縋り付かれた状態で俺をじっと見ている。
俺はその状況に正直完全に固まっていたが、相手の酔っぱらってる男の顔を確認して、更に真っ青になった。
その男はエンタメ情報に疎い俺でも知っている、今売り出し中の若手俳優の顔だった。
ええと、なんて名前だっけ・・・確か花村とかなんとか言った・・・。
── いや、ヤバい。そんなこと、思い出してる場合じゃねぇ。この状況は、非常にまずい・・・
俺、動け!!
俺は金縛りがとけたかのように一つ大きく呼吸を整え、何とか辛うじて男に軽く会釈すると、そそくさとマンションロビーに入った。
カバンを身体の前に抱え、ドキドキ唸る心臓を抑えつつ、エレベーターのボタンをガシガシと何度も何度も♂。いやいやいや、押すだ。この場合、『押す』が正解。
背後から、車の走り去る音。そんでもって、自動ドアの開く音。
うわっ、何? なになに?
入ってきたの? 入ってきたんですか? このマンションに? マジか。マジでか。クソッ、逃げ場なんてねぇぞ・・・。
俺はすっかり生きた心地がしない。
何度もガツガツとエレベーターのボタンを押したが、深夜のエレベーターは各階で自動的に停まるようになっていて、信じられないくらい降りてくるのが遅い。なんでこんな時に限って、7階スタートなんだよ!!!
頭の隅っこでは冷静な俺がいるのだが、身体はすっかり動転してる。
何せ俺は、生まれてきてこれまで、幸いなことにというか何というか、こういう場面に遭遇したこともないし、自分がそんな目にあいそうになったこともない。俺は女にモテないばかりか、男にもモテた試しはない。
── って、いやいやいや、男にモテたって仕方ないだろうが、俺。
頭の中でノリツッコミしてるだなんて、俺ってば、完全にテンパッてる。
しっかり、しっかりするんだ、篠田俊介・・・。
はっきり言って、彼らみたいな嗜好の人達は、全く以て未知の存在体だ。俺にとっては宇宙人とイコールに等しい。
動揺した俺の指は、再びエレベーターのボタンを激しく連打する。
相手の気配が背後に近づく。
── ど、どうしよう。早く、早く来い、エレベーター。
「そんなに押したら、痛みますよ」
ヒッ。
今、話しかけられた? 俺。
たたた確かに、こんなに押したら、エレベーターのボタン、壊れるかも。
「この時刻だと、エレベーターは各階停まりになりますから」
知ってる。それは知ってるんだ。ここに住んでるから。
「早く帰りたいのは分かりますけど、待ってるしかないですね」
ここまで話しかけられたら、観念するしかない。
ゆっくり背後を振り返った俺は、おそらく別の意味で涙目だったに違いない。
不思議とそこには、イケメン兄さんしかいなかった。
ぐでんぐでんに酔っていた相手の彼女・・・いや彼氏はいなかった。
ちょっとホッとする。
いや、ホッとしている場合ではない。
そうこうしてたら、エレベーターの扉が開いた。
急いでエレベーターに乗り込む。
だが当然のようにイケメン兄さんも乗り込んできて、再び俺はヒッとなった。
あれ? 乗るの? お兄さんも、乗るの?
「僕もここに住んでるんです」
後ろの壁にビッタリとくっついて、お兄さんを凝視していたせいか、お兄さんは後ろ姿のままながら、俺の心の中の疑問に答えてくれた。
いかん、いかん。
例えホモセクシャルの人だとしても、人は人。
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「ごほっ、ごほん」
うはっ、俺、わざとらしい咳しすぎ(青)。
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ふと、お兄さんの足が止まる。
お兄さんが鍵を出してる。
お兄さんの部屋は・・・303。
イカしたホモセクシャル・超絶ハンサムさんは、なんと俺のお隣さんだった。
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