Nothing to Lose

国沢柊青

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 翌朝。といってももう昼に近い時間だったが、真一は自宅のベッドで目が覚めた。
 頭がガンガンする。枕もとには、誰が置いたのか、二日酔いの薬が置いてあった。その隣には携帯電話が置いてある。着信アリのメッセージを見ると、隼人だった。30分前にかけてきている。
 真一が電話をかけると、不機嫌そうな隼人がツーコール目に出た。
『おはようといっても、もう昼だけど』
「おはよう・・・。電話かけてきてくれた?」
『何呑気なこと言ってんの? 夕べのこと覚えてないの?』
 真一は首をかしげた。頭が痛む。左手を布団から出してぎょっとした。手には厳重に包帯がまかれてあった。
「すごくバカなこと訊いてもいいかな?」
『なに?』
「なんで怪我してるのかな?」
 向こうで溜息をついている音がした。
『まったく酒に飲まれるなんて、真一さんらしくないよ。夕べマスターに病院に呼び出された時はびっくりしちゃったよ。ほら、マスター、真一さんの家知らなかったからさ』
 そこまで聞いて、真一は顔を青くした。
「夕べ、俺、何したか知ってる?」
 しばらく沈黙があった。
『悪ふざけしてコップ割っちゃった程度だよ』
「そうか・・・。でも、血が・・・」
『それは大丈夫。ちゃんと片付けたって言ってた』
「洋服とかにもついたのかな。燃やしてくれるだろうか」
『大丈夫。マスターには伝えてるよ』
「よかった・・・。とにかく、ありがとう。迷惑をかけて。矢嶋さんにも謝っておかないと・・・。また店に行きにくくなっちゃったな」
『何言ってんだよ。また絶対来てくれって言ってたよ。飲み代ツケといてるからって』
「え! お金も払って来てないの?」
 今度は真一が溜息をついて頭を抱えた。
 そのしばらくの沈黙をどうとったのだろう。変に深刻な隼人の声が言った。
『今日お昼からそっちに行こうか? いや、今すぐ来てほしかったらさぁ、行くよ。マジで』
「まさか! 大丈夫だよ。二日酔いなだけだから」
 真一は笑って電話を切った。自分の笑い声が頭に響いた。
 隼人にはそう言ったものの、結局仕事は手につかなかった。左手の怪我は、確かにたいした事はない様子だったが、やはりいつものようには動いてくれる訳ではない。命の次に大切な手を迂闊に怪我させるなんて、職人として失格である。それに加え、頭もだるい。液状の二日酔いの薬を飲んだせいで痛みは幾分かとれたが、ぼうっとして集中ができなかった。
 結局真一は、店の入口ドアの鍵は開けこそすれ、ノブに引っ掛けてある“営業中”の札をひっくり返すことも、ショーウインドーを覆うシャッターも引き上げることができなかった。
 辛うじてストーブに火をつけ、やかんの中を確かめる。まだ水は十分あった。その水を見て、真一はしまったと顔を顰めた。
 薬を飲むことを忘れている。しかも、昨日の晩からだ。
 ── なんてことだ。
 真一は溜息をついて、慌てて店の奥に取って返すと、台所で種類の違う薬を併せて九つ飲んだ。病院から貰っている五種類の薬は、服用する時間が厳しく指定されている。それを逃すと効果がなくなる可能性があることは十分知っていたが、昨日の夜と今朝飲まなかった分も飲まずにはいられなかった。
 一気にコップの中の水を煽り、溜息をつく。すぐに吐き気をもよおしたが、ぐっと我慢した。真一は、流しの縁に掴まったまま、大きく息を吐き出した。酷く身体が疲れているような感覚に襲われた。そのまま床に座り込む。
煙草臭いにおいがして、自分が昨日と同じ洋服のままでいることに気が付いた。こんなことは本当に久しぶりだった。淑子が亡くなって以来のことだ。
 自分がこんなに暗い気持ちになっているのは、間違いなく昨日の由香里からのキスのせいだと分かっていた。暴力的なキス。唇は柔らかかったが、冷たかった。なぜあんな気の多い女と羽柴が付き合っているのかが分からなかった。
 ── いや・・・。
 真一は思い直す。
 あれが自然な姿なのだ。女が気に入った男にキスをする。男は子孫を宿させることに神経を高ぶらせ、女はよりよい遺伝子を求め模索する。それが人間の本能というものだ。
 公衆の面前で腕を組もうが、キスをしようが、それが男と女であれば、何も躊躇うことはない。不倫だろうが援助交際だろうが、それがモラルやマナーに反していても、自然の摂理からは外れることがない。
 真一は、由香里の微笑を見た時、それを痛感したのだ。自分がいかに曲々しい生き物だということを。
 ── きっと自分は、羽柴さんのことが・・・。
 例え心の中でも、真一にはその先をどうしても続けることができなかった。二重のタブーが真一の想いを堰き止めていた。
 それでも、羽柴の顔は浮かんできてしまう。
 ── 参ったな・・・。
 真一が溜息をついた時、ドアを隔てた向こうで鐘の鳴るような音がした。
 怪訝に思って店先に顔を出すと、何とそこにはあの羽柴が立っていた。
 羽柴は真一の姿を見て一瞬笑顔を浮かべたが、真一の手に巻かれてある包帯を見て、表情を強張らせた。
「どうしたんだ?」
「いえ、ちょっとガラスで怪我をしまして・・・。大丈夫、たいした事はありません」
 内心、真一は穏やかではなかったが、羽柴が普段通りでいてくれる分には何とか対応ができると踏んでいた。
「今日は、どうされました? フィッティングはあいにくとまだ・・・」
「そんなことじゃないんだ」
 羽柴がソファーに腰をかける。真摯な目で真一を見つめてくる。
「昨日は変な別れ方をしたから、気になって。謝ろうと思ってね」
 ── そんな目で見ないでほしい・・・。
 真一は羽柴と目を合わせないようにしてやり過ごすと、羽柴の背後にあるコーヒーメーカーの電源を入れた。
「謝るだなんて、そんな。別に謝ってもらうようなことは」
 自分でも声が震えていないか心配だった。
「いや、きっと俺は君を傷つけた。正確には由香里がだろうが、俺が二人を引き合わせた形になってしまったのだから、やっぱり俺の責任だ。その怪我は、ひょっとしてそのせいじゃないのか?」
 羽柴の背後に背を向けて立っているのがせめてもの救いだった。思わず涙が出そうになっていた。
 一瞬間をおいて、真一は答える。
「この怪我は、本当に関係ありませんから、どうぞご心配なく」
 これは本当のことだったから、普通に答えることができた。
 コーヒーフィルターに粗引きのコーヒーを入れる手が少し震えている。不意に背後から、左手をそっと掴まれた。真一はぎくりとして身体を強張らす。
 羽柴の指が、真一の薬指を撫でた。
「正直、このリングが忌々しい」
 聞き取れないほどの小さな声で羽柴が囁く。まるで独り言のように。だがすぐに羽柴の手は去って行った。
 いまだ硬直している真一の背に、羽柴は言う。
「君の奥さんにも悪いことをした。多分奥方は何も知らないと思うが。安心してくれ、もう由香里のことで煩わせることはないと思う。夕べ別れてきたから」
 真一が驚いて思わず振り返ると、ケロリとした表情の羽柴が立っていた。
「あの後、すぐに別れたんだ」
 真一に理解させるように、もう一度繰り返す。
 真一は、一瞬眩暈を感じた。「なぜ・・・」と呟くのが精一杯だった。
「君が目を覚まさせてくれたのさ。採寸をした日、いろんな話をしたろ? あの時話してくれた君のフレーズが忘れられない。人生は一度きりで、しかも必ず限りがある。だから、一瞬一瞬が貴重でどれひとつ取っても同じ時はないんだって。あれはいい台詞だった。大切な時間を、これ以上無駄にはしたくないと思った」
「でも、別れるだなんて、そんな。・・・まさか、あの場面を見たのですね? そうなんですね?」
 羽柴は、必死な表情の真一に比べ、ずっと大らかな顔で笑った。
「確かに別れたのは君のせいでもあるんだが。あのキスシーンが決定打ではないんだよ。理由は、さっきも言った通りもっと深いところにある。そのことで君が胸を痛めることはない」
 羽柴は、ソファーの鞄を手に取った。
「とにかく謝っておきたかった。またいつものように君のあの笑い声が聞きたい。さぞや君の奥方は、幸せだろうな。君の笑顔は人を幸せにする」
「あの・・・、羽柴さん」
「ん?」
 喉元まで、妻は一年前に他界しました。という言葉が湧き上がってきたが、長い沈黙の後でも、とうとう口に出すことはできなかった。それを言ってしまうと、後のことまで激情に任せて言ってしまうような気がして。
 あなたが、好きなんですと。
「すみません。また、準備ができたら、お知らせします。フィッティング」
「ああ。じゃ、もう行く。出先の帰りなんだ」
 羽柴が去っていく。と、羽柴がドアを開けたと同時に、白い髪が覗いた。羽柴がぎょっとして立ち止まる。
「やっぱ心配だから、来た・・・って。お客さん?」
 隼人が、店の中に入ってきた。羽柴は、以前電車であった青年が、突然現れたことに驚いているようだった。
 一方隼人は、真一の表情を見て、羽柴がただの客でないことを悟った。
「いつも、真一さんがお世話になってます。俺、梶山隼人っていいます」
 隼人は、有無を言わさない口調でそう言うと、真一の傍らまで歩いていき、「ありがとうございました」といいながら、羽柴を眺めた。羽柴は明らかに戸惑っている。
「お気をつけて」
 隼人は駄目押しでそう言うと、真一の右腕にさりげなく腕を絡ませた。益々羽柴の顔が歪む。羽柴が「なぜ」という視線を真一に送った時、タイミング悪く、羽柴の携帯が鳴った。
「はい、羽柴です。はい、まだ外です。はい。── え?! 本当ですか?! ・・・はい、はい。すぐに帰社します。・・・すみません。はい。申し訳ありませんでした」
 緊急事態らしい。羽柴は、電話を切って歯軋りをすると、「また来るから」と言い残して店を出て行った。

 羽柴が店を出て行った後、目に見えて真一の身体が脱力した。
 隼人は真一の腕から手を放すと、真一が入れかけていたコーヒーメーカーのスイッチを入れた。真一がソファーに座り込み深々と項垂れるのを、隼人は腕組みをしながら見つめた。
「随分具合、悪そうじゃん」
 返事の代わりに長い溜息が聞こえてくる。だが溜息をつきたいのは、隼人も同じことだった。やはり、あの電車の男が真一の心をさらりと奪っていったのだ。
「好きなんだ、あの人のこと」
 真一には、隼人なりの純愛を捧げてきた。あちこちで気軽な恋愛をしてきても、結局は真一の顔が見たくなってしまう。例え真一に、自分に対する恋愛感情がないと分かっていたとしても。それだからこそ、目の前の気持ちに戸惑い苦悩している真一の姿が遠く感じた。身体に同じ傷を持っていたとしても、魂の形は同じではない。一生この人の人生と重なり合うことはない・・・。
 そう思ったら、逆に真一のことがいとおしく思えてきた。丁度、父性的な感覚だった。
 例え人生に交われなくても、魂を重ねあうことができなくても、この人には微笑んでいてもらいたい。おそらく、自分の命よりも、この人の命の方が儚いのだから。
「どうするつもり? まだ何も言ってないんだろ? 言わないつもり?」
 隼人は、真一の向かいに腰掛けた。真一は頭を抱えたまま頷いた。
「どうして?」
 隼人がそう言うと、真一が顔を上げた。顔色は悪かった。見ようによっては、夕べ病院で見た顔よりも。
「言える訳がないだろう? 隼人が一番分かっているくせに」
 真一らしくない、ささくれ立った声。
「なんで?」
 隼人はわざとぶっきらぼうに答えて、ソファーの背に身を投げ出した。
「病気持ちだからって、人を好きになっちゃいけないの? そんなのと俺を一緒にしないでくれる?」
 真一の目が、隼人の強い瞳を捉える。
「悪いけど、俺、人生諦めちゃいないよ。今も好きな人いるし、これからだってどんどん人を好きになる。それはいけないこと?」
「いや、そうじゃないが・・・。隼人はそう割り切れるのだとしても、俺は。・・・・。 俺には無理だ。拒否されるのは目に見えているし、もし仮にうまくいったとしても、その先を考えると恐ろしくてたまらない・・・」
 ついに真一の口から本音が出た。最早隼人の目前の男は、目から零れ落ちる涙を止めることができなくなっていた。
 つらい恋。本当に、つらい、恋。
 ── 神様は、酷いよね。
 隼人は心の中で、天を呪った。この現実に、どれほどの意味があるというのだろう。いつか自分にも、これほどのつらい想いが訪れるのだろうか。いや、でも・・・。
「でもね、真一さん」
 隼人は囁くように言った。
「ゴールは一回切りじゃないんだよ。許された時間、何回だってトライできる。そうでなかったら、俺たち、何のために生まれてきたの?」
 前髪越しの濡れた瞳が、まっすぐこちらを見た。隼人は少し笑う。
「俺が就職のことでへこたれてた時、あんた、そう言ってくれたよね」
 濡れた瞳が瞬いた。
「それは、嘘じゃないんだよね」
 我ながら、なんてセンチメンタルなことか。でも、俺たちには、それほど濃厚な時を過ごしていく権利がある。そうしないと・・・、生き急がないといけないのだから。
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