Amazing grace

国沢柊青

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act.64

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 室内は、密やかな電子音のアンサンブルが四六時中流れていた。
 救急治療室に隣接するこの病室では、重症患者も多い。
 彼らの生命を維持する装置が奏でる電子音が、途切れることなく響いている。
 医師や看護師達はひっきりなしに病室を出入りし、黙々と作業している。
 マックスのベッドにも、二、三度、彼の元同僚だと名乗る若い医師が様子を窺いに来た。彼はマックスの命が本当に無事であることをウォレスに告げ、ウォレスを安心させた。
 確かに、すぐ側で爆弾が爆発した人間にしては、マックスは軽傷だと言えた。 本当に運がいい。
 爆弾という突然の暴力に襲われた人間がどういうことになるのか、ウォレスは己の経験で知っていた。
 蘇る幼い頃の記憶。
 有刺鉄線と戦車が当たり前のように普段の風景と化していた町。いつもどこからか、雷のような爆音が響いていた。
 千切れた手、頭のない死体、腹部から内臓が飛び出たまま歩いていた男。
 自分の村の大人達の手によって作られた爆弾で犠牲になった人達・・・。
 今日、マックスがその猛威に襲われたことは、否が応でもウォレスを暗い痛みのある記憶に押しやった。
 それを思うと、やはりマックスは、本当にラッキーだったのだ。
 目の前に横たわる愛する人は、身体のどこも欠損することなく、穏やかな寝息を立てている。
 とても美しい寝顔で・・・。
 ウォレスの身体が、小刻みに震えた。
 それは恐怖から来るものなのか、安堵から来るものなのか、ウォレス自身まったくわからなかった。
 その肩に、後ろから華奢な白い手がそっと触れた。
 ウォレスは、ゆっくりと振り返る。
 レイチェルがウォレスを見下ろしていた。
 ウォレスは初めて、レイチェルの瞳の色がマックスとよく似ていることに気がついた。今まで顔を合わさずにきた訳でもないだろうに、今頃気がつくなんて・・・何となく滑稽に思えた。
「ミスター・ウォレス、あなたにお話があるんです」
 改まった口調で、レイチェルはそう言った。


 「おい、飯は食ったか」
 セス・ピーターズが爆弾処理班のオフィスに戻ると、班の皆は丁度遅い夕食を取っている最中だった。
 脂肪分たっぷりの鶏肉を、おのおのの口に突っ込んでいた。
 セスが呆れたように首を横に振ると、同僚のホッブスが一際大きな肉の塊を差し出してくる。セスはそれをやんわりと断わると、自分のデスクに座って煙草に火をつけた。
「被害者の様子はどうだった」
 上司のオリバーが、セスの向かいに椅子を移動させて座る。
 セスは、オリバーが使った『被害者』という台詞に嫌悪感を見せたが、それをあからさまに顔に出すほど子どもでもなかった。
「命に別状はないそうです。まだ意識は回復していないので、警察の連中も外で待っている状態ですね」
「・・・で、大丈夫なのか?」
「え?」
 オリバーが窺うように、セスを見ていた。
「お前だよ。昨日の爆破事件とは違って、今日の事件でお前は血相を変えていた。まったくお前らしくない。どんな知り合いかは知らんが・・・・」
 オリバーはそう言ったが、彼にはもう見当がついているのだろう。
 レイチェルとの付き合いは、大っぴらにしていない。
 相手が新聞社の人間であるということは立場的にやはり微妙だし、今となっては殆どタブーに近い。
 だが、日頃超然としている男の慌てた様子に、観察力に秀でた上司は、ただごとではないと見抜いたに違いない。
 セスが爆破された現場の住所を知ったと同時に、「被害者は知り合いの従弟なんです。病院に行かさせてください」と申し出ると、オリバーは二つ返事で外出を許可した。
 セス自身、この仕事を選んでから随分経つが、自分の身内が事件の犠牲になるなんてことは一度も経験がなかった。
 とてもじゃないが、落ち着いてはいられなかった。
 巷を脅かす爆弾魔のせいで、恋人とは会えずじまい。しかも、三番目の事件の被害者が彼女の同僚だったことで、彼女とは更に見えない壁に阻まれてしまったようだ。
 感情の起伏が激しいレイチェルのことだ。同僚の死は ── しかもこんな悲劇的な死は、相当堪えたに違いない。
 レイチェルは勝気な女性だが、心根は本当に優しいということを、セスは知っていた。
 感情の起伏が激しいために、彼女の落ち込みは相当のものだろうと想像できた。
 こんな時に、仕事とはいえ、彼女の傍にいることができない自分が情けなかった。
 そんな矢先に、四度目の事件だ。
 ── 今度はマックスまで・・・。
 いくらセスでも、感情的になるなという方が無理な注文だった。
 レイチェルの大切な弟のような存在であるマックスは、セスにとっても大切な人間だった。
 マックスの性格をよく知るセスにとっては、彼がこのような事件の被害者になるということ自体が信じられなく、また憎しみを感じた。
 現場の初動捜査を放り出して病院行きを上司に懇願したのは、爆弾処理班の人間として失格だといえる。しかしオリバーは、セスの事情を察したようだ。
 もっとも、被害者と面会するのは、今後のこともあるから、捜査にとって有効だと考えただけかもしれないが・・・。
 病院での別れ際のレイチェルの表情が気になっていた。
 久しぶりに会った恋人は随分やつれた様子で痛々しかったが、また気丈でもあった。
 セスの予想と反して彼女は酷く落ち着いており、静かだった。まるでいつもの立場が逆転したように思えるほどだ。あんな彼女を見るのは初めてのことだった。 
『バーイ』
 最後のレイチェルの声が、頭の中に何度も響く。
 それはデートをした後の彼女と全く一緒の口ぶりだった。だからセスも、普段のように返事をして、病院を後にした。
 だが、今更ながら、ずっと喉の奥に引っかかったような、チリチリとした胸騒ぎを感じている。それは今なおそうだ・・・。


 レイチェルがウォレスとの話し合いの場に選んだ場所は、営業が終了したカフェテリアの隅のテーブルだった。
 殆ど人影はなく、騒がしい救急処置室の喧騒が嘘のような静けさに包まれていた。
 自分の向かいに座ったウォレスの前に、レイチェルは黙って例の写真を差し出した。
 ドースンが彼のデスクに隠し持っていた爆弾魔のものと思われる手記を写真撮影したもの・・・。
 日付は、彼が死を迎える数日前のものだ。
 このせいで、ドーソンは命を落とし、そして彼女の大事な従弟の命まで狙われた・・・。
 ウォレスは、怪訝そうにレイチェルと写真を見比べた後、まじまじと写真を見つめた。
 そしてそこにあろうことか、自分の姿が隠し撮りされた写真が切り抜いてノートに貼り付けられていることがわかると、震える手で写真を目の前に翳した。
 この場所は暗くてよく見えないが、それが尋常でない内容の文章で埋め尽くされていることは容易に想像ができた。
「それは先日の爆弾事件で亡くなった同僚が机に隠し持っていた写真なの。私は、その内容も読んだわ。途切れ途切れの文章だけど、そこにはあなたに対する不気味な執着心が書き綴られている。陳腐な夢物語も書かれてあったわ。まるで映画の『アンタッチャブル』に出てくる英雄を真似た下手な小説がね。あなたの監察日記もあったわ。かなりしつこくあなたのことを見張っている様子が窺える。── それだけじゃないわ。あなたのために、邪魔な人間を爆弾でこの世から消し去った時の計画についての記述もあった」
 ウォレスは衝撃を受けて、写真から目を上げた。
 表情のないレイチェルの顔が見えた。
「・・・ミスター・ウォレス。あなたは一体何者なの? そしてマックスは、あなたが何者か知っているの?」
 静かだが、途方もない破壊力を持ったレイチェルの声だった。
「今回のことが、あなたの存在が原因で起こったのだとしたら・・・。私はあなたを許さない」
 そう言うレイチェルの顔が、悲しみに歪んだ。
「残念だけど、あなたに従弟のことは任せておけない。幸運にも従弟は今回助かったけれど、あなたの傍にいることでまた危険が及ぶのならば、私はそれを放ってはおけないわ。どんな人間だろうと、私の『弟』を傷つける者は許さない。例え彼が心底愛している人間だったとしても」
 ウォレスは、視界がグラグラと揺れるのを感じた。
 そして両手で顔を被うと、深い溜息をついた。
 ── ああ、なんてことだ・・・なんてことに・・・。
 自分は今、幼い頃の自分から、責めを受けているのだと思った。
 人の命を奪う活動に、何の疑問も持たず身を投じていった子ども時代。
 その罪を抱えたまま、のうのうと今まで生き延びてきたことを、このような形で償えと神が言っているに違いないのだ。
 ── ああ、マックス・・・。
 ウォレスは心の中で、何度も何度も愛する人の名前を叫んだ。
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