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act.105
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ウォレスは、久しぶりの職場復帰の割には大したトラブルもなく、今日するべき仕事は全てこなし、それ以上の仕事に手を付けようとした矢先、それをビルに止められた。
「おいおい、初日から飛ばしすぎだ。俺の仕事まで奪う気か? 今日はもう帰って身体を休ませたまえ」
ビルや秘書室の連中にほぼ追い出される形で帰宅準備をさせられ、会社のエントランスホールまで追い出された。
入口に備えられた警備ゲートにIDカードを差し込み、外に出る。
まだ空は明るく、こんな時間に帰宅したことがほとんどないウォレスは、少し戸惑ってしまった。ちらりと腕時計を見る。
そのまま素直にマックスとシンシアの待つ家に帰ってもよかったが、無性にギネスが飲みたくなった。
人生の節目ごとに飲んできた黒ビール。
再び腕時計で時間を確認する。
残念ながら、ローレンスの店はまだ開店していない。だが、開店準備のために店には出てきている時間だろう。
── 電話してみるか・・・。
ウォレスは携帯電話を取り出すと、馴染みの電話番号を押した。
しばらく待たされる。
今日はまだ店に出てきていないのだろうか。
電話を切ろうとした瞬間、突如ラインが繋がった。
『はい』
ぶっきらぼうなローレンスの声。今日は取り分け機嫌が悪いのだろうか。声が苛立っている。
ウォレスは眉間に皺を寄せながら、「ウォレスだ。今から行ってもいいだろうか」と告げると、明らかに向こうの空気が変わったように感じた。
『どちらのおかけですか? うちはピザ屋じゃない』
一瞬ウォレスは、耳元から電話を放して、それを見つめた。
── ピザ屋? 押す番号を間違えたのか? いいや、そんなことはない・・・。
ローレンスの店の番号をメモリーに入れていないのは、万が一携帯電話を失くしてしまった時のための用心だが、番号を間違えるほど、まだ老いぼれてはいない。
それに、電話口から聞こえる声は間違いなくローレンスの声だ。
長年力になってくれた同胞の声を間違えるはずがない。
「何だ、ローレンス? 何かあったのか?」
『あんたもしつこいね。うちはピザ屋じゃないとさっきも言っただろう。うちに電話したってお望みのものは何もない。あるのは、アイルランドの臭い地酒があるだけだ』
電話の先のローレンスは、言うだけ言って、唐突に電話を切った。
ウォレスはもう一度電話を見つめる。
そしてフルスピードで考えを巡らせた。
ローレンスの店が普通の状態でないことは、ほぼ間違いない。
── 警察の手入れが入った? いや、そんな馬鹿な。何を理由に?
この国に来てからのローレンスは、夜の世界で生きているにしろ、違法行為に手を染めてきたことはないはずだ。
── そうだとしたら、アイルランド時代の?
ウォレスは首を横に振る。
ありえない。
ローレンスは服役期間をきちんと勤めて、罪を償っている。
それに、当の警察関係者であるセスは何も言ってなかった。何かあるとすれば、彼は必ず知らせてくれるはずだ。
警察でないとしたら一体・・・。
「アイルランドの臭い地酒・・・・?」
ウォレスはローレンスが言い残した言葉を呟きながら携帯電話を懐にしまうと、性急な足取りでローレンスの店を目指した。
「ただいま!」
家の中にシンシアが飛び込んできた。
リビングのソファーで東洋医学書を読んでいたマックスが振り返ろうとする前に、膝の上に飛び乗られる。
「わ!」
本を投げ出し、シンシアの身体を受け止める。
シンシアの身体は、今年十八歳を迎える女の子にしては非常に小柄である。だが、こうやって元気よく飛びつかれては、さすがに受け止めるのも大変だ。
しかし当のシンシアは、さも楽しそうにケタケタと笑った。
「シンシア」
マックスが低く唸ると、途端に表情を変え、「やだ、痛かった?」とマックスの身体から飛び降り、心配をし始める。
「そうじゃない。別に痛くはないよ。だけど、いきなり飛びつかれると、びっくりしちゃうだろ?」
それにパンツも丸見えだし。
マックスは最後まで言わなかったが、言葉をむにゃむにゃと濁した。
バーバリーチェックを思わせる生地模様のひだスカートを短くしているのだから、飛び跳ねれば中身も見えるというものだ。
シンシアのその行動は、以前にようにマックスを男として挑発しているというより、父親か兄に接するかのような無邪気で飾り気のない態度だった。
つまり、遠慮がなくなった、ということだ。
シンシアの目にはもはや、マックスは男として映っていないのかもしれない。
確かに、ウォレスの恋人としてこの家に住んでいるのだから当然といえば当然だが、内心マックスは複雑だった。
── とにかく、シンシアにはもっとおしとやかにしてもらいたい。でないと、自分の従姉のようになってしまう・・・。
これ以上身近にレイチェルみたいなのが増えると、やっかいだ。
マックスは、額に浮かぶ脂汗を拭った。
「本当はどこか痛むんじゃないの? ごめんなさい、マックス」
心配げにシンシアがマックスの顔を覗き込む。
「いやいや、違うんだ。本当にそうじゃないから」
「なんだ。よかった」
シンシアがほっと息をついて、マックスの隣に座った。
「で、どうだったの? 学校。いつから復学することにした?」
「明日から」
「随分急だね」
マックスが驚いた表情を浮かべシンシアを見つめると、彼女はテレ臭そうに微笑んで、「うん」と頷いた。
「前は学校へ行くのが嫌いだったんだけど、しばらく行けないでいると何だか寂しくなっちゃって。意外に学校が好きだったみたい。それに、そろそろ本気で進路のこと考えなくちゃいけないし。幾らウチの学校が大学までの一貫教育だっていっても、目的なしに大学通うのももったいないもの」
そう言ってペロリと舌を出す。
マックスはそれを見て微笑んだ。
「友達に随分いろいろ訊かれたんじゃない? 休んでる間どうしてたのか、とか」
「もちろんよ。もう大変だったの。しつこく訊かれて面倒くさかったから、取り敢えず、創立記念日パーティーに来てた彼と駆け落ちしてたのって答えておいた」
シンシアの言いぐさに、マックスはギョッとして言葉を失った。
ウォレスは、慌ただしくタクシーを降りた。
そこはいつもローレンスの店に行く時にタクシーを降りている場所で、ローレンスの店からワンブロックほど手前の道路だ。
ウォレスは、ローレンスの店に行く時はいつも用心をしていた。したがって、自分がローレンスの店に出入りしていることを知る人間は少ない。
しかし、その日ばかりは性急な足取りでローレンスの店を目指した。
ウォレスの心がザワザワとさざ波立つ。
嫌な予感が拭えない。
ローレンスが普通でない状況に置かれているのは間違いなかった。
数回人にぶつかりながら、足を進める。
早足だった足取りは、いつしか小走りになって人混みをかき分けた。
どういう訳か、ローレンスの店に近づくにしたがって、人の数が多くなる。
嫌だ。
冗談はよせ。
そんな馬鹿な。
ウォレスは心の中でそう呟きながら、やがて諦めたようにゆるゆると歩みを止めた。
ウォレスの瞳は、赤く点滅するライトの光で照らされる。
周囲には、野次馬を整理する警察官の怒号と耳障りなクラクションの音が響いていた。
自分の荒い呼吸が嫌というほど耳を突いて、ウォレスは苛立ったように「落ち着け」と自分自身に言い聞かせた。
その瞬間。
人垣の先に見えたのは、黒いカバーを掛けられた状態で担架に乗せられ、運ばれるローレンスの身体だった。
ふいに担架からボロリと手が零れ落ちる。
周囲がざわついた。
その手は、血塗れだったからだ。
しかしウォレスは、周囲の人間とは全く別の意味で動揺していた。
血塗れのローレンスの小指に填められていた指輪。
それは紛れもなく、自分の指に填められている指輪と揃いの指輪だった。
そう。
その指輪の本来の持ち主は、紛れもなく『彼女』だ。
シンシアの母であり、ウォレスが唯一愛した女性。
リーナ・ニールソン。
恨んでも恨みきれないあの男のせいで非業の死を遂げた、悲劇の人・・・。
「おいおい、初日から飛ばしすぎだ。俺の仕事まで奪う気か? 今日はもう帰って身体を休ませたまえ」
ビルや秘書室の連中にほぼ追い出される形で帰宅準備をさせられ、会社のエントランスホールまで追い出された。
入口に備えられた警備ゲートにIDカードを差し込み、外に出る。
まだ空は明るく、こんな時間に帰宅したことがほとんどないウォレスは、少し戸惑ってしまった。ちらりと腕時計を見る。
そのまま素直にマックスとシンシアの待つ家に帰ってもよかったが、無性にギネスが飲みたくなった。
人生の節目ごとに飲んできた黒ビール。
再び腕時計で時間を確認する。
残念ながら、ローレンスの店はまだ開店していない。だが、開店準備のために店には出てきている時間だろう。
── 電話してみるか・・・。
ウォレスは携帯電話を取り出すと、馴染みの電話番号を押した。
しばらく待たされる。
今日はまだ店に出てきていないのだろうか。
電話を切ろうとした瞬間、突如ラインが繋がった。
『はい』
ぶっきらぼうなローレンスの声。今日は取り分け機嫌が悪いのだろうか。声が苛立っている。
ウォレスは眉間に皺を寄せながら、「ウォレスだ。今から行ってもいいだろうか」と告げると、明らかに向こうの空気が変わったように感じた。
『どちらのおかけですか? うちはピザ屋じゃない』
一瞬ウォレスは、耳元から電話を放して、それを見つめた。
── ピザ屋? 押す番号を間違えたのか? いいや、そんなことはない・・・。
ローレンスの店の番号をメモリーに入れていないのは、万が一携帯電話を失くしてしまった時のための用心だが、番号を間違えるほど、まだ老いぼれてはいない。
それに、電話口から聞こえる声は間違いなくローレンスの声だ。
長年力になってくれた同胞の声を間違えるはずがない。
「何だ、ローレンス? 何かあったのか?」
『あんたもしつこいね。うちはピザ屋じゃないとさっきも言っただろう。うちに電話したってお望みのものは何もない。あるのは、アイルランドの臭い地酒があるだけだ』
電話の先のローレンスは、言うだけ言って、唐突に電話を切った。
ウォレスはもう一度電話を見つめる。
そしてフルスピードで考えを巡らせた。
ローレンスの店が普通の状態でないことは、ほぼ間違いない。
── 警察の手入れが入った? いや、そんな馬鹿な。何を理由に?
この国に来てからのローレンスは、夜の世界で生きているにしろ、違法行為に手を染めてきたことはないはずだ。
── そうだとしたら、アイルランド時代の?
ウォレスは首を横に振る。
ありえない。
ローレンスは服役期間をきちんと勤めて、罪を償っている。
それに、当の警察関係者であるセスは何も言ってなかった。何かあるとすれば、彼は必ず知らせてくれるはずだ。
警察でないとしたら一体・・・。
「アイルランドの臭い地酒・・・・?」
ウォレスはローレンスが言い残した言葉を呟きながら携帯電話を懐にしまうと、性急な足取りでローレンスの店を目指した。
「ただいま!」
家の中にシンシアが飛び込んできた。
リビングのソファーで東洋医学書を読んでいたマックスが振り返ろうとする前に、膝の上に飛び乗られる。
「わ!」
本を投げ出し、シンシアの身体を受け止める。
シンシアの身体は、今年十八歳を迎える女の子にしては非常に小柄である。だが、こうやって元気よく飛びつかれては、さすがに受け止めるのも大変だ。
しかし当のシンシアは、さも楽しそうにケタケタと笑った。
「シンシア」
マックスが低く唸ると、途端に表情を変え、「やだ、痛かった?」とマックスの身体から飛び降り、心配をし始める。
「そうじゃない。別に痛くはないよ。だけど、いきなり飛びつかれると、びっくりしちゃうだろ?」
それにパンツも丸見えだし。
マックスは最後まで言わなかったが、言葉をむにゃむにゃと濁した。
バーバリーチェックを思わせる生地模様のひだスカートを短くしているのだから、飛び跳ねれば中身も見えるというものだ。
シンシアのその行動は、以前にようにマックスを男として挑発しているというより、父親か兄に接するかのような無邪気で飾り気のない態度だった。
つまり、遠慮がなくなった、ということだ。
シンシアの目にはもはや、マックスは男として映っていないのかもしれない。
確かに、ウォレスの恋人としてこの家に住んでいるのだから当然といえば当然だが、内心マックスは複雑だった。
── とにかく、シンシアにはもっとおしとやかにしてもらいたい。でないと、自分の従姉のようになってしまう・・・。
これ以上身近にレイチェルみたいなのが増えると、やっかいだ。
マックスは、額に浮かぶ脂汗を拭った。
「本当はどこか痛むんじゃないの? ごめんなさい、マックス」
心配げにシンシアがマックスの顔を覗き込む。
「いやいや、違うんだ。本当にそうじゃないから」
「なんだ。よかった」
シンシアがほっと息をついて、マックスの隣に座った。
「で、どうだったの? 学校。いつから復学することにした?」
「明日から」
「随分急だね」
マックスが驚いた表情を浮かべシンシアを見つめると、彼女はテレ臭そうに微笑んで、「うん」と頷いた。
「前は学校へ行くのが嫌いだったんだけど、しばらく行けないでいると何だか寂しくなっちゃって。意外に学校が好きだったみたい。それに、そろそろ本気で進路のこと考えなくちゃいけないし。幾らウチの学校が大学までの一貫教育だっていっても、目的なしに大学通うのももったいないもの」
そう言ってペロリと舌を出す。
マックスはそれを見て微笑んだ。
「友達に随分いろいろ訊かれたんじゃない? 休んでる間どうしてたのか、とか」
「もちろんよ。もう大変だったの。しつこく訊かれて面倒くさかったから、取り敢えず、創立記念日パーティーに来てた彼と駆け落ちしてたのって答えておいた」
シンシアの言いぐさに、マックスはギョッとして言葉を失った。
ウォレスは、慌ただしくタクシーを降りた。
そこはいつもローレンスの店に行く時にタクシーを降りている場所で、ローレンスの店からワンブロックほど手前の道路だ。
ウォレスは、ローレンスの店に行く時はいつも用心をしていた。したがって、自分がローレンスの店に出入りしていることを知る人間は少ない。
しかし、その日ばかりは性急な足取りでローレンスの店を目指した。
ウォレスの心がザワザワとさざ波立つ。
嫌な予感が拭えない。
ローレンスが普通でない状況に置かれているのは間違いなかった。
数回人にぶつかりながら、足を進める。
早足だった足取りは、いつしか小走りになって人混みをかき分けた。
どういう訳か、ローレンスの店に近づくにしたがって、人の数が多くなる。
嫌だ。
冗談はよせ。
そんな馬鹿な。
ウォレスは心の中でそう呟きながら、やがて諦めたようにゆるゆると歩みを止めた。
ウォレスの瞳は、赤く点滅するライトの光で照らされる。
周囲には、野次馬を整理する警察官の怒号と耳障りなクラクションの音が響いていた。
自分の荒い呼吸が嫌というほど耳を突いて、ウォレスは苛立ったように「落ち着け」と自分自身に言い聞かせた。
その瞬間。
人垣の先に見えたのは、黒いカバーを掛けられた状態で担架に乗せられ、運ばれるローレンスの身体だった。
ふいに担架からボロリと手が零れ落ちる。
周囲がざわついた。
その手は、血塗れだったからだ。
しかしウォレスは、周囲の人間とは全く別の意味で動揺していた。
血塗れのローレンスの小指に填められていた指輪。
それは紛れもなく、自分の指に填められている指輪と揃いの指輪だった。
そう。
その指輪の本来の持ち主は、紛れもなく『彼女』だ。
シンシアの母であり、ウォレスが唯一愛した女性。
リーナ・ニールソン。
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